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ラ・ママ実験劇場美術家、前田順さんのお話 2016年12月31日

2016/10/21

ラ・ママ実験劇場美術家の前田順さんのお話。前田さんはラ・ママで働きはじめてから43年。「もうラ・ママには俺より古いのはいないね」とのこと。今でも毎日劇場にいらしているという。先日劇場で案内係が「マエダサン!」と挨拶をしているのを見てお声をかけたら、作業場見学に誘ってくださった。

今日作業場にお伺いしたときには、日本の民話「鶴の恩返し」をモチーフにした作品のために、竹の箸を使って羽を作っていらした。竹の箸を何枚かに割り、その一方の端を割いてささがき状にし、それを編み上げていく、という気の遠くなるような作業。他に、アルミ缶を割いて細く長い帯状にし、それを編み上げて形を作る作品も。素手でその作業をしていると、はじめは手がささくれ立って血だらけになり、よくエレンに「もうやめてよ」と言われたが、つづけているうちに、ささくれないように切れるようになっていったという。

日大を卒業して工務店に就職。当時、同じ工務店に、楯の会の若手がよくアルバイトに来て、一緒に「塹壕堀り」などをしていた。その後、日大闘争が始まり、現場経験を活かして、建物確保の最前線で活躍。ベ平連にも参加。出身地の仙台で寺山修司の映画の上映会や石牟礼道子の水俣病に関する講演会を企画。

工務店では主にブルドーザーを操作していたが、別荘地の造営で道を作っているときに、やたらとウサギが跳ねてくるのを見て、獣道を寸断していることを知り、嫌になってくる。その頃、東京キッドブラザーズの作品作りのために、劇団員と一緒に、全て手作りで山荘を作ることに。これに感嘆した東に「セットを作ってくれないか」と言われ、「セットなら家を建てるより簡単だ」と即答。東京キッドブラザーズのために、プロレスリングの上に巨大なボートを立てる。資材は森ビルの資材置き場から調達。

東京キッドブラザーズは『黄金バット』でニューヨーク公演をすることに。紆余曲折あって、ラ・ママが引き受け手となった。ハワイ、ロサンゼルス経由でニューヨークへ。工具を買ったらお金がなくなり、ポケットには100円しかなく、両替もしてもらえず、コーヒーも飲めなかった。ラ・ママでは地下の作業場に段ボールを敷いて寝た。ニューヨーク大学の金属ゴミ集積場で資材を調達し、舞台を組み立て、大ヒット。この舞台美術を見たエレン・スチュワートに、ニューヨーク市から1ドルで受け渡された新劇場の内装を依頼された。東京キッドブラザーズが帰国してもラ・ママに残り、今に至るまで働きつづけている。別の東京キッドブラザーズ公演では、劇場の壁に穴を開けてワイヤを通し、空中を本物のオートバイが走る仕掛けを作った。この穴は今でも残っている。

ラ・ママで思い出深かったのは寺山修司やタデウシュ・カントールの公演。寺山の『盲人書簡』を上演した際には、五カ所の非常灯すべてに人を配置し、非常灯を完全に隠す箱を作って、光漏れがないかを入念にチェックした。本番では5人がタイミングを揃えて非常灯を隠し、完全暗転を実現した。その暗闇のなかでマッチを擦り、大山デブ子の裸体が浮かび上がる場面はすごかった。

カントール『死の教室』ニューヨーク初演時には、「共産圏からの積み荷に適用される24時間の保税措置」という制度を知らず、舞台装置の半分が初日に間に合わなかった。カントールは激怒していたが、「お前、頭から湯気出てるよ」と言ったら、「本当か」と鏡を見に行き、自分の怒り顔を見てバカらしくなったらしく、怒るのをやめた。エレンからは「私はこれに全財産つぎ込んだんだから、これが当たらなかったらおしまいなの。何とかして!」と泣きつかれ、急遽5人の人手を確保してもらい、徹夜で作り上げた。カントールとはベネズエラのホテルの部屋で昼間から酒を飲みつづけ、二人で肩を組んで歌ったことも。70年代のアメリカ演劇を代表する演出家の一人でオープン・シアター創立者でもあるジョゼフ・チャイキンにも舞台美術を任されていた、等々。

前田さん、とても面白い方なので、どなたかちゃんとインタビューをしてまとめていただけないでしょうか・・・?

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ラ・ママ実験劇場芸術監督ミア・ユウさんのお話

2016/10/21

ラ・ママ実験劇場(La MaMa Experimental Theatre Club)で芸術監督のミア・ユウさんにお話をうかがった。ラ・ママは今年55周年。(よくご存じの方には特に目新しいことはないでしょうが・・・。)

http://lamama.org/

ラ・ママはファッションデザイナーをしていたエレン・スチュワートが、地元イーストビレッジ近辺に住む知り合いの若手劇作家を支援するために始めたものだった。そこで活躍の場を得たサム・シェパードなどが、やがてアメリカを代表する劇作家になっていく。エレンはアメリカのカンパニーをヨーロッパにも紹介していった。そして、ヨーロッパで出会ったカンパニーをラ・ママで紹介。そのなかで、エレンは国際交流によって得る刺激の重要性を実感し、ラ・ママを演劇による国際交流の拠点にしていこうとする。アジアにも旅するようになり、寺山修司や大野一雄、鈴木忠志などもラ・ママを通じてニューヨークに紹介されていった。

エレン・スチュワートはアフリカ系、最近2代目の芸術監督に就任したミア・ユウは韓国系で、日本人のスタッフもいらしたりする。今のニューヨークでも珍しいくらいに出自の多様性が高い劇場だろう。ラ・ママの活動によって、かつてはむしろ避けられていたような街が、劇場やギャラリー、カフェ、バーなどが密集する一大文化拠点となっていった。その功績を讃え、ラ・ママがある通りは「エレン・スチュワート通り」と名付けられている。一方で、そのために地価が高騰し、以前からの住民が住みにくくなっているという問題もある。これはソーホーやブルックリンなどにも共通する課題。

ラ・ママは現在、劇場の建物が2つ、稽古場が1つ、ギャラリーが1つと、全部で4つの建物を管理している。年間60から70近い作品を上演。興行収入よりもファンドレイズで得ている収入のほうが大きく、これによってリスクの高い実験的な作品を上演することが可能になっている。20から30の「レジデント・カンパニー」があり、その他にも数多くの「レジデント・アーティスト」が、米国のみならず世界各地からやってきて、ラ・ママを拠点に作品を制作している。

ミア・ユウはもともとエレン・スチュワートがルーマニア出身の演出家アンドレイ・シェルバンとともに立ち上げたレジデント・カンパニー「グレート・ジョーンズ・レパートリー・シアター」の女優として活躍していたが、1990年代からラ・ママで制作の仕事もはじめ、2000年を過ぎた頃からエレン・スチュワートのアシスタントとしてフルタイムで働くようになった。エレン・スチュワートの死を受け、2011年にラ・ママの芸術監督に就任。パフォーマーとしての仕事はここ10年ほどしていないが、これから再びレパートリーシアターの舞台に上がる予定があるとのこと。

エレン・スチュワートについては、たとえば以下の記事がある。

http://www.wonderlands.jp/archives/17375/

http://www.praemiumimperiale.org/ja/laureate/music/stewart

ミア・ユウさんについてはこちら。

http://www.nytimes.com/2011/10/16/theater/mia-yoo-steps-into-ellen-stewarts-shoes-at-la-mama.html?_r=0

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NYUフランス演劇シンポジウム 2016年12月28日

2016/10/14

先週末、ニューヨーク大学でフランス演劇をめぐるシンポジウムがあった。はじめは相思相愛といった感じで穏やかなものだったが、リチャード・シェクナーの「今やパリは一地方都市になったのではないか」といった挑発的発言をきっかけに紛糾。

はじめて知ったが、シェクナーの博士論文はイヨネスコを扱ったもので、そのために1961年にパリに滞在していたという。シェクナーは、ニューヨークのここ数十年の演劇・パフォーマンスを主導するアーティストや劇場の名前を挙げて、近年のパリでこのようなアーティストや劇場が生まれてきたのか、パリは今でも最も「前衛的」なパフォーマンスが見られる都市として世界から注目されているのか、といった問いを発した。それにたいして会場のフランス人たちが猛然と反論。「今日のフランスにはパリだけではなく、地方にも重要な拠点があり、若い重要なアーティストもたくさん生まれている」、等々。なんだか急にお国自慢合戦になったみたいで、ちょっと面白かった。

その前のセッションで、「フランスにおける新たなパフォーマンス」として何人かの若手アーティストが紹介されたが、ニューヨークの文脈で見てみると、今一つその新しさがピンと来ない。私はそれぞれのアーティストの作品を知っているので、フランスでなぜ評価されているのかはわかる。だが、ニューヨークの演劇界あるいはパフォーマンスの状況の中で見てみると、評価基準がそもそも異なるのに気づかされる。

一方、フランスにいるときに、ニューヨークの最新若手アーティスト、といった形で紹介されたアーティストについても、正直同じような感想を抱いたことが少なくない。ニューヨークでは確かにある意味で先鋭的な試みが行われてはいるのだが、少なくともフランスやドイツと比べれば、それに多くの観客が集まっているとは言いがたい。商業演劇と実験的な演劇の溝があまりにも大きい。

それに対してフランスでは、すごくおおざっぱにいってみれば、そこそこに「先鋭的」な演劇に、かなり多くのお客さんが来る構造があり、それはすばらしいとは思う。このちがいの最大の理由は、公共体からどれだけ資金を得ているか、ということだろう。とりわけ1960年代以降、民間劇場から公共劇場へと「実験的」演劇の場が移行していったフランスでは、「どれだけ多くの市民が来るか、あらゆる社会階層の市民が来ているか」ということにかなり気を使う。今回紹介された「フランスにおける新たなパフォーマンス」が「新しい」のは、発表者によれば、とりわけ若年層の新たな観客層を取り込んだ、というところにある。

公共体から資金提供をされることがほとんどない米国では、観客層への配慮の重要性は比較的下位になっているように見える。「実験的」で「先鋭的」な試みをしているアーティストに、民間の財団や篤志家・サポーターからそれなりの資金が集まることもある。また、そのようなアーティストが同時に大学などで教えている場合もフランスよりはるかに多い。その米国の視点から見れば、フランスの「新たなパフォーマンス」は、「先鋭的」というよりも、むしろ観客迎合的に見えてしまうかも知れない。「新しい」か否か、というのはかなり文脈に依存している。つまり、「新しい」か否かは、今ここで、何が「主流」なのかということによって規定されざるをえない。

それはそれとして、では今日、どこに行けば一番面白いものが見られるのか、というのは、正直私にもよくわからない。かつてのリヴィング・シアターや太陽劇団に相当するような、世界的に影響を与える劇団やアーティストはどこに集まっているのか。

ケベック出身で今はパリ第三大学で教えているジョゼット・フェラルはシェクナーに対して「前衛という概念自体、今では意味を失っているのではないか」と反論していた。最近思うのは、演劇あるいはパフォーマンスにおいて重要なアーティストが出現するには、そのアーティスト、あるいはその人の理念を信じる集団がいなければならない、ということ。それを信じることができるような社会構造自体が失われてきたのではないか。

さらには、人々が集団として集まることによって社会を変革することができる、ということを信じることすらも難しくなってきたように思う。それは当然、いわゆるグローバリゼーションの帰結でもある。つまり、たとえば国くらいの単位で何か変えようとしても、それよりも大きな存在によって、どうせその変化が押しつぶされるのではないか、といった諦念が背景にはあるのではないか。多くの人が、うすうすとにせよ、国際政治のトリレンマ構造に気づきつつあるのではないか。(そもそもトリレンマという発想自体、まだ国民国家という選択肢がある、という希望的観測に基づいているともいえるが。)60年代と比べて、身のまわりにある情報があまりにも増えているということもある。その分、一つの理念、一人の信念を信じる、ということ、あるいはそれに大多数の人が賛同する、ということが難しくなっているのかもしれない。

ある国や都市に世界中から一番面白い人たちが集まってくる、ということはなくなったが、とはいえ「面白い人」自体がいなくなったわけではないとは思う。あちこちに行くのがかつてより容易になった分、いろいろな面白い人に出会うには、あちこちに足を運ばないといけなくなったのは確かだろう。

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シェクナーの授業、リヴィング・シアター

2016/10/12

ニューヨーク大学(NYU)パフォーマンス・スタディーズ科のリチャード・シェクナーによる授業、今期が最後とのこと。シェクナーさんは今年で82歳。今季のテーマは「THEN AND NOW: THE 1960s-80S COMPARED TO THE PRESENT」。前回はリヴィング・シアターとオープン・シアターの話。シェクナーさんとオープン・シアターの元主演女優のやりとりも。パフォーマンス・スタディーズという学問自体がニューヨークを中心とするパフォーマンスの実践と大きく関わっていたのが体感できる。不思議なご縁でこの授業に立ち会えることになり、これだけでもアメリカに来た甲斐があった気がする。

***

ニューヨークに来て一番驚いたのは、リヴィング・シアターがまだ存続していたということ。しかも今の芸術監督は30代前半。来年の70周年(!)に向けて、『政治的サドマゾヒズムのための七つのメディテーションSeven Meditations on Political Sado-Masochism』(1973年初演)を再クリエーション中だという。先週ニューヨーク市立大学(CUNY)でプレビューがあった。「私有は殺人だ!」と叫ぶ若者たち。このあたりにいると、全米統計的には滅多に出会わないはずの人とばかり出会ってしまっているような気もする。

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リチャード・シェクナーとACC

2016/09/22

リチャード・シェクナーさんのお話。1968年に『ディオニソス69』を上演していたとき、ジョン・D・ロックフェラー三世が観にいらした。公演後、声をかけてくれ、「アジアには行ったことがありますか?」と聞かれた。「ありません」と答えた。「行ってみたいですか?」と聞かれたので、「はい」と答えた。すると、名刺をくれ、「いつでも、好きなところに行っていただければ良いので、こちらにご連絡ください」とおっしゃってくれた。それで、1970年から、中国、日本、台湾、インド、マレーシア、インドネシア、パプア・ニューギニア、シンガポール等々に行くことができた。70年にインドで1ヵ月間クリシュナマチャーリヤからヨガを学ぶことができたことは、私にとって、博士論文と同じくらい重要な経験だった。また、各国で出会ったアーティストが、その後ニューヨークにも来てくれるようになった。

ジョン・D・ロックフェラー三世は1956年にアジア・ソサイエティーを創立し、ジャパン・ソサイエティの活動にも大きく寄与している。アジアとの交流をさらに深める事業を考えていた時にシェクナーと出会ったらしい。この2人の出会いがなければ、シェクナーが非西洋的なパフォーマンスの形態と出会うこともなく、もしかしたらパフォーマンス・スタディーズも生まれなかったかもしれない。こう思うと、ACCとパフォーマンス・スタディーズの間には、ある種必然的な関係があったともいえる。

(シェクナーは1970年には36歳だった。自分もまだあと40年あるのかと思えば、ちょっと希望が湧いてくる。)

※その後ACCの方に伺ったら、「ジョン・D・ロックフェラー三世ではなくて当時の理事長と会ったんじゃないかな」という説も。

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パフォーマンス・スタディーズの80年代以降の展開

2016/09/17

(承前)パフォーマンス・スタディーズは、70年代末~80年代初めの成立当初には文化人類学との結びつきが強かった。1960年代~70年代にはアフリカや中東諸国の独立が相次ぎ、文化人類学は植民地的状況を背景にした研究のあり方への見直しが迫られていた。パフォーマンス・スタディーズはこの動きを受けて、西洋中心的な「演劇」・「ダンス」といった概念を再検討するに至った。ニューヨーク大学に世界で初めてのパフォーマンス・スタディーズ科ができたのは1980年。

だが、80年代はエイズ危機の時代でもあった。トニー・クシュナー『エンジェルズ・イン・アメリカ』第一部は1989年発表。古橋悌二さんは1985年にはじめてニューヨークに行き、1992年にHIV陽性を発表。1993年にACCグランティ。ダムタイプの『S/N』は1994年に初演された。セクシャル・アイデンティティの問題がとりわけこのニューヨークで、何よりも重要な社会的問題の一つになった背景には、全国どころか世界中からセクシャル・マイノリティーが集まってくる、というこの町特有の事情もある。同時期にフェミニズムも新たな展開を迎えている。ダナ・ハラウェイの「サイボーグ宣言」が1985年。

セクシャル・アイデンティティの問題が重要な課題として扱われることになったのにつれて、植民地批判に留まらない、より普遍的な批判理論が重要視されるになった。80年代以降、「他者をいかに受け入れるか」という問題から、「他者としての自己をいかに社会に受け入れさせるか」、という問題に移行してきたように見える。これは、まさにパフォーマティヴな展開だったと言えなくもない。白人男性がエキゾティックな文化をいかに自分の生活に取り入れていくか、という問題が、それ自体コロニアルなものとして批判され、ヘテロ男性が作ってきたホモソーシャルな社会の中で、どうすればセクシャル・マイノリティーあるいは女性が正当な地位を獲得できるのか、という問題が、より切実な問題と見なされたことも納得はできる。この時に、文化人類学やポスト・コロニアリズムの理論が、必ずしも役に立たなかった、というのは確かだろう。とりわけ、フランクフルト学派やフーコー等のフレンチ・セオリーが重要性を持った理由も納得ができる。もう一つ、ポスト・コロニアリズムが盛り上がれていない背景として考えられるのは、全く異なる問題だが、セクシャル・マイノリティーとフェミニストがある程度連帯できたのに対して、なぜかアフリカ系、アラブ系、アジア系、ヒスパニック系の連帯ができていないということもある気がする。

だが、西洋中心主義から逃れようとしていたはずのパフォーマンス・スタディーズが、いつの間にか再びフランス現代思想に根拠を見出そうとしているのは、なんだか皮肉なことのように思えてならない。うがった見方をすれば、パフォーマンス・スタディーズのアカデミズムにおける制度化の中で、フレンチ・セオリーが、ある種の権威付けの役割を果たしたのではないかという気もしないではない。

また、セクシュアリティーがアイデンティティーの問題とみなされると、本質論的な議論になりがちに思える。そのなかで逆に、いかにして他者の欲望を自らのものにするか、あるいは、いかにして自らの欲望を他者に共有してもらうか、という問題が比較的マイナーな問題になってしまったとすれば、ちょっともったいないようには思う。また、ダナ・ハラウェイらによる生物学としての人類学に対する批判は重要だが、パフォーマンス・スタディーズにおいて理科系の人類学・心理学との関係性があまり見られないことも、私には少し残念なことのようにも思われる。

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パフォーマンス・スタディーズと文化人類学

2016/09/17

パフォーマンス・スタディーズと文化人類学に興味がある、というと、今のところ、どこに行っても困った顔をされる。ニューヨーク市立大学では、うちは演劇科だから、といわれ、ニューヨーク大学のパフォーマンス・スタディーズ科に行ってみても、文化人類学はどちらかというとノースウェスタン大学かな、といわれる。確かにニューヨーク大学のパフォーマンス・スタディーズ科の先生たちを見ても、ほとんど文化人類学と関係がある先生はいない。創立者のリチャード・シェクナーくらい。誰に聞いても、それならシェクナーだね、といわれるばかり。

昨年のPSi (Performance Studies international) in Aomoriに参加してみて驚いたのは、アメリカのパフォーマンス・スタディーズの研究者たちが、フーコー、ドゥルーズ、デリダといった名前ばかり口にすることだった。パフォーマンス・スタディーズはここ20年ほどで、シェクナーがはじめた時代とはだいぶ違うものになっているらしい。もはやシェクナーが切り拓いてきたようなフロンティアがなくなってきていることも理由の一つなのかもしれない。せっかくアメリカに来てフレンチ・セオリーを学んで帰るのも癪なので、もうちょっと別のことをしている方を見つけたいところなのだが。とりあえず、少しずつ、どうしてこういう状況になってきたのかはわかってきた気がする。いろいろ考えさせられる。

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9.11世代

2016/09/15

9.11世代。この1週間で、9.11のあと中東に行き、アラビア語を学んで、文化交流の仕事をしていた、というニューヨーカーに2人出会った。2人とも20代前半に9.11を経験している。米国は戦後、日本の労働運動の指導者たちを招き、米国の組合関係者たちと交流させ、反米活動を防ごうとしたという。確かに、実際に米国で暮らしてみると、外から見るのとは違った面がたくさん見えてくる。

米国にいて日々感じるのは、目に触れるものの分かりやすさだ。広告や掲示など、私のようにこの国に来て数日しか経っていない住民にも分かるような言葉で書いてある。ちょっと難しいことをいうと、多くの人には伝わらない、ということが強固な前提となっている。さらにスペイン語や中国語も交えた二カ国語・数カ国語表記になっている場合も多い。これはフランスにはまず見られない(フランスではフランス語の地位を守るためのトゥーボン法があり、外国語を使った広告には仏訳をつけることになっていたりする)。この国の共通言語は英語以上にドルなのだ、と思うと、いろいろなことが腑に落ちるようになる。政治思想としての資本主義を傷つけることがいかに危険なことなのかも、ちょっと想像できるような気もしてきた。

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ACC、日本現代演劇のグランティー

2016/09/09
ACC(Asian Cultural Council)、日本からのグランティー・助成プロジェクト参加者のなかで、自分が作品を知っている、いわゆる現代劇の劇作家・演出家に限ってリストアップしてみる。生年別に分けてみると、世代によって、米国が占める位置が変わってくるのが見えてくる。※印はACCとは関係なく、補助線として、同世代で思いついた方のお名前。

30年代生まれ
笈田ヨシ(1933)
山崎正和(1934)
寺山修司(1935)
鈴木忠志(1939)
太田省吾(1939)

40年代生まれ
唐十郎(1940)
※佐藤信(1943)
※岸田理生(1946)
※つかこうへい(1948)

50年代生まれ
※岩松了(1952)
※栗山民也(1953年):イギリスに留学
※鵜山仁(1953年):フランスに留学
※野田秀樹(1955):イギリスに留学
小池博史(1956)
原田一樹(1956)
※如月小春(1956):オーストラリアに留学
※宮沢章夫(1956):マダガスカルへ
※鴻上尚史(1958):イギリスに留学
川村毅(1959)
マキノノゾミ(1959)

60年代生まれ
古橋悌二(1960)
坂手洋二(1962)
※平田オリザ(1962):韓国に留学
※松田正隆(1962):イスラエルに留学
※小野寺修二(1966年):フランスに留学
羊屋白玉(1967)
やなぎみわ(1967)
※土田英生(1967年):イギリスに留学
※青木豪(1967年):イギリスに留学

70年代生まれ
矢内原美邦(1970) ※ブラジルにも留学
※夏井孝裕(1972):フランスに留学
岡田利規(1973)
※三浦基(1973):フランスに留学
※長塚圭史(1975年):イギリスに留学
※森新太郎(1976年):アイルランドに留学
※小川絵梨子(1978年):アメリカに留学(ACCグランティーではない)
※上村聡史(1979年):イギリス、ドイツに留学

80年代生まれ
※谷賢一(1982年):イギリスに留学
※田中麻衣子(?年):イギリスに留学
※大塩哲史(?年) アメリカに留学(文化庁)

ここから見た限りでは、すごく大ざっぱにいえば、
30年代生まれ:何はともあれ米国に
40年代生まれ:あまり留学しなかった世代
50年代生まれ:留学先が主に英語圏で多様化
60年代生まれ:留学先が英語圏以外にも広がる
70年代生まれ以降:留学先・手段がさらに多様化

といった感じだろうか?ちょっと70年代以降についてはあまり情報がないので、思いつく方がいらしたら、ぜひ。

追記:高野しのぶさん等から、とりわけ70年代以降の劇作家・演出家について貴重な情報をいただき、リストに追記しました。こうしてみると、留学先が多様化しただけでなく、「ACC以外にも海外渡航する手段ができた」ということも大きいですね。特に若い世代では、アーティストとしてでなく、学生時代に留学している方もけっこういらっしゃいますし。ふたたび英語圏回帰の傾向もあるのでしょうか?あと、最近ACCでアメリカに来る劇作家・演出家が少ないのは、アメリカ自体に来ていないわけではないので、単に情報が行き渡っていないのかも知れません。

文化庁の「芸術家在外研修員制度」は1967年にはじまったそうです(2002年から「新進芸術家海外留学制度」に改称)。

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ACC、日本からのグランティー

2016/09/08

ACC(Asian Cultural Council)リサーチの一環として、過去のグランティーのリストをチェック中。日本のグランティーのリストを見てみると、驚くばかり。目についたお名前をピックアップしてみた(見落としもあると思いますので、ご容赦ください)。以下、アルファベット順、敬称略。米国以外に、アジアに滞在してもいいグラントなのだが、このうちの全員が(間違いなければ)米国に滞在している。けっこう意外な方も。アジアの舞台芸術における米国の位置について考える、というのがテーマの一つなのだが、こうして見ると、時代によって米国が占める位置が変わってきているような気もする。ただ、あまりに多くの、いろいろな分野の方がいらしていて、リストを作ってみても、とりあえずは呆然とするばかり。これからゆっくり考えてみる。

舞台芸術関連(他分野の専門家・申請内容でも、主観的に舞台芸術と関係が深い方を含む):

足立智美

天野由起子

浅田彰

朝倉摂

古橋悌二

原田一樹

原田敬子

長谷川六

林光

羊屋白玉

細川俊夫

三代目市川猿之助

市川雅

石岡瑛子

磯崎新

岩淵多喜子

唐十郎

笠井叡

川村毅

木佐貫邦子

北村明子

小池博史

小山田徹

小谷野哲郎

國吉和子

黒沢美香

李麗仙

マキノノゾミ

麿赤兒

畠由紀

三浦雅士

室伏鴻

武藤大祐

内藤美奈子

中川龍一

中嶋夏

中谷芙二子

大橋宏

太田省吾

笈田ヨシ

岡田利規

岡本芳一

大倉正之助

鴻英良

坂本公成

坂手洋二

佐東範一

茂山あきら

茂山千之丞

白石加代子

鈴木忠志

高橋宏幸

武満徹

玉井康成

田中泯

寺山修司

勅使川原三郎

土取利行

辻村寿三郎

梅田宏明

山田せつ子

山川冬樹

山崎広太

山崎正和

やなぎみわ

矢内原美邦

横堀ふみ

横尾忠則

四方田犬彦

米屋尚子

吉田玉松

それ以外:

会田誠

粟津潔

藤枝守

羽仁進

長谷川祐子

一柳慧

池辺晋一郎

池田満寿夫

加納光於

柏木博

川俣正

香月泰男

小泉文夫

近藤譲

隈研吾

草間彌生

三木富雄

宮島達男

元永定正

村上隆

内藤礼

名和晃平

岡崎乾二郎

大友良英

小澤征爾

澤登翠

篠原有司男

高橋アキ

二代目高橋竹山

高橋悠治

高階秀爾

瀧口修造

田村隆一

田中功起

谷川俊太郎

東野芳明

土本典昭

宇佐美圭司

渡辺香津美

ヤヒロトモヒロ

吉増剛造

湯浅譲二

(とりあえず、以上)

注記:以上には個人のグランティーだけでなく、採択されたプロジェクトに参加した方(project participant)も含まれています。2013年以降のグランティーは含まれていません。

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