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「日本の現代演劇」とは何か 2023年2月10日

「日本の現代演劇」とは何か、何であり得るのか、私たちはまだ十分に知らないのかもしれない。日本語で上演のために書かれた多くのテクストは、「伝統芸能」や「伝統演劇」の枠内でしか使われていない。その原因の一つは、テクストと身ぶりや音楽とが不即不離の関係にあるためである。もちろんヨーロッパの戯曲も多くはそうだったはずだが、近代ヨーロッパでは、テクスト中心主義を媒介にして、テクストを当初想定されていた身体性から切り離して上演する慣習が確立した。

もう一つの原因は、日本語で上演のために書かれたテクストの多くが「公論」の形成を目的としていなかったことだろう。一八世紀以降の西欧においては公的資金が用いられる劇場が公論形成の場ともなり、それを目的として書かれる戯曲も出現してきた。さらに、過去のレパートリーもそれを基準として読み直されるようになっていく。

日本では歌舞伎を「旧劇」として否定する「新劇」から近代演劇の歴史が始まったことになっている。「伝統芸能」、「伝統演劇」あるいは「旧劇」をすでに発展段階を終えた歴史の遺物とみなし、西洋の演劇史と接続することで、日本の「近代演劇/現代演劇」の歴史は紡がれてきた。

20世紀以来、ヨーロッパの演劇もテクスト中心主義を問い直し、身体性や音楽性の価値を再発見するための試みを重ねている。だが、「演劇」と呼ばれる枠組み自体がテクスト中心主義と分かちがたいため、そこから逃れるのは容易ではない。「演出家の時代」を経ても、「演出」をテクストと見なす新たなテクスト中心主義以外の道はなかなか見えてこない。

公論の形成だけが舞台芸術の価値だとすれば、言葉を使わないパフォーマンスの多くを排除してしまうことになりかねない。ヨーロッパの公共劇場における舞台芸術は、舞踊や音楽を含むさまざまなパフォーマンスを、アーティストの言葉や企画書によってなんとかテクストに回収させることで公共性を確認してきた。だが、そこで使われている言葉は、本当に身体性の価値を評価できるものになっているのだろうか。身ぶりを身ぶりによって、音楽を音楽によって批判することが可能であり、身ぶりや音楽にアイロニーがありうるのだとすれば、その意味は私たちが今使っている言葉で十分に回収可能なのだろうか。

私が演技論史に取り組んでいるのは、「演劇」の歴史ではなく「演技」の歴史を辿ってみれば、違う道筋が見えてくるのではないかと思ったからだ。テクスト中心主義へと向かう演技論史を、そのローカルな文脈のもとに置き直してみるだけでも、それがどれだけ特殊な状況で成立したものなのかが見えて、その普遍性を問い直すことができるかもしれない。

そして、いわゆる「伝統演劇」のテクストを、それが前提としていた身体性とともに、今の私たちの身体を通じて上演しなおす試みは、ヨーロッパの特殊な状況で培われた「演劇」の枠組みから排除されてしまったものにも目を向けられるような、私たちの「現代演劇」のあり方を考えるための重要な手がかりになるかもしれない。

(木ノ下歌舞伎/岡田利規『桜姫東文章』を拝見して。)

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いろいろな「みんな」 2023年1月7日

また一つ歳をとって最初に見た夢は、字幕操作担当なのに本番に遅刻する夢でした。歳をとっても、本番に弱いのはなかなか変わりません。。。

昨年はふじのくに⇄せかい演劇祭も東京芸術祭も大学の授業もなんとかライブでできてよかったですが、思えばいろいろな集まり方を体感することができた三年間でした。

一昨日、スウェーデン人の義弟に会い、スウェーデンでロックダウンがなかったのは、もう二世紀ほど戦争がなかったために、そもそも非常事態のための法律というものがなく、議会を通してしか何も決められなかったからだ、という話を聞きました。同時に、議会にも専門家の意見にきちんと耳を傾けた上で議論をするという文化があり、医療の専門家たちは社会的・精神面も含めロックダウンの悪影響の方が大きいという意見を出し、国民的な議論を尽くした上で結論を出したとのこと。最終的にどの対処法がよかったのか、歴史的な評価をするにはまだまだ時間がかかるでしょうが、多くの方が議論に参加し、納得した上で結論を出すという文化をつくっていかなきゃと思いました。

授業やいくつかのシンポジウムをオンラインでやってみて、オンラインだからこそ発言できる方、発言しやすい方もいるんだな、というのも体感できました。ライブで会議をすると、円卓でも「えらい人」の近くにいる人ほど発言する傾向があったりしますが、Zoomでミーティングをするとより水平な関係性がつくりやすくはありますし、そもそも遠方にいたり、家庭の事情があったり、障害があったりでなかなか現地に集まれない方も参加できます。オンラインの方が体格差が気にならないし、声が小さくても発言しやすいという方、チャットなら発言しやすいという方もいました。自分も家庭の事情でなかなか移動できなかったので、助かりました。

とはいえ、ふじのくに⇄せかい演劇祭をライブでやってみると、オンラインイベントにはほとんど参加していない、という方にもけっこう出会いました。技術的に参加が難しい方もいれば、スマートフォンやパソコンを持っていない、使いたくないという方も。昨年はライブでしか出会えない方との再会も多かったように思います。

大学の授業では「ヒトはなぜ歌い、踊り、語り、演じるのか? 生物学から舞台芸術を考える」というテーマを扱ったところ、音楽やダンスに興味がある方にたくさん出会えたのは楽しかったです。一方で、ここ数年演技論を扱っていたときは演劇に興味がある方が多かったのですが、今回は演劇に関心があるという方は少数派で、音楽やダンスの世界と演劇の世界の間のちょっとした分断も感じました。演劇をやっている方のなかにも、歌や踊りに苦手意識があったり、その一体感をつくる力に警戒心をもっている方がいらしたりします。でも授業で体の動きや声を使ったワークショップをしていただくと、言葉による対話だけではなかなか伝わらないものが共有できることも体感できました。私は歌って踊るのも演じるのもどちらも苦手ですが、自分がこの世界に身体をもって生きているということと少しずつ和解できてきたような気もしています。

いろんな出会い方をしているそれぞれの現場で、「みんな」のイメージが少しずつ違うのに、そこにいる人だけで「みんな」だと思えてしまうことも体感できました。どうしたらそんな複数の「世界」をつなぐことができるのか、今年もゆっくり考えていければと思っています。

今年もいろんな方が気にしてくださったようで、本当にありがとうございます。昨年も多くの方々に大変お世話になりました。今年も何卒よろしくお願いいたします。

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シンポジウム「なぜ他者と空間を共有するのか? ~メディア、医療、パフォーマンスの現場から~」 2022年12月18日

東京芸術祭シンポジウム「なぜ他者と空間を共有するのか? ~メディア、医療、パフォーマンスの現場から~」(ゲスト:坂本史衣さん、ドミニク・チェンさん、MIKIKOさん)、【シリーズ・持続可能な舞台芸術の環境をつくる】として、昨年は「ライブでしか伝わらないものとは何か?」というテーマで、ライブの意義について考えたのですが、そこでライブ性には空間の共有と時間の共有があるということが分かり、劇場での公演も増えてきたので、今回は空間の共有に焦点を当てることにしました。
まず、今このテーマについて話すなら、コロナ禍の現状もきちんと踏まえておかなければと思い、感染症対策の最前線でご尽力なさっている坂本史衣さんにお声がけしました。ではそもそも空間の共有ってなんだろう、と思い、「お互いに影響を与えうる場に身を置くこと」と定義してみると、フィジカルな空間の共有だけでなく、今はバーチャルな空間の共有もけっこう重要じゃないかという気がしてきました。そんなこともあって、インターネットをはじめとするメディアの現状と歴史をよくご存知のドミニク・チェンさん、Perfumeのライブやリオ五輪閉幕式など最新のデジタル技術を駆使した演出で知られるMIKIKOさんにお声がけしました。実際にお話ししてみると、一人で考えていたときとはだいぶ違う風景が見えてきました。
ここであんまり詳しく話してしまってももったいないので、少しだけ。フィジカルな空間を共有するというのは、つまり一時生死を共にするということなんだな、と思いました。なんだか無味乾燥な題名にしてしまったような気もしていたのですが、エモーショナルな瞬間が多かったのが印象的でした。
そして舞台芸術の面白さは、バーチャルな空間を、このフィジカルな空間に重ねることなのではないかと思えてきました。昨年の時点では、ライブ性に焦点を当てた結果、舞台芸術のバーチャル性についてはあまり考えられませんでしたが、言葉も、振付も、あるいは人が「死ぬ」ということを考えることですら、人と人の間で作られてきたバーチャルな空間を抜きにしては考えられないということに気づかされました。
かつてはそんなバーチャルな空間の共有にもフィジカルな空間の共有が欠かせない場面が多かったのですが、今ではフィジカルな空間を共有することは選択肢の一つとなりました。だからこそ、その意味をきちんと考えたうえで、それを選択することが重要になってきます。
実際に人が生き、死んでいくフィジカルな空間の重要性は、もちろんこれからもそう簡単に変わっていくことはないでしょう。そのフィジカルな空間にどう意味を重ね合わせていくのかも、私たち人類の課題でありつづけていくはずです。そこに舞台芸術がどのように関わっていけるのか。お三方のおかげで、深く考えさせられる時間となりました。ご覧くださった方はぜひご感想やご意見をお寄せください。

【シリーズ・持続可能な舞台芸術の環境をつくる】

東京芸術祭 2022 シンポジウム

「なぜ他者と空間を共有するのか? ~メディア、医療、パフォーマンスの現場から~」

紹介サイト:https://tokyo-festival.jp/2022/program/symposium_d

場所:オンライン配信

言語:日本語(近日中に英語字幕も)

登壇者:

坂本史衣(聖路加国際病院QIセンター感染管理室 マネジャー)

ドミニク・チェン(情報学研究者)

MIKIKO(演出振付家/ ダンスカンパニー「ELEVENPLAY」主宰)

モデレーター:

横山義志(東京芸術祭リサーチディレクター)

多田淳之介(東京芸術祭ファームディレクター)

人に会うって、リスクなの?

コロナ禍を通じて、いよいよ多くのことがオンラインで出来るようになりました。それでもなお空間を共有したいとすれば、あるいはせざるをえないとすれば、それはなぜなのか。メディア、医療、パフォーマンスの専門家とともに、空間を共有することの意義を問いなおしてみたいと思います。

プログラムディレクターコメント

東京芸術祭では、「シリーズ 持続可能な舞台芸術の創造環境をつくる」として、舞台芸術が今日直面している課題について論じる場を設けています。今年のシンポジウムでは、コロナ禍によって困難になった「空間を共有すること」、「国境を越えて移動すること」に焦点を当て、さまざまな現場で活躍する専門家から、今まさにお考えになっていること、試みていることをうかがっていきます。ポストコロナ時代に向けて、みなさんと一緒に、これからの上演や国際交流のあり方を考えていきたいと思います。

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「演技論」という言葉 2022年12月3日

日本語で「西洋演技論史」というのを書こうとしているということの奇妙さに、ふと気づかさ日本語で「西洋演技論史」というのを書こうとしているということの奇妙さに、ふと気づかされた。思えば「演技論」などという研究ジャンルはフランス語でも英語でも存在しない。フランス語の博士論文は「俳優術(art du comédien)」について書いたし、英語では「演技理論(theory of acting)」について研究している、と説明することが多い。だが、たとえば最近は教会法やローマ法における俳優の位置づけについて調べているが、これはどちらにもあてはまらない。自分がやっている「演技論史」というのは「演技について語られてきたこと」についての歴史であり、それをフランス語や英語にしようとすると、「演技についての言説の歴史(histoire des discours sur l’art du comdien, history of discourse on acting)」とか、なんだかややこしい言い方になってしまう。なんでこんなことになってしまったのか。
もとをたどれば、リアリズム的演技の起源を知りたかったのだが、俳優が書いた実践的な「演技理論」などというものはせいぜい一八世紀くらいまでしか遡れない。でも、そこで「よい演技」とされているものは、特定の社会的・歴史的背景から要請されたものであって、そこで使われている語彙は弁論術、哲学、神学、法学、文学等々のなかで使われてきたものの借り物だったりする。「演劇独自の価値」などというものは存在しないのであって、そういうネットワークの全体を見なければ、なぜそのような演技がよいということになったのかは理解できないし、一八世紀より先に遡ることすら難しくなってしまう。
というわけで、日本語の「演技論」という言葉がなんだかしっくりきた。日本語で書くと、西洋語の言説をある種突き放して相対化できるというメリットもある。西洋語で書いていると、自分が書いている言葉自体を分析・批判しながら書くというややこしい作業をしなければならない(まあ日本語でも結局翻訳語を多用することになるので、ある程度そうならざるをえないが)。ふたたび西洋語で語らなければいけない機会に、「日本語からの視点で西洋語で西洋演技論を語る」というアクロバティックなことができるか、考えてみたりしている。

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シンポジウム「芸能者はこれからも旅をするのか? ~コロナ後の国際舞台芸術祭における環境と南北問題~」 2022年10月28日

東京芸術祭 2022 シンポジウム「芸能者はこれからも旅をするのか? ~コロナ後の国際舞台芸術祭における環境と南北問題~」、オンライン配信を開始しました。

国際舞台芸術祭で働いていて、ここ三年ほどは自分の仕事を問いなおす日々でした。国境を越える移動が少しずつ再開してきましたが、世界中の人が飛行機に乗れるようになってきたことは、コロナ禍がパンデミックとなった原因でもあり、環境破壊や気候変動を促進する一要素でもあります。一方で、移動が制限されたり、移動のリスクが高まってしまうと、舞台芸術の世界では、すでに著名なアーティストに仕事が集まり、南北格差が固定化されることにもつながりかねません。この問題について話すために、ヨーロッパ、アメリカ大陸、アジアからそれぞれ一人ずつお招きして、オンラインでシンポジウムを行いました。

アウサ・リカルスドッティルさんは、ブリュッセル(ベルギー)に拠点を置く世界最大の舞台芸術ネットワークIETMの事務局長です。2020年、コロナ禍を受けて、IETM他ヨーロッパを拠点とする四つの舞台芸術ネットワークが共同で、「よりインクルーシブで持続可能でバランスの取れた」国際ツアーのあり方を欧州圏41カ国で実証的に検証する試み「パフォーム・ヨーロッパPerform Europe」が立ち上げられました。ここで明らかになったことの一つが、ヨーロッパの内部でもアーティストのモビリティには大きな格差があるということでした。つまり、国際舞台芸術祭を通じて見える「世界」は、地域やジェンダー、障害の有無などにより、視野がかなり限定されてしまっていたわけです。この格差はコロナ禍により、さらに拡大する傾向にありました。そこで、より環境に優しいツアーの仕方を検討するだけでなく、この格差をいかに減らすかも大きな課題となりました。

モントリオール(カナダ)のフェスティバル・トランスアメリーク共同芸術監督となったマーティン・デネワルさんは、北米先住民アーティストの視点から環境問題を捉えなおす試みをご紹介いただきました。マーティンさんはヨーロッパ出身で、先住民に「我々の土地にようこそ」と迎え入れられたといいます。他者や環境から収奪する関係から、ホストとゲストとが相互に敬意を払う関係へと関わり合いをむすびなおすことで、南北問題と環境問題に同時にアプローチする可能性が見えてきました。

そしてコロナ禍の渦中にシンガポール国際芸術祭ディレクターとなったナタリー・ヘネディゲさんからは、今日の東南アジアの現実に根づいたプログラムをどう組んでいったのか、お話をうかがうことができました。航空機による移動が止まったなか、ナタリーさんはまず「ウェブサイト上で旅をした」と言います。コロナ禍で極めて厳しい状況に置かれた東南アジアのアーティストたちは、積極的にオンラインで情報を発信していました。それ以前は、一人あたりGDPが高いシンガポールとそれ以外の国々ではモビリティにかなりの格差がありましたが、そこでは逆に、より水平的な出会いが可能になったといいます。

お三方のお話から、一人ではとても思いつかなかった糸口が見えてきました。経済がグローバル化するなかで、地理的な南北だけでなく、「資本主義経済のグローバル化により負の影響を受ける地域や人々」を指す「グローバルサウス」という概念が提唱されてきましたが、グローバルサウスは北にも南にも、またいわゆる先進国にもあります。そしてグローバルサウス間の連帯を模索する動きも拡がっています。一カ所に人が集まらないと成立しないという極めて「非効率的」な舞台芸術も、グローバル資本主義とはなかなか相容れません。これからの舞台芸術の国際交流は、グローバルサウスから新たな経済圏をつくる動きとの連帯を模索する必要があるのかもしれません。

12月11日まで配信の予定です。私1人では消化しきれない話ばかりですので、ぜひご感想をお寄せください。
https://tokyo-festival.jp/2022/program/symposium_i

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演劇というジャンル/ディシプリン 2022年6月6日

週末に多摩美術大学で行われた日本演劇学会2022年度全国大会「演劇と美術」は自分にとってアクチュアルな問題を問う発表やシンポジウムが多く、刺激的だった。「演劇と美術」と並べると、「劇場」と「美術館」という制度を問いなおすことにならざるを得ない。そして、その問いは「演劇(学)」というジャンル/ディシプリンそのものを問いなおすものともならざるを得ない。「演劇と美術 —入り交じる時間と空間—」と題された最後のシンポジウムで、登壇者に「現場の視点から、演劇学あるいは演劇教育というディシプリンに期待するものは?」と質問したところ、「アーカイブを整備してほしい」という返答があり、とても腑に落ちた。ゼロから新しいものを作ることはできない。アーカイブがなければ実験もできない。そしてジャンルやディシプリンといった枠がなければ、アーカイブも成り立たない。仮に枠組みのないアーカイブがあっても、ほしいものにたどりつくことはできない。「越境」が大事だからといって、全ての壁を壊したほうがいいというわけではない。壁の中でしかできない実験はあるし、だからそもそも壁をつくってきたのだろう。
自分が演劇学を選んだのは、ご多分に漏れず、演劇に救われたからだった。今にして思えばそれも「劇場」という壁があり、「演劇」という枠があったからこそ可能な出会いに救われたのだと思う。だがアジアからの留学生としてフランスで演劇学を学んでみると、いかにその枠がヨーロッパ中心にできているかを実感させられることになった。それから劇場で働くことになり、「演劇祭」のプログラムを考えていると、「演劇」という枠組みで本当にちゃんと「世界」が見えるのか、という疑問が湧いてきた。それでパフォーマンス研究を学びにニューヨークに行った。リチャード・シェクナーは1992年の全米高等教育演劇学会で、演劇学科をみんな解体してパフォーマンス研究科に改組することを提唱したが、今のところそうなってはいない。広すぎる枠はアーカイブとして使いづらいからなのかもしれない。
今、西洋演技論史を書こうとしているのは、西洋でできた「演劇」という枠組みにかなりの不満と不信感があるからだ。その土台まで、一歩ずつ掘り進めていって、自分の違和感の正体を見極めたい。その向こう側に何があるのかは、まだよくわからない。植民地時代に作られたインフラであろうと、ただ破壊してしまっては自分の生活が不便になるだけ、ということも往々にしてある。自分が受けた恩恵を、今よりもいい形で次代につなげるための仕事ができればと思う。
どんなインフラも、日々の集団的実践のなかで保持され、更新されていく。日々の研究や教育のかたわらで研究会を開き、学会誌を発行し、といった作業をしてくださる方々がいるおかげで、出会いが生まれ、アーカイブが更新され、枠からの越境も生じる。学会の受付を通るたびに、以前SPAC-静岡県舞台芸術センターで演劇学会の研究集会を開催させていただいたときのことを思い出す。コロナ禍もあり、今回もみなさん大変だったと思いますが、本当におつかれさまでした!

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劇場は可能か? 2022年1月5日

2020年、2021年と、劇場関係者にとってはつらい年がつづきました。世界中の劇場が一度に扉を閉じたというのは、有史以来初めてのことでした。一方で、そもそも世界中にこれほど「劇場」なるものが存在したのも、有史以来初めてだったはずです。西洋演劇史においても、常設の屋内劇場ができたのは16世紀以降のことに過ぎません。

コロナ禍で、世界中の劇場が一度に扉を閉じました。でも、コロナ禍が収束すれば劇場に平穏な日常が戻ってくる、というわけでもなさそうです。奇しくも2020年は、アジア経済の重みが世界経済の半分を越えた年でもありました。劇作家の岸井大輔さんは、「私たちアジア人にとって…シアターの建設と舞台化こそ近代化であり、植民地化である」とおっしゃっていました。2020年代は世界劇場史にとって、節目の時代となるでしょう。アジアのなかでも重要な劇場興行の歴史を持つ日本にとっては、自らの歴史と折り合いをつけ、近隣の実践も参照しながら、新たなモデルを創造する好機にもなりうるはずです。

これまでの20数年間、私は劇場というものがあったおかげで生きていくことができました。ではこれからの20年間はどうなるのか。私にも確実な答えがあるわけではありません。

劇場関係者に「劇場は可能か?」という問いを投げかけていくインタビューシリーズ、まずは1月11日にオープニングトークを行い、今日の社会において劇場というものが抱えている問題を岸井大輔さんと一緒に解きほぐしてみます。そのうえで、まちを舞台に演出する石神夏希さん、「木ノ下歌舞伎」の木ノ下裕一さん、世田谷パブリックシアターの初代芸術監督佐藤信さん、キラリ☆ふじみ芸術監督の白神ももこさん、ドラマトゥルクでF/T・東京芸術祭でディレクターを務めてきた長島確さん、KYOTO EXPERIMENTを立ち上げたロームシアター京都の橋本裕介さん、新長田DANCEBOXの横堀ふみさん、照明家の吉本有輝子さん、演出家でアートスペースUrBANGUILDの運営にも携わっている和田ながらさんに問いをぶつけていきます。

自分の生にとって不可欠だった場を、次の世代にはどのような形で引き継いでいけばよいのか。みなさんと一緒にじっくり考えてみたいと思っています。今年も何卒よろしくお願いいたします。


横山義志(演劇研究)×岸井大輔(劇作家)
劇場は可能か シーズン0
企画司会:岸井大輔 横山義志
優れた活動をしている多くの劇場が存続の危機に晒されている中、今日も新しい劇場が開く。
しかしそもそも日本で劇場をやるというのはどういうことか?コロナが続きオリンピック終了したこのタイミングで考え直してみたい。
まずは、インタビュー8本と2回の対話の場。
インタビューイー(各2時間程度・録画次第都度共有・各単独2500円)
石神夏希 3月2日収録予定
木ノ下裕一 3月7日収録予定
佐藤信 3月9日収録予定
白神ももこ 2月24日収録予定
長島確 2月25日収録予定
橋本裕介 2月15日収録予定
横堀ふみ 3月14日収録予定
吉本有輝子 3月7日収録予定
ゲストインタビュアー 和田ながら
オープニングトーク(基調講演) 1月11日(火)11時30分ー14時 単独2500円
リアル会場(@PARA会場は予約者に告知)+オンライン+録画 岸井大輔・横山義志
企画者それぞれから企画の趣旨を説明し、参加者とディスカッション。インタビューイーへの質問も募ります。
エンディングトーク 4月19日(火)11時30分ー14時 単独参加不可
リアル会場(@PARA)+オンライン+録画  岸井大輔・横山義志

インタビュー録画8本+イベント2回 
全て込み1万円(学生5000円)/各イベント・動画2500円(学生1500円)、インターン制度あり

https://docs.google.com/document/d/1c0AcRmH1GKlbLfu5W_DnwICJCSMz3Rdob11YtkCslbs/edit?fbclid=IwAR1HCFqG6Yrif4EI_KkkQATqhoPhIyAImIWmEioOAl_gPZIsfLo7cLU16fI

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森元庸介講演会「西洋はいかにして演劇を許し、芸術を愛するようになったか ~決疑論と美学の誕生~」(1/21) 2022年1月3日

森元庸介さんを招いて、1月21日にオンラインで「西洋はいかにして演劇を許し、芸術を愛するようになったか ~決疑論と美学の誕生~」と題した講演会をしていただくことにしました。
ご著書『芸術の合法性 決疑論が映し出す演劇の問い』(Yosuke Morimoto, La légalité de l’art. La question du théâtre au miroir de la casuistique, préface de Pierre Legendre, Paris, Cerf, 2020)をひもといていくと、西洋近代美学の土台がキリスト教の決疑論によって形づくられたことが見えてきます。そして、その際に中心的な役割を果たしたのが、演劇を許容してよいのか否かという問題だったのです。古代ローマの教父たちは、演劇を観に行くこと、上演することを激しく断罪していました。それが中世から近代にかけて、条件付きで許容されるようになっていきます。それを可能にしたのは、決疑論における演劇と俳優をめぐる長年にわたる記述の積み重ねでした。決疑論というのは、キリスト教の枠組みのなかで、個々の具体的な行いが良いものか悪いものかを判断するための学問です。この分野の書物は膨大にあるようですが、一九世紀以来ほとんど再版されておらず、研究もあまりないそうです。
一見断絶のない解釈の積み重ねのなかで起きる微細で緩慢な変化が、やがて演劇への新たな態度を生み、ついにはキリスト教のあり方自体にも問い直しを迫るものになっていきます。そして演劇を許容する理論的枠組みが形成されると、それが芸術全般を受容する際の枠組みにもなっていきます。この経緯を知ると、「芸術」の名のもとで何が許容され、何が排除されているのかも見えてくるかもしれません。
近年、フランス旧体制下における演劇批判については優れた研究がなされてきましたが、演劇に対する寛容論の構造を解明する試みはあまりなされてきませんでした。極めて刺激的な論考なのですが、まだ邦訳はなく、神学用語やラテン語・古代ギリシア語がたくさん出てきて、読むのはなかなか大変です。森元さんに「ヨーロッパ文化の舞台裏」(ルジャンドル)をお見せいただく貴重な機会となりそうです。

講演会に向けて森元庸介さんの『芸術の合法性 決疑論が映し出す演劇の問い』を日々読んでいると、近代演技論と古代演技論のあいだのミッシングリンクがここにあったのか、と思います。名優たちは真情をもって演技をしているというキケロの話と近代の感情主義演技論とのあいだには、誠実さを一つの条件として俳優を「合法化」した中世の神学/決疑論における議論があったようなのです。というわけで、スタニスラフスキーやストラスバーグとかに興味がある方もぜひ。

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【日仏演劇協会ZOOM演劇講座】
《第四回》
西洋はいかにして演劇を許し、芸術を愛するようになったかー決疑論と美学の誕生

講師:森元庸介(東京大学総合文化研究科准教授・表象文化論)
聞き手:横山義志(日仏演劇協会実行委員・西洋演技論史)

「異邦人の眼ざしが静かな水面をかき乱す、私たちが知り尽くしていると思い込んでいた認識論的カテゴリーのなめらかな鏡面を。」(ピエール・ルジャンドルによる序文から)

森元庸介
1976年生。パリ西大学博士(哲学)。東京大学大学院総合文化研究科・准教授。著書に La Légalité de l’art. La question du théâtre au miroir de la casuistique (Cerf, 2020). 共編著に『カタストロフからの哲学 ジャン=ピエール・デュピュイとともに』(以文社、2015)。また、ディディ=ユベルマン、デュピュイ、ルジャンドル、レーベンシュテインなどを翻訳している。

横山義志
1977年生。SPAC-静岡県舞台芸術センター文芸部、東京芸術祭リサーチディレクター、学習院大学非常勤講師。専門は西洋演技論史。パリ第10大学でLa grâce et l’art du comédien. Conditions théoriques de l’exclusion de la danse et du chant dans le théâtre des Modernes(『優美と俳優術 近代人の演劇における踊りと歌の排除の理論的条件』)により博士号を取得。論文に「アリストテレスの演技論 非音楽劇の理論的起源」、翻訳にジョエル・ポムラ『時の商人』など。

【日時】
2022年1月21日(金)20時~22時
【無料・要事前登録】
以下のurlで事前に参加登録をお願いします。定員は60名、先着順となります。
https://us02web.zoom.us/meeting/register/tZMud-ygrjkrG9bVUBxBm0q53uJi2F44wRC7
登録後、ミーティング参加に関する情報の確認メールが届きます。

【注意】
·登録は原則本名でお願いします。
·ミーティングルームには参加登録したメールアドレスでしかログインできません。
·ミーティングルームに入られましたら「ミュート」「ビデオ・オフ」になっていることを御確認ください。
·Zoomオンライン演劇講座は録画されます。また録画した内容を編集のうえ、後日、youtubeの日仏演劇協会チャンネルに公開される可能性があります。

【問い合わせ】
日仏演劇協会事務局(office@sfjt.sakura.ne.jp
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森元庸介講演会「西洋はいかにして演劇を許し、芸術を愛するようになったか ~決疑論と美学の誕生~」(1/21) へのコメントはまだありません

『アリアーヌ・ムヌーシュキン:太陽劇団の冒険』とリアリズム演技論への問い 2021年10月24日

『アリアーヌ・ムヌーシュキン:太陽劇団の冒険』を見て、今さらながら、この周辺で起きていたことには大きな影響を受けたんだなと思った。歌舞伎や能や文楽に改めて興味を持つようになったのも、留学していた頃にパリの演劇科で、太陽劇団の影響が色濃かったということがあった。自分が西洋演技論史を専門にしたのは、今あたかも普遍的なものであるかのようにみなされている「リアリズム」と呼ばれる演技形式が、特定の地域・時代の特殊な状況のなかで生まれてきたことを示すためだった。この映画のなかでムヌーシュキンは、リアリズムが演劇にとっての最大の危機だと語っている。太陽劇団はインドや日本の演技形態にも普遍性がありうるということを体当たりで示そうとしていた。

太陽劇団の作品や活動のすべてを肯定してきたわけではないが、こういった試みが減ってしまったことはちょっと残念に思っている。いわゆる「リアリズム」的な演技形態や、シェイクスピアやギリシア悲劇のテクストを使うことが「文化の盗用」とされないのは、それに普遍性があるということが前提になっているからだが、これらが普遍的なものとみなされた背景には、植民地時代の政治的・経済的構造がある。ハンバーガーが世界化したからといってその「普遍性」を肯定的に評価すべきとは限らないし、今「エスニックフード」とみなされているものが今後世界化していく可能性は十分にある。

いわゆる先進国においてマジョリティに属するアーティストたちが、植民地支配を受けた国や先住民の文化に目を向けたことは、脱植民地化の一つのステップだった(太陽劇団の場合、ムヌーシュキン自身をはじめ、多くの劇団員が移民層の出身で、マジョリティとも言い切れないが)。それに対して、植民地支配を受けた側や先住民のアーティストたちが「文化の盗用」という批判を向けたのもまた、重要なステップだった。表象の担い手が出自に応じて平等に権利を得られていない状況に対しては、まだまだ取り組まなければならないことがたくさんある。

だがそこには、アイデンティティポリティクスだけでは解決しない問題も少なくない。「普遍」とされるものを疑いながら、「普遍」とされていないものに特定の集団を超える意味を見出すことは、世界の均衡を取り戻すためにまだまだ必要な作業ではないか、などと思いながら、リアリズム演技論の起源について考えつづけている。

『アリアーヌ・ムヌーシュキン:太陽劇団の冒険』とリアリズム演技論への問い へのコメントはまだありません

当事者性と「世界」 2020年9月4日

内野儀先生の「日本の演劇についていま考える「枠組み」も考えてみる(2) 実験とかコミュニティとか:リチャード・シェクナーから小劇場演劇へ」という話を一昨日うかがい、ここ二十年くらいもやもやしていたことが、少し輪郭を持ってきた気がする。

2016年にACC(アジアン・カルチュラル・カウンシル)のグランティーとしてニューヨークに滞在させていただいたが、ニューヨークに行きたかったのは、フランスで学んだ演劇学・演劇史がかなり狭いものに感じていたからだ。その前にアジアセンターのグラントで東南アジア三カ国視察に行かせていただいたとき、東南アジアの多くのアーティストがヨーロッパではなく米国で、演劇学ではなくパフォーマンス・スタディーズを学んだことを知って、ニューヨークに行けば、アジアのことをもっときちんと考えられるのではないかと思っていた。

だが実際に行ってみたら、ニューヨークではアジアのアーティストがあまり活躍しておらず、正直ちょっとがっかりした。パフォーマンス・スタディーズも、アジアのことよりも米国内のアジア系アメリカ人のことにばかり一生懸命で、なんだか視野が狭い感じがした。しかし、この半年ほどの米国滞在は、今日の舞台芸術の枠組みをめぐる問題に取り組む大きなきっかけになった。

ニューヨークに行く前に知っていたパフォーマンス・スタディーズといえば、リチャード・シェクナーくらいだった。シェクナーはACCの支援も得て、日本や中国からパプアニューギニアまでアジア中をリサーチし、それが「演劇」にとらわれない「パフォーマンス」一般についての新たな学問分野を切り拓くきっかけの一つになった。ニューヨーク大学でシェクナーの最後のセミナーに参加できたことは、本当に得がたい経験だった。だが、そのニューヨーク大学でも、シェクナー的な視野でパフォーマンス・スタディーズに取り組んでいる研究者はいなかった。

一昨日の内野先生の話で、1980年代のニューヨークでの経験とドワイト・コンカーグッドの話を聞いて、なるほど、と思った。1986年に内野先生がニューヨーク大学にいらした時には、「自己省察性(reflexivity)」がキーワードだったという。要は「自分のことを省みろ」「他人の話をする前に、自分がどの立場から言っているのかよく考えておけ」ということらしい。

「未開の地」がなくなっていき、ポストコロニアリズムを経過して、パフォーマンス・スタディーズの重要な基盤の一つだった文化人類学は大きく変容していく。そこで出てきたのが、シカゴのノースウェスタン大学でパフォーマンス・スタディーズを教えていたドワイト・コンカーグッド(Dwight Conquergood)だった。コンカーグッドはタイのモン族のヒーラーを対象にフィールドワークをしたのがきっかけで、モン族難民の権利の擁護にアクティヴィスト的に関わっていく。そして地元シカゴの問題に取り組むため、移民貧困層が多いリトル・ベイルートに住み込み、ギャングたちの相談に乗りながらリサーチを進めていく。コンカーグッドは55歳で亡くなるまでそこで暮らしていたという。いわば自分をむりやり地元のギャングたちの問題の当事者にしてしまったわけである。

これがパフォーマンス・スタディーズのその後の流れに大きな影響を与えることになる。私がノースウェスタン大学のパフォーマンス・スタディーズ科で話を聞いた時にも、今の学生のフィールドワーク先の多くはマクドナルドのアルバイトや地元の会社の新人研修で、タイやパプアニューギニアに行くような学生はほとんどいないとのことだった。ベトナム戦争、イラク戦争を経て、米国が内向きになっていったことも関係しているのだろう。米国滞在中、ちょうどトランプ政権の成立もあり、「世界」のことよりも足下の問題を見つめろ、という風潮を強く感じた。世界中のあらゆる地域からの移民がいる米国にいると、あたかもそこで「世界」が見えるような気がしてしまうこともあるのかもしれない。

この流れが今の東京の小劇場演劇にもつながっている、という話をするはずだったようだが、一昨日は少し触れただけで終わってしまった。しかし1980年代のニューヨークでキーワードだった「自己省察性(reflexivity)」という問題意識が、今の「当事者性」をめぐる問題につながっているのは間違いないだろう。1990年代以降の「現代口語演劇」も、「自分の足下のリアリティーを大事にする」という意味ではつながっている。現代口語演劇的なものへの共感と違和感、太陽劇団的なものへの共感と違和感がどこから自分に流れ込んできていたのか、少し見えてきた。

翻って自分の研究のことを考えると、「自分の問題」から出発しつつも、良くも悪しくも、これまではヨーロッパ的な普遍主義・客観主義のなかでやっていかざるを得なかったのだと思う。歌と踊りを排除した「近代劇」なるものがなぜヨーロッパで生まれ、そこで作られた基準がアジアにおいていかに身体性を抑圧してきたのか、ということを見つめることで、「近代劇後」「ヨーロッパ後」の舞台芸術のために何をすべきかを考えてきたつもりだが、話を大きくすればするほど、遠い地域の話、昔の話をすればするほど「当事者性」が薄くなっていくところはある。

だが舞台芸術の国際事業に関わっている立場からすると、この枠組みの問題はまさに当事者性をもった問題でもある。それに関わってこられたのは幸運なことだと、今にして思う。

今は足下を見つめなおす時期だと思いつつも、足下だけを見ていると見えないこともある。もう少し遠くのほうも見ておきたい。

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