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パフォーマンス・スタディーズの80年代以降の展開 2016年12月28日

2016/09/17

(承前)パフォーマンス・スタディーズは、70年代末~80年代初めの成立当初には文化人類学との結びつきが強かった。1960年代~70年代にはアフリカや中東諸国の独立が相次ぎ、文化人類学は植民地的状況を背景にした研究のあり方への見直しが迫られていた。パフォーマンス・スタディーズはこの動きを受けて、西洋中心的な「演劇」・「ダンス」といった概念を再検討するに至った。ニューヨーク大学に世界で初めてのパフォーマンス・スタディーズ科ができたのは1980年。

だが、80年代はエイズ危機の時代でもあった。トニー・クシュナー『エンジェルズ・イン・アメリカ』第一部は1989年発表。古橋悌二さんは1985年にはじめてニューヨークに行き、1992年にHIV陽性を発表。1993年にACCグランティ。ダムタイプの『S/N』は1994年に初演された。セクシャル・アイデンティティの問題がとりわけこのニューヨークで、何よりも重要な社会的問題の一つになった背景には、全国どころか世界中からセクシャル・マイノリティーが集まってくる、というこの町特有の事情もある。同時期にフェミニズムも新たな展開を迎えている。ダナ・ハラウェイの「サイボーグ宣言」が1985年。

セクシャル・アイデンティティの問題が重要な課題として扱われることになったのにつれて、植民地批判に留まらない、より普遍的な批判理論が重要視されるになった。80年代以降、「他者をいかに受け入れるか」という問題から、「他者としての自己をいかに社会に受け入れさせるか」、という問題に移行してきたように見える。これは、まさにパフォーマティヴな展開だったと言えなくもない。白人男性がエキゾティックな文化をいかに自分の生活に取り入れていくか、という問題が、それ自体コロニアルなものとして批判され、ヘテロ男性が作ってきたホモソーシャルな社会の中で、どうすればセクシャル・マイノリティーあるいは女性が正当な地位を獲得できるのか、という問題が、より切実な問題と見なされたことも納得はできる。この時に、文化人類学やポスト・コロニアリズムの理論が、必ずしも役に立たなかった、というのは確かだろう。とりわけ、フランクフルト学派やフーコー等のフレンチ・セオリーが重要性を持った理由も納得ができる。もう一つ、ポスト・コロニアリズムが盛り上がれていない背景として考えられるのは、全く異なる問題だが、セクシャル・マイノリティーとフェミニストがある程度連帯できたのに対して、なぜかアフリカ系、アラブ系、アジア系、ヒスパニック系の連帯ができていないということもある気がする。

だが、西洋中心主義から逃れようとしていたはずのパフォーマンス・スタディーズが、いつの間にか再びフランス現代思想に根拠を見出そうとしているのは、なんだか皮肉なことのように思えてならない。うがった見方をすれば、パフォーマンス・スタディーズのアカデミズムにおける制度化の中で、フレンチ・セオリーが、ある種の権威付けの役割を果たしたのではないかという気もしないではない。

また、セクシュアリティーがアイデンティティーの問題とみなされると、本質論的な議論になりがちに思える。そのなかで逆に、いかにして他者の欲望を自らのものにするか、あるいは、いかにして自らの欲望を他者に共有してもらうか、という問題が比較的マイナーな問題になってしまったとすれば、ちょっともったいないようには思う。また、ダナ・ハラウェイらによる生物学としての人類学に対する批判は重要だが、パフォーマンス・スタディーズにおいて理科系の人類学・心理学との関係性があまり見られないことも、私には少し残念なことのようにも思われる。

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