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「日本の現代演劇」とは何か 2023年2月10日

「日本の現代演劇」とは何か、何であり得るのか、私たちはまだ十分に知らないのかもしれない。日本語で上演のために書かれた多くのテクストは、「伝統芸能」や「伝統演劇」の枠内でしか使われていない。その原因の一つは、テクストと身ぶりや音楽とが不即不離の関係にあるためである。もちろんヨーロッパの戯曲も多くはそうだったはずだが、近代ヨーロッパでは、テクスト中心主義を媒介にして、テクストを当初想定されていた身体性から切り離して上演する慣習が確立した。

もう一つの原因は、日本語で上演のために書かれたテクストの多くが「公論」の形成を目的としていなかったことだろう。一八世紀以降の西欧においては公的資金が用いられる劇場が公論形成の場ともなり、それを目的として書かれる戯曲も出現してきた。さらに、過去のレパートリーもそれを基準として読み直されるようになっていく。

日本では歌舞伎を「旧劇」として否定する「新劇」から近代演劇の歴史が始まったことになっている。「伝統芸能」、「伝統演劇」あるいは「旧劇」をすでに発展段階を終えた歴史の遺物とみなし、西洋の演劇史と接続することで、日本の「近代演劇/現代演劇」の歴史は紡がれてきた。

20世紀以来、ヨーロッパの演劇もテクスト中心主義を問い直し、身体性や音楽性の価値を再発見するための試みを重ねている。だが、「演劇」と呼ばれる枠組み自体がテクスト中心主義と分かちがたいため、そこから逃れるのは容易ではない。「演出家の時代」を経ても、「演出」をテクストと見なす新たなテクスト中心主義以外の道はなかなか見えてこない。

公論の形成だけが舞台芸術の価値だとすれば、言葉を使わないパフォーマンスの多くを排除してしまうことになりかねない。ヨーロッパの公共劇場における舞台芸術は、舞踊や音楽を含むさまざまなパフォーマンスを、アーティストの言葉や企画書によってなんとかテクストに回収させることで公共性を確認してきた。だが、そこで使われている言葉は、本当に身体性の価値を評価できるものになっているのだろうか。身ぶりを身ぶりによって、音楽を音楽によって批判することが可能であり、身ぶりや音楽にアイロニーがありうるのだとすれば、その意味は私たちが今使っている言葉で十分に回収可能なのだろうか。

私が演技論史に取り組んでいるのは、「演劇」の歴史ではなく「演技」の歴史を辿ってみれば、違う道筋が見えてくるのではないかと思ったからだ。テクスト中心主義へと向かう演技論史を、そのローカルな文脈のもとに置き直してみるだけでも、それがどれだけ特殊な状況で成立したものなのかが見えて、その普遍性を問い直すことができるかもしれない。

そして、いわゆる「伝統演劇」のテクストを、それが前提としていた身体性とともに、今の私たちの身体を通じて上演しなおす試みは、ヨーロッパの特殊な状況で培われた「演劇」の枠組みから排除されてしまったものにも目を向けられるような、私たちの「現代演劇」のあり方を考えるための重要な手がかりになるかもしれない。

(木ノ下歌舞伎/岡田利規『桜姫東文章』を拝見して。)

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『仮構の歴史』 2022年12月18日

マーク・テ/ファイブアーツセンター『仮構の歴史』、『バリン』につづき、マレーシアという国家の成り立ちをめぐる刺激的な作品。中等教育で使われる歴史の教科書がテーマ。マラヤ連合時代(1946-1948)においては、最近まで政権与党だったマレー系右派ナショナリズム政党UMNO(統一マレー国民組織)主導のデモよりも、「ハルタル」と呼ばれた左派ナショナリズム政党主導のゼネラルストライキ(1947)のほうがよほど多くの人が参加していたのに、教科書では全く取り上げられていなかった。このハルタルの時代を振り返ってみると、長年マレー半島で暮らしてきたマレー系、中華系、インド系の住民が同等の市民権をもって共存できる国家が成立していた可能性が見えてくる。「ハルタル」はガンジーが提唱した非暴力抵抗運動から来た名前で、植民者であった英国人が再び政治や経済を通じて影響力を行使することへの宗教を超えたナショナルな抵抗が含意されている。マラヤ共産党やマラヤ華人の歴史がご専門の原不二夫先生は公演後のトークで、もしこのストライキに共産党が参加していたら、マレーシアの歴史は変わっていたかもしれない、とおっしゃっていた。この作品では、「共産主義者=中国人/無神論者」といった(右派プロパガンダにもとづく)クリシェにはそぐわない、マレー系やムスリムに改宗した華人の元マラヤ共産党指導者たちに焦点が当てられていた。「国家と民族の関係には別の形もありえた」というオルタナティブな歴史を語ることは、国家が仮構してきた歴史を根底から突き崩すことにもなりかねない。原先生は日本の教科書問題にも言及なさっていて、マレーシアでこの作品を上演する困難さがより身に沁みて実感できた。「日本人の歴史」では何が仮構されてきたのか、考えさせられる作品。

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カテゴリー: アジアの舞台芸術

シンポジウム「芸能者はこれからも旅をするのか? ~コロナ後の国際舞台芸術祭における環境と南北問題~」 2022年10月28日

東京芸術祭 2022 シンポジウム「芸能者はこれからも旅をするのか? ~コロナ後の国際舞台芸術祭における環境と南北問題~」、オンライン配信を開始しました。

国際舞台芸術祭で働いていて、ここ三年ほどは自分の仕事を問いなおす日々でした。国境を越える移動が少しずつ再開してきましたが、世界中の人が飛行機に乗れるようになってきたことは、コロナ禍がパンデミックとなった原因でもあり、環境破壊や気候変動を促進する一要素でもあります。一方で、移動が制限されたり、移動のリスクが高まってしまうと、舞台芸術の世界では、すでに著名なアーティストに仕事が集まり、南北格差が固定化されることにもつながりかねません。この問題について話すために、ヨーロッパ、アメリカ大陸、アジアからそれぞれ一人ずつお招きして、オンラインでシンポジウムを行いました。

アウサ・リカルスドッティルさんは、ブリュッセル(ベルギー)に拠点を置く世界最大の舞台芸術ネットワークIETMの事務局長です。2020年、コロナ禍を受けて、IETM他ヨーロッパを拠点とする四つの舞台芸術ネットワークが共同で、「よりインクルーシブで持続可能でバランスの取れた」国際ツアーのあり方を欧州圏41カ国で実証的に検証する試み「パフォーム・ヨーロッパPerform Europe」が立ち上げられました。ここで明らかになったことの一つが、ヨーロッパの内部でもアーティストのモビリティには大きな格差があるということでした。つまり、国際舞台芸術祭を通じて見える「世界」は、地域やジェンダー、障害の有無などにより、視野がかなり限定されてしまっていたわけです。この格差はコロナ禍により、さらに拡大する傾向にありました。そこで、より環境に優しいツアーの仕方を検討するだけでなく、この格差をいかに減らすかも大きな課題となりました。

モントリオール(カナダ)のフェスティバル・トランスアメリーク共同芸術監督となったマーティン・デネワルさんは、北米先住民アーティストの視点から環境問題を捉えなおす試みをご紹介いただきました。マーティンさんはヨーロッパ出身で、先住民に「我々の土地にようこそ」と迎え入れられたといいます。他者や環境から収奪する関係から、ホストとゲストとが相互に敬意を払う関係へと関わり合いをむすびなおすことで、南北問題と環境問題に同時にアプローチする可能性が見えてきました。

そしてコロナ禍の渦中にシンガポール国際芸術祭ディレクターとなったナタリー・ヘネディゲさんからは、今日の東南アジアの現実に根づいたプログラムをどう組んでいったのか、お話をうかがうことができました。航空機による移動が止まったなか、ナタリーさんはまず「ウェブサイト上で旅をした」と言います。コロナ禍で極めて厳しい状況に置かれた東南アジアのアーティストたちは、積極的にオンラインで情報を発信していました。それ以前は、一人あたりGDPが高いシンガポールとそれ以外の国々ではモビリティにかなりの格差がありましたが、そこでは逆に、より水平的な出会いが可能になったといいます。

お三方のお話から、一人ではとても思いつかなかった糸口が見えてきました。経済がグローバル化するなかで、地理的な南北だけでなく、「資本主義経済のグローバル化により負の影響を受ける地域や人々」を指す「グローバルサウス」という概念が提唱されてきましたが、グローバルサウスは北にも南にも、またいわゆる先進国にもあります。そしてグローバルサウス間の連帯を模索する動きも拡がっています。一カ所に人が集まらないと成立しないという極めて「非効率的」な舞台芸術も、グローバル資本主義とはなかなか相容れません。これからの舞台芸術の国際交流は、グローバルサウスから新たな経済圏をつくる動きとの連帯を模索する必要があるのかもしれません。

12月11日まで配信の予定です。私1人では消化しきれない話ばかりですので、ぜひご感想をお寄せください。
https://tokyo-festival.jp/2022/program/symposium_i

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「人材」とは 2022年6月14日

今参加者募集中の「東京芸術祭ファーム」は「人材育成と教育普及のための枠組み」ということになっていますが、この「人材」という言葉を使うべきかについては、昨年立ち上げの際に、だいぶ議論がありました。私も少し調べてみて、最終的に、使ってもよいのではと思いました。誤解を避けるためにも、この機会に、経緯を少しお話ししておきます。

まずは否定的な意見から。今「人材」という概念が普及したのは、新自由主義的経済学の人的資本(human capital)論によるもので、人間そのものが市場において「資本」や「商品」として機能するような考え方にもとづいている、という話があります。この意味での人材概念は、2011年に内閣府に設置された「グローバル人材育成会議」から、教育行政でも広く使われるようになったのだそうです。経済産業省の「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会報告書」(二〇二〇年九月)には、「人材の『材』は『財』であるという認識」によって「人的資本」を論じたと明言されています。(佐藤学『第四次産業革命と教育の未来 ポストコロナ時代のICT教育』)また、「人材」は英語のhuman resouces「人的資源」の訳語でもあって、この語は第一次大戦の頃から「国家に奉仕する人間のストック」といったニュアンスで使われ、日本でも大政翼賛運動の中で使われてきた経緯があります。この意味では、たしかにあまり使いたくない言葉です。

一方で、漢語の「人材」はかなり古い言葉で、『詩経』(紀元前12-6世紀の祭礼歌や民謡の集成)が出典です。「小雅・菁菁者莪 序」にはこうあります。

「菁菁者莪、樂育材也。君子能長育人材、則天下喜樂之矣。」
「菁菁たる莪は、材を育するを楽しむなり
君子よく人材を長育すれば、則ち天下之を喜楽す」

「キツネアザミ(莪)が茂るのを楽しむように、君子が人材を育成すれば社会全体がそれを享受することになる」という意味だそうです。ここで紹介されている歌は、川辺や丘にキツネアザミが茂っている様子(菁莪)を眺め、それを憑代とする水神が人里に近づいてくる歓びを歌うものです。キツネアザミは明らかに栽培植物ではなく、勝手に茂っているわけで、しかもすごく役に立つというよりも(薬草として使うこともあるようですが)、むしろあまり茂っていると困るくらいのものです。それが「材」だというのは、水神の憑代だからであって、人間の世界とは違った理屈で、勝手に生い茂っていくのを、元気にやっているなあ、となんとなく見守っていられる人こそが度量の広い「君子」なのだ、ということなのでしょう。(「君子」というのは、歌のなかでは水神のことのようですが、序のほうでは人間への教訓を述べているのかもしれません。)

まあ「東京芸術祭ファーム」の運営側に「君子」というほどの人がいるわけでもありませんが、できるのはせいぜい「何かやってみたい人」のために、なるべく安全にやってみることができる場をつくるくらいのことではないか、と思うと、この『詩経』に採録された歌がしっくりくるように思いました。そんな「人材」が、いつかみんなを楽しませてくれることを祈りつつ、ご応募をお待ちしております。

菁菁者莪 在彼中阿 既見君子 樂且有儀
菁菁者莪 在彼中沚 既見君子 我心則喜
菁菁者莪 在彼中陵 既見君子 錫我百朋
汎汎楊舟 載沈載浮 既見君子 我心則休

茂れるきつねあざみは、川の隈(くま)に。
水神の御出ましに、我が心も楽しみ静まらん。
茂れるきつねあざみは、川の水際に。
水神の御出ましに、我が心も喜ばん。
茂れるきつねあざみは、高き丘の上に。
水神の御出ましに、我らの多福を祈らん。
やなぎの舟はゆらゆらと、浮き沈みしつつ来る。
水神の御出ましに、我が心も喜ばん。
( 『新釈漢文大系第111巻 詩経(中)』石川忠久著、明治書院)

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東京芸術祭ファーム2022 ラボ
参加者募集中のプログラム
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※応募資格等の詳細は、下記より募集要項をご確認ください
https://tokyo-festival.jp/tf_farm

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クータンバラムの開放 2022年2月22日

アジア劇場史に残るであろう決定が下されました。

南インド・ケーララ州で、クーリヤッタム、ナンギャール・クートゥー、チャキヤール・クートゥーを演じるための劇場クータンバラムはヒンドゥー教寺院内にあり、ほとんどは特定カースト以外による上演を禁じてきましたが、主要なクータンバラムの一つが、それ以外のパフォーマーにも公演を許可することになったそうです。

SPACにもたびたび来てくれたナンギャール・クートゥーの代表的演者の一人カピラ・ヴェヌさんによれば、今ではこれらのジャンルのパフォーマーの75%は特定カースト出身者以外の方だそうです。日本人も含め、外国人のパフォーマーも増えています。

かなり時間はかかりましたが、新たな展開が生まれそうです。
https://timesofindia.indiatimes.com/city/kochi/support-grows-for-call-to-open-koothambalams-for-all-castes/

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劇場は可能か? 2022年1月5日

2020年、2021年と、劇場関係者にとってはつらい年がつづきました。世界中の劇場が一度に扉を閉じたというのは、有史以来初めてのことでした。一方で、そもそも世界中にこれほど「劇場」なるものが存在したのも、有史以来初めてだったはずです。西洋演劇史においても、常設の屋内劇場ができたのは16世紀以降のことに過ぎません。

コロナ禍で、世界中の劇場が一度に扉を閉じました。でも、コロナ禍が収束すれば劇場に平穏な日常が戻ってくる、というわけでもなさそうです。奇しくも2020年は、アジア経済の重みが世界経済の半分を越えた年でもありました。劇作家の岸井大輔さんは、「私たちアジア人にとって…シアターの建設と舞台化こそ近代化であり、植民地化である」とおっしゃっていました。2020年代は世界劇場史にとって、節目の時代となるでしょう。アジアのなかでも重要な劇場興行の歴史を持つ日本にとっては、自らの歴史と折り合いをつけ、近隣の実践も参照しながら、新たなモデルを創造する好機にもなりうるはずです。

これまでの20数年間、私は劇場というものがあったおかげで生きていくことができました。ではこれからの20年間はどうなるのか。私にも確実な答えがあるわけではありません。

劇場関係者に「劇場は可能か?」という問いを投げかけていくインタビューシリーズ、まずは1月11日にオープニングトークを行い、今日の社会において劇場というものが抱えている問題を岸井大輔さんと一緒に解きほぐしてみます。そのうえで、まちを舞台に演出する石神夏希さん、「木ノ下歌舞伎」の木ノ下裕一さん、世田谷パブリックシアターの初代芸術監督佐藤信さん、キラリ☆ふじみ芸術監督の白神ももこさん、ドラマトゥルクでF/T・東京芸術祭でディレクターを務めてきた長島確さん、KYOTO EXPERIMENTを立ち上げたロームシアター京都の橋本裕介さん、新長田DANCEBOXの横堀ふみさん、照明家の吉本有輝子さん、演出家でアートスペースUrBANGUILDの運営にも携わっている和田ながらさんに問いをぶつけていきます。

自分の生にとって不可欠だった場を、次の世代にはどのような形で引き継いでいけばよいのか。みなさんと一緒にじっくり考えてみたいと思っています。今年も何卒よろしくお願いいたします。


横山義志(演劇研究)×岸井大輔(劇作家)
劇場は可能か シーズン0
企画司会:岸井大輔 横山義志
優れた活動をしている多くの劇場が存続の危機に晒されている中、今日も新しい劇場が開く。
しかしそもそも日本で劇場をやるというのはどういうことか?コロナが続きオリンピック終了したこのタイミングで考え直してみたい。
まずは、インタビュー8本と2回の対話の場。
インタビューイー(各2時間程度・録画次第都度共有・各単独2500円)
石神夏希 3月2日収録予定
木ノ下裕一 3月7日収録予定
佐藤信 3月9日収録予定
白神ももこ 2月24日収録予定
長島確 2月25日収録予定
橋本裕介 2月15日収録予定
横堀ふみ 3月14日収録予定
吉本有輝子 3月7日収録予定
ゲストインタビュアー 和田ながら
オープニングトーク(基調講演) 1月11日(火)11時30分ー14時 単独2500円
リアル会場(@PARA会場は予約者に告知)+オンライン+録画 岸井大輔・横山義志
企画者それぞれから企画の趣旨を説明し、参加者とディスカッション。インタビューイーへの質問も募ります。
エンディングトーク 4月19日(火)11時30分ー14時 単独参加不可
リアル会場(@PARA)+オンライン+録画  岸井大輔・横山義志

インタビュー録画8本+イベント2回 
全て込み1万円(学生5000円)/各イベント・動画2500円(学生1500円)、インターン制度あり

https://docs.google.com/document/d/1c0AcRmH1GKlbLfu5W_DnwICJCSMz3Rdob11YtkCslbs/edit?fbclid=IwAR1HCFqG6Yrif4EI_KkkQATqhoPhIyAImIWmEioOAl_gPZIsfLo7cLU16fI

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私に向けられていない声  〜「劇場は可能か」に向けて〜 2022年1月4日

ふと思った。私に向けられていない声を、日々どれだけ聴いているのだろうか。
同じようなことを、中学生の頃にも思ったことがある。昼間は本ばかり読んで、夜はテレビを見たり、ラジオを聴いたりしていた。でもある日、それがみんな空しいことに思えた。それで、精神科医を目指した。目の前の人と向き合って、何か役に立つことができそうに見えたから。
結局医学部には入れず、大学で精神科のゼミに通って現場の話をうかがうと、あまり一人一人と向き合っている時間はなさそうだった。劇場に通うようになって、そこでは、今ここにいる自分に向けられている声があると感じた。それに、もしかしたら自分の声も向こう側に届きそうな気がした。
アルバイトも含めたら、もう20年以上劇場で働いている。しんどいことも山ほどあったけど、人とほとんど話せなかった自分が、世界と少しずつ和解できた時間だった。
よく考えてみれば、劇場とは「その場にいる人に聞こえるように、その人に向けられているのではない言葉を発する」というちょっとややこしい場所で、自分にはそれが必要だったんだと思う。だとすれば、「その場にいる人には向けられていない言葉を発する」という技術も、そもそも劇場で発明されたのではないか*。だがその技術の発展によって、今では劇場が危機に陥っている。
今もこういう場所を必要としている人がいるはずだが、劇場は今でも、そしてこれからも、この機能を果たしつづけることができるのだろうか。
自分のためにも、そこのところをちゃんと考えてみたいと思い、以下の企画に参加します。
「劇場は可能か シーズン0」、劇作家の岸井大輔さんと一緒に、石神夏希さん、木ノ下裕一さん、佐藤信さん、長島確さん、橋本裕介さん、横堀ふみさん、吉本有輝子さん、和田ながらさん等にお話をうかがっていく予定です。1月11日にオープニングトークを行うことになりましたので、一緒に考えてくださる方はぜひお声がけください。

*対話体になっている演劇の台詞は、舞台上の登場人物がお互いに向かって発しているもので、その物語世界の中では、観客にむかって発しているわけではないことになっている。
古代ギリシア・ローマの演劇も、能楽や江戸時代の歌舞伎小屋も、神事として、あるいは神々に向けて上演するということになってた。なので、少なくとも形式的には、この場合にはそこにいる観客は上演者がこの物語世界を差し向けている相手でもない。だが、たとえばローマ演劇では、観客が拍手をしたり笑ったりするのは神々が喜んでいる徴だと考えられてた。
実際に自分が観客として劇場に行くと、上演者は当然自分一人のために上演してくれるわけではなく、集合体としての観客のために上演していて、そこに自分も含まれている、という構造になる。そこで登場人物を演じる演技者が発する声は、他の登場人物に向けられた声であると同時に、観客全体に向けられた声でもある。自分を含む集団を第三者であるとみなせば、それは二重の意味で第三者に向けられた声になっている。
一方で、ここでは二層あるいは三層の自己同一化が起きている。観客である自分は、演技者の身体を通じて舞台上の登場人物に自己同一化し、さらに観客という集団にも自己同一化する。この仕組みが、近代ヨーロッパにおいては、「国民」の形成上重要だった。
だがこの機能は、二〇世紀には映画やラジオ、テレビによって担われるようになる。これらも、「その場にいる人には向けられていない言葉を発する」という劇場で培われた技術を応用してできたメディアだった。これらのメディアは劇場よりもずっと経済効率がよいので、二〇世紀を通じて、劇場は次第にマージナルな位置に追いやられていくことになる。
これらが劇場と大きく異なるのは、観客が声を発しても、上演者には必ずしも届かないということである。劇場では、観客が上演を妨害することができるし、上演者になってしまうことも可能である。この上演者と観客の対等性が失われてきたことは、今、多くの人が「自分には社会を変えることはできない」という諦念を抱いていることと関係があるのではという気がする。インターネットやSNSもこの非対称性の問題を必ずしも解消できてはいないように思う。

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『アリアーヌ・ムヌーシュキン:太陽劇団の冒険』とリアリズム演技論への問い 2021年10月24日

『アリアーヌ・ムヌーシュキン:太陽劇団の冒険』を見て、今さらながら、この周辺で起きていたことには大きな影響を受けたんだなと思った。歌舞伎や能や文楽に改めて興味を持つようになったのも、留学していた頃にパリの演劇科で、太陽劇団の影響が色濃かったということがあった。自分が西洋演技論史を専門にしたのは、今あたかも普遍的なものであるかのようにみなされている「リアリズム」と呼ばれる演技形式が、特定の地域・時代の特殊な状況のなかで生まれてきたことを示すためだった。この映画のなかでムヌーシュキンは、リアリズムが演劇にとっての最大の危機だと語っている。太陽劇団はインドや日本の演技形態にも普遍性がありうるということを体当たりで示そうとしていた。

太陽劇団の作品や活動のすべてを肯定してきたわけではないが、こういった試みが減ってしまったことはちょっと残念に思っている。いわゆる「リアリズム」的な演技形態や、シェイクスピアやギリシア悲劇のテクストを使うことが「文化の盗用」とされないのは、それに普遍性があるということが前提になっているからだが、これらが普遍的なものとみなされた背景には、植民地時代の政治的・経済的構造がある。ハンバーガーが世界化したからといってその「普遍性」を肯定的に評価すべきとは限らないし、今「エスニックフード」とみなされているものが今後世界化していく可能性は十分にある。

いわゆる先進国においてマジョリティに属するアーティストたちが、植民地支配を受けた国や先住民の文化に目を向けたことは、脱植民地化の一つのステップだった(太陽劇団の場合、ムヌーシュキン自身をはじめ、多くの劇団員が移民層の出身で、マジョリティとも言い切れないが)。それに対して、植民地支配を受けた側や先住民のアーティストたちが「文化の盗用」という批判を向けたのもまた、重要なステップだった。表象の担い手が出自に応じて平等に権利を得られていない状況に対しては、まだまだ取り組まなければならないことがたくさんある。

だがそこには、アイデンティティポリティクスだけでは解決しない問題も少なくない。「普遍」とされるものを疑いながら、「普遍」とされていないものに特定の集団を超える意味を見出すことは、世界の均衡を取り戻すためにまだまだ必要な作業ではないか、などと思いながら、リアリズム演技論の起源について考えつづけている。

『アリアーヌ・ムヌーシュキン:太陽劇団の冒険』とリアリズム演技論への問い へのコメントはまだありません

演じること、承認されること 琴仙姫《朝露 Morning Dew – The stigma of being “brainwashed”》 2020年11月9日

「帰国事業」で北朝鮮に一度「帰国」し、脱北して日本に戻ってきた方が200人近くいらっしゃるそうですが、その過去を語ってくれる方は少ないといいます。

明日11/10まで北千住BUoYで開催中の『朝露 日本に住む脱北した元「帰国者」とアーティストとの共同プロジェクト』で上映されている琴仙姫さんの新作《朝露 Morning Dew – The stigma of being “brainwashed”》、圧巻でした。「演じること」に関する作品なのかな、と勝手に思っています。

人は家族や組織、国家といった虚構を日々演じている。自分に与えられた役割を演じることは、時として思いがけない充実感をもたらす。とりわけ、それが集団によって承認されるときには。だが一方で、自分が演じた役が自分を縛っていくこともある。集団で一つの虚構を演じていると、そこから抜け出すのはいよいよ難しくなる。そして一人が役を演じることができなくなっても、芝居はつづいていく。その虚構の全体が破局を迎えるまでは。

これは「大東亜戦争」でも起きたことなんでしょうね。では、今自分たちはどんな役を演じているのか。その渦中にいると、なかなか分からないのですが、もっと考えてみたいと思いました。

演じること、承認されること 琴仙姫《朝露 Morning Dew – The stigma of being “brainwashed”》 へのコメントはまだありません
カテゴリー: アジアの舞台芸術

意味を失っていく世界に、手仕事で挑む 『紫気東来—ビッグ・ナッシング』の世界 2020年11月4日

「東京芸術祭ワールドコンペティション2019」の授賞式で、ジュリエット・ビノシュ審査員長が「最優秀作品賞は戴陳連の『紫気東来—ビッグ・ナッシング』」と発表したとき、あっけにとられた観客も少なくなかったのではないかと思います。この作品は今週末11/6-8、映像作品として生まれ変わって、東京芸術劇場とオンラインで上映されます

私も、韓国のプロデューサーのキム・ソンヒさんからこの作品を推薦していただいて、初めてビデオで見た時には、いくつかの場面の鮮烈な美しさに打たれ、遊び心溢れる意外な展開や手法に圧倒されながらも、どう評価したらよいものか、かなり途方にくれました。海外招聘の仕事を十数年してきましたが、こんなに途方にくれた作品はなかったかも知れません。でも何ヶ月か時間をかけて考えているうちに、この作品の面白さやすごみが少しずつ分かってきた気がしています。それをこの数日のうちに評価することができたアーティスト審査員のみなさんはさすがだと思いました。

私にもまだ、この作品がどこまで「分かって」いるのか、心もとないですが、まだ見ていない方、昨年見たもののモヤっとしている方のためにも、私に見えてきたことをいくつか、書き留めておこうと思います(「ネタバレ」ということでもないとは思いますが、予備知識なしで見たい方は鑑賞後にお読みください)。

・未知のノスタルジー

「東京芸術祭ワールドコンペティション2019」では、アーティスト審査会の審査基準を以下のようにしていました。

1)2030年代に向けて、舞台芸術の新たな価値観を提示しているか

2)その価値観の提示の仕方において、技術的に高い質をもった表現がなされているか

アーティスト審査員の一人であるレミ・ポニファシオさん(ニュージーランドのオークランド在住)は、この作品を選んだ理由を「他の作品の多くは「知っているもの」の延長線上にあるように見えたが、この作品は本当に「知らないもの」だったから」とお話ししていました。その意味で、最も「2030年代に向けて、舞台芸術の新たな価値観を提示」しているのがこの作品だったと、アーティスト審査会は結論づけたわけでした。

また、もう一人のアーティスト審査員ヤン・ジョンウンさん(ソウル在住)は、「インドネシア、マレーシア等々、アジア各地に影絵芝居の伝統があるが、この作品はそのどれとも異なる、独自の影絵の手法を使っている」とおっしゃっていました。一見すると、どこかで見たような影絵も出てきますが、たしかに不思議な絵や不思議な影の作り方があちこちで使われています。そして何よりも、全く言葉がなく、物語が突然現れては消え、突然妙な音がしては無音になり、というのは、伝統的な影絵芝居とは明らかに異なっていて、奇妙な夢を見ているような気がしてきます。

それでも、この作品に出てくるさまざまなお化けたちの絵姿も、扇風機、ミシン、ヤカンといった小道具も、なんとなく懐かしい雰囲気を漂わせています。『紫気東来—ビッグ・ナッシング』が見せてくれるのは、懐かしいのに知らない世界、知らないのに懐かしい世界です。

・古典と現代、四つの時間

この作品で二カ所だけ、言葉が出てくる場面があります。スクリーン上では英語で書かれていますが、今回の公演では、戴陳連自身の声で、「私のおばあちゃんは、川辺に住んでいた」と、日本語のナレーションが入っていました。戴陳連は「自分のおばあさんが生きていた世界を理解するため」にこの作品をつくった、とも語っています。

戴陳連は紹興酒で知られる紹興市の出身で、小さい頃はよくおばあさんの家にいたといいます。舞台上で使われる古びたミシンやヤカンは、おばあさんの家にあったものかも知れません。

その前に、やはり紹興市出身で、「近代中国文学の父」とされる魯迅の姿が出てきて、魯迅の顔がやがておばあさんの顔と重なっていきます。舞台の上の小道具に流れているのは、20世紀前半の魯迅の時代と、20世紀後半のおばあさんの時代なのでしょう。その間にヤカンは古び、すてきなミシンもガタガタと大きな音を立てるようになっています。

影絵の中では、腕から口が生えてきて食べ物を食べたり、鳥人間のようなものが出てきたりしますが、これらは『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』という唐代(9世紀頃)の怪談話を集めた奇書がもとになっているそうです。この本は魯迅の愛読書でもありました。

というわけで、この舞台には、1)唐代、2)20世紀前半、3)20世紀後半、4)現代と、四つの時間が流れているようです。

・「東」から到来するのは何か? 革命と資本主義、「東風」からイースタニゼーションへ

このことに気づくと、『紫気東来—ビッグ・ナッシング』という題名の意味が、ちょっと見えてきます。

中国語の原題は「东来紫气满函关(東来の紫気は函関に満つ)」。これは唐代の詩人杜甫の詩「秋興八首」の一節で、周代に老子が函谷関を訪れたとき、関守は「紫気」が漂っているのを見て聖人の東来に気づいた、という故事が語られています。そこから、今でも中華料理店などで「紫気東来」という言葉がおめでたいものとして掲げられています。

では近代の中国史で「紫気東来」とは何を意味するのか、と考えてみれば、たとえばフランスの映画監督ゴダールに『東風』(1969年、「ジガ・ヴェルトフ集団」名義)という映画があります。ここでいう「東からの風」とは、毛沢東主義(マオイスム)のことでした。1960年代、中国で毛沢東が主導した文化大革命に世界中で多くの人々が影響を受けた時代がありました。西洋文化とは異なる、新たな文化をつくろうという動きが「東からの風」だったわけです。

そしてこの毛沢東が最も評価していた作家が魯迅でした。魯迅は「偉大な革命家」でもあったとされ、中華人民共和国成立後、国語の教科書で大きな位置を占めてきました。その魯迅が生きた時代は、辛亥革命によって清朝が滅びたものの、安定した民主的政権がなかなかできず、混乱がつづいていました。魯迅が生まれた紹興市は中国東部にあるので、その意味でも「東」から来た人物といえますが、魯迅は医学を学びに日本に留学したことがきっかけで中国語による近代文学をつくったので、中国よりもさらに「東からの風」を中国大陸に持ち込んだ作家ともいえるでしょう。

そして現代は、世界の経済や政治の重心が西洋から「東」へと移動していく「イースタニゼーション」の時代といわれています。この動きに大きく寄与したのが、中国の「改革開放」による「社会主義市場経済」の成立でした。文化大革命から半世紀を経た今日、国語の教科書に採用される魯迅作品が減ってきているといいます。その意味でも、魯迅は戴陳連にとって「おばあさんの時代」を象徴する作家なのでしょう。

中国のGDPは2011年に世界第二位の規模になりました。推薦人のキム・ソンヒさんはこの作品の推薦理由のなかで「戴陳連は、資本主義文化ではもはやたどり着くことのできない領域へ(・・・)と私たちを誘う」と語っています。ジュリエット・ビノシュさんは戴陳連について「巨大な市場経済に一人で立ち向かっているかのようだ」と話していました。どちらも、「社会主義市場経済」を掲げる現代中国のアーティストを語る言葉として聞くと、ちょっと複雑な気持ちになります。

整理すると、1)周代(?):老子思想の到来、2)20世紀前半:辛亥革命、3)20世紀後半:文化大革命、4)現代:社会主義市場経済と、「東からの風」は時代によって大きく意味を変えてきました。

たとえば「腕に口が生えて次々と食べ物を平らげていく」という場面も、この四つの時代のそれぞれを背景にしてみれば、さまざまな意味で見えてくるでしょう。

ところが、英語の題名はBig Nothingと、全く違うものになっています。欧米の中華料理店の店名でも、中国語名と西洋語名が全く異なることがあります。たしかに中国の古典を参照していたりすると、そのまま西洋語に訳しても意味をなさないことは多々あるでしょう。とはいえ、「おめでたい気が東からやってくる」と「大きな無」では、さすがに意味が違いすぎて、ちょっと不思議ではあります。「おめでたい気」が、実は「大きな無」だった、ということなのだとすれば、そこには強烈な皮肉が込められていると思ってよいでしょう。

・生き物の時間、人の時間、道具の時間

この作品では、さらにいくつかの異なる時間が流れています。ヒトが生きる時間、鳥など他の生き物が生きる時間、そして扇風機、ミシン、ヤカンといった人が作った道具が生きる時間です。そしてヒト・他の生き物・道具のそれぞれが、影絵の中と舞台の上で二重化され、二つの世界を行ったり来たりしています。

さまざまな生き物のなかで、ヒトという種は比較的最近、この地球上に出現しました。そしてさまざまな道具を使うことで自分たちに都合がいい環境をつくり、他の生き物たちが生きていた空間を奪ってきました。でも、ヒトの命ははかなく、道具もいつか古び、朽ちていきます。ヒトが自分の都合でつくった空間も、隙あらば他のヒトや、他の生き物たちに奪われていきます。人がさまざまな妖怪変化に出会い、何の教訓もないまま、あっけなく身を滅していく『酉陽雑俎』の短い物語群は、そんなヒトの有り様を思い出させてくれます。ここでは「文明」前/後、「人間」前/後の時間が、めまぐるしく切り替わり、往来していくのです。

・意味を失っていく世界に、手仕事で挑む

ヒトがつくった「世界」の中では「意味」が生まれますが、長いことかけて生まれ落ち、育ってきた「意味」も、ふとしたことであっけなく失われてしまいます。時には「世界」もろとも。

戴陳連は、かつておばあさんが生きていた世界、今は失われてしまった意味を体感するために、描き、切り抜き、貼りつけ、動かし、丹念な手仕事によって世界をつくっていきます。でも戴陳連の手のなかから生まれた世界では、意味は絶え間なく滑り落ちていきます。

おばあさんの世界を生きてみようとする戴陳連の郷愁は、おばあさんの時間を越えて、道具の時間、他の生き物たちの時間へと滑り落ちていきます。ヒトの郷愁がヒトを越えていったとき、そこには異なる意味をもった世界が開けてくるのかもしれません。

意味を失っていく世界に、手仕事で挑む 『紫気東来—ビッグ・ナッシング』の世界 へのコメントはまだありません
カテゴリー: アジアの舞台芸術