二つの時間を重ね合わせる演技体 2026年8月27日
この作品はチリの作家ロベルト・ボラーニョの『アメリカ大陸のナチ文学』や『はるかな星』とロートレアモンの詩『マルドロールの歌』をベースにしている。ラテンアメリカの若い詩人たちが、亡命した旧ナチス党員たちの影響を受け、新たなファシスト的・人種主義的文学を展開し、それが現実にも影響を与え、ピノチェトによるクーデターの最中、男性詩人の一人がミューズ的な双子の女性詩人を殺害してしまう(というのはもちろんボラーニョのフィクションだが)。
ジュリアン・ゴスランはライブ映像の使用や、しばしば数十分にもわたる長い独白を用いられる。今回の作品では、舞台が映画のセットのようになっていて、俳優たちは台詞を言うときだけ役になり、それ以外のときはカメラの視野の外で休憩している(のが観客にも見える)。若い詩人たちが自作を披露するパーティーの場面では、二人のDJがレイヴのように大音量で電子音楽を流しながら、女性詩人が長大な詩を語り、次第に熱狂していく。観客も舞台に上がることができ、ビールを飲みながらレイヴに参加できる。
これが三部構成の第二部で、第三部では別の女性が数十年前にアジェンデ政権下で詩人のサークルのなかで起きた殺人事件の真相と、まだ書かれつづけているナチス的文学作品の著者を探っていく。かつての詩人たちを探り当て、女性詩人の忘れられた詩の断片を口に出すと、詩人たちは狼狽する。観客も、かつて自分も熱狂の渦を体感した詩が、フェミサイドを引き起こしたファシスト的な思潮と結びついていたことを実感し、複雑な気持ちになる。
ここでしばしば使われている演技体は、一六世紀から一七世紀にかけて「レシテréciter」という動詞で語られていた演技体と通じるものがある。この動詞は英語の「リサイタルrecital」と同根で、「引用する」こと、あるいは「書かれたものを読み上げる」ことを意味する。ゴスランは「舞台を見ている間、本を手にしているような感覚」を目指しているという。
「レシテréciter」の演技体は近代のフランス人による古代ローマ文化のいわば積極的誤読によって成立した。ローマ帝政期には「レキターティオーrecitatio」という朗読文化が発展した。文化人が自分の書いた文章を仲間うちで発表するイベントを行い、朗読したり、奴隷に読ませたりして、聞いてもらう。古代ローマでは俳優は奴隷的身分だったので、芝居がかった読み方をするのは奴隷の仕事であり、自由人には恥ずかしい奴隷的な行為とされた。そのため、自由人である文化人は、詩や劇作品であっても、棒読みで淡々と読むのがよいとされた(Emmanuelle Valette-Cagnac, La lecture à Rome)。
「マルドロール」はフランス語の「悪mal」とラテン語の「苦痛dolor」を組み合わせた名前と読むことができる。この「苦痛dolor」は、フロランス・デュポンによれば、ローマ悲劇において、悲劇の主人公が怪物になっていく契機である。ローマの悲劇俳優の見せ場は、怪物となった主人公が「苦痛」を歌い上げる場面だった(Florence Dupont, Les monstres de Sénèque)。
一六世紀のフランスで古代の悲劇・喜劇に倣った演劇なるものを始めたのは、学校でローマ悲劇・喜劇を習い、授業の一環としてラテン語で演じた経験がある知識人たちだった。彼らは「詩人」を自称し、自らの演技をこの「レシテréciter」という動詞で呼んだ。やがてそこから職業俳優になるものが出てきても、この動詞が引き継がれていった。このなかで、自由人的(文化人的)演技体と奴隷的(俳優的)演技体の境界があいまいになっていく。
この動詞を使うことは、演技を「一度書かれたものを、そのとおりに発話する」という行為とみなすことである。これは「その時、その場で思ったかのように発話する」という演技概念とは異なり、発話する主体と発話されるテクストとの間に一定の距離があることを前提としている。二〇世紀フランスの哲学者アンリ・グイエに、『演劇と二つの時間の芸術』Henri Gouhier, Le théâtre et les arts à deux tempsという著作がある。グイエは演劇や音楽の上演において、劇作家・作曲家・作詞家が書いたときの時間と上演の時間が隔たりを保ちながら重なり合うという現象に注目している。「レシテ」はこの二つの時間性を前提とする演技体と言ってもよい。
人は自らが読むテクストに距離を取ったり、それに影響されたり、熱狂したりする。テクストの発話者が別にいる場合には、その受容の仕方にはいよいよ多様なあり方がありうる。淡々とした発話に熱狂したり、熱狂した発話に冷めてしまったり。この演技体を取り戻すことは、時間の複層性と受容の多様性を前提とした豊かな文化を取り戻すことにもなりうる。
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字幕と演劇の二回性 2025年12月25日
聴覚障害者のために日本語字幕をつけた舞台が増えている。それがドラマ的演劇から非ドラマ的演劇への回帰と並行しているようにも感じられる。
ドラマ的演劇にとって、字幕はかなり邪魔な存在だった。全てがその場で起きているかのように演じているのに、字幕の存在がそれを台無しにしてしまう。字幕操作で最もやってはいけないことの一つは、声より先に字幕を出してしまうことである。字幕はあたかも声がその場で自動的に翻訳されているのように出さなければならない。
だが能楽堂に行ってみれば、舞台よりも謡本に目をやりながら舞台に耳を傾ける観客がいたりする。あるいは文楽を観に行けば、太夫が床本を掲げてから見台に置き、語りを聞かせる。これらの舞台では、もちろん「ネタバレ」を気にしたりすることもない。
西洋近代に成立したドラマ的演劇というモデルも、あらかじめテクストが存在するという点については、能や文楽と変わりはない。異なるのは、上演において時間の二重性があることを隠蔽するか否かだろう。生涯演劇について考えつづけた哲学者アンリ・グイエが最晩年に『演劇と二回性の芸術Le Théâtre et les Arts à deux temps』(1989)という著作を出している。ここでは演劇が音楽とともに、創作と上演の二つの時間を必要とする「二回性の芸術」と定義されている。20世紀には演劇の「一回性」について盛んに語られてきた。トーキーの出現によって劇場が次々と映画館になっていった時代には、グイエは演劇の現前性を強調していた(『演劇の本質L’Essence du théâtre』, 1943, 『表象』15「座談会 オンライン演劇は可能か」注10を参照)。だがそれから半世紀を経て、20世紀末にはむしろ二回性に焦点を当てるに至った。たしかに演技術について考えてみれば、一回性の演技が意味を持つのは、むしろ映画だろう。演劇においては一定の再現性をもつ演技を長期にわたる稽古(仏語ではまさにrépétition「繰り返し」と呼ぶ)によって培っていく必要がある。もちろん演技は上演ごとに異なるが、そこにはある程度「同じこと」を繰り返すという意志が存在する。
非ドラマ的演劇の観客は、「同じこと」を繰り返そうとする際に生じる同一性と差異の両方を評価する。ある演者の演技は、たとえばその師や先代の演技を彷彿とさせながら、どこか異なる。そして同一の作品とされるテクストの上演であっても、台詞や身ぶりが異なる場合もある。こういった同一性と差異について評価を下すには、かなりの観劇経験と教養が必要となる。その意味で、このような非ドラマ的演劇のほうが、初めて聞く物語がその場で起きるかのように演じられるドラマ的演劇よりも、長期にわたって育まれた観客層を重視し、より「通人」に権威を持たせるものとなる。逆にいえば、ドラマ的演劇の方が、そのように積み重ねられた文化を共有していない人にもアクセスしやすい。だがドラマ的演劇も、再演を重ねれば、結果的に非ドラマ的演劇のような様相を帯びていくこととなる。
「演出家の時代」の演劇は、この両者のあいだに位置していた。すでに書かれた戯曲の上演という意味では、「二回性の芸術」に他ならない。だが20世紀の演劇学においては、戯曲より上演を重視するイデオロギーが普及していき、上演の一回性が焦点化され、二回性についてはあまり語られない傾向があった。この二回性の隠蔽は弁論術に由来している。
弁論術においては、徹底的に原稿を推敲しながらも、その場で思いついたかのように話さなければならない。原稿を読み上げると聴く者は退屈するし、粗探しをしたくなる。話者がその場で感じいったかのように目を潤ませれば、聴く者は情報や論理よりもその声や表情に影響を受ける。この二回性を隠蔽する技術が、とりわけ18世紀以降、西洋演技論に影響を与え、感情を主な素材とする演技論が形成され、音楽的な形式性を重視する演技形態に取って代わっていった。だが、この感情主義演技論は、舞台よりもむしろ映像における一回性の演技に適しているとも言える。映像において一回性の演技を引き出す手法が発展していくと、舞台では逆に二回性を活かす演技形態を発展させるという戦略も採られていく。近年いよいよストレートプレイよりもミュージカルに観客が集まる傾向が見えるのは、これが一因だろう。
非ドラマ的演劇においては、字幕について、ドラマ的演劇とは異なる考え方が必要になる。オペラにおいてはそのための知見がある程度蓄積されてきたが、あくまで聴者のためのものだった。聴覚障害者を主な対象とする字幕では、近年新たな探求が行われてきている。非ドラマ的演劇の一要素として字幕を捉えれば、もっと字幕の遊び方が広がっていくかもしれない。
字幕と演劇の二回性 へのコメントはまだありません呪術的な歌と宗教的な歌 2025年12月24日
西洋演技論史の授業にゲストでお招きした俳優の稲継美保さんと、呪術的な歌と宗教的な歌は違うのかも、という話に。呪術的な歌は欲望の対象を操作しようとする。乳児が泣くのにも似ている。乳児が泣き、保護者が乳を与えたりおむつを替えたりしているうちに、両者の間で操作的な呪術が成立していく。こちらは自然な記号の延長線上にある。一方、聖歌や声明は、より制度化された記号により、日々の人間の欲望や苦悩を超えた世界があることを体感させてくれる。18世紀に音楽が制度的な記号とされたのは、宗教音楽を経て音楽が構造化・制度化されてしまったことも一因なのかも。
夜にDaBYで拝見した岩渕貞太さんの『大いなる午後』では、日常的な身体が消尽した先に、動物としての人間、呪者としての人間、宗教者としての人間の身体が入れ替わり立ち替わり立ち現れ、私たちのうちに眠っている器としての身体が呼び醒まされた。「本音」というのは、器としての身体が奏でる音のことなのかもしれない。
歌はなぜ呪術的な力を持つのか
歌はなぜ呪術的な力を持つのか。ようやく腑に落ちた気がする。
歌が歌われるとき、複数の時間が呼び醒まされる。歌詞が紡がれたとき、メロディが紡がれたとき、何度か口に出してみたとき。歌詞にもメロディにも、さまざまな身ぶりの記憶が詰まっている。ジュウシマツの歌には、父鳥が恋を実らせた時の身ぶりが宿っている。ヒトであれば、悲しみや怒りや憎しみと結びついた身ぶりの場合もあるだろう。
今いる人だけでなく、亡くなった人や遠い祖先から受け継がれた感情までもが、その身ぶりには宿ってしまう。新しい歌だって、古い歌と無縁に作ることはできない。歌を歌うと、そんな無限にからまりあった時間が呼び醒まされる。
歌う人は歌うことの主体なのか、歌が歌う人に歌わせているのか。生者が死者を操っているのか、死者が生者を操っているのか。本当のところ、こんな問い自体が無意味なくらい、私たちは死者たちとともに生きている。死者たちの言葉を語り、死者たちの身ぶりを繰り返しながら。
実のところ、歌のない台詞劇だって起きていることは同じなのだが、そこでは数世紀前から、そのことが隠蔽されるようになっていた。あたかも全てが「今、ここ」で起きているかのように演じること。
このドラマの時代が、いわゆるポストドラマの時代を経て、終わろうとしているのかもしれない。私たちは「今、ここ」で演じる人の向こう側に、見せ消ちにされた死者たちの身ぶりを見ることを思い出してきたのかもしれない。だとしたら今、私たちはこの演技の呪術性をどう引き受ければよいのか。
これからの演技について考えるための出発点に、ようやくたどりつけたような気もする。
(ヌトミック『彼方の島たちの話』、横浜ボートシアター『小栗判官・照手姫』、城山羊の会『勝手に唾が出てくる甘さ』を拝見しました。)