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1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(1) フランスの状況と米仏関係 2017年1月2日

2016/11/02

(改めて断っておきますが、ここで公開しているのは、見たこと、聞いたこと、考えたことなどをなるべくその場で書き留めておいて、あわよくばよくご存知の方に教えてもらおうという位の魂胆ですので、無知にもとづく誤解なども多々あると思いますが、お気づきの方はぜひご教示いただければと思います。というわけで、ちょっとした思いつきを書くつもりだったのに、いろいろ気になってきて、なんだか長くなってしまっていますが・・・)

60年代以降、米仏の演劇の間になぜ溝ができたのか。制作形態の変化がその原因の一つなのではないか。この問題にこだわるのは、今後日本の「公共」演劇がどのような道を取るべきなのかを考えるうえで重要な問題のように思えるからだ。

ニューヨーク大学でのフランス演劇をめぐるシンポジウムにおいて印象的だったのは、「アヴァンギャルド(前衛)」という概念をめぐる意識のずれだった。シェクナーが米国における「アヴァンギャルド・シアター」についての歴史と現状について語り、今日のフランスにはその対応物はあるのだろうか、という問いを発したのに対して、パリ第三大学のジョゼット・フェラルは「前衛という概念自体、今では意味を失っているのではないか」と答えていた。

フェラルはカナダ・ケベック州の出身なので、このときは一般的な話として受け取っていたが、そういえば米国に関しては、とりわけ1960年代~70年代の演劇・ダンスについて「アヴァンギャルド」という言葉がよく使われ、その後もある程度使われつづけている。たとえば邦訳もあるクリストファー・イネスの『アヴァンギャルド・シアター 〈1892-1992〉』(原著1993年刊行)では、少なくとも90年代まで「アヴァンギャルド・シアター」があったことになっている。

Avant Garde Theatre, 1892-1992, By Christopher Innes

https://www.questia.com/library/104687273/avant-garde-theatre-1892-1992

それに対して、フランスでは、この言葉がよく使われたのはベケットら不条理演劇の世代までで、それ以降はあまり使われなくなったように思う。イネスの著作ではジャン=ルイ・バローや太陽劇団も扱われているが、フランスでバローや太陽劇団を「アヴァンギャルド」と形容するのはあまり聞いたことがない。面白いことに、wikipediaの「太陽劇団」(1964年創立)の項目では、フランス語版には「アヴァンギャルド」という言葉が全く使われていないのに対して、英語版では「パリのアヴァンギャルド・ステージ・アンサンブル」という紹介がなされていた。

https://en.wikipedia.org/wiki/Th%C3%A9%C3%A2tre_du_Soleil

フランスでこの言葉が余り使われなくなったのは、理念の問題だけではなく、舞台作品の制作形態の変容にも起因しているのではないか。1950年代までは、フランスと米国の実験的な舞台芸術の生産形式、つまり興行形態にはまだ大きな違いがなかった。フランスにはコメディ=フランセーズという国立劇場があるが、ここは少なくとも20世紀の実験的演劇(商業演劇と区別する意味で、とりあえずはこの言葉を使っておこう)にとって最も重要な場ではなかった。両国とも、1950年代の実験的演劇は主に私立劇場で上演されていた。1950年代、ブロードウェイに新たなビジネスモデルを持ち込んだプロデューサー、ロジャー・スティーヴンズは『ウェストサイド物語』のかたわら、ジロドゥー、アヌイ、ベケットといったフランスの同時代作家の作品を米国の観客に知らしめている(マルテル『超大国アメリカの文化力』p. 59)。これらの作家の作品はパリでも主に私立劇場で上演されていた。

だが1960年代以降、米仏両国で、実験的演劇の製作形態が徐々に変わっていく。パリでも50年代までは私立劇場の役割がきわめて重要だったが、60年代以降、徐々に公共劇場へと比重が移っていく。これを象徴するのが、この時期最も重要な演出家の一人であるジャン=ルイ・バローの動きだろう。ルノー=バロー劇団は1959年に私立のマリニー座を離れて、国立のオデオン座を本拠地とし(1959-68)、それまで私立劇場で上演されていたベケット、イヨネスコ、ナタリー・サロートといった同時代作家の作品を国立劇場で上演するようになる。

ルノー=バロー劇団は、米仏交流においても重要な存在だった。1962年の訪米ではジャクリーヌ・ケネディに迎えられ、公演は米国のメディアでも大きく取り上げられた。1965年にはメトロポリタン・オペラで『ファウスト』を演出している。オデオン座ではエドワード・オールビーやコリン・ヒギンズといった米国の同時代作家の作品も手がけている。そしてバローは1965年から「諸国民演劇祭(Théâtre des Nations)」の運営を担い、1966年にはリヴィング・シアター(同演劇祭には1961年につづいて二度目の参加)を招聘している。リヴィング・シアターとバローとの関係はその後思いがけない展開を見せるのだが、その話は追って。

この1960年代における米仏関係の「近さ」は、今の状況からすればちょっと意外に見えるかも知れないので、少し歴史的な流れを補足しておけば、フランスはもともとヨーロッパで最大の親米国だった。フランス王国はアメリカ独立戦争(1775~83、米国ではむしろ「アメリカ革命American Revolution」と呼ぶ)を支援して参戦し、これがフランス革命(1787~)の直接の原因の一つにもなっている。1803年にナポレオンは広大なフランス領ルイジアナ(現在のルイジアナ州はその一部に過ぎず、現在の15州に及ぶ)を合衆国に売却するが、ここで獲得した領土はそれまでの領土に匹敵するものだった。この時点で、多数のフランス語を母語とする住民が「合衆国民」となったわけだ。19世紀のフランス演劇では「アメリカのおじさん」というのが登場し、突然莫大な遺産を相続してハッピーエンド、という定番があったりもした。「自由の女神」は米国独立100周年を記念してフランスから贈られたものだった。

第一次大戦中にはジャック・コポー率いるヴィユー・コロンビエ座がクレマンソーの意を受けてニューヨークで2シーズンに渡って滞在している(1917-19)。そしてもちろん米国は、第二次大戦でフランスを第三帝国から「解放」した国でもあった。1948年から51年にかけて、マーシャル・プランで大規模な復興援助もしている。パリの中心部にウィルソン通りやルーズベルト通りやあるのもそのためだ。

いろいろ余計なことまで書いてしまった気もするが、要は米仏ともに、一世紀以上にわたって、互いを革命の大義を共有する世界に数少ない同士として認識してきた、ということだ。そして前衛という概念はもちろん、革命と結びついた政治的概念であった。

ド・ゴール政権(1959~69)は米国に対して独自路線の外交を展開したことで知られているが、米国との文化交流は盛んだった。同政権下で、はじめての文化大臣(1959~69)となったアンドレ・マルローはたびたび米国を訪れている。1963年に、ルーヴル美術館学芸員の強い反対を押し切って「モナリザ」を渡米させた際には、ケネディに対して、「(「モナリザ」のリスクよりも)あの日ノルマンディーに敵前上陸した若者達―さらにその前の第一次大戦末期に大西洋を渡った若者達は言うまでもないことですが―のリスクの方がはるかに大きいものでした。大統領閣下、あなたが今夜歴史的讃辞を捧げられてこの傑作は、彼らが救ったのです」と述べている(マルテルp. 36)。マルローはその前年の訪米で「(仏米両国のあいだに)大西洋の文化」というべきものが新たに形成されつつあると感じている、とまで語っている(p. 35)。マルテルはこのマルローを「最も親米のドゴール主義者か、さもなければ最も反共主義者」と呼んでいるが(id.)、少なくともこの世代までのフランス人には、二つの大戦で助けにきてくれた同志、という意識が残っていたのは確かだろう。

オデオン座をコメディ=フランセーズから分離して独立の国立劇場「オデオン座=フランス劇場」とし、バローを支配人に任命したのもこのアンドレ・マルローだった。マルローは1961年に「文化の家(Maisons de la Culture)」を創設するなど、舞台芸術の振興と地方分散化に大きな役割を果たし、その後のフランスの文化政策に決定的な影響を与えた。

もう一人、この時代のフランス演劇の重要人物をもう一人挙げるとすれば、ジャン・ヴィラール(1912~71)だろう。ヴィラールはコポーやジェミエといった前世代の演出家たちから「民衆演劇(Théâtre populaire)」という旗印を引き継ぎ、1951年から1963年まで「国立民衆劇場」(1952年からシャイヨー宮内)を率いていた。国立民衆劇場は1947年に創立されたアヴィニョン演劇祭(当初は「アヴィニョン芸術週間」)とともに「民衆演劇」の拠点となっていく。国立民衆劇場はヴィラール時代には古典の上演が多かったが、次のジョルジュ・ウィルソン時代(1963~72)にはジロドゥー、サルトルに加えブレヒト、ジョン・オズボーンなど、積極的に同時代作家を取り上げるようになっていく。

1965年にはオデオン座のルノー=バロー劇団もアヴィニョン演劇祭に参加するようになる。バローが「前衛」の場から「民衆演劇」の場へと移行できる状況が完全に整ったのがこの時代なのだろう。このあたりで、フランスにおいては、「(国立劇場による)公共の演劇(théâtre public)」と「民衆演劇(théâtre populaire)」、さらには「実験的同時代演劇」がだいぶ重なるようになってくる。このなかで、多くの演劇人に共通の旗印として選ばれていくのが、最も曖昧な「公共の演劇(théâtre public)」という概念だったのだろう。この時代のフランスの状況においては、ほぼ「公共劇場」=国立劇場であり、publicには「公立の」という意味もあるが、さらに「観客/公衆(public)のための」という含意もあり、「民衆的な(populaire)」にきわめて近い意味でも解釈しうる。1974年に演出家ベルナール・ソベルが「テアトル/ピュブリック(Théâtre/public)」誌を創刊するが、この時点ではソベルはまだ自ら創立した劇団「ジェヌヴィリエ演劇アンサンブル」の代表に過ぎなかった(この劇団が国立演劇センター「ジェヌヴィリエ劇場」になるのは1983年)。間に/があるのは、「公立劇場」についての雑誌なのではなく、むしろ演劇の「公共性」を問題にする雑誌だ、ということだろう。

話が長くなり、少々先走ってしまったが、要はフランスにおいては1960年代に「前衛」よりも「公共の演劇」という旗印の方が重要になっていく文脈が成立しつつあった、ということのようだ。

これにはおそらく1968年に起きたことも関連してくるのだろうが、まずは、とりあえずこのあたりで・・・。次回は米国の状況を。

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カテゴリー: ACC 文化政策

「世界演劇」とは何か

2016/10/30

「世界演劇」とは何か。「世界で認められる」といったときの「世界」とはどこか。

ACCのリサーチテーマは「アジアの舞台芸術の同時代性とパフォーマンス・スタディーズ」としたのだが、アジアの舞台芸術を「世界」の舞台芸術のなかにどう組み込めばいいのか、ということを考えるには、まず「世界」とは何か、ということを、もう少し細かく知っておく必要があるように思われてきた。

20世紀においては、もちろんそれは欧米のことだった。今世紀になって、特に現代美術においては中国市場が急激に膨張し、「世界美術」市場の地図はここ10数年で大きく変化してきた。「世界演劇」市場(というものがあったとして)においては、アジアにおける演劇祭も数多くなり、アジアの同時代作品が他の地域で取り上げられることも増えたとは思うが、美術に比べると、アジアの比重が劇的に大きくなったわけではないように思う。

ニューヨークに来たかったのは、最近アジア太平洋地域に行ける機会が少しずつ増えてきて、フランスやドイツでは取り上げられることがないようなアジアのアーティストや作品、西ヨーロッパとは異なるネットワークが存在する、ということを実感するようになってきたからだ。たとえば英国からインド、マレーシア、シンガポール、オーストラリア、ニュージーランド、カナダまでを含む旧英連邦のネットワーク。だが同じ英語圏でも、ニューヨークはさらに異なるネットワークに属しているように思われる。ヨーロッパのみならずアジア太平洋からアフリカまで、世界中ほとんどの地域と独自の回路をもち、多くのアジア人がここで舞台芸術を学んでいる。歴史的には日本や韓国、フィリピンとの結びつきも強い。

これらのネットワークは、互いに重なり合いつつも、まだかなりの程度独自性を保っている。それぞれのネットワークの独自性、共約不可能性は、作品をめぐる価値観の違いにあるようだ。そしてそれはある程度、作品の制作形態に依存するのではないか。・・・というのが、今のところの仮説だ。なので、米国における舞台芸術の制作形態について、もう少し知りたいと思っている。

ニューヨーク大学でのフランス演劇をめぐるシンポジウムで話を聞いたりして、最近分かってきたのは、米国とフランスでは舞台作品を評価する基準が微妙に異なるということだ。とりわけ1960年代を境に価値観の亀裂が生まれているように思われる。たとえば1950年代には米国はフランスの「前衛演劇」(ここではとりわけベケットやイヨネスコなどの「不条理演劇」)を積極的に受容でき、1960年代には両国の舞台芸術が驚くほどに交叉する状況があるが、1970年代以降、米国で知られるフランスの演劇人は少なくなっていく。なぜなのか。ラ・ママやジャドソン・ダンス・シアターの話を聞いて見えてきたのは、この1960年代に、米仏両国の舞台制作状況が大きな転換を遂げたということだ。というわけで、これから少し米国の1960年代の製作事情を見ていきたい。1960年代のアーティストたちはどこから製作資金を調達していたのだろうか。

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カテゴリー: ACC 世界演劇 文化政策

ラ・ママ実験劇場アーカイヴ

2016/10/28

ラ・ママ実験劇場のアーカイヴを訪問。劇場と同じ大きさのビル一フロア分を使って過去55年の舞台装置・小道具・衣装・ポスターなどが展示してあり、配布資料や上演台本、そして公演のビデオなどがきれいに整理されている。今日はオランダの大学から15人くらい、韓国から3人、そして私で、20人くらいでツアー。アーカイブ主任のオッジ・ロドリゲスさんがラママの歴史を熱く語ってくれる。30分かせいぜい1時間くらいかと思っていたら、劇場案内もふくめ、なんと3時間も語ってくれた。記憶に残った話をいくつか。(私の理解力によるものも含め、誤りもあるかも知れませんが、お気づきの方はぜひご指摘ください。)

ラ・ママの創設者エレン・スチュワートはシカゴ生まれのファッション・デザイナー。だが、シカゴでは黒人にデザイナーの仕事などなく、ニューヨークに出てきて、このイーストヴィレッジにアパートを借りた。当時イーストビレッジはドイツ人、ウクライナ人、ポーランド人、カリブ海からの移民、そして黒人が次々と住み着いてきたいわばゲットーで、エレンがそこを選んだのも、単に家賃が安いからだった。1960年代、ヴェトナム反戦運動、黒人の市民権運動、フェミニズム、ゲイ解放運動が一度に起き、ニューヨークは「セックス・ドラッグ・ロックンロール」の街に。ところがハリウッドやブロードウェイはそういった動きを反映することなく、相変わらず中流階層以上の白人が出てくる話ばかり。「戦争に行きたくない!」「どこも白人専用なんてやってられない!」「一日中キッチンにいるような生活はしたくない!」「ボーイフレンドと堂々と街を歩きたい!」といった気持ちを代弁をしてくれるところは全くない。

エレンはそんな状況を見て、ほかに自分を表現できる場所を持たないアーティストたちが自分の好きなことを言える場所を作りたいと思った。当時はゼロックス製のコピー機の発明などで産業構造が変わりつつあったところで、付近の印刷工場がつぶれたりして、使われていないスペースがたくさんあった。そんななか、ビルの地下室を借りて、発表の場として使えるようにした。当時はそんな先例はなく、黒人女性のところに白人がたくさん出入りしているのを見て通報があり、警察により不法使用として禁止された。だが、飲食店としてであれば不特定多数の人に来てもらう許可が得られる、という話を聞き、カフェとして登録することにした。店の名前を聞かれ、ちょうど内装をしていた人から「ママ、ここどうすればいいの?」と聞かれたので、「じゃあ「ママ」で」とエレンが答え、その場にいた友人の助言で「カフェ・ラ・ママ」という名前で営業をはじめる。

やがて、ヴェトナム戦争反対のメッセージをロックにのせて語る『ヴェト・ロック』(オープン・シアター、ミーガン・テリー作・演出、1966年)が大ヒット。ブロードウェイにも注目され、これがブロードウェイ初のロック・ミュージカル『ヘアー』として、世界的大ヒットになる。ラ・ママの活動に注目が集まるにつれ、大新聞の批評家もラ・ママでやっている作品に好意的な批評を寄せるようになった。ところがそれに対して、批評家にお金を払って記事を書いてもらっていたブロードウェイから圧力がかかる。そこで、エレンはラ・ママのレジデント・アーティストたちの作品をヨーロッパに紹介することを思い立った。当時ヨーロッパでは、アメリカ演劇といえばブロードウェイくらいしか知られておらず、演劇祭でヴェトナム戦争や黒人問題などを正面から扱った作品を見て、観客からも批評家からも大きな反響を得た。ニューヨークの文化人はヨーロッパコンプレックスが強いので、ヨーロッパで評価された、ということで、ブロードウェイから何と言われようとも記事を書かなければいけない、と思ってくれるようになった。

そして東京キッドブラザーズによる東京発のロック・ミュージカル『黄金バット』も大ヒット(1970年)。第二次世界大戦で敵国だった日本と米国のサブカルチャーがヴェトナム反戦を通じて響き合うことに。その後、寺山修司、鈴木忠志など日本のアーティストも次々に紹介され、2007年には日本で最も権威のある文化賞、高松宮殿下記念世界文化賞を受賞、等々。

東京キッドブラザーズ『黄金バット』ニューヨーク公演の経緯

http://www.sweat-and-tears.net/kid/

http://www.endless-kid.net/lamama/kid_an_lamama.html

高松宮殿下記念世界文化賞 エレン・スチュワート

http://www.praemiumimperiale.org/ja/laureate/music/stewart

ラ・ママには前田順さん以外にも日本人スタッフが少なくない。前回ラ・ママについて記事を書いたときに伺って驚いたが、『ヘアー』の演出家トム・オホーガンやロバート・ウィルソンと仕事をしてきた画家・舞台美術家のキクオ・サイトウさんは、藤枝市で手作りの家具を作っていらっしゃる斉藤衛家具工房の斉藤衛さんのお兄さんだそうだ。サイトウさんはこの春お亡くなりになり、9月にはラ・ママで記念式典が行われていた。

キクオ・サイトウ・メモリアル

http://lamama.org/kikuo-saito-memorial/

この充実したアーカイブも、エレンさんの意向で作られたという。様々な支援団体から支援をいただくのにも、何よりも生の資料や映像を見ていただくのが一番説得力がある。そして、この50年間の活動をより若い人たちに世代に届ける必要がある、という思いから作られたそうだ。アメリカ演劇に興味がある方は、ニューヨークにいらした際は訪問して損はないと思います。

ラ・ママ・アーカイヴ

http://lamama.org/programs/archives/

https://pushcartcatalog.wordpress.com/2014/09/09/history/

https://vimeo.com/30554340

ここで話を伺って、いろいろつながってきたことがある。その話はまた次回。

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イヴォンヌ・レイナーの「ノー ・マニフェスト」

2016/10/28

シェクナーの今週の授業のことが、数日経ってもなかなか頭から離れない。ジャドソン・ダンス・シアターの話。多少知った気になってはいたが、学生の発表と映像を見ながら、1960年代にはここまで行っていたのか、とちょっと呆然としてしまい、いまだにどう考えていいのかよくわからない。

コンタクト・インプロビゼーションという実践自体は日本でも広まったが、その背景にあるジャドソン・ダンス・シアターの思想やイヴォンヌ・レイナーの「ノー ・マニフェスト」(1965)については比較的触れられることが少ない(レイナーについては、木村覚さんや武藤大祐さん他による研究がある)。

No to spectacle.

No to virtuosity.

No to transformations and magic and make-believe.

No to the glamour and transcendency of the star image.

No to the heroic.

No to the anti-heroic.

No to trash imagery.

No to involvement of performer or spectator.

No to style.

No to camp.

No to seduction of spectator by the wiles of the performer.

No to eccentricity.

No to moving or being moved.

身体をモノとしてみること。それ以外のものとして見ることを徹底的に拒否としてみること。あらゆる神話を、あらゆる表象をそぎ落とされた身体を享受すること。しかし、そんなことが本当に可能なんだろうか。シェクナーはこれをダダイズムと比較したりもした。

あちこちでいろんな話を聞いている中で、なぜこんな話が出て来たのか、ということはちょっと分かるような気がしてきた。一つには、ニューヨークにはブロードウェイがあるということ。商業的な舞台芸術の極北ともいえるシステムが確立していたために、それをいわばアンチモデルとして、それとは全く異なるものを作りたいという意識があったのは確かだろう。逆に商業的な舞台芸術のシステムに乗ろうとしなければ、上演によって報酬を得てプロとしてやっていく、ということはニューヨークにおいては全く考えられなかった。以下のレイナーの手紙によれば、少なくとも1960~64年にはそんな状況だったようだ。

若いアーティストへの手紙/イヴォンヌ・レイナー(訳:中井悠)

http://nocollective.com/transferences/rainer/letter.html

そしてアメリカでは1950年代末からテレビが急激に普及しつつあった。もちろんこれについても、米国は世界の先端を行っていた。フレデリック・マルテルの『超大国アメリカの文化力』によれば、米国の知的エリートによるテレビへの反発と恐れが60年代以降の文化政策の大きな要因の一つになっていた。ニューヨークに来て驚いたことの一つは、アカデミズムにおけるフランクフルト学派、とりわけアドルノの影響の大きさである。これはもちろんアドルノが10年近く米国に亡命していたこともあるが、米国の中において、今に至るまで、これだけ大衆文化を批判する理論に興味を寄せている人が多いというのは意外だった。1960年代の米国の先鋭的文化人は、自国の大衆文化を批判しつつも、ヨーロッパ的なエリート文化をも批判し、米国独自の新たな民衆的文化を創造する、という極めて困難な課題を引き受けていた。イヴォンヌ・レイナーのマニフェストは、ある程度この文脈で理解することはできるだろう。イメージの消費文化は徹底的に拒否しつつも、特異な形で物質文化を徹底的に肯定してみること。

シェクナーから、このジャドソン・ダンス・シアターの遺産は、今どのように受け継がれているのだろうか、という問いが発せられた。ある意味で直接の継承者といえるのは、もちろん今でも毎週月曜日の夜にジャドソンチャーチに集っている「ムーブメント・リサーチ」はある。ジェローム・ベルやグザヴィエ・ルロワといった名前も挙げられたが、今一つピンとこない。議論のあと、シェクナーが最後に「少なくともこのあと、正しい道、間違った道というのはなくなったのではないか」と言っていた。レイナーが示した道はあまりにも険しく、その先に本当に道があるのかもよく分からない。だが、その荒野を歩いてみた人がいたということ自体は、何かしら希望になるような気もする。

Yvonne Rainer, Trio A (1966振付, 1978にソロで再演)

https://www.youtube.com/watch?v=TDHy_nh2Cno

http://www.getty.edu/research/exhibitions_events/exhibitions/rainer/

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米国の文化団体の「理事会」と寄付文化について

2016/10/26

米国の文化団体の「理事会」と寄付文化について。

なにしろはじめての米国長期滞在なので、何から何まで驚くことばかりなのだが、アメリカの文化団体の「理事会」というものの話も、ちょっと驚いた。例えば、ニューヨークの比較的若手の演劇集団に関する論文を読んでいたら、昨年理事の一人から、運営資金として匿名で4万ドルの寄付を受け、それによって制作者一人がアルバイトをやめて専属で働けるようになった、という話が出てきた。日本でもフランスでも、劇団や劇場の「理事」が400万円の寄付をした、という話は聞いたことがない。論文でも特筆されていたので、アメリカの若手劇団事情においてはそれなりに特殊な例ではあるのだろうが、対象と金額はともかくとして、少なくとも理事が寄付をするということ自体は「普通のこと」らしい。

以下、フレデリック・マルテル『超大国アメリカの文化力』(根本長兵衛他監訳、岩波書店、2009、p. 370-373)から。

「非営利文化団体の中枢にあるのは「理事会(ボード)」である。大美術館であろうと小さな劇場であろうと、この「理事会」が組織に対して責任を負い、無報酬で運営に当たる。裕福な寄付者はその財産と時間を文化団体に捧げ、ときには団体の運営力を注ぐあまり、その後半生全てを捧げてしまうこともある。

「理事会」のメンバー(理事)は、まず第一に、団体に多大な寄付をする人々なのであり、たいていはそれぞれの寄付可能額に応じて「理事会」の一員に選ばれている。「理事会」において、寄付は寛大さや善意に基づいて自由に行う行為ではなく、それは義務である。「ピア・プレッシャー」、すなわち仲間からの圧力。まさにこの表現がぴったりだ。・・・メトロポリタン・オペラの「理事会」に入るには毎年少なくとも二五万ドルの寄付をしなくてはならない・・・ニューヨーク・シティ・バレエの推奨額は控えめだが、それでも二万五〇〇〇ドルの寄付が必要だ。理事会のトップである理事長には、通常他の理事をはるかに上回る寄付が求められる。寄付額がずば抜けて多いことが理事長という肩書きを正当化するのであり、たいていは寄付額が多いことでその文化団体の「理事長(チェアマン)」という栄えあるポストに任命されるのだ。理事たちはそれぞれが模範となるべき寄付を行うが、それ以外の「資金集め(ファンドレイジング)」も彼らの重要な職務となっている。自分たちの人脈やネットワークを絶えず利用して、キャンペーンを張って資金を集め、そして自分たちが運営する文化団体のために寄付を蓄えていく。彼らは資金を見つけてくるからこそ、権力を持つことができるのである。

こうした理事会では、徹底した合議制に基づいて、文化団体の責任者の人選や給与の問題から、資産の投資・運用、団体の事業計画の大枠作りに至るまで、あらゆる問題を決めていく。したがってこの理事会に参加することはヴォランティア活動だが、重大な責務を課せられることになる。理事たちは時間や金銭面での重い負担を無報酬で引き受けている。通常、劇場の理事であっても観劇には入場料を払わなくてはならないし、美術館の理事でも入場券や館内レストランでの夕食は自腹を切らなくてはならない。こうしたものが寄付に対する特典として提供される場合には、それに相応する金額は税控除の対象から外れる。結局、理事は寄付者でもあり、ある意味で彼ら自身の資金の管理を任されて任されることになるわけで、それゆえ理事会に参加する事は重大な責任を伴うのである。

・・・「理事会」に参加する大半は権力の「転売」をするような、「影の実力者(パワー・ブロウカーズ)」とも呼ばれる金持ちであり、それぞれの地元で突出した資金力を誇る有力者たちなのだ。…地域の美術館や市の図書館の理事長に選ばれることでその人物が社会的な名声を獲得し、その地方で一つの成功遂げたことが誰の目にも明らかになる。」

先ほどの演劇集団の例は匿名ではあるが、少なくとも理事会のメンバーたちはそれが誰なのかを知っているはずだ。この寄付は、地方都市の名士のように、いわゆる「社会的な名声」を求めたものではないだろうが、少なくともそこには「私がこの文化活動を支えているのだ」という自負はあるのだろう。

私も昨年から舞台芸術制作者オープンネットワーク(ON-PAM)という団体の「理事」をやらせてもらっているが、時間は多少使っているはものの、「では年間100万円を基準にご寄付をお願いします」といわれていたら、到底引き受けられなかっただろう。そういえば、例えばパブリック・シアターやブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージック(BAM)など非営利の(大まかにいえばブロードウェイ以外の)劇場でやっている作品のチケットを買おうとすると、よく「何ドル寄付をする」という項目が出てくる。場合によっては、デフォルトで20ドルなり寄付をすることになっていて、しないのであればその項目を外す、という仕組みになっていたりする。日本人の感覚からすれば、なんで2,000円のチケットを買ってさらに2,000円寄付しないといけないのか、と憤慨しかないところだが、この仕組みは、非営利の文化事業がそもそも有志の寄付によって成り立っているものであり、それがなければ、本来はこのような「安価」で当該のイベントを享受する事はできないのだ、ということを意識させるものでもある。このような非営利の劇場には、「資金開発部(デヴェロップメント・デパートメント)」というのがあり、いわゆるファンドレイジングを主な業務としている。

ファンドレイジングの手段としては、通常の寄付とは別に、イベントによるものもある。ちょうど昨晩、私がグラントをいただいているアジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)のカクテル・パーティー+オークションというイベントがあった。私たちグランティーはもちろん無料で参加できるのだが、一般参加者の参加費は175ドル。メインイベントは1969年のグランティー篠原有司男さんによるボクシング・ペインティング。オークションでは、ACCの元グランティーが寄付した絵画・彫刻などの作品が参考価格2,000ドル程度から購入できることになっている。先日退官されたNYUの先生のためのガラ・コンサートは参加費750~1,000ドル。それなりの身分になると、日本の結婚式よりお金がかかるようなイベントにも顔を出さなければならないようになっているのだろう。

マルテルによれば、この仕組みはとりわけ1917年に制定された税法「内国歳入法五〇一条C項三」によって、非営利文化団体が「公共の慈善団体」として、寄付の税控除が認められるようになったことに由来するという(p. 366-367)。つまり、米国においても、これはちょうど一世紀以上をかけて作り上げられてきたシステムであり、これをそのまま日本に導入したところで、とりわけ今の経済状況の中で、到底同じような結果を期待することはできないだろう。何よりも、この仕組みが機能しているのは、財界人や一般の観客のうちに「文化を支えているのは自分たちだ」という意識を作ってきたことによるのだから。

このような仕組みがあるのは、米国では政府は芸術にお金を出さないからだ、という説明もされるが、実のところ、米国でも「政府」が全くお金を出していないわけではない。その話はまたいずれ・・・。

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カテゴリー: ACC 文化政策

フランスの単一言語政策と米国の複数言語政策について、あるいは二つの普遍主義について 2016年12月31日

2016/10/22

ちょっと話が戻るが、ニューヨーク大学でのフランス演劇に関するシンポジウムの話のつづき。フランスの単一言語政策と米国の複数言語政策(?)について、あるいは二つの普遍主義について。

フランスのアーティストから、「フランスは常に「受け入れの地(la terre d’accueil)」だった。フランス共和国の理念からも、フランスはもっと難民を受け入れるべきだ」という話があったのに対して、在米フランス大使館文化部の方から「シリア難民向けにその母語で舞台を提供するという計画はあるか」という質問があった。すでに30年以上ニューヨークに住んでいるフランス人。これに対して、フランスから呼ばれたフランス人アーティストの多くは「難民は数ヶ月でフランス語が話せるようになるので、フランス語で問題ない」という立場だった。これはフランスと米国の「普遍主義」のちがいを象徴しているように思えた。

最近知ってちょっと驚いたのだが、アメリカ合衆国にはなんと国語も公用語も存在しない。州単位では、英語を公用語としているところも結構あるが、連邦単位ではそのような規定はない。つまり、アメリカ合衆国の国民は、必ずしも「英語を話せる人」として定義されているわけではないのである。たとえばハワイ州、ルイジアナ州、ニューメキシコ州などには、公式あるいは事実上の第二公用語(ハワイ語、フランス語、スペイン語)がある。米国は建国以来、英語単一主義と複数言語主義(近年の用語ではEnglish OnlyかEnglish Plusか)のあいだで揺れてきたが、連邦単位では今に至るまでついに英語単一主義に関する合意を形成できなかったため、結果として、フランスに比べればはるかに複数言語の使用が認められているわけである。ニューヨークではスペイン語や中国語などで書かれた広告や掲示をよく見かける。中華街に行けば、中国語だけで書かれた中国系の地方議会議員候補のポスターがあったりする。このような掲示はフランスではまず見たことがない。フランス語の保護をうたうトゥーボン法(1994年制定)に反する行為だからだろう。(ですよね?詳しい方がいたら教えてください。)

米国の言語政策については、たとえばこちらを参照

http://www.yoshifumi-sato.com/old_html/note/backnumber/note1.html

http://user.keio.ac.jp/~rhotta/hellog/2013-11-09-1.html

また、翻訳に関するパネルで、「ドイツ語の方言をフランス語の方言に置き換えて翻訳することはできない、たとえばミュンヘン方言をマルセイユ方言にしてみても滑稽なだけになってしまう」という話があった。連邦制でもともと地方ごとの自立意識が強いドイツにおいては、それぞれの地域において、その地域特有の言葉が一定の誇りと郷土愛をもって話されているのに対して、フランスでは必ずしもそうではない、といったところだろう。

こういった話を受けて、フランス・フランス語圏の劇作家たちに、「フランスにおける単一言語主義政策に対して疑念をもったことはないか?」と質問してみたが、この問いにまともに答えてくれたのは、アルザス語・アレマン語も話されているストラスブールの出身でドイツ語戯曲の翻訳をしている方くらいだった。彼はフランスがEUで唯一「ヨーロッパ地方言語・少数言語憲章」を批准していないことを指摘してくれた。だが、それに対して他の劇作家たちから何の反応もなかったところを見ると、フランスの多くの演劇人にとって、これは大きな問題とは捉えられていないのかも知れない。実はフランスにおいても、フランス語を国民全員に話させる、ということは、「全国」単位で見れば、それほど古い話ではない。むしろ17世紀から推し進められているフランス語パリ方言への同化政策、つまり地方言語・方言を圧殺していく政策が今なお推進されているということである。(ドーデ「最後の授業」が、実はドイツ語に近いアルザス語を母語とするアルザス人にとってはかなり複雑な話だった、等々。)他方、EUが「地方語の保護」を打ち出すのは、ヨーロッパ全土における「言語の統一」は現状において政治的選択肢とはなりえないからでもある。

フランスにおいては公式には民族による差別は否定されているので、フランス語がフランス王国だけでなくフランス共和国の国語ともなったのは、少なくとも理念的には、それが特定の民族の言語だからではない。むしろ、それが革命の理念である啓蒙主義を胚胎した言語だからであり、革命後の公教育において共和国の理念を全国に広めた媒体だったからである。フランス語ができればルソーやヴォルテールを読むことができる。つまり有り体にいえば、共和国の理念にアクセスしやすい言語と、そうでない言語があるということだろう。逆にいえば、アルザス語、ブルトン語、コルシカ語等々を長年にわたって公教育から排除してきたのは、それが共和国の理念の媒体ではなかったからだ。

「フランス語」問題についてフランス人に質問すると、まずはじめに返ってくる返答は、(アメリカのように)公の場で複数の言語を使用することを許容してしまうと、それぞれの言語にもとづく共同体(たとえば「チャイナタウン」やアラビア語などの共同体)ができ、共和国が分断されてしまう、というものだ。この議論は革命期のジャコバン派の政策に由来する。1790年の時点では、正確な「国語」を話せる者は人口の1割超に過ぎなかったといわれる。革命政府は一度同年に「言語の自由」を宣言するが、やがてジャコバン派主体の革命政府は、地方の反革命派が反旗を翻しつづけているのを見て、それを撤回していく。このあと推進されていく単一言語政策の論拠は、以下のベルトラン・バレール(1755-1841)の言葉に集約されているといってよいだろう。

「最初の国民議会で採択された法令をフランスの方言に翻訳するのにどれほどの出費を要したことか。まるで、我々の方がこうした野蛮な、わけの分からない言葉、下品な方言を擁護しているようではないか。こうした方言なぞ狂信者や反革命主義者にしか役に立たないというのに!」

(以下より)

大場静枝「フランスの言語政策と地域語教育運動-ブレイス語を事例として-」

https://www.waseda.jp/inst/cro/assets/uploads/2010/03/b85db14613fbec321910ced448fe48a0.pdf

つまり、ここでは1)国語としての「フランス語」以外の(多くの場合筆記言語としての普及率が低い)言語において「理性的」な思考とコミュニケーションが可能か、という問題と、2)複数言語コミュニケーションにおける経済効率の悪さという問題が提起されているわけである。

私もフランスにいる間は、この「共同体主義(コミュノタリスム)を防ぐ」という理屈にある程度納得していたが、ニューヨークに来てみて、本当に共同体主義はそんなに悪いものなんだろうか、と自問するようになってきた。少なくともニューヨークの状況を見ていると、複数言語の使用によって決定的に分断された共同体ができてしまっているかというと、そうも思えない。たしかに中国語を母語とする移民は、チャイナタウンに住み、中国語だけ話して生きていくことも可能ではある。だが、中国語でも地方語を母語とする場合には、北京語を学ぶよりもむしろ英語を学ぶ人も多いだろう。本当に英語を全く話さずに暮らしている中国人がそれほど多いとは思えないし、米国の中華系移民の英会話能力がフランスの中華系移民のフランス語会話能力よりも平均的に劣っているという気もしない。ニューヨークの街中を歩くカップルを見ていれば、「同じ民族のパートナーを選ぶ」という傾向が特に強いようには思えない。この米国の言語政策が見せるある種の鷹揚さの背景には、英語の経済・文化面における圧倒的な優位もある。移民の子どもたちも英語のテレビドラマとハリウッド映画を観て育ち、就職のために英語によるコミュニケーション能力を磨く。そのため、とりわけ二世代目以降は「異人種間結婚」の割合も高い。ただ、米国が歴史的に共同体主義を許容してきた背景には、言語の問題とは別に宗教的共同体の問題があり、さらには黒人問題もある。このあたりも考えに入れなければ、フランスがなぜ共同体主義を断固として拒否してきたのかが見えてこないだろう。

米国の場合はともかくとして、フランスの場合、「地方語」の問題と「異国語」の問題は一応分けて考えてみよう。フランスにおいて、いわゆるフランス語を話すことが異国の出身者を受け入れる際の条件となっていったのは、おそらく17世紀以降だろう。16世紀までは、他国出身の知識人がフランスを拠点にラテン語で教え、著作する例は多かった。演劇史においては、17世紀にイタリア語でコメディア・デラルテを上演していたイタリア人劇団が追放されていったことは「フランス語演劇史」において重要な出来事だったといえる。一方でやはりイタリア出身のジャン=バティスト・リュリ/ジョヴァンニ・バッティスタ・ルッリは、フランス語をマスターし、フランス語特有のリズムを重視したオペラをつくることで、宮廷で生き残ることができた。そして18世紀にふたたびフランスに戻ってきたイタリア人劇団も、フランス語での上演を余儀なくされていく。これらの出来事を解釈するうえで知っておくべきなのは、16世紀以来フランス語が「国語」と規定されてはいても、フランス王国「臣民」のなかには、とりわけ東部・南部国境付近ではイタリック語派の言語を話す人々が少なくなかったということである。

そもそも、異国語を話す他者を受け入れる際に、自らの言語を話すことを受け入れの条件とすることは、「歓待」の論理として、本当に正当なのだろうか。フランス語を話す人のみを「共和国の理念を共有できる人」として受け入れる、という話になれば、マリーヌ・ル・ペン以降の国民戦線のアイデンティタリスム的な路線とさして大きく違わないところに落ち着きかねない。フランスの単一言語政策は、本当に「理性」に基づくものなのか。あるいはむしろ異国語を話す共同体へのほとんど動物的な恐怖を、疑似論理で正当化したものに過ぎないのだろうか。

もう一つ、フランス人がもちだすのは、政治的合意を成り立たせる「対話」が困難になってしまう、という理屈だ。だがよく考えてみると、多言語の国においては対話によって共和国あるいは民主主義国家を成立させることはできないのか、というと、そんなこともないはずだとは思う。民主主義なり共和主義なりといった理念が一つの言語を超える普遍的なものなのだとすれば、もちろん効率は悪くなるだろうが、翻訳を通じての対話は可能なはずだろう。少なくとも、国会においても同時通訳が不可欠なインドという例はある(「対話」がうまくいっている例として適切なのかは難しいところだが)。

より原理的には、共和国の理念の普遍性と単一言語政策のあいだには矛盾があるように思われてならない。共和国の理念が言語を越えた普遍性を持っているのであれば、それはいかなる言語にも翻訳可能でなければならない。たとえばフランスにおける共和国の理念が普遍的かついかなる言語にも翻訳可能なもので、言語よりも重要なのであれば、シリア難民にフランス語を教えるより先に、まずアラビア語シリア方言で共和国の理念を共有してもらった方がいいかも知れない。そして、通訳や翻訳を通じた対話や政治参加も原理的には可能だろう。一方で、もしある言語でしかうまく表現できない思想があるのだとすれば、そして、共和国においてはあらゆる思想を表明できるべきなのだとすれば、あらゆる言語を尊重すべきだということになる。

もちろんこの単一言語政策は、日本の近代化において推し進められていった政策でもある。アイヌとして初めての国会議員となった萱野茂さんが、1996年に国会においてはじめてアイヌ語で質問したときのことを、今でも忘れることができない。今となってはアイヌ語を母語とする話者はかなり少なくなっているようだが、翌年成立した「アイヌ新法」や最近の北海道新幹線開通にも関わらず、近年は「全国」単位でアイヌ語問題が取り上げられる機会がほとんどなくなってしまった気がする。

萱野茂さんの質問

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/131/1020/13111241020007c.html

Cf. 佐藤知己「アイヌ語の現状と復興」(2012)

http://www.ls-japan.org/modules/documents/LSJpapers/journals/142_sato.pdf

なんでここまで「国語」の問題が気になるのかというと、日本のように単一言語政策が極めて成功してきたところにいるとなかなか気づかないが、演劇が結果的にせよ単一言語政策の媒体として機能してきたという現実があるからだ。言語を使用する演劇作品の潜在的観客数は、その言語の話者数によって規定される。当然多くの場合、その予算規模もそれに相関する。演劇作品が後世に残るか否かについても、観客数や予算規模、そしてとりわけ、それが筆記言語であるか否かに依存する部分が大きい。となると、演劇にとってはどうしても複数言語政策よりも単一言語政策のほうが有利になりがちなのである。これは、演劇が「国民国家」という制度とともに発展してきた理由でもある。だが、国民国家という制度自体を問わなければならない時代になったとすれば、演劇を成り立たせる仕組みにも問いを向けなければならない。

「国語」は社会階層の問題でもある。フランスの小児科で働いている友人がある時、「正書法というのは文化的エリートとそうでない人を区別するためにあるんじゃないか。履歴書やモチベーションレターでは、綴りを間違えていないかによってフィルターがかけられる。バカロレアでも一緒だ」と話していた。正書法というのは、たとえば日本語でいえば「こんにちは」を「こんにちわ」と書いたら間違い、というたぐいのものだが、日本語の仮名遣いや漢字と一緒で、フランス語のつづりにもいろいろややこしい規則や例外がある。この正書法はフランスでは首相が議長を務め、アカデミー・フランセーズ会員などが加わる「フランス語高等審議会」が決めている。いくら頭が良くても、この正書法をマスターしていないと、なかなかエリート層にはアクセスできないわけだ。フランスで劇作家として生き残っていくには、この正書法をきちんと身につける必要がある。これに疑いを持ち、拒否するような人が劇作家として生きていける可能性は非常に低い。フランス演劇についてのシンポジウムでも話に出たが、ジュネは以下のインタビューで「私の拷問者たちと呼ぶべき階層によく知られているフランス語で書く必要があるのです。俗語を使えるのはブルジョワの作家だけなのです」等々と語っている。

http://www.lepetitcelinien.com/2011/12/jean-genet-propos-de-celine-et-largot.html

だが、ジュネの特異な言語をもってしてもなお演劇は「正しい国語」を流通させることに資するものになりうるのだとすると、それはそれで、このシステムから逃れることの困難をいよいよ実感させられるものでもある。

・・・こんなことを一人で考えていたのだが、あとで、アメリカのフランス文学研究者が、「私もフランスにおけるフランス語単一言語政策は、一種のモノテイスム(単一神信仰)だと思う」と話しかけてくれて、ちょっと救われた気がした。

(追記)

この問題が語りにくいのは、それがいわば近代国家の原罪のようなものだからだろう。実際問題として、例えば明治期の日本は「西洋列強」に倣ってなんとか「国語」をつくることに成功したわけだが、もしそれが成功せず、薩摩と九州、東京と京都で異なる言語が使われつづけていたとすれば、植民地化を免れえなかったかもしれない。

一方、明治6年の時点で、留学から戻ったばかりの青年森有礼は、日本語の口語は近代化を遂げ、西洋列強と互角に渡り合うには貧しすぎる、と考えていた。このとき森が考えたように英語を「国語」として採用していたら、「日本」という国の形もかなり異なるものになっていただろう。森がそのような提案をなしえたのは、ヨーロッパ以上に米国での経験が大きかっただろう。ベネディクト・アンダーソンによれば、ヨーロッパにおける国民国家形成においては「国民的出版言語」が大きな意味をもったのに対して、それにほぼ先行するアメリカ合衆国を含む南北アメリカの「クレオール国家」の独立運動においては、言語を共有する「本国」からの分離を要求するものだったので、言語問題は争点とはならなかった(『想像の共同体』第4章~第5章)。南北アメリカの分離運動において、焦点はむしろ出生地にあった。「アメリカ人」とは、なによりもまず、(多くはかつて「クレオール」と呼ばれていた)アメリカ大陸で生まれた人々のことなのである。米国の国籍方が出生地主義を取るのもそのためだろう。幕末に薩摩藩士として18歳で渡英し、3年間の日本滞在を経てふたたび外交官として米国に渡っていた森にとって、「日本諸語」の現状はほとんどクレオール的なものに見えたのかも知れない。

このような規模・効率・「国際」的力関係といった問題は、原理的問題とは別として、もちろん、今何が可能か、ということにも関わってはくる。しかしこれだけを教訓に今後100年の道筋を考えるのは誤りだろうし、ここから「演劇が何を問題にすべきか」を演繹すべきでもないだろう。

フランスの単一言語政策と米国の複数言語政策について、あるいは二つの普遍主義について へのコメントはまだありません
カテゴリー: ACC 文化政策

ラ・ママ実験劇場美術家、前田順さんのお話

2016/10/21

ラ・ママ実験劇場美術家の前田順さんのお話。前田さんはラ・ママで働きはじめてから43年。「もうラ・ママには俺より古いのはいないね」とのこと。今でも毎日劇場にいらしているという。先日劇場で案内係が「マエダサン!」と挨拶をしているのを見てお声をかけたら、作業場見学に誘ってくださった。

今日作業場にお伺いしたときには、日本の民話「鶴の恩返し」をモチーフにした作品のために、竹の箸を使って羽を作っていらした。竹の箸を何枚かに割り、その一方の端を割いてささがき状にし、それを編み上げていく、という気の遠くなるような作業。他に、アルミ缶を割いて細く長い帯状にし、それを編み上げて形を作る作品も。素手でその作業をしていると、はじめは手がささくれ立って血だらけになり、よくエレンに「もうやめてよ」と言われたが、つづけているうちに、ささくれないように切れるようになっていったという。

日大を卒業して工務店に就職。当時、同じ工務店に、楯の会の若手がよくアルバイトに来て、一緒に「塹壕堀り」などをしていた。その後、日大闘争が始まり、現場経験を活かして、建物確保の最前線で活躍。ベ平連にも参加。出身地の仙台で寺山修司の映画の上映会や石牟礼道子の水俣病に関する講演会を企画。

工務店では主にブルドーザーを操作していたが、別荘地の造営で道を作っているときに、やたらとウサギが跳ねてくるのを見て、獣道を寸断していることを知り、嫌になってくる。その頃、東京キッドブラザーズの作品作りのために、劇団員と一緒に、全て手作りで山荘を作ることに。これに感嘆した東に「セットを作ってくれないか」と言われ、「セットなら家を建てるより簡単だ」と即答。東京キッドブラザーズのために、プロレスリングの上に巨大なボートを立てる。資材は森ビルの資材置き場から調達。

東京キッドブラザーズは『黄金バット』でニューヨーク公演をすることに。紆余曲折あって、ラ・ママが引き受け手となった。ハワイ、ロサンゼルス経由でニューヨークへ。工具を買ったらお金がなくなり、ポケットには100円しかなく、両替もしてもらえず、コーヒーも飲めなかった。ラ・ママでは地下の作業場に段ボールを敷いて寝た。ニューヨーク大学の金属ゴミ集積場で資材を調達し、舞台を組み立て、大ヒット。この舞台美術を見たエレン・スチュワートに、ニューヨーク市から1ドルで受け渡された新劇場の内装を依頼された。東京キッドブラザーズが帰国してもラ・ママに残り、今に至るまで働きつづけている。別の東京キッドブラザーズ公演では、劇場の壁に穴を開けてワイヤを通し、空中を本物のオートバイが走る仕掛けを作った。この穴は今でも残っている。

ラ・ママで思い出深かったのは寺山修司やタデウシュ・カントールの公演。寺山の『盲人書簡』を上演した際には、五カ所の非常灯すべてに人を配置し、非常灯を完全に隠す箱を作って、光漏れがないかを入念にチェックした。本番では5人がタイミングを揃えて非常灯を隠し、完全暗転を実現した。その暗闇のなかでマッチを擦り、大山デブ子の裸体が浮かび上がる場面はすごかった。

カントール『死の教室』ニューヨーク初演時には、「共産圏からの積み荷に適用される24時間の保税措置」という制度を知らず、舞台装置の半分が初日に間に合わなかった。カントールは激怒していたが、「お前、頭から湯気出てるよ」と言ったら、「本当か」と鏡を見に行き、自分の怒り顔を見てバカらしくなったらしく、怒るのをやめた。エレンからは「私はこれに全財産つぎ込んだんだから、これが当たらなかったらおしまいなの。何とかして!」と泣きつかれ、急遽5人の人手を確保してもらい、徹夜で作り上げた。カントールとはベネズエラのホテルの部屋で昼間から酒を飲みつづけ、二人で肩を組んで歌ったことも。70年代のアメリカ演劇を代表する演出家の一人でオープン・シアター創立者でもあるジョゼフ・チャイキンにも舞台美術を任されていた、等々。

前田さん、とても面白い方なので、どなたかちゃんとインタビューをしてまとめていただけないでしょうか・・・?

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ラ・ママ実験劇場芸術監督ミア・ユウさんのお話

2016/10/21

ラ・ママ実験劇場(La MaMa Experimental Theatre Club)で芸術監督のミア・ユウさんにお話をうかがった。ラ・ママは今年55周年。(よくご存じの方には特に目新しいことはないでしょうが・・・。)

http://lamama.org/

ラ・ママはファッションデザイナーをしていたエレン・スチュワートが、地元イーストビレッジ近辺に住む知り合いの若手劇作家を支援するために始めたものだった。そこで活躍の場を得たサム・シェパードなどが、やがてアメリカを代表する劇作家になっていく。エレンはアメリカのカンパニーをヨーロッパにも紹介していった。そして、ヨーロッパで出会ったカンパニーをラ・ママで紹介。そのなかで、エレンは国際交流によって得る刺激の重要性を実感し、ラ・ママを演劇による国際交流の拠点にしていこうとする。アジアにも旅するようになり、寺山修司や大野一雄、鈴木忠志などもラ・ママを通じてニューヨークに紹介されていった。

エレン・スチュワートはアフリカ系、最近2代目の芸術監督に就任したミア・ユウは韓国系で、日本人のスタッフもいらしたりする。今のニューヨークでも珍しいくらいに出自の多様性が高い劇場だろう。ラ・ママの活動によって、かつてはむしろ避けられていたような街が、劇場やギャラリー、カフェ、バーなどが密集する一大文化拠点となっていった。その功績を讃え、ラ・ママがある通りは「エレン・スチュワート通り」と名付けられている。一方で、そのために地価が高騰し、以前からの住民が住みにくくなっているという問題もある。これはソーホーやブルックリンなどにも共通する課題。

ラ・ママは現在、劇場の建物が2つ、稽古場が1つ、ギャラリーが1つと、全部で4つの建物を管理している。年間60から70近い作品を上演。興行収入よりもファンドレイズで得ている収入のほうが大きく、これによってリスクの高い実験的な作品を上演することが可能になっている。20から30の「レジデント・カンパニー」があり、その他にも数多くの「レジデント・アーティスト」が、米国のみならず世界各地からやってきて、ラ・ママを拠点に作品を制作している。

ミア・ユウはもともとエレン・スチュワートがルーマニア出身の演出家アンドレイ・シェルバンとともに立ち上げたレジデント・カンパニー「グレート・ジョーンズ・レパートリー・シアター」の女優として活躍していたが、1990年代からラ・ママで制作の仕事もはじめ、2000年を過ぎた頃からエレン・スチュワートのアシスタントとしてフルタイムで働くようになった。エレン・スチュワートの死を受け、2011年にラ・ママの芸術監督に就任。パフォーマーとしての仕事はここ10年ほどしていないが、これから再びレパートリーシアターの舞台に上がる予定があるとのこと。

エレン・スチュワートについては、たとえば以下の記事がある。

http://www.wonderlands.jp/archives/17375/

http://www.praemiumimperiale.org/ja/laureate/music/stewart

ミア・ユウさんについてはこちら。

http://www.nytimes.com/2011/10/16/theater/mia-yoo-steps-into-ellen-stewarts-shoes-at-la-mama.html?_r=0

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NYUフランス演劇シンポジウム 2016年12月28日

2016/10/14

先週末、ニューヨーク大学でフランス演劇をめぐるシンポジウムがあった。はじめは相思相愛といった感じで穏やかなものだったが、リチャード・シェクナーの「今やパリは一地方都市になったのではないか」といった挑発的発言をきっかけに紛糾。

はじめて知ったが、シェクナーの博士論文はイヨネスコを扱ったもので、そのために1961年にパリに滞在していたという。シェクナーは、ニューヨークのここ数十年の演劇・パフォーマンスを主導するアーティストや劇場の名前を挙げて、近年のパリでこのようなアーティストや劇場が生まれてきたのか、パリは今でも最も「前衛的」なパフォーマンスが見られる都市として世界から注目されているのか、といった問いを発した。それにたいして会場のフランス人たちが猛然と反論。「今日のフランスにはパリだけではなく、地方にも重要な拠点があり、若い重要なアーティストもたくさん生まれている」、等々。なんだか急にお国自慢合戦になったみたいで、ちょっと面白かった。

その前のセッションで、「フランスにおける新たなパフォーマンス」として何人かの若手アーティストが紹介されたが、ニューヨークの文脈で見てみると、今一つその新しさがピンと来ない。私はそれぞれのアーティストの作品を知っているので、フランスでなぜ評価されているのかはわかる。だが、ニューヨークの演劇界あるいはパフォーマンスの状況の中で見てみると、評価基準がそもそも異なるのに気づかされる。

一方、フランスにいるときに、ニューヨークの最新若手アーティスト、といった形で紹介されたアーティストについても、正直同じような感想を抱いたことが少なくない。ニューヨークでは確かにある意味で先鋭的な試みが行われてはいるのだが、少なくともフランスやドイツと比べれば、それに多くの観客が集まっているとは言いがたい。商業演劇と実験的な演劇の溝があまりにも大きい。

それに対してフランスでは、すごくおおざっぱにいってみれば、そこそこに「先鋭的」な演劇に、かなり多くのお客さんが来る構造があり、それはすばらしいとは思う。このちがいの最大の理由は、公共体からどれだけ資金を得ているか、ということだろう。とりわけ1960年代以降、民間劇場から公共劇場へと「実験的」演劇の場が移行していったフランスでは、「どれだけ多くの市民が来るか、あらゆる社会階層の市民が来ているか」ということにかなり気を使う。今回紹介された「フランスにおける新たなパフォーマンス」が「新しい」のは、発表者によれば、とりわけ若年層の新たな観客層を取り込んだ、というところにある。

公共体から資金提供をされることがほとんどない米国では、観客層への配慮の重要性は比較的下位になっているように見える。「実験的」で「先鋭的」な試みをしているアーティストに、民間の財団や篤志家・サポーターからそれなりの資金が集まることもある。また、そのようなアーティストが同時に大学などで教えている場合もフランスよりはるかに多い。その米国の視点から見れば、フランスの「新たなパフォーマンス」は、「先鋭的」というよりも、むしろ観客迎合的に見えてしまうかも知れない。「新しい」か否か、というのはかなり文脈に依存している。つまり、「新しい」か否かは、今ここで、何が「主流」なのかということによって規定されざるをえない。

それはそれとして、では今日、どこに行けば一番面白いものが見られるのか、というのは、正直私にもよくわからない。かつてのリヴィング・シアターや太陽劇団に相当するような、世界的に影響を与える劇団やアーティストはどこに集まっているのか。

ケベック出身で今はパリ第三大学で教えているジョゼット・フェラルはシェクナーに対して「前衛という概念自体、今では意味を失っているのではないか」と反論していた。最近思うのは、演劇あるいはパフォーマンスにおいて重要なアーティストが出現するには、そのアーティスト、あるいはその人の理念を信じる集団がいなければならない、ということ。それを信じることができるような社会構造自体が失われてきたのではないか。

さらには、人々が集団として集まることによって社会を変革することができる、ということを信じることすらも難しくなってきたように思う。それは当然、いわゆるグローバリゼーションの帰結でもある。つまり、たとえば国くらいの単位で何か変えようとしても、それよりも大きな存在によって、どうせその変化が押しつぶされるのではないか、といった諦念が背景にはあるのではないか。多くの人が、うすうすとにせよ、国際政治のトリレンマ構造に気づきつつあるのではないか。(そもそもトリレンマという発想自体、まだ国民国家という選択肢がある、という希望的観測に基づいているともいえるが。)60年代と比べて、身のまわりにある情報があまりにも増えているということもある。その分、一つの理念、一人の信念を信じる、ということ、あるいはそれに大多数の人が賛同する、ということが難しくなっているのかもしれない。

ある国や都市に世界中から一番面白い人たちが集まってくる、ということはなくなったが、とはいえ「面白い人」自体がいなくなったわけではないとは思う。あちこちに行くのがかつてより容易になった分、いろいろな面白い人に出会うには、あちこちに足を運ばないといけなくなったのは確かだろう。

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シェクナーの授業、リヴィング・シアター

2016/10/12

ニューヨーク大学(NYU)パフォーマンス・スタディーズ科のリチャード・シェクナーによる授業、今期が最後とのこと。シェクナーさんは今年で82歳。今季のテーマは「THEN AND NOW: THE 1960s-80S COMPARED TO THE PRESENT」。前回はリヴィング・シアターとオープン・シアターの話。シェクナーさんとオープン・シアターの元主演女優のやりとりも。パフォーマンス・スタディーズという学問自体がニューヨークを中心とするパフォーマンスの実践と大きく関わっていたのが体感できる。不思議なご縁でこの授業に立ち会えることになり、これだけでもアメリカに来た甲斐があった気がする。

***

ニューヨークに来て一番驚いたのは、リヴィング・シアターがまだ存続していたということ。しかも今の芸術監督は30代前半。来年の70周年(!)に向けて、『政治的サドマゾヒズムのための七つのメディテーションSeven Meditations on Political Sado-Masochism』(1973年初演)を再クリエーション中だという。先週ニューヨーク市立大学(CUNY)でプレビューがあった。「私有は殺人だ!」と叫ぶ若者たち。このあたりにいると、全米統計的には滅多に出会わないはずの人とばかり出会ってしまっているような気もする。

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