二つの時間を重ね合わせる演技体 2026年8月27日
この作品はチリの作家ロベルト・ボラーニョの『アメリカ大陸のナチ文学』や『はるかな星』とロートレアモンの詩『マルドロールの歌』をベースにしている。ラテンアメリカの若い詩人たちが、亡命した旧ナチス党員たちの影響を受け、新たなファシスト的・人種主義的文学を展開し、それが現実にも影響を与え、ピノチェトによるクーデターの最中、男性詩人の一人がミューズ的な双子の女性詩人を殺害してしまう(というのはもちろんボラーニョのフィクションだが)。
ジュリアン・ゴスランはライブ映像の使用や、しばしば数十分にもわたる長い独白を用いられる。今回の作品では、舞台が映画のセットのようになっていて、俳優たちは台詞を言うときだけ役になり、それ以外のときはカメラの視野の外で休憩している(のが観客にも見える)。若い詩人たちが自作を披露するパーティーの場面では、二人のDJがレイヴのように大音量で電子音楽を流しながら、女性詩人が長大な詩を語り、次第に熱狂していく。観客も舞台に上がることができ、ビールを飲みながらレイヴに参加できる。
これが三部構成の第二部で、第三部では別の女性が数十年前にアジェンデ政権下で詩人のサークルのなかで起きた殺人事件の真相と、まだ書かれつづけているナチス的文学作品の著者を探っていく。かつての詩人たちを探り当て、女性詩人の忘れられた詩の断片を口に出すと、詩人たちは狼狽する。観客も、かつて自分も熱狂の渦を体感した詩が、フェミサイドを引き起こしたファシスト的な思潮と結びついていたことを実感し、複雑な気持ちになる。
ここでしばしば使われている演技体は、一六世紀から一七世紀にかけて「レシテréciter」という動詞で語られていた演技体と通じるものがある。この動詞は英語の「リサイタルrecital」と同根で、「引用する」こと、あるいは「書かれたものを読み上げる」ことを意味する。ゴスランは「舞台を見ている間、本を手にしているような感覚」を目指しているという。
「レシテréciter」の演技体は近代のフランス人による古代ローマ文化のいわば積極的誤読によって成立した。ローマ帝政期には「レキターティオーrecitatio」という朗読文化が発展した。文化人が自分の書いた文章を仲間うちで発表するイベントを行い、朗読したり、奴隷に読ませたりして、聞いてもらう。古代ローマでは俳優は奴隷的身分だったので、芝居がかった読み方をするのは奴隷の仕事であり、自由人には恥ずかしい奴隷的な行為とされた。そのため、自由人である文化人は、詩や劇作品であっても、棒読みで淡々と読むのがよいとされた(Emmanuelle Valette-Cagnac, La lecture à Rome)。
「マルドロール」はフランス語の「悪mal」とラテン語の「苦痛dolor」を組み合わせた名前と読むことができる。この「苦痛dolor」は、フロランス・デュポンによれば、ローマ悲劇において、悲劇の主人公が怪物になっていく契機である。ローマの悲劇俳優の見せ場は、怪物となった主人公が「苦痛」を歌い上げる場面だった(Florence Dupont, Les monstres de Sénèque)。
一六世紀のフランスで古代の悲劇・喜劇に倣った演劇なるものを始めたのは、学校でローマ悲劇・喜劇を習い、授業の一環としてラテン語で演じた経験がある知識人たちだった。彼らは「詩人」を自称し、自らの演技をこの「レシテréciter」という動詞で呼んだ。やがてそこから職業俳優になるものが出てきても、この動詞が引き継がれていった。このなかで、自由人的(文化人的)演技体と奴隷的(俳優的)演技体の境界があいまいになっていく。
この動詞を使うことは、演技を「一度書かれたものを、そのとおりに発話する」という行為とみなすことである。これは「その時、その場で思ったかのように発話する」という演技概念とは異なり、発話する主体と発話されるテクストとの間に一定の距離があることを前提としている。二〇世紀フランスの哲学者アンリ・グイエに、『演劇と二つの時間の芸術』Henri Gouhier, Le théâtre et les arts à deux tempsという著作がある。グイエは演劇や音楽の上演において、劇作家・作曲家・作詞家が書いたときの時間と上演の時間が隔たりを保ちながら重なり合うという現象に注目している。「レシテ」はこの二つの時間性を前提とする演技体と言ってもよい。
人は自らが読むテクストに距離を取ったり、それに影響されたり、熱狂したりする。テクストの発話者が別にいる場合には、その受容の仕方にはいよいよ多様なあり方がありうる。淡々とした発話に熱狂したり、熱狂した発話に冷めてしまったり。この演技体を取り戻すことは、時間の複層性と受容の多様性を前提とした豊かな文化を取り戻すことにもなりうる。
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古典が上演されなくなったのはなぜか 2025年5月1日
今世紀に入ってから、ヨーロッパの劇場でもあまり古典が上演されなくなってしまったのはなぜか。『ラクリマ、涙~オートクチュールの燦めき~』を作ったカロリーヌ・ギエラ・グェンのインタビューを読んでいると、その理由の一つが見えてきます。
カロリーヌ・ギエラ・グェンがストラスブール国立演劇学校に入ったとき、同期では唯一の「非白人」でした(最近のフランス語では「人種化された人racisée」と言います)。カロリーヌはそこで初めて見た劇作品を聞かれて、オデオン座でパトリス・シェローの『フェードル』を見た、と嘘をついてしまったと言います(パリの国立劇場で、有名な演出家によるフランス古典悲劇の名作を見た、というわけです)。
本当はもっと大衆的なコメディでした。子どもの頃、両親が車で8時間かけてパリの劇場に連れて行ってくれたのだそうです。カロリーヌのお母さんはベトナム出身、お父さんはアルジェリアに入植したユダヤ人の子孫で、南仏の小村に住んでいました。家の近くには劇場など一つもなく、当然劇場に行くという習慣もなかった。「地球人の大半と同様に」とカロリーヌは付け加えます。
先生に勧められてストラスブール国立演劇学校を受験し、入ってみたら、まわりは自分がこれまで聴いたこともなかった音楽を聴いていて、存在も知らなかった本を読んでいる。そのなかで、これまで着なかったような服を着て、南仏訛りを封印して、一生懸命溶け込もうとした。卒業公演ではシェイクスピアの『マクベス』を演出したものの、それが自分となんの関係があるのか、最後までよくわからなかった。従兄弟が見に来たけど、俳優たちが話していたのがフランス語だったということすら分からなかった。あまりに言葉が難しくて。
それでもう演劇はやめようと思って、大学の法学部に行こうとしたら、お母さんから「演劇学校に行くために1万5000ユーロのローンを組んだのに、どうやって返すつもりなの!」と怒られた。それで必死に演劇の仕事を探しているところに、劇場から声がかかって、アマチュアの出演者と作品を作るようになった。最初の頃は古典に参照したりもしたものの、なんで死んだ男が書いたものによって自分の作品を正当化しなきゃいけないのかわからなくなってやめた、とのこと。
ヨーロッパ演劇で「古典」というと、シェイクスピア、ラシーヌ等々と、ほとんどは白人男性の劇作家が書いたものです。もちろん、長年上演されてきただけあって、そこにはそれなりの豊かさはあるわけですが、当然、どう探したってそこには書いていないこともある。あるいは、書いてはあるけど納得のいかない書き方だったりする。だとすれば、もっと別のところに物語を見つけたほうがいいんじゃないか。もっと別の書き方、作り方をしたほうがいいんじゃないか。そう感じる作り手が出てきて、それに共感する観客が出てきたのは、自然なことだと思います。
カロリーヌが生まれ育った小村では、「遠くから来た人」はもう一家族だけでした。その家族の子どもたち三人が同じクラスにいたのに、ある日、その三人も急にいなくなってしまった。父親がアラブ系だったために広場で銃で撃たれて亡くなり、家族も去っていった。カロリーヌは少女時代、「差別を受けたことがあるか」と聞かれ、いつも「ない」と答えたと言います。ひどい言葉をかけられたことはあっても、少なくとも身体的な暴力は受けなかったから。
世界はどこから見るかでだいぶ違って見えます。今日はここにいても、明日起きたら別のところにいるかもしれません。『ラクリマ』の主人公マリオンも、やりがいのある仕事をしているつもりが、気がつくと後戻りのできないところまで追い詰められていきます・・・。
劇場では、いつもとはちょっと違う角度から世界を見ることもできます。少なくとも自分の周りだけでもこうならないような社会にするにはどうすればいいか。そんなことも考えられる場です。
SHIZUOKAせかい演劇祭で5/4から上演される『ラクリマ、涙~オートクチュールの燦めき~』、まだお席をご用意できるようです。カロリーヌ・ギエラ・グェンのインタビュー集『心臓演劇』Un théâtre cardiaqueも静岡芸術劇場で販売しています。劇場でお待ちしております。
「国語演劇」を越えて 2025年4月29日
ティアゴ・ロドリゲスとカロリーヌ・ギエラ・グェンの共通点は、「国語演劇」から脱しようとしていることです。ヨーロッパにおいて、英語はシェイクスピアの言語、フランス語はモリエールの言語と呼ばれるように、演劇は「国語」という制度の成立と深く結びついていました。今にして思えば、20世紀の「演出家の演劇」において、古典の再解釈が盛んに行われた背景には、学校や学生が劇場の顧客として重要だったことがありました。でも、「国語」という制度によって傷を受けた人、そこから排除されている人に目を向ければ、「国語演劇」とはだいぶ異なる世界が見えてきます。
複数の言語が共存する創作の場においては、一人ではコントロールしきれない部分が生じ、ヒエラルキーも変わっていきます。そこからどんな作品が生まれてるのか、気になったらぜひSHIZUOKAせかい演劇祭に足をお運びください。さきほどの『〈不可能〉の限りで』リハーサル、リラックスした雰囲気ながら、俳優もドラマーもかなりドキドキさせてくれました。静岡でお待ちしております!
https://festival-shizuoka.jp/
「演技論」という言葉 2022年12月3日
日本語で「西洋演技論史」というのを書こうとしているということの奇妙さに、ふと気づかさ日本語で「西洋演技論史」というのを書こうとしているということの奇妙さに、ふと気づかされた。思えば「演技論」などという研究ジャンルはフランス語でも英語でも存在しない。フランス語の博士論文は「俳優術(art du comédien)」について書いたし、英語では「演技理論(theory of acting)」について研究している、と説明することが多い。だが、たとえば最近は教会法やローマ法における俳優の位置づけについて調べているが、これはどちらにもあてはまらない。自分がやっている「演技論史」というのは「演技について語られてきたこと」についての歴史であり、それをフランス語や英語にしようとすると、「演技についての言説の歴史(histoire des discours sur l’art du comdien, history of discourse on acting)」とか、なんだかややこしい言い方になってしまう。なんでこんなことになってしまったのか。
もとをたどれば、リアリズム的演技の起源を知りたかったのだが、俳優が書いた実践的な「演技理論」などというものはせいぜい一八世紀くらいまでしか遡れない。でも、そこで「よい演技」とされているものは、特定の社会的・歴史的背景から要請されたものであって、そこで使われている語彙は弁論術、哲学、神学、法学、文学等々のなかで使われてきたものの借り物だったりする。「演劇独自の価値」などというものは存在しないのであって、そういうネットワークの全体を見なければ、なぜそのような演技がよいということになったのかは理解できないし、一八世紀より先に遡ることすら難しくなってしまう。
というわけで、日本語の「演技論」という言葉がなんだかしっくりきた。日本語で書くと、西洋語の言説をある種突き放して相対化できるというメリットもある。西洋語で書いていると、自分が書いている言葉自体を分析・批判しながら書くというややこしい作業をしなければならない(まあ日本語でも結局翻訳語を多用することになるので、ある程度そうならざるをえないが)。ふたたび西洋語で語らなければいけない機会に、「日本語からの視点で西洋語で西洋演技論を語る」というアクロバティックなことができるか、考えてみたりしている。
森元庸介講演会「西洋はいかにして演劇を許し、芸術を愛するようになったか ~決疑論と美学の誕生~」(1/21) 2022年1月3日
森元庸介さんを招いて、1月21日にオンラインで「西洋はいかにして演劇を許し、芸術を愛するようになったか ~決疑論と美学の誕生~」と題した講演会をしていただくことにしました。
ご著書『芸術の合法性 決疑論が映し出す演劇の問い』(Yosuke Morimoto, La légalité de l’art. La question du théâtre au miroir de la casuistique, préface de Pierre Legendre, Paris, Cerf, 2020)をひもといていくと、西洋近代美学の土台がキリスト教の決疑論によって形づくられたことが見えてきます。そして、その際に中心的な役割を果たしたのが、演劇を許容してよいのか否かという問題だったのです。古代ローマの教父たちは、演劇を観に行くこと、上演することを激しく断罪していました。それが中世から近代にかけて、条件付きで許容されるようになっていきます。それを可能にしたのは、決疑論における演劇と俳優をめぐる長年にわたる記述の積み重ねでした。決疑論というのは、キリスト教の枠組みのなかで、個々の具体的な行いが良いものか悪いものかを判断するための学問です。この分野の書物は膨大にあるようですが、一九世紀以来ほとんど再版されておらず、研究もあまりないそうです。
一見断絶のない解釈の積み重ねのなかで起きる微細で緩慢な変化が、やがて演劇への新たな態度を生み、ついにはキリスト教のあり方自体にも問い直しを迫るものになっていきます。そして演劇を許容する理論的枠組みが形成されると、それが芸術全般を受容する際の枠組みにもなっていきます。この経緯を知ると、「芸術」の名のもとで何が許容され、何が排除されているのかも見えてくるかもしれません。
近年、フランス旧体制下における演劇批判については優れた研究がなされてきましたが、演劇に対する寛容論の構造を解明する試みはあまりなされてきませんでした。極めて刺激的な論考なのですが、まだ邦訳はなく、神学用語やラテン語・古代ギリシア語がたくさん出てきて、読むのはなかなか大変です。森元さんに「ヨーロッパ文化の舞台裏」(ルジャンドル)をお見せいただく貴重な機会となりそうです。
講演会に向けて森元庸介さんの『芸術の合法性 決疑論が映し出す演劇の問い』を日々読んでいると、近代演技論と古代演技論のあいだのミッシングリンクがここにあったのか、と思います。名優たちは真情をもって演技をしているというキケロの話と近代の感情主義演技論とのあいだには、誠実さを一つの条件として俳優を「合法化」した中世の神学/決疑論における議論があったようなのです。というわけで、スタニスラフスキーやストラスバーグとかに興味がある方もぜひ。
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【日仏演劇協会ZOOM演劇講座】
《第四回》
西洋はいかにして演劇を許し、芸術を愛するようになったかー決疑論と美学の誕生
講師:森元庸介(東京大学総合文化研究科准教授・表象文化論)
聞き手:横山義志(日仏演劇協会実行委員・西洋演技論史)
「異邦人の眼ざしが静かな水面をかき乱す、私たちが知り尽くしていると思い込んでいた認識論的カテゴリーのなめらかな鏡面を。」(ピエール・ルジャンドルによる序文から)
森元庸介
1976年生。パリ西大学博士(哲学)。東京大学大学院総合文化研究科・准教授。著書に La Légalité de l’art. La question du théâtre au miroir de la casuistique (Cerf, 2020). 共編著に『カタストロフからの哲学 ジャン=ピエール・デュピュイとともに』(以文社、2015)。また、ディディ=ユベルマン、デュピュイ、ルジャンドル、レーベンシュテインなどを翻訳している。
横山義志
1977年生。SPAC-静岡県舞台芸術センター文芸部、東京芸術祭リサーチディレクター、学習院大学非常勤講師。専門は西洋演技論史。パリ第10大学でLa grâce et l’art du comédien. Conditions théoriques de l’exclusion de la danse et du chant dans le théâtre des Modernes(『優美と俳優術 近代人の演劇における踊りと歌の排除の理論的条件』)により博士号を取得。論文に「アリストテレスの演技論 非音楽劇の理論的起源」、翻訳にジョエル・ポムラ『時の商人』など。
【日時】
2022年1月21日(金)20時~22時
【無料・要事前登録】
以下のurlで事前に参加登録をお願いします。定員は60名、先着順となります。
https://us02web.zoom.us/meeting/register/tZMud-ygrjkrG9bVUBxBm0q53uJi2F44wRC7
登録後、ミーティング参加に関する情報の確認メールが届きます。
【注意】
·登録は原則本名でお願いします。
·ミーティングルームには参加登録したメールアドレスでしかログインできません。
·ミーティングルームに入られましたら「ミュート」「ビデオ・オフ」になっていることを御確認ください。
·Zoomオンライン演劇講座は録画されます。また録画した内容を編集のうえ、後日、youtubeの日仏演劇協会チャンネルに公開される可能性があります。
【問い合わせ】
日仏演劇協会事務局(office@sfjt.sakura.ne.jp)
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『アリアーヌ・ムヌーシュキン:太陽劇団の冒険』とリアリズム演技論への問い 2021年10月24日
『アリアーヌ・ムヌーシュキン:太陽劇団の冒険』を見て、今さらながら、この周辺で起きていたことには大きな影響を受けたんだなと思った。歌舞伎や能や文楽に改めて興味を持つようになったのも、留学していた頃にパリの演劇科で、太陽劇団の影響が色濃かったということがあった。自分が西洋演技論史を専門にしたのは、今あたかも普遍的なものであるかのようにみなされている「リアリズム」と呼ばれる演技形式が、特定の地域・時代の特殊な状況のなかで生まれてきたことを示すためだった。この映画のなかでムヌーシュキンは、リアリズムが演劇にとっての最大の危機だと語っている。太陽劇団はインドや日本の演技形態にも普遍性がありうるということを体当たりで示そうとしていた。
太陽劇団の作品や活動のすべてを肯定してきたわけではないが、こういった試みが減ってしまったことはちょっと残念に思っている。いわゆる「リアリズム」的な演技形態や、シェイクスピアやギリシア悲劇のテクストを使うことが「文化の盗用」とされないのは、それに普遍性があるということが前提になっているからだが、これらが普遍的なものとみなされた背景には、植民地時代の政治的・経済的構造がある。ハンバーガーが世界化したからといってその「普遍性」を肯定的に評価すべきとは限らないし、今「エスニックフード」とみなされているものが今後世界化していく可能性は十分にある。
いわゆる先進国においてマジョリティに属するアーティストたちが、植民地支配を受けた国や先住民の文化に目を向けたことは、脱植民地化の一つのステップだった(太陽劇団の場合、ムヌーシュキン自身をはじめ、多くの劇団員が移民層の出身で、マジョリティとも言い切れないが)。それに対して、植民地支配を受けた側や先住民のアーティストたちが「文化の盗用」という批判を向けたのもまた、重要なステップだった。表象の担い手が出自に応じて平等に権利を得られていない状況に対しては、まだまだ取り組まなければならないことがたくさんある。
だがそこには、アイデンティティポリティクスだけでは解決しない問題も少なくない。「普遍」とされるものを疑いながら、「普遍」とされていないものに特定の集団を超える意味を見出すことは、世界の均衡を取り戻すためにまだまだ必要な作業ではないか、などと思いながら、リアリズム演技論の起源について考えつづけている。
『アリアーヌ・ムヌーシュキン:太陽劇団の冒険』とリアリズム演技論への問い へのコメントはまだありません贈与としての舞台芸術は可能か 2020年7月11日
コロナ禍をきっかけに、舞台芸術に関するクラウドファンディングがいくつか立ち上がりました。でもその少し前から、市場経済の仕組みでは成り立ちにくい舞台芸術に贈与経済の考え方を導入すべきではないか、という機運はありました。それについて、古代ローマの例が役に立つような気がしたので、ローマ演劇における贈与と俳優の関係について、少し書き留めておきます。
古代ローマ社会においては、贈与経済が圧倒的な重要性を持っていました。劇場や演劇公演を含め、大規模な工事やイベントの多くは、権力者や資産家による贈与によって成り立っていました(ポール・ヴェーヌ『パンと競技場』)。
贈与によって恩を受けると感謝の念が生まれ、恩返しをしなければならないという気持ちが生じます。恩返しをすると、そこに再び感謝が生まれ、両者のあいだに信頼関係が生じていきます。このような「恩恵」、「感謝」、「信頼」を、ラテン語では全てグラティア(gratia)という言葉で表現します。ローマの支配階級は、このグラティアのサークルによって結びついていました(Claude Moussy, Gratia et sa famille)。
これは神々と人間との関係でもありました。ローマ人は神々に日ごろの「恩恵」への「感謝」のしるしとして犠牲を捧げ、時にはギリシア由来のエキゾティックな娯楽である演劇を捧げたりもします。こんな儀式へのお返しとして、神々はふたたび人間に恩恵を授け、神々と人間との絆が深まっていくわけです。
ローマ市民は演劇に熱狂し、政治家が人気取りのために競って演劇を上演するようになっていきました。人気俳優は巨万の富を築きました。ところが、俳優たちはこのグラティアのサークルのなかに入ることはできませんでした。俳優は報酬を受け取って演じていたからです。
ローマ社会では、お金のために仕事をすることは卑しいことだと考えられていました。そして俳優は、他人の快楽のために自分の身体を提供する仕事として、売春と同様に不名誉で奴隷的な職業とみなされていました。
同じような行為をしても、金銭による取引となると、支払いで関係が終わってしまい、「恩恵」も「感謝」も「信頼」も発生せず、グラティアのサークルには入ることができません。政治家が劇団の座長に演劇を上演してもらい、それによって庇護民の支持を得ることができたとしても、報酬をもらった座長は政治家に恩を売ることはできません。神々にこの娯楽を「感謝」のしるしとして捧げた主体も、あくまでお金を出した主催者であって、実際に演じた俳優ではありません(これについては『西洋演劇論アンソロジー』の「クインティリアヌス」の項目で少し書いています)。
ではどうすれば俳優はグラティアのサークルに入れるのか。近代ヨーロッパの演技論は、この難題が一つの出発点になっています。ここから、近代演技論では、ラテン語のグラティアから派生した「優美(grace, grâce, Grazie, etc…)」という概念が重要になっていくのですが、ここから先はややこしい話なので、またいずれ。歌と踊りを排除した今のリアリズム的な演技は、この「優美」の追求がきっかけとなって生まれた、というのが私の考えです。
これは近代において、俳優が再び市民となっていく過程でもありました。フランス革命のなかで、俳優はときに共和政ローマの英雄を演じることで、市民のモデルを提示する役割を果たしました。革命後の社会では市場経済が拡大し、グラティアのサークルは徐々に姿を消していきます。そしてようやく市民権を得た俳優は、興行としての演劇を牽引していきます。
二〇世紀以降、映画やテレビやインターネットの出現で、舞台芸術を興行として成立させることは徐々に困難になっていきました。では今、どうすれば舞台芸術にふたたび贈与経済の考え方を導入することができるのか。そしてどうすれば贈与のサークルの中で舞台芸術の担い手自身が主体的な位置を占めることができるのか。これは今、私たちが直面している難題です。たぶんそれには、今の舞台芸術の枠組みやあり方自体を問い直すようなことが必要になるでしょう。もしかすると何世紀もかかかるようなことなのかも知れません。あるいは、意外とあっという間にそうなっていくのかもしれません。
いずれにしても確かなのは、これまでやってきたことを、けっこう根本的に問いなおす必要に迫られているということだと思います。
贈与としての舞台芸術は可能か へのコメントはまだありませんPourquoi (Une rencontre avec Claude Régy) 2019年12月27日
Pourquoi
Quand j’ai rendu visite à Claude Régy, le 23 juin 2019, j’ai eu l’impression que j’avais finalement compris quelque chose, dont je voulais prendre notes pour moi-même.
Je lui ai dit qu’au Japon, beaucoup de jeunes artistes japonais ont été influencés par son travail.
Une jeune actrice lui a dit aussi que beaucoup de ses amis de Kyoto avaient été touché par ses spectacles. Il lui a dit « Pourquoi ? C’est dur de les voir. » Elle a souri.
Alexandre Barry m’a dit qu’il avait reçu Valérie Dréville la semaine dernière, et qu’il lui avait dit que son rêve était de retourner à Shizuoka et de venir voir les comédiens avec qui il avait eu travaillé pour Intérieur (alors que Valérie Dréville n’a rien à voir avec son aventure japonaise). Ça m’a ému. Et le nom de Valérie Dréville m’a rappelé Quelqu’un va venir qu’il avait monté avec elle en 1999. Je lui ai dit que je me souvenais souvent de ce spectacle, et que ce spectacle m’avait tellement touché.
Là, il m’a dit :
« Reste touché, c’est la seule chose valable dans la vie.
Les acteurs entendent le texte d’un auteur comme une langue étrangère et ça se traduit dans sa tête.
Si ça se traduit bien, ça touche le public aussi. »
À cet instant, j’avais l’impression de comprendre pourquoi il nous demande toujours pourquoi. Parce qu’il ne le sait vraiment pas, et il veut le savoir.
J’avais toujours peur de ce pourquoi. Il m’a posé cette question plusieurs fois, mais je n’ai jamais pu y répondre vraiment.
Pour être touché, il faut accepter qu’il y a quelque chose qu’on ne connait pas, qui nous dépasse. C’est pourquoi « rester touché » est extrêmement difficile…
Apparemment, c’était une phrase qu’il disait souvent pendant la répétition d’Intérieur, selon les comédiens. Il remarque tout de suite quand un comédien va sur un chemin déjà connu, sans être touché.
Just avant de le quitter, j’ai pu finalement lui dire que sans avoir connu son travail, je n’aurais pas travaillé au théâtre.
Il m’a dit : « Ce que tu m’a dit est très beau. »
Je me rappelle aussi ce que Bertrand Krill, son administrateur, m’a dit quand je lui ai dit la même chose : c’est le cas pour beaucoup qui ont travaillé avec lui.
Je pense toujours à ce que je peux lui dire à la prochaine fois qu’il me demande pourquoi.
Pourquoi (Une rencontre avec Claude Régy) へのコメントはまだありませんなぜ(クロード・レジとの会話)
なぜ
日本でも多くの若いアーティストたちがレジの仕事に影響を受けている、と伝えた。
若い女優の一人も、京都の友達が何人も彼の作品に感動した、と付け加えた。
レジは彼女に、「なぜ?あんなに観るのがしんどいのに」と言った。彼女は笑っていた。
アレクサンドル・バリーによれば、その前の週にヴァレリー・ドレヴィルが訪問してきた際、レジは、静岡に戻って『室内』で一緒に働いた俳優たちに再会するのが夢だ、と語ったという。ヴァレリー・ドレヴィルの名前を聞いて、1999年に初めて見たレジの作品『誰か、来る』を思い出した(ドレヴィルはその主演女優だった)。そしてレジに、この作品のことをよく思い出している、とても感動した、と伝えた。
そこで、レジはこう言った。
「感動しつづけなさい。それが人生のなかで唯一、意味のあることだから。
俳優は作者の書いたテクストを外国語のように聞いて、それが頭の中で翻訳される。
その翻訳がよかったら、観客も感動するんだ。」
この瞬間、なぜレジがいつも「なぜ」と聞くのか、分かった気がした。本当にそれが分からないから、知りたいのだ。
私はいつも、この「なぜ」が怖かった。私にも、何度もこの質問が投げかけられたのだが、一度もちゃんと答えなかった。
心が動くには、知らないものがあるということ、自分を超えたものがあるということを受け入れなければならない。だから「感動しつづける」というのはすごく難しい。
どうも、『室内』の稽古のあいだも、レジはよくこの言葉を口にしていたらしい。俳優が「感動する」ことなく、すでに知った道をたどるとき、レジはすぐにそれに気づく。
レジのもとを去るとき、ようやく「レジさんの作品に出会わなかったら、劇場で働くこともなかったと思います」と告げることができた。
レジさんは「いいことを聞かせてくれた」と言ってくれた。
このことを制作のベルトラン・クリルさんに話したとき、「彼と働いている人の多くはそうだよ」という答えが返ってきたのを思い出した。
また彼から「なぜ」と聞かれたとき、なんて答えようか、いまだに考えている。
なぜ(クロード・レジとの会話) へのコメントはまだありませんモーリス・オーダンとラシッド・タハ、アルジェリア戦争の記憶 2018年9月30日
『顕れ』パリ日記(番外篇)として。
9/14の「ル・モンド」紙一面は、アルジェリア独立戦争の犠牲者の一人に、大統領が国家の責任を認めた、というニュースだった。

アルジェリア戦争はフランスの国論を二分する大事件で、少なからぬ「フランス人」も、アルジェリア独立のために戦い、犠牲となった。アルジェ在住の数学者モーリス・オーダンはアルジェリア共産党のメンバーで、アルジェリアの独立を支持していた。独立運動が激しくなっていた1957年のある日、オーダンは突如自宅でフランス軍の兵士たちに捕らえられ、連行される。そして妻と三人の子を残して、二度と戻らなかった。
その後の公式発表では、オーダンは移送中に逃走して行方不明、とされていた。だがそれから61年を経て、オーダンが拘禁中に拷問を受け、殺害されたことをマクロン大統領が公式に認め、アルジェリア戦争での行方不明者に関する資料を公開することを決めて、国民に証言を呼びかけた。モーリス・オーダンが誰によって、どこで殺害され、遺体がどうなったのかは、いまだ明らかにされていない。妻ジョゼットは今なお、61年前に何が起きたのかを探り続けている。
マクロンは大統領に就任する前に、アルジェにおいて、フランスによる植民地支配を「人道に対する罪」と認めている。アルジェリア独立戦争でフランスはのべ130万人の兵士を動員し、アルジェリア側の死者は45万人、フランス側の死者は3万人とされている。
『顕れ』にも、植民地支配と闘い、「死して弔われなかった魂」のことが語られている。
その魂たちは、
「いつの日か、我われへの弔いがなされるなら、
そのとき、我われの苦しみも終わる」
とつぶやく。
一面のもう一つのニュースは、フレンチロックの巨星の一人、ラシッド・タハの死だった。

心臓発作で、59歳の若さだった。アルジェリア戦争が終わったのが1962年なので、タハは3歳の時に「アルジェリア人」になったことになる。10歳で両親とともにアルジェリアからフランスに渡ったときにはアラビア語しかできなかったという。「俺たち(北アフリカ出身者)が言えるのは「エクスキューゼ・モワ(すいません)」だけだ」と、タハはよく語っていた。
「カルト・ド・セジュール(滞在許可証)」という名前のバンドで、1986年にドイツ占領下で書かれたシャルル・トレネのヒット曲「優しきフランス(Douce France)」をアルジェリア音楽を取り入れてカバーし、国中を巻き込む論争となった。来週リヨン・オペラ座で大規模なコンサートが予定されていたという。
アフリカでもヨーロッパでも、植民地時代の傷はまだ癒えてはいない。それが歴史の一頁になるには、まだもう少し時間が必要だろう。
(『顕れ』パリ日記本編はこちら)
(追記)
ラシッド・タハ、個人的に思い入れがあるのは『バッラ・バッラ』。こんな強烈なトレーラーがあったとは。
歌詞の英訳がこちらに。
モーリス・オーダンとラシッド・タハ、アルジェリア戦争の記憶 へのコメントはまだありません