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1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(9) 多文化主義と前衛の終焉 2022年1月24日

2.米国における実験的演劇の製作状況(承前)

2.7.多文化主義と前衛の終焉

NEAが創設されたのは、米国芸術界がまだ東海岸主導で、ヨーロッパとの接続が深く意識されていた時代だった。この時代に、ベトナム戦争下の外交戦略も考慮して、NEAは卓越性の論理により創設された。だが同年に公民権運動と人種暴動が急激な高まりを見せていった。そして移民法改正によって、ヨーロッパ移民重視政策に終わりを告げ、黒人と並んでヒスパニック系とアジア系がマイノリティとして台頭する現在の状況がここからはじまっていく。

ヨーロッパ中心主義的演劇史に別れを告げたパフォーマンス・スタディーズは、ポスト・コロニアルな世界情勢以上に、この米国国内の動向を反映している。70年代から80年代にかけて、「文化の多様性」が至上命題となっていくなかで、米国の文化史は他のあらゆる文化史と、あらゆる回路を通じて、ほとんどランダムに接続していった。こうして歴史が直線的に歩むことをやめ、もはやどちらを向くのが「進歩」でどこが「前衛」なのかが見えない状況が生まれていく。このなかでは当然、「卓越性」という基準も機能しなくなっていく。

先に確認したように、「前衛」もまた、ヨーロッパを出自とする直線的な歴史観を前提とする概念に他ならない。この米国の文化状況のなかで、リチャード・シェクナーが提唱するパフォーマンス・スタディーズは、例えばブレヒトがアジア演劇に影響を受けたことを例に出して、「前衛」的・実験的演劇実践と民族的(エスニック、つまり西洋以外の)パフォーマンス実践とを接続しようとする(Performance Theory)。しかし結局のところ、シェクナー以外にそのような試みで成功した「前衛」的演出家はそれほど出ていない。これが少ないのは、「多様性」が政治言語のなかで民族の「アイデンティティ」と結びついていったからではないか。そのなかで、シェクナーのもくろみとは異なり、「多様」な「民族」的実践が、(まだ「グローバル化」していないものの)それ自体としてある種の普遍性をもった技術やツールとしてではなく、出自に結びついた特異性として認識されていった。(数少ない例としては、SITIカンパニーのアン・ボガードや、最近では『ライオン・キング』のジュリー・テイモアなどが挙げられるが、この二人ともある種の普遍性を標榜するスズキメソッドを学んでいるのは興味深い。)

そして米国をベースとする「有色」のアーティストが「前衛」と標識付けされる例も稀である。たとえば黒人の劇作家オーガスト・ウィルソンや振付家アルヴィン・エイリーなどはまず「前衛」とは名指されない。おそらく、本人も必ずしもそれを欲しないだろう。この標識は白人エリート層にはそれなりにアピールしても、ハーレムやブロンクスの住民の多くはむしろ敬遠しかねない。

1970年代まで「前衛」という標識が使われつづけていたのは、少なくとも理論面で、まだ「多様性」と「前衛」が共存しうる、という希望があったためである。だが1980年代以降の米国演劇においては、文化人類学的/間文化的な「前衛」のあり方は徐々に見失われていった。これは今日のニューヨーク大学パフォーマンス・スタディーズ科で文化人類学的アプローチを重視しているのがほぼシェクナーだけだということの理由の一つでもあるだろう。

(ACCグランティーとしてのニューヨーク滞在から帰国直後、2017年3月24日に書いた未完のメモですが、暫定的にアップしておきます)

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カテゴリー: ACC 文化政策 米国演劇

当事者性と「世界」 2020年9月4日

内野儀先生の「日本の演劇についていま考える「枠組み」も考えてみる(2) 実験とかコミュニティとか:リチャード・シェクナーから小劇場演劇へ」という話を一昨日うかがい、ここ二十年くらいもやもやしていたことが、少し輪郭を持ってきた気がする。

2016年にACC(アジアン・カルチュラル・カウンシル)のグランティーとしてニューヨークに滞在させていただいたが、ニューヨークに行きたかったのは、フランスで学んだ演劇学・演劇史がかなり狭いものに感じていたからだ。その前にアジアセンターのグラントで東南アジア三カ国視察に行かせていただいたとき、東南アジアの多くのアーティストがヨーロッパではなく米国で、演劇学ではなくパフォーマンス・スタディーズを学んだことを知って、ニューヨークに行けば、アジアのことをもっときちんと考えられるのではないかと思っていた。

だが実際に行ってみたら、ニューヨークではアジアのアーティストがあまり活躍しておらず、正直ちょっとがっかりした。パフォーマンス・スタディーズも、アジアのことよりも米国内のアジア系アメリカ人のことにばかり一生懸命で、なんだか視野が狭い感じがした。しかし、この半年ほどの米国滞在は、今日の舞台芸術の枠組みをめぐる問題に取り組む大きなきっかけになった。

ニューヨークに行く前に知っていたパフォーマンス・スタディーズといえば、リチャード・シェクナーくらいだった。シェクナーはACCの支援も得て、日本や中国からパプアニューギニアまでアジア中をリサーチし、それが「演劇」にとらわれない「パフォーマンス」一般についての新たな学問分野を切り拓くきっかけの一つになった。ニューヨーク大学でシェクナーの最後のセミナーに参加できたことは、本当に得がたい経験だった。だが、そのニューヨーク大学でも、シェクナー的な視野でパフォーマンス・スタディーズに取り組んでいる研究者はいなかった。

一昨日の内野先生の話で、1980年代のニューヨークでの経験とドワイト・コンカーグッドの話を聞いて、なるほど、と思った。1986年に内野先生がニューヨーク大学にいらした時には、「自己省察性(reflexivity)」がキーワードだったという。要は「自分のことを省みろ」「他人の話をする前に、自分がどの立場から言っているのかよく考えておけ」ということらしい。

「未開の地」がなくなっていき、ポストコロニアリズムを経過して、パフォーマンス・スタディーズの重要な基盤の一つだった文化人類学は大きく変容していく。そこで出てきたのが、シカゴのノースウェスタン大学でパフォーマンス・スタディーズを教えていたドワイト・コンカーグッド(Dwight Conquergood)だった。コンカーグッドはタイのモン族のヒーラーを対象にフィールドワークをしたのがきっかけで、モン族難民の権利の擁護にアクティヴィスト的に関わっていく。そして地元シカゴの問題に取り組むため、移民貧困層が多いリトル・ベイルートに住み込み、ギャングたちの相談に乗りながらリサーチを進めていく。コンカーグッドは55歳で亡くなるまでそこで暮らしていたという。いわば自分をむりやり地元のギャングたちの問題の当事者にしてしまったわけである。

これがパフォーマンス・スタディーズのその後の流れに大きな影響を与えることになる。私がノースウェスタン大学のパフォーマンス・スタディーズ科で話を聞いた時にも、今の学生のフィールドワーク先の多くはマクドナルドのアルバイトや地元の会社の新人研修で、タイやパプアニューギニアに行くような学生はほとんどいないとのことだった。ベトナム戦争、イラク戦争を経て、米国が内向きになっていったことも関係しているのだろう。米国滞在中、ちょうどトランプ政権の成立もあり、「世界」のことよりも足下の問題を見つめろ、という風潮を強く感じた。世界中のあらゆる地域からの移民がいる米国にいると、あたかもそこで「世界」が見えるような気がしてしまうこともあるのかもしれない。

この流れが今の東京の小劇場演劇にもつながっている、という話をするはずだったようだが、一昨日は少し触れただけで終わってしまった。しかし1980年代のニューヨークでキーワードだった「自己省察性(reflexivity)」という問題意識が、今の「当事者性」をめぐる問題につながっているのは間違いないだろう。1990年代以降の「現代口語演劇」も、「自分の足下のリアリティーを大事にする」という意味ではつながっている。現代口語演劇的なものへの共感と違和感、太陽劇団的なものへの共感と違和感がどこから自分に流れ込んできていたのか、少し見えてきた。

翻って自分の研究のことを考えると、「自分の問題」から出発しつつも、良くも悪しくも、これまではヨーロッパ的な普遍主義・客観主義のなかでやっていかざるを得なかったのだと思う。歌と踊りを排除した「近代劇」なるものがなぜヨーロッパで生まれ、そこで作られた基準がアジアにおいていかに身体性を抑圧してきたのか、ということを見つめることで、「近代劇後」「ヨーロッパ後」の舞台芸術のために何をすべきかを考えてきたつもりだが、話を大きくすればするほど、遠い地域の話、昔の話をすればするほど「当事者性」が薄くなっていくところはある。

だが舞台芸術の国際事業に関わっている立場からすると、この枠組みの問題はまさに当事者性をもった問題でもある。それに関わってこられたのは幸運なことだと、今にして思う。

今は足下を見つめなおす時期だと思いつつも、足下だけを見ていると見えないこともある。もう少し遠くのほうも見ておきたい。

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ウイルスと「世界」 2020年4月4日

胎盤の仕組みはウイルスに由来するという。母親にとって、胎児は自己の一部でもあり、他者でもある。ウイルスは自己と他者の境界を揺らがせる。それが、私たちには怖いのだろう。

私たちは「自己」によって守られ、国境によって守られている。自己があり、他者があり、他者のそれぞれが自己でもある世界。そしてそれらがひとまとまりになって「国」をなし、「自国」と「他国」が区別され、それぞれが他国に対して自国を守っているような世界。私たちはそんな「世界」に生きている、と思い込んでいる。

「ふじのくに⇄せかい演劇祭」の「せかい」という言葉には、「国際」ではない、という含意がある。国と国のつきあいではなく、「ふじのくに」という目に見える共同体が、直接に世界と交流するような場をつくりたい、という思いがある。

でも、もしかしたらそろそろ「世界」の方も疑ってみたほうがいいのかもしれない。より正確にいえば、「世界」というものをどのようにイメージすべきか、考えなおした方がいいのかもしれない。

DNAによる二重らせん構造には、コピーの誤りが起きたときに修正する機能がある。一方、コロナウイルスのRNAは一本鎖なので、「自己」の同一性が安定せず、とめどなく変異していく。とはいえ、DNAの二重らせん構造も、少し長めの時間でみれば、やはり変異していく。「自己保存」という原則がある世界とない世界、自他の区別がある世界とない世界は地続きなのかもしれないと想像してみること。「自己」と「世界」が地続きであることを想像してみること。「まつり」はそんなための場でもあった。

隔離の日々は境界を強化していくように見えるが、壁を高くするだけで「自己」を守ることはできない。隔離の日々が明けるのは、「自己」と「他者」の境界が少し変わったときだろう。

ウイルスは宿主を破壊すると、宿主を失ってしまう。そして宿主を変え、変異をつづけていくうちに、いつか、宿主と共生するすべを見いだす。そのあいだに、宿主自身も変わっていくことがある。ヒトのDNA配列のなかには、RNAウイルス由来とみられる配列が多く存在していて、ウイルスがヒトの進化に大きく貢献しているという。宿主がワクチンを開発することもまた、ウイルス側から見れば、そんな共生のプロセスの一つかもしれない。

…などと言ってはみても、私たち宿主の短い人生のなかでは、破壊的なウイルスとはなるべく共生しないのが一番ですので、まずは何卒ご自愛ください。

隔離の日々が一刻も早く明けることを、そして、そのときには「世界」を隔てる境界が少しちがって見えていることを祈りつつ。

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「舞台芸術」のフレームワーク問題について ~2030年代に向けて~ 2018年7月24日

「舞台芸術」のフレームワーク問題について ~2030年代に向けて~

(ON-PAM政策提言調査室での国際交流をめぐる議論のためのメモ)

「舞台芸術」のフレームワーク問題、というのは、たとえば22世紀に、今私たちがやっていることが語られる枠組みは何なのだろうか、といった問題です。それは「演劇史」ではないかも知れないし、もしかすると「舞台芸術史」でもないかも知れません。

というと、ずいぶん先のことだと思うかも知れませんが、私はこれから2030年代までが、この先どんなフレームワークが世界的なものになっていくかを決定づける重要な時期だと考えています。

「演劇」という概念にそろそろ賞味期限が来ているのではないか、と思っている人は少なくないと思います。今我々が使っている演劇という概念は、基本的には明治時代に西洋のtheatre/Theater/théâtre・・・といった概念の輸入語として使われるようになったものであり、そのもとをたどれば、16世紀から19世紀に西ヨーロッパで形成されてきた概念です。

西ヨーロッパの近代において、演劇theatre、ダンスdance、オペラoperaという3つのジャンルが、それを上演する仕組みと、そのための人材養成の仕組みとともに、制度として形成されてきました。この西欧近代における演劇の定義は、ジャンル規定は、歌と踊りの排除を基準としている以上、他の地域、他の時代の舞台芸術には必ずしも当てはまりません。この話劇としての近代演劇の起源として、いわゆる「演劇史theatre history」なるものが書かれるようになり、そこに古代ギリシアにあったtragoidia, comoidiaといったジャンル(これらのジャンルはtheatronと呼ばれてはいませんでした)や16世紀以前のpassionmystère(「受難劇」、「聖史劇」などと訳されます)といったものが、改めてtheatreとして語られるようになりました。

そして20世紀の後半になって、ようやくこの演劇やダンスといった分類、制度そのものを見直そうという動きが出てくる中で、今我々が語っている「舞台芸術英:performing arts / 仏:arts du spectacle」という言葉が使われるようになってきたわけです。でもこの言葉も、本当に適切な、あるいは有効な言葉なのかどうかは、もう数十年吟味してみる必要があるでしょう。

そもそも、この言葉に対応する西洋語については、英語とフランス語で、だいぶ語義が違っています(他の西洋語についてはよく知りませんが)。

英語の方には、とりわけ1970年代以降にはパフォーマンス・スタディーズ(パフォーマンス学)の影響があります。そして、この「パフォーマンスperformance」という概念は、「舞台芸術」という概念に代わり得る概念でもあります。

1980年代以降、演劇やダンスといった概念自体を見直そうという動きの中で、少なくとも西洋において、この2つの概念は、いわば競合関係にありました。

この2つの概念の大きな違いは、舞台芸術という概念は近代西欧において形成された「芸術art」という概念、そしてその芸術のうちの「ジャンル」という概念(そしてモダニズムにおけるジャンルの固有性・純粋性という概念)をある程度温存する志向を持っているのに対して、リチャード・シェクナーが提唱した「パフォーマンス」という概念は、むしろそれを解体する志向を持っていました。

ヨーロッパにおいては、「舞台芸術」に対応するarts du spectacleといった言葉が、オペラ・演劇・ダンスだけでなく、サーカスやストリートアートまでを含むものとして使われるようになり、さらに各ジャンルが拡張されて、また「複合領域的なもの」をも包含しうるものとして使われるようになりました。「パフォーマンス」という概念が非英語圏ヨーロッパにおいて普及しなかった理由としては、近代的「舞台芸術」各ジャンルが制度として強固に確立していたことだけでなく、performanceという言葉が英語特有のもので、他の西洋語に対応する言葉が見出しにくいという事情もありました。ヨーロッパで「タンツテアター」や「ポストドラマ演劇」のような言葉が流行したのには、ヨーロッパにおいては既存の「ダンス」「演劇」といったジャンルを拡張する方が(少なくとも短期的には)現実的だからでもあります。

ですが、個人的には、「舞台芸術arts du spectacle」よりもシェクナーがアジアやアフリカなどその他の地域の実践、さらにはスポーツや政治、日常生活における「パフォーマンス」にまで目を向けたうえで作り上げた「パフォーマンス」という概念のほうが、長い目で見れば有効性があるように思っています(そう思って、一昨年シェクナーの授業を受けにアメリカに行ったのでした)。

でも、この概念がアメリカにおいてすら十分に制度的に普及しなかった理由の一つは、ニューヨーク大学にパフォーマンス・スタディーズ科ができた1980年以降、アメリカがむしろ内向的になっていってしまい、60年代~70年代の第三世界主義的動きが退潮していった事があります。結果として、アメリカにおいても、「パフォーマンス」という言葉の便利さを生かしつつも、旧来の制度を解体することなく活用できる「パフォーミング・アーツperforming arts」と言う概念の方が、より実践的とみなされて使われるようになっていきました。

では「パフォーマンス」の方にはもう未来がないのかというと、そんなこともなさそうです。シェクナーに学んだWilliam Huizhu Sunは中国に戻り、上海戯劇学院でパフォーマンススタディーズを教え、他の大学にも広がりつつあります。パフォーマンススタディーズは中国語で「表演学」あるいは「人類表演学」と訳されています。この「表演」という表現は、中国語圏ではperformanceの訳語として普及していて、「表演芸術中心(performing arts center)」といった劇場名も見られます。

日本語では、近年芸団協が「実演芸術」という言葉を使っていて、文化行政においてはときどき微妙な選択になっていますね。ここでは「音楽」を含むか否かも問題になっています。

今私たちが行っていることが、一〇〇年後の22世紀にどのような概念、どのような枠組みで記述されるようになるのかは、今から2030年代にかけて、中国・インド・インドネシアにおいてどの言葉が使われるようになるのかにもかかっています。たとえば、テアトル・ガラシのUgoran Prasadは今、劇作家レンドラを中心に語られてきたインドネシア「演劇史theatre history」を、コンテンポラリーダンスの「振付家」と見なされているサルドノ・クスモを中心に書き直そうとしています。これはtheatre/Teaterという概念をインドネシアの実践に適合させていく動きと考えられます。22世紀に使われる概念は、英語やフランス語を基準にした言葉ではなく、「戯劇」や「戯曲」といった中国語の概念が基準になる可能性もあります。この際、もちろん歌舞伎・能・狂言・文楽を「演劇」という語で語ることで独自の「演劇」概念を形成してきた明治以来の日本の経験も一定の役割を果たしうると思いますが、今はこれを世界の他の地域の人々と議論し、共有する機会があまり持てていないように思われます。

今から2030年代にかけての決定的な時期に、私たち日本語話者が、世界の「舞台芸術界」の新たな枠組み形成において役割を果たせるか否かは、ここでの議論にもかかっているのだと思います。

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アジア演劇を「世界演劇」に接続することの困難について 2017年4月4日

  1. 3. 12 (日)   第八回D/J(Dramaturg/Japan)カフェ議事録 (記録:岸本佳子さん/横山加筆)

 

アジア演劇を「世界演劇」に接続することの困難について

 

SPAC-静岡県舞台芸術センターの仕事では、創作に関わることは多くない。クロード・レジ、ダニエル・ジャンヌトーなどフランスの演出家と一緒に仕事をすることはあったが。主に海外招聘、とりわけふじのくに⇄せかい演劇祭のプログラムを組む、という仕事をしている。そのなかで、ここ数年抱えていた疑問があったので、ACC(Asian Cultural Council)に応募して、2016年9月〜2017年2月までニューヨークに滞在して、リサーチをしていた。その疑問というのは、アジアの作品をプログラムに入れるのはなぜ難しいのか、ということ。

 

・なぜニューヨークか アジア演劇とパフォーマンス・スタディーズ

 

どうしてニューヨークに行きたかったのか。たとえばシンガポール国際芸術祭の芸術監督をしている演出家のオン・ケンセンと話していて、「ニューヨークのユダヤ人からバリ島の演劇のことを教えてもらったんだ」という話を聞いたことがあった。シンガポールからバリ島はすぐ近くなのに、なんでわざわざニューヨークを経由しなければいけなかったのか。

 

オン・ケンセンは1993年〜1994年にACCのグラントを獲得して、NYU(ニューヨーク大学)パフォーマンス・スタディーズ科修士課程に在籍し、リチャード・シェクナーからバリ島の演劇のことなどを学んだ。この当時、アジアの舞台芸術について学べるところは他にあまりなかったということだろう。マニラのCCP(Cultural Center of the Philippines)の芸術監督クリス・ミリヤード(Chris Milliado)にお目にかかったときにも、その1年後か2年後に、もACCのグラントでNYUのパフォーマンス・スタディーズ科に留学した、という話を聞いた。

 

つまり、東南アジアの重要な演劇人はNYで勉強しているんだ、と思った。フランスに留学していたが、東南アジアの演劇人にはほとんど会ったことがなかった。

 

たしかに、ヨーロッパで演劇学を学んでも、アジアの演劇の文脈には必ずしも結びつかない。ヨーロッパで作られた「演劇」という概念自体が、必ずしもアジアに当てはまらない。

 

NYUのパフォーマンス・スタディーズ科を立ち上げたリチャード・シェクナーは演出家でもあって、ウースター・グループの前身であるパフォーマンス・グループを主宰していた。シェクナー自身が、ACC財団ができた初期の頃にグラントを取ってアジアに行っていた。

 

シェクナーによれば、ACCを作ったジョン・D・ロックフェラー三世が “ディオニュソス69” (1968年)を観て、シェクナーに「アジアに行きたいか?」と聞いてきた。行きたいです、と答えたら、来年以降、どこでも好きな所に行ってください、と。それで1970年以降、インド、 スリランカ、インドネシア、中国、台湾、日本など、何年かかけて回った。それが一つのきっかけとなって、ヨーロッパだけでなくアジアやアフリカも含め、そしていわゆる演劇だけでなく儀礼やスポーツ、日常生活のルールまでも含めて、それまでの「演劇」の枠組みを拡張する試みを“Performance Studies”として立ち上げた。

 

ヨーロッパ人とアメリカ人の「歴史的自己認識」の違い

  • フランスでは、自分のルーツを遡るとギリシアやローマ人に行き着くと、なんとなく思い込んでいるところがある。地理的にも遠くない。一方アメリカ人はギリシアやローマにそこまで親近性を感じてはいない。アメリカから見れば、アテネやローマも、東京や北京と似たようなものではないか。

 

→ ヨーロッパではあまり「アジア人」が演劇界で活躍している感じはなかった。でも、ニューヨークではそうではないのでは?と思っていた。行って見たら、そうでもなかった。

 

・西洋演劇を基準にした「世界演劇」にアジア演劇を接続するのはなぜ困難なのか?

 

<レジュメHow to integrate the Asian theatre to the “World Theatre”?を参照>

 

それが困難なのは、そもそも西洋演劇自体に、アジアをアンチモデルとして成立してきた、という事情があるからではないか。

 

・近代演技論の成立と弁論術

 

  1. 歌と踊りのない演劇形態が確立したのはいつ頃か?
  2. フランスではフランスオペラを確立したジャン=バティスト・リュリの音楽アカデミーが1672年に音楽上演の独占勅許を獲得。一定以上の音楽を使ったパフォーマンスはリュリの許可なくして上演できなくなる。それまでは音楽劇が盛んに上演されていて、台詞中心の劇よりもその方がお客さんが入っていた。モリエールやコルネイユもそれにかかわっていた。だがこれによって、いわゆる「古典劇」の作家たちは、台詞劇に専念せざるを得なくなってしまう。

 

『演技論』が書かれ始めたのはこの少し後の時代から。

→ 演技論研究はごく最近発展してきた。2001年にサビーヌ・シャウーシュの『演技論七篇 雄弁術から演技論へ』(Sabine Chaouche (éd.), SEPT TRAITES SUR LE JEU DU COMEDIEN ET AUTRES TEXTES. De l’action oratoire à l’art dramatique (1657-1750), Honoré Champion, collection Sources classiques, 2001)という本が出て、これで国立図書館に行かないと読めなかった17世紀〜18世紀の演技論に関する本が自宅でも読めるようになった(すごく高いけど)。

 

  1. 16世紀〜18世紀のヨーロッパの中等教育(コレギウムでの教育)で、最も重要な科目だったのは?
  2. Rhetorica、弁論術(「修辞学」とも訳される)が最も重要な科目だった。

 

  1. 当時のコレギウムで一番読まれていた作家は?
  2. キケロ。古代ローマの政治家・弁護士(「雄弁家orator」)で、弁論術の理論家でもあった。言葉によって人を動かす術としての弁論術。当時の教育は基本的にラテン語なので、ラテン語でそのまま読んでいた。

 

この時代のフランスの教育では、毎日のようにキケロなどが書いた古代ローマ弁論術の本を読まされていた。

その中に、歌ったり踊ったりしてはダメ、と書いてある。議会とか裁判所とかでどうやって演説するか、という話なので、ある意味当たり前なんだけど。

 

当時の俳優論、演技論は、実はローマ弁論術をほとんどコピペしている。たとえばモリエールはもともと弁護士になるはずだったが、俳優兼劇作家になってしまう。そういう人、つまり教育を受けた俳優というのが出てきたから、ローマ弁論術をベースにした演技論が発生してきた。

 

でも不思議なのは、近代の俳優が、古代ローマの俳優ではなく、古代ローマの弁論家をモデルにしたこと。

 

たとえば、ジャン・ポワソンという18世紀フランスの俳優は、『公開の場で話す術についての考察』(Jean Poisson, Réflexions sur l’art de parler en public, 1717 (Chaouche, p. 407))という本で、クインティリアヌス『弁論家の教育』(Quintilian, Institutio oratoria, I, 11, 3)のこんな一節を引用している。

 

「身ぶりは舞台俳優から遠ざかるようにすること(Gestus aberit a scenico)」

 

この1文は、本来は弁論家=政治家や弁護士になろうとする人に向けて書かれたもの。だけど、ここではそれが俳優にも適用されるかのように引用されている。つまり、近代俳優は古代ローマの俳優のように過剰な身ぶりをしてはならない、ということになる。

=古代の弁論家が近代の演技術のモデル

 

・人文主義教育と俳優の社会的地位

 

「自由学芸Liberal Arts」とは何か?

「自由人」のための技術。

自由人=奴隷ではない人。

古代ローマにおいては自由人のトップが弁論家、政治家。もっとも自由ではない人間の一つが俳優。俳優の身分は多くの場合、奴隷や解放奴隷だった。古代ローマでは俳優には市民権がなかった。騎士でも、舞台に立ったら騎士の身分を剥奪された。

古代ローマにおいて、俳優と売春婦は同じカテゴリーだった。

「自分の身体を他人の快楽のために提供する人」というカテゴリー

 

こういう事情が背景にあって、弁論家をモデルにする、ということになった

 

近代になって、演劇をもう少し、貴族などにも見せられるものにしよう、となった時に、俳優という職業の社会的地位を多少引き上げなければ、という話にもなってくる。

俳優=身体ではなく、俳優=言葉だ、という転換。

実際革命前のフランスでは、俳優にはほぼ市民権がなかった。

 

「人文学Human Science / Humanities」とは何か?

人文主義教育(éducation humaniste)の中で、教育を受けた俳優が出てくる。ここでいうhumain (human)というのも、「(奴隷ではない)人間、自由人」という意味。キケロがいう「人間的教養(人文学)Humanitas (Humanities)」というのは、自由学芸と同様に、「自由人であるために学んでおくべきこと」。つまり、教育を受けた俳優とは、奴隷ではない俳優。

 

なぜフランスだったのか?

フランスでは17世紀くらいから、モリエールみたいに、教育を受けた俳優、というのが出てくる。とりわけフランスで弁論術の影響が強かったのは、16世紀のパリのコレギウムで、「パリ方式modus parisiensis」と呼ばれる人文主義教育のシステムが確立されたから。ルネサンスを経て、古代ギリシア・ローマの学問を復活させようとしたのが人文主義教育。実際には、ギリシア語ができる人は少なくて、ラテン語が共通語なので、古代ローマの学問、なかでもローマ人にとって一番大事だった弁論術が重要になっていく。

 

フランスでは一七世紀終わりくらいから、演技術のことをdéclamationと呼ぶようになった。日本語では「朗誦法」などと訳されたりするが、これは「言葉を語るのが演技」という発想から。

実はこの言葉のもとになったラテン語declamatioは「虚構の設定にもとづいたスピーチ(弁論)」という意味。

学校教育の中などで、弁論の演習として、今実際に起きていることではなくて、たとえばトロイア戦争とかをもとにスピーチをしてみること。

 

当時の高等教育の中では、このデクラマティオが最終地点、最後に学ぶことだった。当時の演劇人が「デクラマティオを学んだ」というのは、コレギウムでちゃんと最終課程まで勉強した、というくらいの意味でもある。

 

このデクラマティオの枠組みで、学生にローマ喜劇や、ラテン語で書かれた喜劇・悲劇を上演させたりもした。ローマ喜劇は「活きた(会話に適した)ラテン語」を学べる数少ない教材でもあった。

 

だから、フランスの近代俳優は、新たな演技術、近代演技術のことを「デクラマシヨン」という妙な言葉で呼ぶようになった。(当時のエリートにとって最も重要な学問である)弁論術教育を受けた俳優の演技、というくらいの意味。「本当は弁護士とかにもなれたけど、あえて俳優になったんだ」というようなアピールでもある。

 

・なぜ西洋近代劇にとってアジアはアンチモデルとなったのか?

 

キケロの弁論術書などで、「アジアの弁論家は歌うように話す」という逸話がある。これを近代弁論術では「アジア風(asianismus)」などと呼んだりする。

 

なぜアジア人は歌う(ということになっている)のか?

まずはイメージとして。

ギリシア悲劇で一番盛り上がるのは、ペルシャ人、トロイア人、といった「アジア」の女性が泣きながら歌うところ(cf. マダム・バタフライ、ミス・サイゴン etc)。

アジア人が最終的にはギリシア人に負けてしまうのは、真の言語、論理的言語(ロゴス)をマスターしていないから。

戦争に負けた結果、アジア人は奴隷となって、自らの境遇を嘆く。奴隷というのは、自分で自分の人生を導く能力がないために、自らの身体を他人に提供することで活かされている存在。ロゴスをマスターした者が、そうでない者を支配し、導く責任を負っている、というのが奴隷制の理屈。

 

キケロが語っているのは、アジア(小アジア、今のトルコ)の弁論家は、悲劇俳優が歌うような口調で嘆き、お涙頂戴の弁論で説得しようとする、というような話。このときにキケロが思い浮かべているのは、セネカの『トロイアの女』(『弁論家』27, 57)。

 

アジアの弁論家が歌で人を説得しようとするのは、アジア人はロゴスをマスターしていないから、ということ。つまり、歌と踊りのないヨーロッパの近代演劇は、このような「アジア人=奴隷(≒古代ローマの俳優)」を、いわばアンチモデルとして成立してきた。

 

こんな文脈を知ってみると、アジアの舞台芸術をヨーロッパ演劇史に接続することの難しさが見えてくる。西洋思想史のなかで、歌い踊る身体は、往々にして奴隷的身体とみられてきた。歌や踊りの訓練をすることは、他人の快楽に奉仕するために身体を変形させることと見なされた。一方、戦闘のための訓練は「自由人」にふさわしいものと見なされた。

 

19世紀以降、西洋演劇はアジア演劇の影響を受け、それが20世紀の「演出家の時代」にも影響を与えているとも言われるが、アジア的要素をスパイス以上のものとして使っている西洋の演劇を探すのは困難かも。フロランス・デュポンの『アリストテレス、西洋演劇のヴァンパイア』(Florence Dupont, Aristote ou le vampire du théâtre occidental, Paris, Aubier, 2007)によれば、いわゆる「演出の演劇」も、結局のところ演出さえもテクストと見なすようになったに過ぎないという。つまり、よく言われる「身体性」というのも、往々にして結局のところテクスト概念の拡張に過ぎないかも知れないということ。

 

Cf. 小山内薫による新劇の創出

その頃は、俳優といえば歌舞伎俳優。稽古場で小山内薫が「歌うな、話せ」「踊るな、動け」と叫んだという逸話。日本人も頑張って、歌わない、踊らない演劇をしようとすることで、演劇を「近代化」しようとしてきた。

 

果たして我々は「身体性」というものに、ふたたび正当な価値を与えうるのか?この問題は演劇において「アジア的なもの」とどう付き合っていくのか、という問題ともかかわってくる。

 

世界経済の重心が欧米からアジアに移行する時代が数十年以内に来るらしい。2030年くらいという話もある。だとすると、あと十数年。舞台芸術に関する価値観については、まだその準備ができていない。「アジア」という(西洋の視点から作られた)枠組みを実体化するのもよくないだろうが、少なくとも欧米中心ではない価値観や枠組みを、今からおおいそぎで作っていく必要があるのでは。

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1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(8) 卓越性から多様性へ 2017年3月24日

2.米国における実験的演劇の製作状況(承前)

2.6.卓越性から多様性へ

1960年代後半から1970年代にかけて、米国がベトナム戦争から撤退していく時代に、卓越性から多様性へ、そして国際的地位の確立から国内問題への対処へと、米国の文化政策の目的がラディカルに転換していった。ここで「文化政策」というのは、とりわけ米国の場合、連邦政府による施策だけを指すのではない。州や地方自治体、そしてそれらによって設置された公的財団の役割も大きいし、それ以上に民間の非営利財団が主導する部分が大きい。

この転換を象徴的に示すのが、マクジョージ・バンディのケースだった。若くして頭角を現した政治学者バンディは、ケネディによって国家安全保障担当の大統領補佐官に指名され、ベトナム戦争の政策責任者となった。ところが戦線は泥沼化し、ケネディは暗殺される。バンディは共和党と民主党双方からの批判の的となって、1966年に辞任。フォード財団の事務局長に転身した。

国内ではベトナム戦争と並行して、公民権運動が盛り上がりを見せていた。ジョンソン大統領は人種差別の撤廃を目指した公民権法を1964年に成立させ、さらに選挙権登録における差別をなくす投票権法に1965年8月6日に署名。だが直後の8月11日からカリフォルニア州ワッツ市で負傷者1000人以上に及ぶ大規模な人種暴動が発生する。実質的な人種差別の解消が進まないのを見て、バンディは黒人アーティストや黒人ゲットーにおける文化活動の支援を財団の中核事業にしようと考えた。

はじめは多様性と卓越性を両立させようとし、「卓越した」黒人アーティストの支援を中心にしようとしていた。だがゲットーへの対応が社会的優先課題として浮上していくなかで、卓越性よりも多様性を重視する方向に大きく舵を切っていく。つまり、「卓越性から多様性へ」という方向転換は、ベトナム戦争からゲットーへ、という政治的優先課題の移行を背景としているのである。やはりフォード財団が重視したリージョナル・シアターの支援も、スラム化した都市中心部の再活性化という社会的課題と大きく関わっている。

バンディはそれまで支援していた国際事業や著名大学、著名芸術機関への支援を打ち切ってまで「多様性」を重視しようとしたため、「卓越性」を擁護しようとしたヘンリー・フォード二世をはじめ、何人もの財団理事が辞任した。それでもバンディは、1980年に辞職するまで、「まだ機会の平等は実現されていない」として、黒人、ヒスパニック、アジア系、ネイティヴアメリカンなどの「多様な」文化活動を重点的に支援しつづけた。ロックフェラー兄弟基金、ロックフェラー財団、カーネギー財団、メロン財団なども、1960年代後半から70年代にかけて同様の方針転換を行い、80年代以降はこれが中核事業となったケースが少なくない(マルテル『超大国アメリカの文化力』p. 512-518)。

これ以降、「文化の多様性」はあらゆる分野で目標とされるようになる。このもう一つの背景となったのは、1965年に採択された移民改革法だった。米国はヨーロッパ系の優遇をやめて出身国別の割り当てを撤廃し、あらゆる地域の出身者に門戸を開くこととなる。これによって、それまで減少傾向にあった移民の流入が急増していく。これによってヒスパニック系、アジア系、そしてアフリカ諸国出身の黒人が、70年代から80年代にかけて、徐々に存在感を増していったのである。

(つづく)

1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(8) 卓越性から多様性へ へのコメントはまだありません
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1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(7) ベトナム戦争と表現の自由

2.米国における実験的演劇の製作状況(承前)

2.5.ベトナム戦争と表現の自由

米国で連邦政府が文化に予算をつけていくようになるのはベトナム戦争の時代だった。民主党のケネディ政権下で全米芸術基金のもとになるアイディアが提出され、ケネディ暗殺後にジョンソンがそれを議会に通して基金を創立させ、最後に共和党のニクソンが予算を倍増させた。(三人とも、先鋭的な芸術にはほとんど興味がなかったにもかかわらず。)

ベトナムをめぐる「自由な芸術表現」をいかに扱うか、というのは、この時代の米国の指導者たちにとって、かなり頭の痛い問題だった。1965年、全米芸術基金発足の年に行われた「ホワイトハウス芸術祭」は、抽象表現主義の代表的なアーティストの作品が展示されただけでなく、アーサー・ミラーやテネシー・ウィリアムズの作品の抜粋が上演され、他分野の先鋭的な芸術が一同に会する大規模なものだった。だが、招待を受けた国民的詩人ロバート・オーウェルによる「ベトナム戦争への抗議のために参加しない」という表明が『ニューヨーク・タイムズ』紙の一面を飾り、芸術祭自体も強烈な抗議行動の場となった。ジョンソン大統領は「芸術家の独立性を歓迎する」と言いながらも、「みなさんの芸術は、政治のための武器ではありません」と付け加えずにはいられなかった。この年、アーサー・ミラーも同じ理由で「全米芸術人文財団」創設の式典への招待を拒否している。(マルテル『超大国アメリカの文化力』p. 88~98)

全米芸術基金は結果的にベトナム戦争反対を唱えるアーティストたちにも助成金を支給したりしていて、国内的には批判もあった。だが少なくとも、「自由主義陣営の文化的優越性」を示す、という政策意図はそれなりに実現されていた。

どちらが利用し、どちらが利用されたのか、という議論はあまり有益ではないだろう。影響力の大小があるとはいえ、どちらも同じ共同体の成員であり、むしろ「異論(=評価の定まっていない「前衛」)もまた共同体にとって有益である」ということを、共同体のうちの一定の層が覚悟をもって受け入れたということが重要ではないか。そしてこのことの価値は、ベトナム撤退後にいよいよ実感されたことだろう。戦時中にもかかわらず、アーティストたちが異なる声を発しつづけられる環境を保持したことで、この時代の米国が「表現の自由」についての重要な模範を提示したことは間違いない(もちろん例外もあったが)。米国はベトナム戦争には敗北したが、「共産主義陣営」との文化戦争にはある意味で勝利したといってもよいのかも知れない。

(つづく)

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1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(6) フィランソロピーと「芸術の自由」 2017年3月22日

2.米国における実験的演劇の製作状況

(承前)

2.4.フィランソロピーと「芸術の自由」

「全米芸術人文財団」傘下にできた「全米芸術基金(NEA, National Endowment for the Arts)」の仕組みは、日本やフランスから見ると、かなり不思議なものだ。ジョンソン大統領はこの組織の設立を推進しながらも、芸術はフィランソロピーと裕福な寄付者に任せねばならず、公的支援に関しては連邦政府よりもまず州や市町村に頼らなければならない、と考えていた。そのため、ここでは「マッチング・ファンド」というルールが採用されている。「ある文化団体が公的助成を受けるためには、他の財源から同額の資金を団体自ら調達することが条件となる。…国の助成金を撒き餌として他の資金を獲得することで、間接的にフィランソロピーを活性化するのである。」これは「芸術や芸術団体が国のみに依存し、国に対して服従し、官僚まがいの存在となる危険を犯すことを避けて、彼らの自由を保障することができる唯一の方法だ、と考えられている。」そして、審査にあたっても国の直接介入を避け、官僚ではなく芸術家と専門家で構成される中立な審査委員会によるものとした。(マルテル『超大国アメリカの文化力』p. 86-92)

つまり全米芸術基金は、独自の「文化政策」を実現するための文化庁/省のようなものでは全くなく、むしろ「民間によるフィランソロピーを活性化する」ことを目的とした組織なのだ。なぜ国家よりも富裕者が作った財団の方を信用するのか。このあたりは「国家」を信頼しがちなフランス人や日本人にはなかなか理解し難いところだろう。アメリカ合衆国は「国家」というものへの徹底した懐疑に基づく逆説的な国家なのである。たとえば銃の個人所有に関する規制への根強い反対も、これが見えないと理解しづらいだろう。ハワード・ファインマンは銃規制の難しさについて、「アメリカの建国者たちは、啓蒙主義思想の一環として「武器を所有する」権利を支持した。一国家の中で複数の権力が存在することによって専制国家になることを防ぐことができるとする思想だ。だから、合衆国憲法修正第2条では、地域ごとの民兵は中央権力に対抗し均衡を維持するために必要であるという旨を述べている」とする。

http://www.huffingtonpost.jp/2015/10/08/why-america-wont-quit-guns_n_8266830.html

ちょっと話が逸れたが、フィランソロピーという思想を理解することは、米国における「前衛芸術」というものの位置を考える際にも重要になる。ゴールドバーグは1961年のメトロポリタン・オペラの労働争議の際、フィランソロピーについて、「芸術はしばしば観客の趣味よりも先を行っていたり、これに対するものであったりし、それゆえにまだ一般に広まってない間は支援を必要とするため」重要なのだ、と語っている(p. 48)。米国では、主に富裕層が前衛的な芸術家を保護する役割を果たしているという現状があり、今後もその役割を果たしつづけてもらいたい、という認識を示しているわけである。ここでは、たとえばジョン・D・ロックフェラー二世夫人アビーらによって創設されたニューヨーク近代美術館(MoMA)などを思い浮かべてもらえばよいだろう。「ゴールドバーグ宣言」に見られるこの認識は、米国における「アヴァンギャルド」とは何か、ということを考える際に、きわめて重要である。

一方、フィランソロピーというのは徹底的に資本主義的な仕組みであり、とりわけアンドリュー・カーネギー(1835-1919)の実践と、その著書『富の福音』(1889)が最大のモデルとなっている。芸術におけるフィランソロピーの発想の基底には、富裕者(=ビジネスにおける成功者)は知者であり賢者である、という了解がある。米国においては富裕者は社会におけるイノベーションを担う人間であり、この意味で、まさに富裕者こそが社会の「前衛」であるとみなされる素地がある。このあたりはカソリック思想をもとに作り上げられた社会には受け入れられにくいものなのかもしれない。

もう少し正確にいえば、「フィランソロピー」という語はそもそも「人間愛」という意味で、必ずしも富裕者が行うものとは限らない。カーネギーも、大きな財産をもたない人々が少しずつ寄付したり、貧しい人々もボランティアとして自分の時間を提供したりすることで「フィランソロピー」に参加する、ということを重視している。さらにいえば、フィランソロピー全体のなかで文化芸術が占める割合はそれほど大きいものではない。米国における非営利組織への寄付の内訳は、36%が教会、13%が学校や大学、8.6%が医療・保健、5.4%が芸術文化だという(p. 335)。ただ、たとえば国家予算と比べると、文化予算の割合が大きいフランスでも1%くらい(日本は0.1%、米国は0.04%くらい)なので、比較的大きな割合ともいえる(もちろんフィランソロピーが担う分野と国家が担う分野が一致するわけではないが)。

そして、とりわけ文化において、フィランソロピーを先導するのが貧しい人々ではなく富裕者であるということは間違いない。寄付文化は米国の多くの階層に根づいていて、1998年には全世帯の70%が何らかの寄付をしたとされる。だが庶民的な階層や中産階級が寄付をするのは主に教会、保健医療、学校といった分野で、芸術に対する寄付の93%は米国人口の4.2%にあたる最富裕層から、そして76%はその最富裕層のわずか1.2%の大富豪から提供されている(p. 379-380)。最富裕層が文化芸術に力を入れるのは、一つには、宣伝効果という面でコストパフォーマンスがいいことだろう。フォード財団で文化事業を担当するマクニール・ラウリーによれば、「フォード財団が六万ドルを文化に寄付すれば、ニューヨーク・タイムズの表紙を飾ることも可能だが、七〇〇〇万ドルを教育支援事業に生じたとしても三七面に乗るだけだ」(p. 342)という。ケネディ以降の政権が徐々に「文化政策」に力を注いでいくのも(もちろん相対的にではあるが)、同じ理由だろう。とりわけ、ほぼゼロからの出発であれば、相対的な予算額は小さいにしても、そのインパクトは大きなものとなる。

では、具体的に誰が先鋭的な芸術にお金を出していたのか。1960年代には、とりわけロックフェラー家とフォード財団の貢献が大きい。まずはロックフェラー家の方から。先代のジョン・D・ロックフェラー・ジュニアの時代には、ロックフェラー財団は「保守色がきわめて強かった。それは強烈な反共産主義と共和党支持(後にはヴェトナム戦争支持)によっても明らかである」(p. 324)。一方、その妻アビーは先述したようにMoMAの創設者の一人だった。

このMoMAが抽象表現主義の普及に果たした役割は、米国におけるフィランソロピーと連邦政府との錯綜した関係を象徴するものでもある。ロスコ、ポロックらの抽象表現主義は、社会主義リアリズムとは対照的な表現で、態勢に迎合しない米国の自由社会の象徴として、1946年から国務省が予算を出して巡回展をはじめていた。ところがマッカーシズムのなかで共和党から、抽象表現主義もヨーロッパのさまざまな「~イズム」に起源をもつもので、共産主義と共謀して米国の倫理的基盤を危うくするものだ、と批判されるようになる。そして展覧会に参加したアーティストのなかに「非米」活動や共産党の活動に関わった人物がいることも明らかになる。その結果、1950年代からは、MoMAが国務省に代わって抽象表現主義を世界に普及させていく役割を果たしていくことになる。1954年にはMoMAがヴェネチア・ビエンナーレのアメリカ館を国務省から買いとり、世界で唯一、政府ではなく民間の施設がここで国を代表することになった。だがこのMoMAの当時の理事長は政界で活躍したネルソン・ロックフェラーで、1960年以来三度にわたって共和党の大統領候補になっており、当時は国務次官だった。MoMAによる国際事業の活動資金はジョン・D・ロックフェラー・ジュニアやネルソンが創設したロックフェラー兄弟基金だけでなく、CIAからも提供されていたことが分かっている(p. 124-133)。つまりこの時代、ロックフェラー家の公私にまたがる文化活動は、冷戦下の自由主義的資本主義陣営において、文字どおり「前衛」の役割を果たしていたのである。

ジョン・D・ロックフェラー・ジュニアの息子である「ジョン・D・ロックフェラー三世は一九五二年に一族の財団の理事長となり、…古典バレエやモダン・ダンス、大学の出版局、交響楽、実験演劇などの分野に向けてロックフェラー財団の舵を大きく切った…。マーサ・グレアムからマース・カニングハム、フィリップ・ロス、フィリップ・グラスにいたるまで、現代アーティストに助成金を支給し、黒人劇作家や前衛的な劇作家にもさまざまな支援をした。しかしながら、ロックフェラー三世が文化の分野にしっかりと軸足を置くことになるのは、個人の資格で、彼個人の財団を通じて(ジョン・D・ロックフェラー三世基金)、後のNEA総裁ナンシー・ハンクスに舞台芸術についての徹底的な調査と報告書の作成を命じ、とりわけ一九五九年にリンカーン・センターを作ったことによってである。」同センターは「ニューヨーク・フィルハーモニックを始めとして、ジョージ・バランシンのニューヨーク・シティバレエ、メトロポリタン・オペラ、ニューヨーク・ステイト・シアターの本拠地となっている。さらに芸術専門の図書館、映画史料館、ジュリアード音楽院、室内楽協会やウィントン・マルサリスのジャズ・オーケストラもある。八〇〇〇人が働き、年間予算は四億五〇〇〇万ドル。毎年三〇〇〇のイベントを行い、四七〇万人の観客を迎える。」(p. 324-325)1950年代末から1960年代にかけてのニューヨークの舞台芸術状況においても、ロックフェラー三世をはじめとするロックフェラー家とその財団がかなり重要な役割を果たしていたのは間違いない。

ちなみに、ここに登場するナンシー・ハンクスも、60年代~70年代の文化政策において中心的な役割を果たしている。ハンクスは1950年代前半からネルソン・ロックフェラーの個人的アシスタントを務め、ジョン・D・ロックフェラーの信頼を得て、1959年から69年にかけてロックフェラー財団における文化芸術部門を担った。1965年に発表されたレポート『舞台芸術 課題と展望』はジョンソン政権において全米芸術基金(NEA)が創設されるきっかけともなった。ネルソン・ロックフェラーは1969年の大統領選の共和党予備選挙でニクソンの対立候補だった。ニクソン政権発足後、NEA新総裁の候補としてジョン・D・ロックフェラー三世の名も挙がったが、本人の辞退によって実現しなかった。ニクソン政権には、元ハーヴァード大学教授でネルソン・ロックフェラーと親しく、ハンクスとともにロックフェラー兄弟基金の調査を担っていたキッシンジャーが加わっており、このキッシンジャーの推挙もあって、ハンクスは1969年にNEA総裁に任命される。ハンクスは1970年から79年にかけて、NEAの予算を840万ドルから1億ドルにまで引き上げることに成功した。にもかかわらず、ハンクスはこのNEAの最も大きな成功は「民間のリーダーシップ、民間のイニシアティヴ、民間の資金の資金を促進したこと」だとしている(p. 145-180)。このハンクスの言葉と来歴を見れば、NEAがいわばフィランソロピーの従属的存在であり、しかもそうでありつづけなければならない、という公式の了解があったことがよく分かる。

また、フォード財団の存在も非常に重要だ。フォード財団はカーネギー財団やロックフェラー財団に比べて後発だったが、芸術のなかでも演劇という分野への助成はそれまであまり行われていなかったことを知り、演劇の支援に力を注いだ。フォード財団は50年代から米国の舞台芸術状況に関する調査を進め、経済的危機を詳細に認識していた。また、助成の仕組みに関する研究開発を進め、「マッチング・ファンド」などの手法を導入。これらは全米芸術基金のモデルともなった。

フォード社の本拠地がデトロイトだったこともあり、フォード財団はとりわけ地域の劇場を重視した。だが一方で、もちろんニューヨークを無視したわけでもなく、例えばラ・ママ実験劇場の最も重要なスポンサーの一つでもある。 これらの財団の提供している資金は、全米芸術基金よりもずっと規模が大きい。

これらは、日本やヨーロッパの基準では「私立財団」ということになるが、多くの場合、創業時には資金を提供した創業者が大きく関わるものの、その後は徐々に専門家集団と新たな理事たちに運営が委ねられ、創業者からは独立していくことで、自立した公益的組織になっていく。この意味では、米国的な基準では「公共の」組織、ということになる。

シェクナーによれば、フォードやロックフェラーはあまり前衛演劇を支援しなかったというが、少なくともシェクナーはアジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)の財団支援を受けて、1970年以降たびたびアジア各国に赴いている。

Cf. Richard Schechner, Ford, Rockefeller, and Theatre, The Tulane Drama Review, Vol. 10, No. 1 (Autumn, 1965), pp. 23-49(まだきちんと読めていませんが・・・)

https://www.jstor.org/stable/1124678

ACCは1963年にジョン・D・ロックフェラー三世によって創立された。日本からは、60年代~80年代に限ると、山崎正和、寺山修司、笈田ヨシ、唐十郎、鈴木忠志などが助成を受けている。

http://www.asianculturalcouncil.org/japan/

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1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(5) 「偉大な社会」のための人文学と芸術 2017年3月21日

2.米国における実験的演劇の製作状況

(承前)

2.3.人文学と芸術

ケネディ政権は議会との対立もあり、「文化政策」を具体的に推進することはできなかったが、ジョンソンはケネディとは対照的に、議会との駆け引きに長けていた。ジョンソンは連邦政府による芸術活動への支援に対して議会の支持を得るために、「芸術」と「人文学/教育」を抱き合わせにする、という戦略を採った。ジョンソン政権のモットーは「偉大な社会(グレイト・ソサイエティ)」。就任直後の大学での演説で、ジョンソンはこう語っている。「「偉大な社会」においては、子供一人ひとりが知識を得て、精神を涵養し、才能を伸ばすことができる。…人間の営みは、身体的な欲求や商売上の必要を満たすためだけでなく、美を求める気持ちに応え、共同体の感覚を養うためにも役立つことになるのだ」。ジョンソンは「貧困に対する闘争」の一環として、教育に力を注いだ。そして大学教育における人文学振興のための全米人文基金と芸術振興のための全米芸術基金を合わせた「全米芸術人文財団」を創設させる法案を議会に提案する。これによって、「芸術」は東海岸だけの問題ではなくなり、全米の大学関係者の協力も得られるようになった。一九六五年、ついにこの法案が可決され、ホッパー、フランク・キャプラ、グレゴリー・ペックらも参列して式典が行われた。(p. 71-88)

・・・というと、非常に大きな支援が生まれたかのようだが、これだけ大がかりに演出したわりには、予算規模はそれほど大きなものではない。初年度の予算はわずか250万ドル。

THE NATIONAL ENDOWMENT FOR THE ARTS: A BRIEF CHRONOLOGY OF FEDERAL SUPPORT FOR THE ARTS

https://www.arts.gov/sites/default/files/NEAChronWeb.pdf

それから半世紀を経て、全米芸術人文財団の予算は格段に大きくなったのだが、それでも昨年の予算では全米人文科学基金と全米芸術基金の二つを合わせても約30億ドルで、連邦予算の0.003%を占めるに過ぎない。トランプが求める「偉大なアメリカ」はジョンソンのものとはだいぶ異なるらしい。彼は今年の予算案で全米芸術基金と全米人文基金の廃止を打ち出しているが、予算規模では軍事費予算の増額分523億ドルとは全く比較にならない(全米芸術基金の予算はトランプタワーの警備費用よりも小さいという)。歴代大統領が、「保守革命」を進めたレーガンですら、全米芸術基金の廃止に踏み切らなかったのは、予算規模以上に、これに手をつけると手強い相手を敵に回すことを知っていたからだ。トランプはアーティストや学者まで「既得権層」と見なし、むしろ象徴的な効果を狙っていると考えるべきだろう。これは対岸の火事と思わない方がよいかも知れない。

トランプ大統領、全米芸術基金や全米人文基金の廃止を連邦政府予算案で提案

http://dorianjesus.cocolog-nifty.com/pyon/2017/03/post-478d.html

(つづく)

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1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(4) 外交戦略としての文化政策 2017年3月20日

1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(4) 外交戦略としての文化政策

(承前)

2.米国における実験的演劇の製作状況

2.2.外交戦略としての文化政策

とはいえ、ケネディもジョンソンも、必ずしも文化を社会の中心に置くべきだと考えて文化政策を立案したわけではない。それに両者とも、「高尚」な、あるいは「前衛的」な芸術が好きだったわけでは全くない。フレデリック・マルテルの『超大国アメリカの文化力』が面白いのは、文化政策というものがいかにほとんどの(とりわけ米国の)政治家にとって優先順位が低いものか、ということを深く認識したうえで(自身が文化官僚として実感したことなのだろう)、それなのになぜ実行されるに至ったのか、という経緯を理解しようとしているところだ。

米国とヨーロッパのちがいを考える上で、まず何よりも重要なのは、文化芸術に対する政府関与の姿勢だろう。大まかには、少なくとも冷戦時代には、旧ソ連から東欧を経てドイツ・フランス・英国・米国と、東から西に行くに従って、舞台芸術に対する国家や地方政府の関与が弱くなっていた。米国では、文化芸術には国家(=連邦政府)は介入すべきではない、という考え方が強固に根づいている。

だが、1960年代には連邦政府の重要な方針転換があった。この時代の米国の「文化政策」をめぐる状況はけっこうややこしいので、誤解のないように、先にむりやり大きな状況を一言でまとめておくと、1960年代は連邦政府の段階的な介入もあって、舞台芸術に対するフィランソロピー、つまり民間の寄付が飛躍的に拡充した時代だった。これは一見矛盾するようだが、実はそうではない。

ケネディ政権があえて「文化政策」と呼ぶべきものに一歩踏み出すことになった理由は、2.1.で見たような国内事情よりも、むしろ外交にあった。ケネディ政権発足から数ヶ月後の1961年4月、ソ連のガガーリンがはじめての有人宇宙飛行を成功させる。当時ソ連は、自国こそ知識人と芸術家の祖国であり、アメリカには愚かなマスカルチャーしかない、と宣伝しつづけていた。それに対抗して米国国務省も、1950年代から様々な分野のアーティストや作家を世界に派遣していた。だが、1957年のスプートニク・ショックにつづき、米国が知的・文化的優越性を確信できない時代がつづく。このためもあり、ケネディは1961年6月の訪仏でフランスの文化大臣アンドレ・マルローと出会い、翌年マルローを米国に招聘する。ケネディはフランスが進める新たな国家的文化政策に注目していたのだ。(マルテル『超大国アメリカの文化力』p. 32-37, 342)

だが一方でケネディは、「公務員と助成制度を備えた文化行政機関を作ることには一貫して反対だった。と言うのも、そのような機関は芸術を制度化し、官僚主義を生み、創造活動のダイナミズムと芸術家の自由に害をもたらすと考えていたからである。」(p. 54)そして何よりも、米国はソ連とは異なる芸術活動のあり方を提示しなければならなかった。ケネディは暗殺の数日前に行われた詩人ロバート・フロストを讃える演説で以下のように語っている。「芸術はプロパガンダの一表現ではないことを忘れてはならない。…自由な社会において芸術は武器ではないし、芸術を論争やイデオロギーの領域に従属させてはならない。…よそでは違うのかもしれないが、民主主義社会においては、芸術家、作家、作曲家の最も大きな義務は自分自身であり続けることである。」(p. 33)ケネディ政権で大統領特別補佐官として文化政策を担ったアーサー・シュレジンガーも、戦後間もなくアメリカ共産党批判を展開したことで知られる自称「反スターリン主義リベラル」の中道左派知識人で、「全体主義的な方法論を採らずに、いかにして全体主義と戦うのか」というのがシュレジンガーにとって重要な政治的テーマの一つだった(p. 25)。この意味で、ケネディ政権においては、フランスのように「国立劇場」をつくってそこを舞台芸術活動の拠点にする、というのは全く問題外だった。(のちの「舞台芸術のためのジョン・F・ケネディ・センター」は必ずしもケネディが構想したものではない。)

ケネディ暗殺によって突如大統領となったジョンソンも、特に文化芸術に興味があったわけではない。ジョンソンは知識人や芸術家が多いボストン育ちのケネディとは異なり、テキサスの農村地帯に生まれ、南部を地盤としていた。ケネディから引き継がれた特別補佐官シュレジンガーはジョンソンに、連邦政府が文化芸術に介入することで「政府と芸術家・知識人コミュニティーとの結びつきを強めることを可能にしますし、このことは(翌年予定されている)大統領選挙の勝敗が、ニューヨーク州、ペンシルバニア州、カリフォルニア州、イリノイ州、ミシガン州で誰が勝利するかにかかっている以上、無視できないことです」と進言した(ちなみに今回全米芸術基金の廃止を提案しているトランプは、民主党の地盤であるニューヨーク州、イリノイ州では敗北したが、ペンシルバニア州、カリフォルニア州、ミシガン州では僅差で勝利している)。ジョンソンは1964年4月、新たな文化補佐官にブロードウェイのプロデューサーとして知られたロジャー・スティーヴンズを指名し、新たな「文化政策」の基軸を示す。同年11月には大統領選に勝利し、就任式にはジャスパー・ジョーンズ、ホッパーなどの画家、アルヴィン・エイリー、マーサ・グレアムなどの振付家が招待された。さらにストラヴィンスキー、アイザック・スターン、ルドルフ・ゼルキン、バランシン、ヌレエフなどロシア系や旧ソ連出身のアーティストを並べて、「自由主義陣営」の卓越性を示そうとした(p. 62-65)。

まとめておけば、この時代に文化芸術が(多少なりとも)重視された主な理由は三つあった。まず第一に、ソ連に対する優越性を示すこと。第二に、「文化芸術」への関心が強い(そして往々にして政権に対して波風を立てがちな)知識人を味方につけること。最後に、ここでは触れなかったが、「文化芸術」というセクターの経済規模が注目されはじめたこと。はじめの二つの背景にはもちろん、ケネディ・ジョンソン両政権が拡大させていったヴェトナム戦争への介入もある。この戦略は次第にジレンマに陥ることにもなるが、その話は追って。

ここで注目しておくべきなのは、ジャスパー・ジョーンズやマーク・ロスコといった抽象表現主義の画家がすでに米国独自の「前衛」を国家的に代表するアイコンとして選択されていたことだろう。一方で、ここでは「卓越性」を示すのが目的なので、勃興しつつある若者文化・マイノリティ文化はほとんど取り上げられていない。むしろ「優れた文化」を庶民へ、という上から下への構図が当然の前提となっている。この構図が、ジョンソン政権で、芸術振興が「教育」の一環として進められていく背景にある。

(つづく)

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