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ラ・ママ実験劇場アーカイヴ 2017年1月2日

2016/10/28

ラ・ママ実験劇場のアーカイヴを訪問。劇場と同じ大きさのビル一フロア分を使って過去55年の舞台装置・小道具・衣装・ポスターなどが展示してあり、配布資料や上演台本、そして公演のビデオなどがきれいに整理されている。今日はオランダの大学から15人くらい、韓国から3人、そして私で、20人くらいでツアー。アーカイブ主任のオッジ・ロドリゲスさんがラママの歴史を熱く語ってくれる。30分かせいぜい1時間くらいかと思っていたら、劇場案内もふくめ、なんと3時間も語ってくれた。記憶に残った話をいくつか。(私の理解力によるものも含め、誤りもあるかも知れませんが、お気づきの方はぜひご指摘ください。)

ラ・ママの創設者エレン・スチュワートはシカゴ生まれのファッション・デザイナー。だが、シカゴでは黒人にデザイナーの仕事などなく、ニューヨークに出てきて、このイーストヴィレッジにアパートを借りた。当時イーストビレッジはドイツ人、ウクライナ人、ポーランド人、カリブ海からの移民、そして黒人が次々と住み着いてきたいわばゲットーで、エレンがそこを選んだのも、単に家賃が安いからだった。1960年代、ヴェトナム反戦運動、黒人の市民権運動、フェミニズム、ゲイ解放運動が一度に起き、ニューヨークは「セックス・ドラッグ・ロックンロール」の街に。ところがハリウッドやブロードウェイはそういった動きを反映することなく、相変わらず中流階層以上の白人が出てくる話ばかり。「戦争に行きたくない!」「どこも白人専用なんてやってられない!」「一日中キッチンにいるような生活はしたくない!」「ボーイフレンドと堂々と街を歩きたい!」といった気持ちを代弁をしてくれるところは全くない。

エレンはそんな状況を見て、ほかに自分を表現できる場所を持たないアーティストたちが自分の好きなことを言える場所を作りたいと思った。当時はゼロックス製のコピー機の発明などで産業構造が変わりつつあったところで、付近の印刷工場がつぶれたりして、使われていないスペースがたくさんあった。そんななか、ビルの地下室を借りて、発表の場として使えるようにした。当時はそんな先例はなく、黒人女性のところに白人がたくさん出入りしているのを見て通報があり、警察により不法使用として禁止された。だが、飲食店としてであれば不特定多数の人に来てもらう許可が得られる、という話を聞き、カフェとして登録することにした。店の名前を聞かれ、ちょうど内装をしていた人から「ママ、ここどうすればいいの?」と聞かれたので、「じゃあ「ママ」で」とエレンが答え、その場にいた友人の助言で「カフェ・ラ・ママ」という名前で営業をはじめる。

やがて、ヴェトナム戦争反対のメッセージをロックにのせて語る『ヴェト・ロック』(オープン・シアター、ミーガン・テリー作・演出、1966年)が大ヒット。ブロードウェイにも注目され、これがブロードウェイ初のロック・ミュージカル『ヘアー』として、世界的大ヒットになる。ラ・ママの活動に注目が集まるにつれ、大新聞の批評家もラ・ママでやっている作品に好意的な批評を寄せるようになった。ところがそれに対して、批評家にお金を払って記事を書いてもらっていたブロードウェイから圧力がかかる。そこで、エレンはラ・ママのレジデント・アーティストたちの作品をヨーロッパに紹介することを思い立った。当時ヨーロッパでは、アメリカ演劇といえばブロードウェイくらいしか知られておらず、演劇祭でヴェトナム戦争や黒人問題などを正面から扱った作品を見て、観客からも批評家からも大きな反響を得た。ニューヨークの文化人はヨーロッパコンプレックスが強いので、ヨーロッパで評価された、ということで、ブロードウェイから何と言われようとも記事を書かなければいけない、と思ってくれるようになった。

そして東京キッドブラザーズによる東京発のロック・ミュージカル『黄金バット』も大ヒット(1970年)。第二次世界大戦で敵国だった日本と米国のサブカルチャーがヴェトナム反戦を通じて響き合うことに。その後、寺山修司、鈴木忠志など日本のアーティストも次々に紹介され、2007年には日本で最も権威のある文化賞、高松宮殿下記念世界文化賞を受賞、等々。

東京キッドブラザーズ『黄金バット』ニューヨーク公演の経緯

http://www.sweat-and-tears.net/kid/

http://www.endless-kid.net/lamama/kid_an_lamama.html

高松宮殿下記念世界文化賞 エレン・スチュワート

http://www.praemiumimperiale.org/ja/laureate/music/stewart

ラ・ママには前田順さん以外にも日本人スタッフが少なくない。前回ラ・ママについて記事を書いたときに伺って驚いたが、『ヘアー』の演出家トム・オホーガンやロバート・ウィルソンと仕事をしてきた画家・舞台美術家のキクオ・サイトウさんは、藤枝市で手作りの家具を作っていらっしゃる斉藤衛家具工房の斉藤衛さんのお兄さんだそうだ。サイトウさんはこの春お亡くなりになり、9月にはラ・ママで記念式典が行われていた。

キクオ・サイトウ・メモリアル

http://lamama.org/kikuo-saito-memorial/

この充実したアーカイブも、エレンさんの意向で作られたという。様々な支援団体から支援をいただくのにも、何よりも生の資料や映像を見ていただくのが一番説得力がある。そして、この50年間の活動をより若い人たちに世代に届ける必要がある、という思いから作られたそうだ。アメリカ演劇に興味がある方は、ニューヨークにいらした際は訪問して損はないと思います。

ラ・ママ・アーカイヴ

http://lamama.org/programs/archives/

https://pushcartcatalog.wordpress.com/2014/09/09/history/

https://vimeo.com/30554340

ここで話を伺って、いろいろつながってきたことがある。その話はまた次回。

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イヴォンヌ・レイナーの「ノー ・マニフェスト」

2016/10/28

シェクナーの今週の授業のことが、数日経ってもなかなか頭から離れない。ジャドソン・ダンス・シアターの話。多少知った気になってはいたが、学生の発表と映像を見ながら、1960年代にはここまで行っていたのか、とちょっと呆然としてしまい、いまだにどう考えていいのかよくわからない。

コンタクト・インプロビゼーションという実践自体は日本でも広まったが、その背景にあるジャドソン・ダンス・シアターの思想やイヴォンヌ・レイナーの「ノー ・マニフェスト」(1965)については比較的触れられることが少ない(レイナーについては、木村覚さんや武藤大祐さん他による研究がある)。

No to spectacle.

No to virtuosity.

No to transformations and magic and make-believe.

No to the glamour and transcendency of the star image.

No to the heroic.

No to the anti-heroic.

No to trash imagery.

No to involvement of performer or spectator.

No to style.

No to camp.

No to seduction of spectator by the wiles of the performer.

No to eccentricity.

No to moving or being moved.

身体をモノとしてみること。それ以外のものとして見ることを徹底的に拒否としてみること。あらゆる神話を、あらゆる表象をそぎ落とされた身体を享受すること。しかし、そんなことが本当に可能なんだろうか。シェクナーはこれをダダイズムと比較したりもした。

あちこちでいろんな話を聞いている中で、なぜこんな話が出て来たのか、ということはちょっと分かるような気がしてきた。一つには、ニューヨークにはブロードウェイがあるということ。商業的な舞台芸術の極北ともいえるシステムが確立していたために、それをいわばアンチモデルとして、それとは全く異なるものを作りたいという意識があったのは確かだろう。逆に商業的な舞台芸術のシステムに乗ろうとしなければ、上演によって報酬を得てプロとしてやっていく、ということはニューヨークにおいては全く考えられなかった。以下のレイナーの手紙によれば、少なくとも1960~64年にはそんな状況だったようだ。

若いアーティストへの手紙/イヴォンヌ・レイナー(訳:中井悠)

http://nocollective.com/transferences/rainer/letter.html

そしてアメリカでは1950年代末からテレビが急激に普及しつつあった。もちろんこれについても、米国は世界の先端を行っていた。フレデリック・マルテルの『超大国アメリカの文化力』によれば、米国の知的エリートによるテレビへの反発と恐れが60年代以降の文化政策の大きな要因の一つになっていた。ニューヨークに来て驚いたことの一つは、アカデミズムにおけるフランクフルト学派、とりわけアドルノの影響の大きさである。これはもちろんアドルノが10年近く米国に亡命していたこともあるが、米国の中において、今に至るまで、これだけ大衆文化を批判する理論に興味を寄せている人が多いというのは意外だった。1960年代の米国の先鋭的文化人は、自国の大衆文化を批判しつつも、ヨーロッパ的なエリート文化をも批判し、米国独自の新たな民衆的文化を創造する、という極めて困難な課題を引き受けていた。イヴォンヌ・レイナーのマニフェストは、ある程度この文脈で理解することはできるだろう。イメージの消費文化は徹底的に拒否しつつも、特異な形で物質文化を徹底的に肯定してみること。

シェクナーから、このジャドソン・ダンス・シアターの遺産は、今どのように受け継がれているのだろうか、という問いが発せられた。ある意味で直接の継承者といえるのは、もちろん今でも毎週月曜日の夜にジャドソンチャーチに集っている「ムーブメント・リサーチ」はある。ジェローム・ベルやグザヴィエ・ルロワといった名前も挙げられたが、今一つピンとこない。議論のあと、シェクナーが最後に「少なくともこのあと、正しい道、間違った道というのはなくなったのではないか」と言っていた。レイナーが示した道はあまりにも険しく、その先に本当に道があるのかもよく分からない。だが、その荒野を歩いてみた人がいたということ自体は、何かしら希望になるような気もする。

Yvonne Rainer, Trio A (1966振付, 1978にソロで再演)

https://www.youtube.com/watch?v=TDHy_nh2Cno

http://www.getty.edu/research/exhibitions_events/exhibitions/rainer/

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米国の文化団体の「理事会」と寄付文化について

2016/10/26

米国の文化団体の「理事会」と寄付文化について。

なにしろはじめての米国長期滞在なので、何から何まで驚くことばかりなのだが、アメリカの文化団体の「理事会」というものの話も、ちょっと驚いた。例えば、ニューヨークの比較的若手の演劇集団に関する論文を読んでいたら、昨年理事の一人から、運営資金として匿名で4万ドルの寄付を受け、それによって制作者一人がアルバイトをやめて専属で働けるようになった、という話が出てきた。日本でもフランスでも、劇団や劇場の「理事」が400万円の寄付をした、という話は聞いたことがない。論文でも特筆されていたので、アメリカの若手劇団事情においてはそれなりに特殊な例ではあるのだろうが、対象と金額はともかくとして、少なくとも理事が寄付をするということ自体は「普通のこと」らしい。

以下、フレデリック・マルテル『超大国アメリカの文化力』(根本長兵衛他監訳、岩波書店、2009、p. 370-373)から。

「非営利文化団体の中枢にあるのは「理事会(ボード)」である。大美術館であろうと小さな劇場であろうと、この「理事会」が組織に対して責任を負い、無報酬で運営に当たる。裕福な寄付者はその財産と時間を文化団体に捧げ、ときには団体の運営力を注ぐあまり、その後半生全てを捧げてしまうこともある。

「理事会」のメンバー(理事)は、まず第一に、団体に多大な寄付をする人々なのであり、たいていはそれぞれの寄付可能額に応じて「理事会」の一員に選ばれている。「理事会」において、寄付は寛大さや善意に基づいて自由に行う行為ではなく、それは義務である。「ピア・プレッシャー」、すなわち仲間からの圧力。まさにこの表現がぴったりだ。・・・メトロポリタン・オペラの「理事会」に入るには毎年少なくとも二五万ドルの寄付をしなくてはならない・・・ニューヨーク・シティ・バレエの推奨額は控えめだが、それでも二万五〇〇〇ドルの寄付が必要だ。理事会のトップである理事長には、通常他の理事をはるかに上回る寄付が求められる。寄付額がずば抜けて多いことが理事長という肩書きを正当化するのであり、たいていは寄付額が多いことでその文化団体の「理事長(チェアマン)」という栄えあるポストに任命されるのだ。理事たちはそれぞれが模範となるべき寄付を行うが、それ以外の「資金集め(ファンドレイジング)」も彼らの重要な職務となっている。自分たちの人脈やネットワークを絶えず利用して、キャンペーンを張って資金を集め、そして自分たちが運営する文化団体のために寄付を蓄えていく。彼らは資金を見つけてくるからこそ、権力を持つことができるのである。

こうした理事会では、徹底した合議制に基づいて、文化団体の責任者の人選や給与の問題から、資産の投資・運用、団体の事業計画の大枠作りに至るまで、あらゆる問題を決めていく。したがってこの理事会に参加することはヴォランティア活動だが、重大な責務を課せられることになる。理事たちは時間や金銭面での重い負担を無報酬で引き受けている。通常、劇場の理事であっても観劇には入場料を払わなくてはならないし、美術館の理事でも入場券や館内レストランでの夕食は自腹を切らなくてはならない。こうしたものが寄付に対する特典として提供される場合には、それに相応する金額は税控除の対象から外れる。結局、理事は寄付者でもあり、ある意味で彼ら自身の資金の管理を任されて任されることになるわけで、それゆえ理事会に参加する事は重大な責任を伴うのである。

・・・「理事会」に参加する大半は権力の「転売」をするような、「影の実力者(パワー・ブロウカーズ)」とも呼ばれる金持ちであり、それぞれの地元で突出した資金力を誇る有力者たちなのだ。…地域の美術館や市の図書館の理事長に選ばれることでその人物が社会的な名声を獲得し、その地方で一つの成功遂げたことが誰の目にも明らかになる。」

先ほどの演劇集団の例は匿名ではあるが、少なくとも理事会のメンバーたちはそれが誰なのかを知っているはずだ。この寄付は、地方都市の名士のように、いわゆる「社会的な名声」を求めたものではないだろうが、少なくともそこには「私がこの文化活動を支えているのだ」という自負はあるのだろう。

私も昨年から舞台芸術制作者オープンネットワーク(ON-PAM)という団体の「理事」をやらせてもらっているが、時間は多少使っているはものの、「では年間100万円を基準にご寄付をお願いします」といわれていたら、到底引き受けられなかっただろう。そういえば、例えばパブリック・シアターやブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージック(BAM)など非営利の(大まかにいえばブロードウェイ以外の)劇場でやっている作品のチケットを買おうとすると、よく「何ドル寄付をする」という項目が出てくる。場合によっては、デフォルトで20ドルなり寄付をすることになっていて、しないのであればその項目を外す、という仕組みになっていたりする。日本人の感覚からすれば、なんで2,000円のチケットを買ってさらに2,000円寄付しないといけないのか、と憤慨しかないところだが、この仕組みは、非営利の文化事業がそもそも有志の寄付によって成り立っているものであり、それがなければ、本来はこのような「安価」で当該のイベントを享受する事はできないのだ、ということを意識させるものでもある。このような非営利の劇場には、「資金開発部(デヴェロップメント・デパートメント)」というのがあり、いわゆるファンドレイジングを主な業務としている。

ファンドレイジングの手段としては、通常の寄付とは別に、イベントによるものもある。ちょうど昨晩、私がグラントをいただいているアジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)のカクテル・パーティー+オークションというイベントがあった。私たちグランティーはもちろん無料で参加できるのだが、一般参加者の参加費は175ドル。メインイベントは1969年のグランティー篠原有司男さんによるボクシング・ペインティング。オークションでは、ACCの元グランティーが寄付した絵画・彫刻などの作品が参考価格2,000ドル程度から購入できることになっている。先日退官されたNYUの先生のためのガラ・コンサートは参加費750~1,000ドル。それなりの身分になると、日本の結婚式よりお金がかかるようなイベントにも顔を出さなければならないようになっているのだろう。

マルテルによれば、この仕組みはとりわけ1917年に制定された税法「内国歳入法五〇一条C項三」によって、非営利文化団体が「公共の慈善団体」として、寄付の税控除が認められるようになったことに由来するという(p. 366-367)。つまり、米国においても、これはちょうど一世紀以上をかけて作り上げられてきたシステムであり、これをそのまま日本に導入したところで、とりわけ今の経済状況の中で、到底同じような結果を期待することはできないだろう。何よりも、この仕組みが機能しているのは、財界人や一般の観客のうちに「文化を支えているのは自分たちだ」という意識を作ってきたことによるのだから。

このような仕組みがあるのは、米国では政府は芸術にお金を出さないからだ、という説明もされるが、実のところ、米国でも「政府」が全くお金を出していないわけではない。その話はまたいずれ・・・。

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カテゴリー: ACC 文化政策