2016/12/21
ナバホの国にちょっとお邪魔した話。
11月のはじめ、パリのケ・ブランリー美術館で『イナバとナバホの白兎』を見に来てくれたナバホ・フランス・アソシエーションの創立者で歌手のロレンザ・ガルシアさんに連絡してみたら、ちょうど今ナバホ・ネイションに来たところだという。慌ててスケジュールを調整して、月末に伺うことに。なかなかお互いの都合が合わず、ナバホ・ネイションには結局一泊二日の滞在になってしまった。急ぎ足で見聞きしたのは、ナバホの神話世界とはかけ離れたものばかりだが、思えば古事記を読んで今の日本を旅しても、似たようなことになるのかも知れない。
ニューヨークからアリゾナ州の州都フェニックスまで六時間弱のフライト。フェニックスからセドナまでバスで北に二時間弱。セドナはアメリカ先住民が古くから住みつき、聖地ともされたところだが、今では住民のほとんどは白人で、スピリチュアルなものを求めて世界中から多くの観光客がやってきている。セドナで一泊し、ロレンザさんに合流するはずだったが、突然の大雪でロレンザさんが足止めされ、結局セドナでもう一泊してからナバホの国に行くことに。セドナではAir B&Bのホストの方がツアーガイドもやっていらして、少し山歩きをすることができた。
セドナからフラグスタッフまで約二時間。山道の両側に雪が残っている。道々、運転してくれているロレンザさんの話をうかがう。なかなか不思議な人。パリ国立高等美術学校の絵画科を出て、映画会社などで働きながら、絵を描いたり、ストリートパフォーマンスのオーガナイズをしたりしていた。1996年にパリで砂を使った絵の個展を準備していた。ちょうどそのとき、同時にラ・ヴィレットで行われていたナバホ族文化に関する展覧会『美の道(La Voie de la beauté)』でメディシンマンたちによる砂絵や歌を使った儀礼の実演があったので行ってみた。
すばらしかったので、ずっと眺めていたら、ナバホ族のご婦人と目があって、ほほえみかけられ、会話がはじまった。いろいろ話していたら、体調が悪いと知り、病院に付き合ったりした。あとで聞くと、そのご婦人はずっと誰とも話さず、体調が悪いのは分かっていても世話もできない状態だったという。他のメンバーたちから「あなたは私たちの恩人だ。よかったら毎日来てください」と言われ、お別れ会にも呼ばれた。「いつかぜひ私たちの国にも来てください。こちらで見せることができたのは私たちの文化のほんの一部なので」とお誘いをいただいた。
実際にナバホ・ネイションに行ってみたら、「家族の一員」として歓迎を受け、9日間にわたる儀式に参加させてもらえた。そしてナバホ族の歌や儀礼を通じて「ホジョ(hózhó、美/調和)」を核とする思想に触れ、人生が変わったという。それ以来20年間、パリとアリゾナを往復して暮らしている。画家で歌手でエコ農業を推進する活動家、と聞くとちょっと不思議な感じがするが、ナバホ族の文化を通して見れば自然なことなのだろう。
ロレンザ・ガルシアさんインタビュー
https://www.youtube.com/watch?v=nVP4Mfge6vw
フラグスタッフはナバホ・ネイションに最も近い都市。ノースアリゾナ大学がある。人口五万人ほどで、そのうちアメリカ先住民の割合は1割ちょっと。ここで食料品を仕入れる。ロレンザさんはベジタリアンなので、たくさんの野菜と、豆腐など。セドナで出会ったガイドさんも「ナバホ・ネイションではなかなかいい野菜が手に入らないから、ここで食べておいた方がいい」とおっしゃっていた。
フラグスタッフから最初の目的地トゥバシティまで一時間。緑が目に見えて減ってゆき、赤茶けた地表があちこちに見えてくる。鉄分が多く含まれているため赤いのだという。火星のようともいわれる景色。
トゥバシティ(Tuba City)はナバホ・ネイション最大の町で、人口は約8,600人。ホピ・ネイションとの境界に位置し、ホピ族のリーダー、トゥービの名前に基づく。トゥービはモルモン教の宣教師に出会ってモルモン教に改宗し、モルモン教徒を招いて町を作った。今ではかつて19世紀末に白人が作った町の半分は放置され、建物もシロアリに食い散らかされて住めなくなっているという。現在の人口の97%以上はアメリカ先住民で、白人は0.2%にも満たない。
トゥバシティでは、ナバホ族のヘレンさんの一家にお世話になる。お昼頃にヘレンさんの家に着く。ヘレンさんのご主人は、地元では有名なメディシンマンだったが、つい数年前に心臓の持病により57歳の若さでなくなった。四軒の家を建て、今はうち二軒が借家として使われている。はじめはテントやホーガン(ナバホ族の伝統的住居)に泊まろうか、という話もあり、寝袋持参で行ったのだが、あまりにも寒い(フラグスタッフでは最低気温がマイナス10度以下だった)ということで、家を持っているヘレンさんにお世話になることになった。日が暮れないうちに帰れるように、ということで、茹でた白いトウモロコシを持って、すぐに出発。
そこからモニュメント・バレーまでの道のりはさらに一時間半。道々、今度は黒い地表に塩の結晶が見える。石炭の採掘が行われ、火力発電で作られた電気がラスベガスまで送られているのに、ナバホ・ネイションでは電気が通っていない家も少なくないという。途中フリーマーケットに寄る。お土産物、生活用品、手摘みの生薬やタバコ、羊の肉、おやつなど。トウモロコシパンがおいしかった。ナバホロックのバンド演奏も。
市街地を出ると、見渡す限りの地平線のなかに、人家は一つあるかどうかという感じ。トレーラーハウスも見かける。時に羊や馬の群れが見えるが、ここに住んでいる人たちが日々どんな生活をしているのか、なかなか想像がつかない。スクールバスはかなり遠くまで足を伸ばしてくれるらしい。長い間、北アメリカでは犬がほとんど唯一の家畜だった。ナバホ族はこの影一つない広大な荒野を、家財道具を背負って歩いていた。ナバホ族はやがてヨーロッパ人が連れてきた羊や馬を自ら飼い慣らすようになった。それが部族存続の大きな決め手となった。ジャレド・ダイアモンドによれば、「ナバホ族は、ヨーロッパ人がアメリカ大陸にやってきたときには、何百かいた部族の一つにすぎなかったが、彼らは、新しいものを柔軟に取り入れる気質だったため、現在では合衆国でもっとも人口が多いアメリカ先住民となっている」(『銃・病原菌・鉄』倉骨彰訳、草思社文庫、下巻81頁)。
ナバホ・ネイションの面積は71,000キロ平米で、北海道より一回り小さいくらい。北海道の人口約538万人に対して、ナバホ・ネイションは約17万3千人。人口密度は北海道64.5人/キロ平米に対して2.4人/キロ平米。北海道よりも30倍人口密度が低いわけだ。1864年、ナバホ族は480キロ離れた土地に徒歩で強制移住させられた(「ロングウォーク」)が、そこには十分な食糧も生産体制もなく、多くの犠牲者を出した末、四年後の1868年に、もともと住んでいた場所の一部を「ナバホ・インディアン居留地(reservation)」として指定することになった。
帰還したときにはすでにホピ族など他の部族が住んでいたりして、長く紛争がつづいている。設立当初から比べると大きく拡大し、今の領域は十以上の州よりも大きく、一部族の居留地としては最大だが、それでもナバホ族が主張してきた「四つの聖なる山」を境界とする「ディネタ(ディネの地)」の一部に過ぎない。1969年、ネイティヴアメリカン・アクティヴィズムの高まりもあり、「ナバホ・インディアン居留地」が一定の自治権・裁判権をもつ自治政府「ナバホ・ネイション」として組織されるに至る。
このナバホ・ネイションの一員と認められるには、少なくとも曽祖父母の一人(2004年までは祖父母の一人)がナバホ族あるいはディネ四支族(「ディネ」はナバホ族の自称)の一員であったことを示し、「サーティフィケイト・オブ・インディアン・ブラッド」をもらう必要がある。連邦政府の国籍法が出生地主義を採っているのに対して、ここは血統主義になっているのもちょっと面白い。ナバホ・ネイションで生まれたからといって、ナバホ・ネイションの一員になれるとは限らない。まさに「国民国家(Nation-state、民族=国家)」という形を取っているわけである。ナバホネイション全体では、住民の96%がナバホ族あるいはネイティヴアメリカンで、白人の割合は1.8%、アジア太平洋系は0.2%に過ぎない。
同化政策時代とは異なり、ナバホ語による教育もある程度行われるようになった。ナバホ族には子どもをもつことを誇りにする文化もあり、人口は着実に増えている。とはいえ部族語を維持するのはそう容易ではない。ナバホ・ネイションには主にナバホ語で教育を受けられる高校や部族文化などをより専門的に学ぶことができる「ディネ・カレッジ」もある。だが就職を考えると、ナバホ語・ナバホ文化に精通していることが有利な領域は相当限られている。ヘレンさんの息子は大学に進学せず、地域の高齢者ともつきあいがあったのでナバホ語がけっこうできるが、娘二人はノースアリゾナ大学などネイション外の大学に行ったため(ヘレンさんご自身も域外の大学で教育を受けられた)、ナバホ語を使う機会がなくなっている。ナバホ・ネイションの域外で暮らすナバホ族は、1980年代には20%程度だったが、今では半数を超している。娘の子どもたちは教育もメディア(主にテレビ)も英語なので、ほとんどナバホ語に接する機会がない。ナバホ語は発音が非常に難しく、孫たちに「馬」という単語一つをちゃんと発音できるようにするのに三日かかったという。第二次大戦中はこれを活かしてナバホ族の暗号部隊が組織された。暗号解読を得意とした日本軍にもナバホ族の「コードトーカー」によるやりとりは書き取ることすら困難で、対日戦で大きな貢献をした。一方、太平洋地域で従軍したナバホ族は顔立ちから時に日本兵と間違えられ、危うい目にあったこともあるという。
モニュメント・バレーは、全てがあまりにも巨大で、人を寄せ付けない地のようにも見えるが、ここは北米で最も古くから人が住みついてきた場所の一つだった。巨大な岩が雲を止めて雨や雪を呼び、谷底には水も流れる。日陰もできて、多くの岩窟もある。ここはナバホ族にとって、聖地であるだけでなく、生活の地でもあった。ロング・ウォークのあと、ナバホの人々は再びここに戻り、今でもここで羊を飼ったりして生活をつづけている。
日本とナバホ・ネイションをつなぐものの一つとして、ウランがある。モニュメント・バレーでは第二次大戦中からウランの採掘が行われ、原爆の製造にも使われていたという。ナバホ族は対日戦に「コードトーカー」と原爆という二つの切り札を提供したわけである。モニュメント・バレーをめぐる道もかつてウラン採掘のために作られた。トゥバシティも1950年代にはウランブームで栄えた。当初は防護服も与えられず、素手で鉱石を暑かったりしていて、その後多くのナバホ族の作業員に深刻な後遺症が出た。また、水の汚染も重大な問題となっている。ナバホ・ネイションでは水道が通っていない地域が多く、遠くまで水を汲みに行くか、安全性が確認されていない近くの水源を使うか、という選択を迫られている世帯も少なくない。この地域の除染に関する研究には日本の研究者も関わっていると聞いた。ナバホ・ネイションは2005年にウランの採掘を全面的に禁止した。
ウラン汚染問題と除染、水問題について
http://blogs.yahoo.co.jp/okerastage/9510716.html
https://www.epa.gov/navajo-nation-uranium-cleanup/cleaning-abandoned-uranium-mines
http://www.attn.com/stories/6416/water-contamination-navajo-nation-for-decades
石炭の採掘も近年までナバホ・ネイションの主要な産業だった。だが、石炭も最近では環境汚染の原因とされ、採掘量は減っているようだ。きわめて水資源が限られているナバホ・ネイションのなかで、石炭の採掘や火力発電に大量の地下水を使うことも問題となっている。ナバホ族のなかでも、「大地のエネルギーを奪うようなことをしていると、いずれ大地の怒りを買う」という声もある。2009年、ナバホ・ネイションは「グリーン・ジョブ・ポリシー」を採択した初めてのネイティヴアメリカンネイションとなった。
一方最近では、多くのネイティブアメリカンの居留地で、カジノが重要な産業になりつつある。ナバホ・ネイションにもいくつかのカジノがある。とはいえ、大都市からかなり離れているので、ラスベガスのように多くの人がやってくる事は想像しにくい。カジノの収益の一部は「グリーン・エコノミー」の支援に当てられている。
経済指標から見れば、この地域では非常に高い失業率と貧困が大きな問題となっている。そもそもこれだけ人口密度が低く、海からも河からも大都市からも遠く、交通の便が悪く水資源が極端に少ないところで、あえて工場を作ろうなどという企業はまずない。つまりどう考えてもこの地域は工業の発展には向いてないわけだ。逆にいえば、そういう地域を先住民の居留地として指定したわけでもある。ナバホ族は極度に水の少ない地域に適応した生活形態を発展させてきた。草木の根に水を求め、小さなホーガンに焼け石を入れてスウェット・ロッジにしたりする。
ナバホ・ネイションではノースダコタ州でのパイプライン建設をめぐるスタンディング・ロック・スー族の抵抗運動も話題になっていた。石油パイプラインはもともとノースダコタの州都ビスマーク周辺を経由するはずだったが、計画が見直され、ミズーリ川のスー族居留地が水源としている地点の直前を経由するルートに変更された。建設を推進する会社側は「リスクはない」と言いつづけるが、スー族の有志などが建設に反対し、建設予定地にテントを張って非暴力抵抗運動をつづけていた。スー族は1851年に締結された(そして幾度も違反が重ねられてきた)フォート・ララミー条約を、自らの居留地に対する権利主張の根拠の一つとしている。ナバホ族を含む多くの先住民たちがこれに連帯を表明し、支援している。ナバホ・フランス・アソシエーションも現地に代表を派遣して支援を表明した。
サンクスギビングデイ(11/24)には、マイナス5度のなか、警察が放水や催涙ガス、ゴム弾により座り込み排除を試み、多くの負傷者が出た。そして11/28には「悪天候が予想されるため」として、州知事による即時退去命令が出ている。その翌日から、この運動家たちを守る「人間の盾」となるために、2,000人以上の退役軍人が駆けつけ、一触即発の状況がつづいていた。(12月5日に強制排除、という話だったが、その後オースティンでのナショナル・パフォーマンス・ネットワーク年次会合最終日の12月4日、主催者側から「ホワイトハウスの決定によりパイプライン建設計画の見直しが決まり、強制排除は取り消された」というニュースが発表されて、参加者たちが歓呼の声を上げていた。その後12月9日には、長年に渡る先住民抑圧に謝罪する退役軍人たちにスー族が赦しを与える儀式が行われた。)
http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/14/dakota-pipeline-protest_n_12975788.html
http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/24/dakota-pipeline-protest_n_13197362.html
http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/25/standing-rock_n_13241772.html
http://www.huffingtonpost.jp/2016/12/05/dakota-access-pipeline_n_13422492.html
http://www.huffingtonpost.jp/2016/12/09/standing-rock_n_13528818.html
http://www.navajo-france.com/fr/projets.php#270
夜はなぜかみんなで『マッドマックス/サンダードーム』を見ることに。核戦争後、オーストラリアの都市文明が崩壊して荒野になっている話。ちょっとナバホの地を思わせる光景もあり、北米の未来を考えさせられる。トゥバシティでは衛星放送が普及している。というか、衛星放送以外の電波が入らないところがナバホ・ネイションには多いらしい。
翌朝、野菜と豆腐のオムレツを大量に作ってブランチ。ロレンザさんたちとナバホ・ネイション立病院の無料のジムに行って汗を流す。ナバホ・ネイションに限らず、「インディアン居留地」では肥満も大きな問題になっている。かつてはトウモロコシと野生のタマネギ、そして高タンパク低脂肪のバッファローの肉といったあたりが主な食材だったが、農業に不適な「居留地」に押し込められ、バッファローは絶滅させられて生鮮食料が手に入りにくくなり、代わりに連邦政府から小麦粉、バター、砂糖、粉乳などが与えられたために、高カロリーの食材に依存するようになっていった。同化政策のために寄宿学校に入れられた子どもが伝統食から切り離されたのも一因とされる。ナバホ・フランス・アソシエーションは、ナバホ・ネイションで古いナバホ族の知恵を活用しつつエコ農業を進めるプロジェクトを支援し、この地でも新鮮な食糧が手に入る環境を作ろうとしている。
http://www.navajo-france.com/fr/projets.php#269
長年の間、寒冷地の人口は水や食糧だけでなく、地域で供給可能な燃料にも依存してきた。だが、今この地域で化石燃料を使わずに生きようと思うと、かなり大変だ。この地域では薪ストーブが普及していて、ヘレンさんの家でも使われていたが、薪になるような木が生える一番近いところは、車で二時間ほどかかるグランド・キャニオン。この冬も、家族で薪を集めてきたという。グランド・キャニオンを経由してセドナまで送ってもらうことに。地平線の先は岡になっていて、登っていくと徐々に雪が見えはじめ、草地から灌木へ、灌木から樹木へと植物相が変化していく。標高2000メートル以上。そして巨大な大地の裂け目が見えてくる。ここもまた、貴重な水と樹木に恵まれた生活の地だった。今では主な観光スポットが国立公園になり、その周辺がいくつかの「インディアン居留地」となっている。ラスベガスから五時間かけてくるバスツアーもあるらしい。セドナまでは、フラグスタッフを経由して、さらに三時間弱の道のり。ヘレンさんが長い道のりを運転して、送ってくださった。
グランド・キャニオンと先住民居留地
http://www.mygrandcanyonpark.com/native-american-tribes/
セドナからフェニックス空港までの帰り道、シャトルバスの乗客は自分一人。運転手さんに「どこから来たの?」と聞かれ、「トゥバシティから」と答えると、「冗談だろう?」と問い返された。運転手さんはかつてフラグスタッフで車部品を販売する店をやっていて、ナバホ・ネイションとの仕事も少なくなかったらしい。それでも、フラグスタッフに住むナバホ族とは付き合いがあっても、ナバホ・ネイションにはそれほど友人はできなかったという。確かにナバホ・ネイションでは、モニュメント・バレーやグランド・キャニオンといった観光地を除いて、滅多に「外国人」らしき姿を見かけなかった。すっかり駆け足の滞在になってしまったが、貴重な経験をしたことは間違いないらしい。なんとか次回はもう少しゆっくり滞在できるようにしたい。
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