2016/10/21
ラ・ママ実験劇場美術家の前田順さんのお話。前田さんはラ・ママで働きはじめてから43年。「もうラ・ママには俺より古いのはいないね」とのこと。今でも毎日劇場にいらしているという。先日劇場で案内係が「マエダサン!」と挨拶をしているのを見てお声をかけたら、作業場見学に誘ってくださった。
今日作業場にお伺いしたときには、日本の民話「鶴の恩返し」をモチーフにした作品のために、竹の箸を使って羽を作っていらした。竹の箸を何枚かに割り、その一方の端を割いてささがき状にし、それを編み上げていく、という気の遠くなるような作業。他に、アルミ缶を割いて細く長い帯状にし、それを編み上げて形を作る作品も。素手でその作業をしていると、はじめは手がささくれ立って血だらけになり、よくエレンに「もうやめてよ」と言われたが、つづけているうちに、ささくれないように切れるようになっていったという。
日大を卒業して工務店に就職。当時、同じ工務店に、楯の会の若手がよくアルバイトに来て、一緒に「塹壕堀り」などをしていた。その後、日大闘争が始まり、現場経験を活かして、建物確保の最前線で活躍。ベ平連にも参加。出身地の仙台で寺山修司の映画の上映会や石牟礼道子の水俣病に関する講演会を企画。
工務店では主にブルドーザーを操作していたが、別荘地の造営で道を作っているときに、やたらとウサギが跳ねてくるのを見て、獣道を寸断していることを知り、嫌になってくる。その頃、東京キッドブラザーズの作品作りのために、劇団員と一緒に、全て手作りで山荘を作ることに。これに感嘆した東に「セットを作ってくれないか」と言われ、「セットなら家を建てるより簡単だ」と即答。東京キッドブラザーズのために、プロレスリングの上に巨大なボートを立てる。資材は森ビルの資材置き場から調達。
東京キッドブラザーズは『黄金バット』でニューヨーク公演をすることに。紆余曲折あって、ラ・ママが引き受け手となった。ハワイ、ロサンゼルス経由でニューヨークへ。工具を買ったらお金がなくなり、ポケットには100円しかなく、両替もしてもらえず、コーヒーも飲めなかった。ラ・ママでは地下の作業場に段ボールを敷いて寝た。ニューヨーク大学の金属ゴミ集積場で資材を調達し、舞台を組み立て、大ヒット。この舞台美術を見たエレン・スチュワートに、ニューヨーク市から1ドルで受け渡された新劇場の内装を依頼された。東京キッドブラザーズが帰国してもラ・ママに残り、今に至るまで働きつづけている。別の東京キッドブラザーズ公演では、劇場の壁に穴を開けてワイヤを通し、空中を本物のオートバイが走る仕掛けを作った。この穴は今でも残っている。
ラ・ママで思い出深かったのは寺山修司やタデウシュ・カントールの公演。寺山の『盲人書簡』を上演した際には、五カ所の非常灯すべてに人を配置し、非常灯を完全に隠す箱を作って、光漏れがないかを入念にチェックした。本番では5人がタイミングを揃えて非常灯を隠し、完全暗転を実現した。その暗闇のなかでマッチを擦り、大山デブ子の裸体が浮かび上がる場面はすごかった。
カントール『死の教室』ニューヨーク初演時には、「共産圏からの積み荷に適用される24時間の保税措置」という制度を知らず、舞台装置の半分が初日に間に合わなかった。カントールは激怒していたが、「お前、頭から湯気出てるよ」と言ったら、「本当か」と鏡を見に行き、自分の怒り顔を見てバカらしくなったらしく、怒るのをやめた。エレンからは「私はこれに全財産つぎ込んだんだから、これが当たらなかったらおしまいなの。何とかして!」と泣きつかれ、急遽5人の人手を確保してもらい、徹夜で作り上げた。カントールとはベネズエラのホテルの部屋で昼間から酒を飲みつづけ、二人で肩を組んで歌ったことも。70年代のアメリカ演劇を代表する演出家の一人でオープン・シアター創立者でもあるジョゼフ・チャイキンにも舞台美術を任されていた、等々。
前田さん、とても面白い方なので、どなたかちゃんとインタビューをしてまとめていただけないでしょうか・・・?
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