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私に向けられていない声  〜「劇場は可能か」に向けて〜 2022年1月4日

ふと思った。私に向けられていない声を、日々どれだけ聴いているのだろうか。
同じようなことを、中学生の頃にも思ったことがある。昼間は本ばかり読んで、夜はテレビを見たり、ラジオを聴いたりしていた。でもある日、それがみんな空しいことに思えた。それで、精神科医を目指した。目の前の人と向き合って、何か役に立つことができそうに見えたから。
結局医学部には入れず、大学で精神科のゼミに通って現場の話をうかがうと、あまり一人一人と向き合っている時間はなさそうだった。劇場に通うようになって、そこでは、今ここにいる自分に向けられている声があると感じた。それに、もしかしたら自分の声も向こう側に届きそうな気がした。
アルバイトも含めたら、もう20年以上劇場で働いている。しんどいことも山ほどあったけど、人とほとんど話せなかった自分が、世界と少しずつ和解できた時間だった。
よく考えてみれば、劇場とは「その場にいる人に聞こえるように、その人に向けられているのではない言葉を発する」というちょっとややこしい場所で、自分にはそれが必要だったんだと思う。だとすれば、「その場にいる人には向けられていない言葉を発する」という技術も、そもそも劇場で発明されたのではないか*。だがその技術の発展によって、今では劇場が危機に陥っている。
今もこういう場所を必要としている人がいるはずだが、劇場は今でも、そしてこれからも、この機能を果たしつづけることができるのだろうか。
自分のためにも、そこのところをちゃんと考えてみたいと思い、以下の企画に参加します。
「劇場は可能か シーズン0」、劇作家の岸井大輔さんと一緒に、石神夏希さん、木ノ下裕一さん、佐藤信さん、長島確さん、橋本裕介さん、横堀ふみさん、吉本有輝子さん、和田ながらさん等にお話をうかがっていく予定です。1月11日にオープニングトークを行うことになりましたので、一緒に考えてくださる方はぜひお声がけください。

*対話体になっている演劇の台詞は、舞台上の登場人物がお互いに向かって発しているもので、その物語世界の中では、観客にむかって発しているわけではないことになっている。
古代ギリシア・ローマの演劇も、能楽や江戸時代の歌舞伎小屋も、神事として、あるいは神々に向けて上演するということになってた。なので、少なくとも形式的には、この場合にはそこにいる観客は上演者がこの物語世界を差し向けている相手でもない。だが、たとえばローマ演劇では、観客が拍手をしたり笑ったりするのは神々が喜んでいる徴だと考えられてた。
実際に自分が観客として劇場に行くと、上演者は当然自分一人のために上演してくれるわけではなく、集合体としての観客のために上演していて、そこに自分も含まれている、という構造になる。そこで登場人物を演じる演技者が発する声は、他の登場人物に向けられた声であると同時に、観客全体に向けられた声でもある。自分を含む集団を第三者であるとみなせば、それは二重の意味で第三者に向けられた声になっている。
一方で、ここでは二層あるいは三層の自己同一化が起きている。観客である自分は、演技者の身体を通じて舞台上の登場人物に自己同一化し、さらに観客という集団にも自己同一化する。この仕組みが、近代ヨーロッパにおいては、「国民」の形成上重要だった。
だがこの機能は、二〇世紀には映画やラジオ、テレビによって担われるようになる。これらも、「その場にいる人には向けられていない言葉を発する」という劇場で培われた技術を応用してできたメディアだった。これらのメディアは劇場よりもずっと経済効率がよいので、二〇世紀を通じて、劇場は次第にマージナルな位置に追いやられていくことになる。
これらが劇場と大きく異なるのは、観客が声を発しても、上演者には必ずしも届かないということである。劇場では、観客が上演を妨害することができるし、上演者になってしまうことも可能である。この上演者と観客の対等性が失われてきたことは、今、多くの人が「自分には社会を変えることはできない」という諦念を抱いていることと関係があるのではという気がする。インターネットやSNSもこの非対称性の問題を必ずしも解消できてはいないように思う。

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