20世紀後半のキューバの歴史は、視点によって、大きく分けて、三つくらいはあるだろう。フィデル・カストロが英雄であった歴史。フィデルが悪夢だった歴史。そしてフィデルが英雄から悪夢となった歴史。大まかには、キューバ革命政府とその支持者から見た歴史、米国と在米亡命キューバ人の多数派から見た歴史、そして革命政府にはじめ期待を寄せ、のちに幻滅した人々(1962年以降に亡命したキューバ人も含む)から見た歴史に対応する。このうち第一の人々と第二の人々が出会う機会は、この半世紀間ほとんどなかった。ハバナで出会ったある演劇人が「もし革命後に出て行ったキューバ人たちが、ずっとこの国に留まってくれていたとすれば、今頃キューバはどんな国になっていただろう、と考えてしまう」と語っていた。今、そのキューバ人たちが少しずつ国に戻ってきつつある。キューバの人々は、この状況をどんな気持ちで眺めているのだろうか。
オースティンやメキシコシティで出会ったキューバ系米国人たちの何人かが、「1961年に米国に来た」と話していた。キューバ革命が起き、親米政権が倒されたのは1959年1月。フィデルは当初、米国との関係を保つことを模索し、同年4月にワシントンDCを訪れたが、アイゼンハワー大統領には会えず、ニクソン副大統領と会見。この時点ではまだ革命政権は明確に反米路線を取っていたわけではなかった。米国はやがてフィデルを「容共的」と見なし、暗殺と政権の転覆を謀っていく。1961年には米国に亡命していたキューバ人を中心とするキューバ侵攻(ピッグス湾事件/プラヤ・ヒロン侵攻事件)があり、革命政権によって撃退されている。その後、カストロは二年前の革命が社会主義革命であったと表明し、ソ連との結びつきを強めていき、翌年のキューバ危機へと至る。このとき米国に亡命した人々の多くは、カストロ政権は何年も持たないと考えていたという。
それから半世紀以上が経った今、二国間の演劇交流を支えているのは主に、革命自体の記憶を持たない世代となりつつある。第二世代のキューバ系米国人たちは、「祖国」キューバに対して、かなり複雑な思いを抱いている。美しい国、貧しい国。キューバの現政権に対しては当然批判的だが、キューバが米国経済に呑み込まれていくことを単純に肯定しているわけでもない。米国で育ったキューバ系米国人アーティストたちは、米国が夢の国ではないことを身に沁みて知っている。一方でキューバに住むアーティストたちが米国に行くことを夢見ていることもよく知っている。キューバが米国と接近することへの期待と、キューバが米国化していくことへの不安。米国はキューバにとって救世主なのか、あるいは侵略者なのか。キューバ人一人一人にとっても、この二つの顔が同時に、様々な度合いで見えている。これは米国とアジアの少なからぬ国との関係においても同様かも知れない。
キューバは1898年の米西戦争によってスペインから解放され、1902年に米国から独立を果たすが、グアンタナモ湾は永久租借地となり、今でも米国の軍事基地がある。ハバナの街中では今でも革命前に持ち込まれた派手なアメリカ車が現役で走っている。米国人にとって、キューバ文化はエキゾチックかつノスタルジックな、近くて遠い文化だ。それには大きな商品価値があり、それに比して、今のところはキューバの人件費は圧倒的に安い。これが米国経済に組み込まれていくと、どうなっていくのか。すでにキューバには米国からの観光客が大挙して押し寄せている。かつてはヨーロッパ系の観光客が主流だったが、七年くらい前から米国人が増えてきて、ここ二年ほどで米国人が圧倒的多数になったと聞く。
キューバが米国との国交を回復せざるを得なくなった最大の理由は、ベネズエラの経済危機にある。カストロを師と仰いでいたベネズエラのチャベス前大統領は、ソ連の崩壊で苦境に立っていたキューバに、ベネズエラの原油を安価で供給していた。だがチャベスは2013年に死去し、2014年には原油価格が急落して、原油輸出に依存していたベネズエラ経済は破綻し、キューバへの原油供給も滞っていく。この原油急落の引き金となったのが米国のシェールガス革命だった。米国は、いわばシェールガスによってキューバを追い詰めたともいえる。
キューバでは二年前に法改正がなされ、米国在住でもキューバ生まれであれば、キューバで不動産を購入することが可能になったという。ちなみにキューバの国籍法は米国と同様に出生地主義を採っているが、二重国籍は認められていない。ところが、かつてキューバ国籍を持っていたものがキューバに入国するには、キューバの旅券を持っていなければならない。つまり、キューバで生まれた限り、キューバに戻るには「キューバ人」として戻るほかない。米国に移住したキューバ人は富裕者が多く、米国でも特別な待遇を受けたため、米国在住のキューバ人がキューバに家を買うケースも増えている。
ハバナの旧市街には薄暗い国営店舗に混じって、ベネトン、アディダス、ナイキなどが点々と進出している。とはいえ、これらの米国企業のうちいくつかは第三国経由ですでにある程度進出していたという。そもそもハバナに米国大使館が「開設」された、といわれるが、実際のところ、だいぶ前からある通商代表部の建物に名前を付け替えただけで、人員はほとんど変わっていないらしい。米国からの直行便は長い間なかったが、メキシコ経由などで入国することは可能で、細いながらも交流の道が完全に閉ざされていたわけではなかった。
今回同じ宿に泊まっていたロサンゼルス在住のコロンビア系米国人は、親類がキューバにいるそうで、2005年頃からたびたびキューバを訪れている。以前はメキシコシティ経由で、ドアトゥードアで二三時間かかっていたのが、今では直行便ができたおかげで九時間で来られるようになったという。この方はJPモルガン・チェイス銀行で働いていて、米国の銀行の動向にも詳しかった。「米国の銀行のカードがATMで使えなかった」と話したら、「大手銀行はまだ、リスクを怖れて、キューバとの取引には手を出していない。今取引をしているのは米国では二つの小規模な銀行だけだ」とのこと。
この方によれば、多くのキューバ系の友人は「なぜオバマは革命政権を延命するような譲歩ばかり行っているのか」と怒っている、という。なぜ今とどめを刺さないのか、というのが、ヒラリーに投票しなかったキューバ系米国人たちの本音なのだろう。ちなみにこの方もトランプ支持らしく、「ラテンアメリカからの不法移民があまりにも急激に増えていて、米国の最低賃金を押し下げている。腐敗したラテンアメリカ諸国の政権は反体制派や犯罪者を米国に送り出すことで安全弁としている。最近のヒスパニック系移民は英語を学ぼうとすらしない」等々と語っていた。1960年代に米国に来たキューバ系移民第一世代も、多くは財産があり、英語もできて、他のヒスパニック系移民に比べ、社会的に成功したケースが多い。
ガイド役のプロデューサーは国立大学でデザインの授業をしている。行く前に「何かほしいものはあるか?」と聞くと、「美術やデザインの本がほしい」という。コンテンポラリーアートの本を持っていくと、とても喜ばれた。来てみて事情が見えてきた。本屋に行っても新刊書はごくわずか。とりわけ外国の本は、外国に出かける友人に買ってきてもらうしかない、という感じらしい。もちろんAmazonで本が買えたりもしない。
キューバでは基本的に個人でインターネットを使えるようにはなっておらず、特定の公園やホテルでwifiの電波を飛ばしている。公営通信会社の店舗に行って延々と並べば、一時間1.5CUC(1.5ドル)のカードを一回に二枚まで購入することができる。だがこれはけっこう大変。スマートフォンやパソコンを使っている人がたくさんいる公園に行くと、たいてい入口あたりに座っている人が「プスッ、プスッ!」と小さな声で合図してきて、一枚3CUCくらいで購入できる。
週35時間労働で、月給は20CUC(20ドル、約2400円、以下便宜的に1USD=120JPYで計算)。外国人観光客としてハバナ市内のレストランで食事をすると、ディナー一回で使ってしまいかねない金額。信じられず、一度聞き返したが、これは平均的な給料らしい。ハバナでは、月給20ドルの人のための商品と月給数千ドルの人のための商品とが、一つの通りに、そして時には一つの店のなかに混在している。
キューバには二つの通貨制度がある。外貨と交換可能なCUC(キューバ兌換ペソ、1CUC=1USD)と、国内でしか通用しないCUP(キューバ人民ペソ)。ほぼ1USD=1CUCで、1CUC=25CUP。国営食堂などではCUPしか使えず、外国人観光客はCUPを持っていない限り利用できない。外国人でもCUCをCUPに両替することはできるが、そうしてしまうとふたたび外貨に交換することは基本的にできない。
キューバ人向けのレストランなら、50CUP(約240円)くらいあれば十分食事ができる。だが、ちょっとした贅沢品はほとんどCUC建てで、米国と大して物価は変わらない。半世紀以上にわたる米国による経済制裁もあり、とりわけ自国で作っていない製品は高くつく。キューバはサトウキビ中心の植民地的農業から転作を進めてきたが、今でもサトウキビは主要作物の一つで、定期的に食糧不足が発生してきた。キューバの人に「いつもどんなものを食べてるの?」と聞くと、よく「手に入るものを」という答えが返ってくる。
1993年の個人によるドル所持解禁や2011年の市場経済の部分的導入以降、以前よりも外国製品は入ってきているが、その恩恵を受けている人はそれほど多数ではないようだ。飲食店の一部民営化は2014年にはじまっていて、ハバナ市内には真新しいおしゃれなレストランも見かける。二重経済のなかで、その分国営スーパーに出回る物資が減り、「スーパーに行っても何も買えなくなった」という話も聞く。国営スーパーの前には毎朝行列ができている。
旧市街で道案内をしてくれた方が、「あそこが私の家で、その隣に観光客がたくさん来るアイスクリーム屋がある。おいしいらしいけど、高いから食べたことはない。すごく儲かってるらしくて、最近あそこだけきれいに建て替えたんだ」と話していた。そのアイスクリーム屋のアイスクリームは2CUC(約240円)だが、国営アイスクリーム屋なら10CUP(約48円)だったりする。
今回泊めていただいたのは民泊で、一泊35CUC(約4200円)だった。だがこれも、「ふつうの」月給をはるかに上回る金額になる。ある民泊の貸し手は、一ヶ月マンハッタンで滞在してきたという。今では海外渡航は自由化されているが、多くのキューバ市民にとっては、海外旅行はとても手が出せるものではない。
キューバ人からよく聞くのは、「キューバは安全だ」ということ。特に海外経験のある人はそう語る。実際、観光客が多い旧市街などを歩いていても、不安を感じたことは今のところない。治安の問題が少ないのは、格差が小さく、貧しくてもなんとか暮らしてはいける環境があったからだろう。だがほんの数年で、観光客相手の商売をしている人とそれ以外のあいだでこれだけの格差が生じていると思うと、ラウル・カストロが引退するという2018年までに何が起きるのか、なんだか勝手に気を揉んでしまう。
(つづく)