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「人材」とは 2022年6月14日

今参加者募集中の「東京芸術祭ファーム」は「人材育成と教育普及のための枠組み」ということになっていますが、この「人材」という言葉を使うべきかについては、昨年立ち上げの際に、だいぶ議論がありました。私も少し調べてみて、最終的に、使ってもよいのではと思いました。誤解を避けるためにも、この機会に、経緯を少しお話ししておきます。

まずは否定的な意見から。今「人材」という概念が普及したのは、新自由主義的経済学の人的資本(human capital)論によるもので、人間そのものが市場において「資本」や「商品」として機能するような考え方にもとづいている、という話があります。この意味での人材概念は、2011年に内閣府に設置された「グローバル人材育成会議」から、教育行政でも広く使われるようになったのだそうです。経済産業省の「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会報告書」(二〇二〇年九月)には、「人材の『材』は『財』であるという認識」によって「人的資本」を論じたと明言されています。(佐藤学『第四次産業革命と教育の未来 ポストコロナ時代のICT教育』)また、「人材」は英語のhuman resouces「人的資源」の訳語でもあって、この語は第一次大戦の頃から「国家に奉仕する人間のストック」といったニュアンスで使われ、日本でも大政翼賛運動の中で使われてきた経緯があります。この意味では、たしかにあまり使いたくない言葉です。

一方で、漢語の「人材」はかなり古い言葉で、『詩経』(紀元前12-6世紀の祭礼歌や民謡の集成)が出典です。「小雅・菁菁者莪 序」にはこうあります。

「菁菁者莪、樂育材也。君子能長育人材、則天下喜樂之矣。」
「菁菁たる莪は、材を育するを楽しむなり
君子よく人材を長育すれば、則ち天下之を喜楽す」

「キツネアザミ(莪)が茂るのを楽しむように、君子が人材を育成すれば社会全体がそれを享受することになる」という意味だそうです。ここで紹介されている歌は、川辺や丘にキツネアザミが茂っている様子(菁莪)を眺め、それを憑代とする水神が人里に近づいてくる歓びを歌うものです。キツネアザミは明らかに栽培植物ではなく、勝手に茂っているわけで、しかもすごく役に立つというよりも(薬草として使うこともあるようですが)、むしろあまり茂っていると困るくらいのものです。それが「材」だというのは、水神の憑代だからであって、人間の世界とは違った理屈で、勝手に生い茂っていくのを、元気にやっているなあ、となんとなく見守っていられる人こそが度量の広い「君子」なのだ、ということなのでしょう。(「君子」というのは、歌のなかでは水神のことのようですが、序のほうでは人間への教訓を述べているのかもしれません。)

まあ「東京芸術祭ファーム」の運営側に「君子」というほどの人がいるわけでもありませんが、できるのはせいぜい「何かやってみたい人」のために、なるべく安全にやってみることができる場をつくるくらいのことではないか、と思うと、この『詩経』に採録された歌がしっくりくるように思いました。そんな「人材」が、いつかみんなを楽しませてくれることを祈りつつ、ご応募をお待ちしております。

菁菁者莪 在彼中阿 既見君子 樂且有儀
菁菁者莪 在彼中沚 既見君子 我心則喜
菁菁者莪 在彼中陵 既見君子 錫我百朋
汎汎楊舟 載沈載浮 既見君子 我心則休

茂れるきつねあざみは、川の隈(くま)に。
水神の御出ましに、我が心も楽しみ静まらん。
茂れるきつねあざみは、川の水際に。
水神の御出ましに、我が心も喜ばん。
茂れるきつねあざみは、高き丘の上に。
水神の御出ましに、我らの多福を祈らん。
やなぎの舟はゆらゆらと、浮き沈みしつつ来る。
水神の御出ましに、我が心も喜ばん。
( 『新釈漢文大系第111巻 詩経(中)』石川忠久著、明治書院)

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東京芸術祭ファーム2022 ラボ
参加者募集中のプログラム
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※応募資格等の詳細は、下記より募集要項をご確認ください
https://tokyo-festival.jp/tf_farm

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演劇というジャンル/ディシプリン 2022年6月6日

週末に多摩美術大学で行われた日本演劇学会2022年度全国大会「演劇と美術」は自分にとってアクチュアルな問題を問う発表やシンポジウムが多く、刺激的だった。「演劇と美術」と並べると、「劇場」と「美術館」という制度を問いなおすことにならざるを得ない。そして、その問いは「演劇(学)」というジャンル/ディシプリンそのものを問いなおすものともならざるを得ない。「演劇と美術 —入り交じる時間と空間—」と題された最後のシンポジウムで、登壇者に「現場の視点から、演劇学あるいは演劇教育というディシプリンに期待するものは?」と質問したところ、「アーカイブを整備してほしい」という返答があり、とても腑に落ちた。ゼロから新しいものを作ることはできない。アーカイブがなければ実験もできない。そしてジャンルやディシプリンといった枠がなければ、アーカイブも成り立たない。仮に枠組みのないアーカイブがあっても、ほしいものにたどりつくことはできない。「越境」が大事だからといって、全ての壁を壊したほうがいいというわけではない。壁の中でしかできない実験はあるし、だからそもそも壁をつくってきたのだろう。
自分が演劇学を選んだのは、ご多分に漏れず、演劇に救われたからだった。今にして思えばそれも「劇場」という壁があり、「演劇」という枠があったからこそ可能な出会いに救われたのだと思う。だがアジアからの留学生としてフランスで演劇学を学んでみると、いかにその枠がヨーロッパ中心にできているかを実感させられることになった。それから劇場で働くことになり、「演劇祭」のプログラムを考えていると、「演劇」という枠組みで本当にちゃんと「世界」が見えるのか、という疑問が湧いてきた。それでパフォーマンス研究を学びにニューヨークに行った。リチャード・シェクナーは1992年の全米高等教育演劇学会で、演劇学科をみんな解体してパフォーマンス研究科に改組することを提唱したが、今のところそうなってはいない。広すぎる枠はアーカイブとして使いづらいからなのかもしれない。
今、西洋演技論史を書こうとしているのは、西洋でできた「演劇」という枠組みにかなりの不満と不信感があるからだ。その土台まで、一歩ずつ掘り進めていって、自分の違和感の正体を見極めたい。その向こう側に何があるのかは、まだよくわからない。植民地時代に作られたインフラであろうと、ただ破壊してしまっては自分の生活が不便になるだけ、ということも往々にしてある。自分が受けた恩恵を、今よりもいい形で次代につなげるための仕事ができればと思う。
どんなインフラも、日々の集団的実践のなかで保持され、更新されていく。日々の研究や教育のかたわらで研究会を開き、学会誌を発行し、といった作業をしてくださる方々がいるおかげで、出会いが生まれ、アーカイブが更新され、枠からの越境も生じる。学会の受付を通るたびに、以前SPAC-静岡県舞台芸術センターで演劇学会の研究集会を開催させていただいたときのことを思い出す。コロナ禍もあり、今回もみなさん大変だったと思いますが、本当におつかれさまでした!

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