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『仮構の歴史』 2022年12月18日

マーク・テ/ファイブアーツセンター『仮構の歴史』、『バリン』につづき、マレーシアという国家の成り立ちをめぐる刺激的な作品。中等教育で使われる歴史の教科書がテーマ。マラヤ連合時代(1946-1948)においては、最近まで政権与党だったマレー系右派ナショナリズム政党UMNO(統一マレー国民組織)主導のデモよりも、「ハルタル」と呼ばれた左派ナショナリズム政党主導のゼネラルストライキ(1947)のほうがよほど多くの人が参加していたのに、教科書では全く取り上げられていなかった。このハルタルの時代を振り返ってみると、長年マレー半島で暮らしてきたマレー系、中華系、インド系の住民が同等の市民権をもって共存できる国家が成立していた可能性が見えてくる。「ハルタル」はガンジーが提唱した非暴力抵抗運動から来た名前で、植民者であった英国人が再び政治や経済を通じて影響力を行使することへの宗教を超えたナショナルな抵抗が含意されている。マラヤ共産党やマラヤ華人の歴史がご専門の原不二夫先生は公演後のトークで、もしこのストライキに共産党が参加していたら、マレーシアの歴史は変わっていたかもしれない、とおっしゃっていた。この作品では、「共産主義者=中国人/無神論者」といった(右派プロパガンダにもとづく)クリシェにはそぐわない、マレー系やムスリムに改宗した華人の元マラヤ共産党指導者たちに焦点が当てられていた。「国家と民族の関係には別の形もありえた」というオルタナティブな歴史を語ることは、国家が仮構してきた歴史を根底から突き崩すことにもなりかねない。原先生は日本の教科書問題にも言及なさっていて、マレーシアでこの作品を上演する困難さがより身に沁みて実感できた。「日本人の歴史」では何が仮構されてきたのか、考えさせられる作品。

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カテゴリー: アジアの舞台芸術

シンポジウム「なぜ他者と空間を共有するのか? ~メディア、医療、パフォーマンスの現場から~」

東京芸術祭シンポジウム「なぜ他者と空間を共有するのか? ~メディア、医療、パフォーマンスの現場から~」(ゲスト:坂本史衣さん、ドミニク・チェンさん、MIKIKOさん)、【シリーズ・持続可能な舞台芸術の環境をつくる】として、昨年は「ライブでしか伝わらないものとは何か?」というテーマで、ライブの意義について考えたのですが、そこでライブ性には空間の共有と時間の共有があるということが分かり、劇場での公演も増えてきたので、今回は空間の共有に焦点を当てることにしました。
まず、今このテーマについて話すなら、コロナ禍の現状もきちんと踏まえておかなければと思い、感染症対策の最前線でご尽力なさっている坂本史衣さんにお声がけしました。ではそもそも空間の共有ってなんだろう、と思い、「お互いに影響を与えうる場に身を置くこと」と定義してみると、フィジカルな空間の共有だけでなく、今はバーチャルな空間の共有もけっこう重要じゃないかという気がしてきました。そんなこともあって、インターネットをはじめとするメディアの現状と歴史をよくご存知のドミニク・チェンさん、Perfumeのライブやリオ五輪閉幕式など最新のデジタル技術を駆使した演出で知られるMIKIKOさんにお声がけしました。実際にお話ししてみると、一人で考えていたときとはだいぶ違う風景が見えてきました。
ここであんまり詳しく話してしまってももったいないので、少しだけ。フィジカルな空間を共有するというのは、つまり一時生死を共にするということなんだな、と思いました。なんだか無味乾燥な題名にしてしまったような気もしていたのですが、エモーショナルな瞬間が多かったのが印象的でした。
そして舞台芸術の面白さは、バーチャルな空間を、このフィジカルな空間に重ねることなのではないかと思えてきました。昨年の時点では、ライブ性に焦点を当てた結果、舞台芸術のバーチャル性についてはあまり考えられませんでしたが、言葉も、振付も、あるいは人が「死ぬ」ということを考えることですら、人と人の間で作られてきたバーチャルな空間を抜きにしては考えられないということに気づかされました。
かつてはそんなバーチャルな空間の共有にもフィジカルな空間の共有が欠かせない場面が多かったのですが、今ではフィジカルな空間を共有することは選択肢の一つとなりました。だからこそ、その意味をきちんと考えたうえで、それを選択することが重要になってきます。
実際に人が生き、死んでいくフィジカルな空間の重要性は、もちろんこれからもそう簡単に変わっていくことはないでしょう。そのフィジカルな空間にどう意味を重ね合わせていくのかも、私たち人類の課題でありつづけていくはずです。そこに舞台芸術がどのように関わっていけるのか。お三方のおかげで、深く考えさせられる時間となりました。ご覧くださった方はぜひご感想やご意見をお寄せください。

【シリーズ・持続可能な舞台芸術の環境をつくる】

東京芸術祭 2022 シンポジウム

「なぜ他者と空間を共有するのか? ~メディア、医療、パフォーマンスの現場から~」

紹介サイト:https://tokyo-festival.jp/2022/program/symposium_d

場所:オンライン配信

言語:日本語(近日中に英語字幕も)

登壇者:

坂本史衣(聖路加国際病院QIセンター感染管理室 マネジャー)

ドミニク・チェン(情報学研究者)

MIKIKO(演出振付家/ ダンスカンパニー「ELEVENPLAY」主宰)

モデレーター:

横山義志(東京芸術祭リサーチディレクター)

多田淳之介(東京芸術祭ファームディレクター)

人に会うって、リスクなの?

コロナ禍を通じて、いよいよ多くのことがオンラインで出来るようになりました。それでもなお空間を共有したいとすれば、あるいはせざるをえないとすれば、それはなぜなのか。メディア、医療、パフォーマンスの専門家とともに、空間を共有することの意義を問いなおしてみたいと思います。

プログラムディレクターコメント

東京芸術祭では、「シリーズ 持続可能な舞台芸術の創造環境をつくる」として、舞台芸術が今日直面している課題について論じる場を設けています。今年のシンポジウムでは、コロナ禍によって困難になった「空間を共有すること」、「国境を越えて移動すること」に焦点を当て、さまざまな現場で活躍する専門家から、今まさにお考えになっていること、試みていることをうかがっていきます。ポストコロナ時代に向けて、みなさんと一緒に、これからの上演や国際交流のあり方を考えていきたいと思います。

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「演技論」という言葉 2022年12月3日

日本語で「西洋演技論史」というのを書こうとしているということの奇妙さに、ふと気づかさ日本語で「西洋演技論史」というのを書こうとしているということの奇妙さに、ふと気づかされた。思えば「演技論」などという研究ジャンルはフランス語でも英語でも存在しない。フランス語の博士論文は「俳優術(art du comédien)」について書いたし、英語では「演技理論(theory of acting)」について研究している、と説明することが多い。だが、たとえば最近は教会法やローマ法における俳優の位置づけについて調べているが、これはどちらにもあてはまらない。自分がやっている「演技論史」というのは「演技について語られてきたこと」についての歴史であり、それをフランス語や英語にしようとすると、「演技についての言説の歴史(histoire des discours sur l’art du comdien, history of discourse on acting)」とか、なんだかややこしい言い方になってしまう。なんでこんなことになってしまったのか。
もとをたどれば、リアリズム的演技の起源を知りたかったのだが、俳優が書いた実践的な「演技理論」などというものはせいぜい一八世紀くらいまでしか遡れない。でも、そこで「よい演技」とされているものは、特定の社会的・歴史的背景から要請されたものであって、そこで使われている語彙は弁論術、哲学、神学、法学、文学等々のなかで使われてきたものの借り物だったりする。「演劇独自の価値」などというものは存在しないのであって、そういうネットワークの全体を見なければ、なぜそのような演技がよいということになったのかは理解できないし、一八世紀より先に遡ることすら難しくなってしまう。
というわけで、日本語の「演技論」という言葉がなんだかしっくりきた。日本語で書くと、西洋語の言説をある種突き放して相対化できるというメリットもある。西洋語で書いていると、自分が書いている言葉自体を分析・批判しながら書くというややこしい作業をしなければならない(まあ日本語でも結局翻訳語を多用することになるので、ある程度そうならざるをえないが)。ふたたび西洋語で語らなければいけない機会に、「日本語からの視点で西洋語で西洋演技論を語る」というアクロバティックなことができるか、考えてみたりしている。

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