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By Heart, réciter pour l’éternité 2026年10月6日

J’ai enfin pu voir By Heart de Tiago Rodrigues, grâce à KYOTO EXPERIMENT. C’est, là encore, une œuvre qui interroge l’acte de réciter : donner voix, conformément au texte, à des mots déjà écrits (j’avais déjà abordé, dans un autre texte, Maldoror et l’acte de « réciter »). Résister à la censure peut alors consister à graver dans sa mémoire les mots inscrits dans les livres, à les apprendre par cœur et à les transmettre oralement. Lorsque leur contenu est interdit, les prononcer devient nécessairement un acte dangereux.

Lors de la rencontre avec Tiago Rodrigues, il a raconté une anecdote frappante. Sous la dictature portugaise, l’adaptation hollywoodienne du Désir sous les ormes d’Eugene O’Neill avait été distribuée et avait rencontré le succès ; pourtant, la même œuvre, lorsqu’une compagnie souhaitait la jouer au théâtre, ne passait pas la censure. Selon Tiago Rodrigues, le censeur aurait dit, en substance : « Un film américain, interprété par des acteurs américains, et appartenant déjà au passé, cela peut aller. Mais si des Portugais le jouent en portugais, alors cela devient dangereux. »

Le danger viendrait du fait que les interprètes et les spectateurs partagent, dans le théâtre, le même temps et le même espace ; entre eux se noue ainsi une forme de complicité. Pour Tiago Rodrigues, c’est aussi le plus beau compliment que l’on puisse faire au théâtre.

Dans Fahrenheit 451 de Ray Bradbury, qui est évoqué dans By Heart, posséder des livres est interdit : lorsqu’on les découvre, on les brûle. Des personnes résistent alors en apprenant les livres par cœur. Pourquoi les livres eux-mêmes sont-ils dangereux ? Pourquoi certaines personnes éprouvent-elles malgré tout la nécessité de les mémoriser et de les transmettre ?

Fahrenheit 451 est bien sûr une fiction. Mais l’acte de réciter — donner voix, conformément au texte, à des mots écrits — possède quelque chose de magique. Dans cet acte, le temps de l’écriture et celui de l’énonciation se superposent : le passé et le présent se rencontrent.

Au moment où une personne écrit, elle est souvent la seule à lire ce qu’elle trace. Mais tant que ces signes demeurent, ils peuvent être lus par un nombre indéterminé de personnes. Sous l’Ancien Régime, les actes juridiques émis par le roi de France commençaient par une formule telle que : « Louis par la grâce de Dieu roi de France, à tous présents et à venir, salut ». Le présent de l’écriture et le futur de la lecture par autrui s’y superposent. Le roi associe aussi le passé composé et le présent, donnant ainsi une épaisseur temporelle à sa décision, par des formules telles que « nous avons accordé & octroyé, accordons et octroyons ». Et nous, nous lisons ces textes comme appartenant au passé. Ainsi, l’acte juridique se déploie sous l’aspect de l’éternité, à travers le passé, le présent et le futur.

Dans la Rome antique, la proclamation publique d’une loi ou d’une sentence par un héraut pouvait constituer le moment décisif de son entrée en vigueur. Dans une société où l’accès à l’écrit était inégalement réparti, les lettres écrites ne devenaient effectives qu’accompagnées d’un acte de parole. Dans la Grèce antique, les récits des dieux recevaient une vie éternelle grâce aux poèmes composés en vers par les poètes. Dans l’Hymne homérique à Apollon délien, le poète dit que quiconque verrait les jeunes filles de Délos célébrer Apollon par le chant et la danse les croirait, comme des déesses, « immortelles et à jamais exemptes de vieillesse ».

À l’origine, réciter / recitare ne signifie pas nécessairement prononcer ce qui est « écrit » ; le mot désigne plutôt l’acte de donner voix, conformément à sa forme, à une parole déjà constituée. La plupart des paroles que nous prononçons ne sont dites qu’une fois, puis sombrent dans l’oubli. Seules quelques-unes sont choisies, gravées dans la mémoire des êtres, redonnées telles quelles par la voix et transmises.

Même lorsqu’il s’agit de mots que nous avons autrefois écrits ou prononcés nous-mêmes, les redire ensuite, conformément à leur forme, les détache de nous. Ils deviennent alors des paroles reliées au temps de l’éternité. Chaque fois qu’elles sont dites à voix haute, le passé devient présent, et la personne qui les prononce devient la complice de ces mots.

Reprenant une formule de Heiner Müller, Tiago Rodrigues dit que le théâtre nous permet de communiquer avec les morts. Si l’on peut parler avec eux, c’est parce que les morts qui vivent dans le temps de l’éternité prononcent là leurs paroles.

Reprenant une formule de Heiner Müller, Tiago Rodrigues dit que le théâtre nous permet de communiquer avec les morts. Si l’on peut parler avec eux, c’est parce que les morts qui vivent dans le temps de l’éternité prononcent là leurs paroles. L’interprète fait résonner les paroles du passé ici et maintenant, superposant ainsi des temporalités différentes.

Peut-être les dictateurs ont-ils appris par expérience qu’il est plus difficile de se débarrasser de celles et ceux qui savent faire résonner ici et maintenant des paroles reliées au temps de l’éternité que de ceux qui vivent de paroles de circonstance.

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ティアゴ・ロドリゲス『By Heart』、時間を重合させる演技体

ティアゴ・ロドリゲスの『By Heart』、KYOTO EXPERIMENTのおかげで、ようやく拝見できた。これもréciter / recite=「書いてあるものをその通りに発語する」という行為をめぐる作品。検閲への抵抗として、書物に記された言葉を心に刻み、暗唱して人に伝える。禁じられた内容であれば、口にするのは危険な行為となる。

アーティスト・トークでティアゴが話していて面白かったのは、ポルトガルの独裁政権時代、ユージン・オニール作『楡の木陰の欲望』のハリウッド映画版が公開されてヒットしていたのに、同じ作品を演劇でやると検閲を通らなかったという話。検閲官は「アメリカ映画でアメリカの俳優がやった過去の映画ならいいが、ポルトガル人がポルトガル語でやるから危険なんだ」という旨のことを言ったという。ティアゴによれば、その危険性は、出演者と観客がそこで同じ時間と空間を共有することで一種の共犯関係が成立してしまうためで、これは演劇についての最高の褒め言葉でもあるという。

『By Heart』で出てきたブラッドベリ『華氏451度』では、書物を持つこと自体が禁じられ、発見すると焼かれるため、書物を暗唱して抵抗する人々が出てくる。なぜ書物自体が危険なのか。なぜ、それでもなお書物を暗唱して伝えていきたい人が出てくるのか。

もちろん『華氏451度』はフィクションだが、réciter / recite=「書いてあるものをその通りに発語する」という行為には、どこか魔術的なところがある。この行為のなかでは、書かれたときの時間と発語されたときの時間、過去と現在とが重なり合う。

文字は書く瞬間には本人しか読まないが、その文字が残る限り、不特定多数の人によって読まれる可能性がある。フランス旧体制下で国王が発した法律文書は、「神のご加護によりフランス国王となったルイが、今日の、そして来るべき全ての人にご挨拶申し上げる」といった決まり文句で始まる。ここでは書く現在と、それを他者が読む未来とが重なり合っている。そして、私たちはそれを過去のものとして読む。こうしてその法的行為は過去・現在・未来を通じた永遠の相のもとで遂行される。

古代ローマにおいて、法律や判決は公示人が読み上げることで発効した。文字を読めることが前提とされていない社会では、書かれた文字は発話行為を伴ってはじめて実効性を得た。古代ギリシアでは、神々の物語は詩人たちが韻文で作った詩によって永遠の生命を得た。伝ホメロス『アポロン讃歌』(Homeric Hymns, Hymn 3 to Delian Apollo)では、アポロンを讃えて歌い踊る者たちは神々のように「永遠に(αἰεί)不老不死の身」であるかのように思われるだろう、と詩人が合唱隊に歌わせている。言葉は一人の人の思いを伝えるものより、永遠の時間につながるもののほうが、口から口へ、書物から口へと伝わりやすくなる。

réciter / recite / recitareは本来、「書いてあるもの」とは限らず、「すでに一度形づくられた言葉をそのまま発語する」という意味だった。私たちが発するほとんどの言葉は、一度発せられたらそれっきりで、忘れさられていく。そのうち、たった少しの言葉だけが選ばれて人の心に刻まれ、その通りに発語され、言い伝えられていく。自分自身がかつて書いたり発したりした言葉でも、それをもう一度そのまま発語すると、自分から切り離されて、永遠の時間につながる言葉になっていく。声に出すたびに、過去が現在になり、声に出した人はその言葉の共犯者となっていく。

ティアゴはハイナー・ミュラーの言葉を借りて、演劇は死者と語りあうことを可能にしてくれる、という。死者と語りあえるのは、永遠の時間を生きている死者が、そこで言葉を発しているからだ。演技者は過去の言葉を今・ここに響かせ、異なる時間を重合させる。その場しのぎの言葉で生きている人より、永遠の時間につながる言葉を今・ここにつなげられる人のほうが始末が悪い、というのが、独裁者たちの経験則だったのかも知れない。

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アエイの時間 2026年2月26日

上演の場には複数の時間が流れている。観客の体の時間、出演者の体の時間、物の時間、物語の時間、記憶の時間・・・。ドラマ的演劇は物語の時間のみを特権化し、観客がこれだけに集中する空間を作ろうとしてきた。そして物語の時間を出演者の体の時間と一致させようと試みてきた。

だが、そこで歌が歌われると、それだけで時間が複層化してしまう。歌が歌われるときには歌が作られたときと歌われたときの二つの時間が共存し、さらにそれは記憶に沈殿して再度歌われることを要求する。伝ホメロス『アポロン讃歌』(Homeric Hymns, Hymn 3 to Delian Apollo)では、アポロンを讃えて歌い踊る者たちは神々のように「永遠に(αἰεί)不老不死の身」であるかのように思われるだろう、と詩人が合唱隊に歌わせている。神々の偉業を存在させ、人々の口に上らせ、何世代もの記憶に留めておくのは、歌を歌い継ぐという行為であり、それは同時にそれを歌う共同体を永続させようとする行為でもある。「いつまでも、つねに、永遠に」を意味する「アエイ(ἀεί/αἰεὶ)」という副詞は、このように古代ギリシアの合唱歌で、いわばメタ歌唱的な文脈で、よく使われている。

歌は歌う出演者の体の時間、それを聞く観客の体の時間と共振し、「アエイ」の時間を現在化させ、記憶の時間を呼び覚まし、時として人間がいなかった時代、もう人間がいないであろう時代にまで思いを至らせる。歌唱劇という形式は、ドラマ的演劇が失ってしまったこの複層的時間性を取り戻す手段となりうる。

(先週末はatelier uni étude1『果てしない部屋』、ホエイ『メヤクダ』、座・高円寺劇場創造アカデミー14期生修了上演『十一人の少年』等を拝見しました。)

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カテゴリー: 世界演劇

古典が上演されなくなったのはなぜか 2025年5月1日

今世紀に入ってから、ヨーロッパの劇場でもあまり古典が上演されなくなってしまったのはなぜか。『ラクリマ、涙~オートクチュールの燦めき~』を作ったカロリーヌ・ギエラ・グェンのインタビューを読んでいると、その理由の一つが見えてきます。

カロリーヌ・ギエラ・グェンがストラスブール国立演劇学校に入ったとき、同期では唯一の「非白人」でした(最近のフランス語では「人種化された人racisée」と言います)。カロリーヌはそこで初めて見た劇作品を聞かれて、オデオン座でパトリス・シェローの『フェードル』を見た、と嘘をついてしまったと言います(パリの国立劇場で、有名な演出家によるフランス古典悲劇の名作を見た、というわけです)。

本当はもっと大衆的なコメディでした。子どもの頃、両親が車で8時間かけてパリの劇場に連れて行ってくれたのだそうです。カロリーヌのお母さんはベトナム出身、お父さんはアルジェリアに入植したユダヤ人の子孫で、南仏の小村に住んでいました。家の近くには劇場など一つもなく、当然劇場に行くという習慣もなかった。「地球人の大半と同様に」とカロリーヌは付け加えます。

先生に勧められてストラスブール国立演劇学校を受験し、入ってみたら、まわりは自分がこれまで聴いたこともなかった音楽を聴いていて、存在も知らなかった本を読んでいる。そのなかで、これまで着なかったような服を着て、南仏訛りを封印して、一生懸命溶け込もうとした。卒業公演ではシェイクスピアの『マクベス』を演出したものの、それが自分となんの関係があるのか、最後までよくわからなかった。従兄弟が見に来たけど、俳優たちが話していたのがフランス語だったということすら分からなかった。あまりに言葉が難しくて。

それでもう演劇はやめようと思って、大学の法学部に行こうとしたら、お母さんから「演劇学校に行くために1万5000ユーロのローンを組んだのに、どうやって返すつもりなの!」と怒られた。それで必死に演劇の仕事を探しているところに、劇場から声がかかって、アマチュアの出演者と作品を作るようになった。最初の頃は古典に参照したりもしたものの、なんで死んだ男が書いたものによって自分の作品を正当化しなきゃいけないのかわからなくなってやめた、とのこと。

ヨーロッパ演劇で「古典」というと、シェイクスピア、ラシーヌ等々と、ほとんどは白人男性の劇作家が書いたものです。もちろん、長年上演されてきただけあって、そこにはそれなりの豊かさはあるわけですが、当然、どう探したってそこには書いていないこともある。あるいは、書いてはあるけど納得のいかない書き方だったりする。だとすれば、もっと別のところに物語を見つけたほうがいいんじゃないか。もっと別の書き方、作り方をしたほうがいいんじゃないか。そう感じる作り手が出てきて、それに共感する観客が出てきたのは、自然なことだと思います。

カロリーヌが生まれ育った小村では、「遠くから来た人」はもう一家族だけでした。その家族の子どもたち三人が同じクラスにいたのに、ある日、その三人も急にいなくなってしまった。父親がアラブ系だったために広場で銃で撃たれて亡くなり、家族も去っていった。カロリーヌは少女時代、「差別を受けたことがあるか」と聞かれ、いつも「ない」と答えたと言います。ひどい言葉をかけられたことはあっても、少なくとも身体的な暴力は受けなかったから。

世界はどこから見るかでだいぶ違って見えます。今日はここにいても、明日起きたら別のところにいるかもしれません。『ラクリマ』の主人公マリオンも、やりがいのある仕事をしているつもりが、気がつくと後戻りのできないところまで追い詰められていきます・・・。

劇場では、いつもとはちょっと違う角度から世界を見ることもできます。少なくとも自分の周りだけでもこうならないような社会にするにはどうすればいいか。そんなことも考えられる場です。

SHIZUOKAせかい演劇祭で5/4から上演される『ラクリマ、涙~オートクチュールの燦めき~』、まだお席をご用意できるようです。カロリーヌ・ギエラ・グェンのインタビュー集『心臓演劇』Un théâtre cardiaqueも静岡芸術劇場で販売しています。劇場でお待ちしております。

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「国語演劇」を越えて 2025年4月29日

ティアゴ・ロドリゲスとカロリーヌ・ギエラ・グェンの共通点は、「国語演劇」から脱しようとしていることです。ヨーロッパにおいて、英語はシェイクスピアの言語、フランス語はモリエールの言語と呼ばれるように、演劇は「国語」という制度の成立と深く結びついていました。今にして思えば、20世紀の「演出家の演劇」において、古典の再解釈が盛んに行われた背景には、学校や学生が劇場の顧客として重要だったことがありました。でも、「国語」という制度によって傷を受けた人、そこから排除されている人に目を向ければ、「国語演劇」とはだいぶ異なる世界が見えてきます。

複数の言語が共存する創作の場においては、一人ではコントロールしきれない部分が生じ、ヒエラルキーも変わっていきます。そこからどんな作品が生まれてるのか、気になったらぜひSHIZUOKAせかい演劇祭に足をお運びください。さきほどの『〈不可能〉の限りで』リハーサル、リラックスした雰囲気ながら、俳優もドラマーもかなりドキドキさせてくれました。静岡でお待ちしております!
https://festival-shizuoka.jp/

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