Menu

テネシー・ウィリアムズ『財産没収』と「ヒトの巣」の構成について 2019年1月1日

2018年12月21日 山口茜演出、テネシー・ウィリアムズ作 『財産没収』こまばアゴラ劇場

テネシー・ウィリアムズの短編集は執拗に人間の交換可能性をめぐる問題を扱っているように見える。テクストだけを読んでいると、その面白さに気づけないこともあるが、それが身体をもつと、そこで言われていることとその身体が言わんとしていることとの矛盾が見事に立ち上がっていく。
都市で人の流れを見ていると、人間が社会性動物のように見えることがある。アリやハチのように。アリストテレスの『政治学』によれば、人間は「ポリス的動物」だという。ポリスとは集住の拠点、言ってみれば「人間の巣」のことだ。
だが、人間はアリやハチと異なり、有性生殖でしか生まれてこない。また、同じ二つの個体から生まれた個体でも、多くの場合は遺伝情報に違いがある。この意味で、「ヒトの巣」を構成している個体群は、同じような遺伝情報をもった個体でできているアリやハチの巣の個体群とは異なる。
ではなぜヒトは社会性動物のように見えるのか。それが長年疑問だったが、今夜、なんとなくわかったような気になった瞬間があった。それはもしかすると、ヒトが言語のなかに生まれ落ちるからなのかもしれない。一つの言語を共有する個体群が巣を作っていく。
「演劇」というものは一つのポリス、一つの巣の中で作られるものだと思われがちだが、個人的に近年興味を持っているのは、どちらかというと、境界や極地で生まれる演劇だ。巣と巣の間、巣と巣でない空間の間で生きる身体と言語が作り出す緊張関係。
世界恐慌時の米国南部の人々を描くテネシー・ウィリアムズの作品群には、それがきわめて生々しく描かれていることに気づかされた。

テネシー・ウィリアムズ『財産没収』と「ヒトの巣」の構成について へのコメントはまだありません
カテゴリー: 日本の舞台芸術