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1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(3) 舞台芸術の構造的危機 2017年3月19日

(承前)

2.米国における実験的演劇の製作状況

2.1.舞台芸術の構造的危機

まずはアーティストの視点から見ていこう。以下のイヴォンヌ・レイナーの言葉が、この時代のニューヨークの実験的な舞台芸術の経済状況とその変化を端的に示している。

「ニューヨークで生活することの経済的な負担が、・・・自分たちがやっていることによってみずからの生活を維持することへのいかなる期待をも抱かないことを許したのです。成功は人が招待された展覧会の数ではなく、仲間内での尊敬によって測られていました。・・・市場経済に乗せることのできる売買可能な品物を作ることからくるプレッシャーは、ダンスの制作においてまったく欠如していました。これは私たちを金銭的報酬の可能性から自由に――そして幸福にもそれを忘却しながら――制作することを許したもうひとつの要因でした。

私があなたに見せびらかしている「古き良き時代」は、だいたい1960年から64年のあいだのほんの数年しか続かなかったことを認めなければなりません。その後には全面的なディアスポラが――地理的にも職業的にも――起こりました。アーティストたちは自分のギャラリーと教職を見つけ、コレオグラファーたちはカンパニーと役員会によってみずからを制度化しはじめました。これは前衛の活動がたどる一般的な道筋のようです。」

若いアーティストへの手紙/イヴォンヌ・レイナー(訳:中井悠)

http://nocollective.com/transferences/rainer/letter.html

この「1960年から64年」というのは、ほぼケネディ政権に相当する。この表現から、1965年に大きな変化があったことが見えてくるが、まずはケネディ政権下の芸術活動の状況を見ていこう。以下、主にフレデリック・マルテル『超大国アメリカの文化力』から(ほとんど読書メモです)。

米国では1960年代初頭、文化的活動と芸術鑑賞の機会が増え、「文化ブーム」という言葉が流行していた。五〇〇〇の劇団、七五四のオペラカンパニー、二〇〇のダンスカンパニーがあり、美術館・博物館もほぼ一〇年で四倍に増えた。ケネディも「野球の試合に行く人よりも音楽会に行く人の方が多い」と繰り返し語っている。だが、このうちプロといえる劇団や楽団はそれほど多くなかった(マルテル『超大国アメリカの文化力』p. 31)。レイナーの言葉からも見えるように、ブロードウェイなどのいくつかの限られた場所以外では、舞台芸術を職業として生きていくということが考えられる状況ではなかった。

とはいえ、「文化ブーム」のなかで需要は喚起されたものの、プロとしての舞台芸術家を雇用している特権的な場所においてすら、労働環境はかなり厳しかった。それが露呈したのが1961年のメトロポリタン・オペラの労働争議である。同年夏、低賃金を不服とする音楽家たちがストライキに突入。経営陣は「幕が上がるたびに」赤字が嵩む、とし、労働組合の交渉も不調に終わる。シーズンが中止され、500人が解雇の危機にさらされた。スター歌手たちに懇願されたケネディは労働長官アーサー・ゴールドバーグに調停を命じ、この種の社会紛争にはじめて連邦政府が介入することになった。不満は国内の他のオーケストラにも広がっていた。

ゴールドバーグはこれが構造的問題であることを認め、「民間」の文化施設に対する公的助成という考えをはじめて提示し、入場料収入とフィランソロピーという伝統的財源のほかに、営利企業・労働組合・州や都市・連邦政府の六つの異なる財源から資金を獲得することで収支を均衡させ、同時に創造の自由と多様性を確保すべきだとした。この「ゴールドバーグ宣言」が画期的だったのは、「連邦政府」が民間の芸術活動の財源の一つとなる可能性を提示したことだった。ゴールドバーグは文化分野への支援を検討するために「連邦芸術諮問会議」の設置を提案した。このあと、1962年夏に、ケネディは大統領特別補佐官シュレジンガーと特別文化補佐官アウグスト・ヘクシャーに、現在連邦政府や州政府が行っている文化に関する施策、ヨーロッパで行われている文化政策、芸術のための免税制度等について詳細な調査を依頼した。ヘクシャーは1963年6月に詳細な報告書を提出し、芸術家・文化機関に助成金を交付する連邦機関「全米芸術財団」の設置を提言した。同月、「連邦芸術諮問会議」も創設されることになった。これらはメディアからは評価されたが、ケネディは議会との関係に苦慮しつづけ、芸術支援事業を法制化するには至らなかった。ケネディは同年11月に暗殺される(p. 46-48)。

つづくジョンソン政権の時代に、舞台芸術の危機的状況をより俯瞰的に示す重要なレポートがいくつか発表される。一つは二人の若手経済学者ウィリアム・J・ボウモル、ウィリアム・G・ボウエンによる『舞台芸術 芸術と経済のジレンマ』(原著刊行は1966年、邦訳1994年、池上 惇・渡辺守章監訳)。大量生産時代にあって、舞台公演は手作りでしか成り立たないという特異性があり、「だれも、45分間のシューベルトのカルテットを演奏する労働コストを削減することはできない」。そのために、今日の舞台芸術は慢性的な危機状況にある。赤字を埋めるためには今後10年間で入場料を70%上げなければならないが、そうすると観客が減り、さらに一席あたりのコストがさらに増大するという悪循環を招く。唯一の解決策は観客数の母集団を引き上げること。この時点ではまだ舞台公演はほとんど大都市に限られてきたが、地方での公演を増やし、庶民やマイノリティの観客にも芸術を開放することが必要だ、と主張した。同時期に発表されたロックフェラー兄弟基金による報告書も、プロの実演家となることが困難な状況にあることを指摘し、「文化の民主化と芸術的質の両立」を目指すべきだとしている。そして、フィランソロピーだけが芸術家の自由を保つことができる、としながらも、州や市の助成金拡大を促し、さらにはじめて連邦政府にも支援を呼びかけることを提案している。以下の言葉は、「文化の民主化」という新たな思想を端的に表している。「芸術はごく少数の特権階級のためのものではなく、万人に開かれていなければならない。…文化が占める位置は、社会の周縁ではなく中心である。文化は娯楽の一つの形態ではなく、我々の福祉と幸福に欠くことができないものだからである。」

これと並行して、アーティスト側の意識も変化しはじめる。オーケストラ・美術館・博物館などは芸術活動の自由を護るために公的助成に激しく反対してきたが、1960年代に財政的安定が崩れると、より開かれた態度を示すようになる。そして劇場連絡協議会、オペラ・アメリカ、ダンスUSAなど専門団体の組織化がフォード財団やロックフェラー財団の支援を受けて進み、労働組合とともにロビー活動をはじめるようになる。これらもケネディ・ジョンソン政権が芸術活動の支援を構想する背景となった。(p. 67-71)

(つづく)

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