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「演技論」という言葉 2022年12月3日

日本語で「西洋演技論史」というのを書こうとしているということの奇妙さに、ふと気づかさ日本語で「西洋演技論史」というのを書こうとしているということの奇妙さに、ふと気づかされた。思えば「演技論」などという研究ジャンルはフランス語でも英語でも存在しない。フランス語の博士論文は「俳優術(art du comédien)」について書いたし、英語では「演技理論(theory of acting)」について研究している、と説明することが多い。だが、たとえば最近は教会法やローマ法における俳優の位置づけについて調べているが、これはどちらにもあてはまらない。自分がやっている「演技論史」というのは「演技について語られてきたこと」についての歴史であり、それをフランス語や英語にしようとすると、「演技についての言説の歴史(histoire des discours sur l’art du comdien, history of discourse on acting)」とか、なんだかややこしい言い方になってしまう。なんでこんなことになってしまったのか。
もとをたどれば、リアリズム的演技の起源を知りたかったのだが、俳優が書いた実践的な「演技理論」などというものはせいぜい一八世紀くらいまでしか遡れない。でも、そこで「よい演技」とされているものは、特定の社会的・歴史的背景から要請されたものであって、そこで使われている語彙は弁論術、哲学、神学、法学、文学等々のなかで使われてきたものの借り物だったりする。「演劇独自の価値」などというものは存在しないのであって、そういうネットワークの全体を見なければ、なぜそのような演技がよいということになったのかは理解できないし、一八世紀より先に遡ることすら難しくなってしまう。
というわけで、日本語の「演技論」という言葉がなんだかしっくりきた。日本語で書くと、西洋語の言説をある種突き放して相対化できるというメリットもある。西洋語で書いていると、自分が書いている言葉自体を分析・批判しながら書くというややこしい作業をしなければならない(まあ日本語でも結局翻訳語を多用することになるので、ある程度そうならざるをえないが)。ふたたび西洋語で語らなければいけない機会に、「日本語からの視点で西洋語で西洋演技論を語る」というアクロバティックなことができるか、考えてみたりしている。

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森元庸介講演会「西洋はいかにして演劇を許し、芸術を愛するようになったか ~決疑論と美学の誕生~」(1/21) 2022年1月3日

森元庸介さんを招いて、1月21日にオンラインで「西洋はいかにして演劇を許し、芸術を愛するようになったか ~決疑論と美学の誕生~」と題した講演会をしていただくことにしました。
ご著書『芸術の合法性 決疑論が映し出す演劇の問い』(Yosuke Morimoto, La légalité de l’art. La question du théâtre au miroir de la casuistique, préface de Pierre Legendre, Paris, Cerf, 2020)をひもといていくと、西洋近代美学の土台がキリスト教の決疑論によって形づくられたことが見えてきます。そして、その際に中心的な役割を果たしたのが、演劇を許容してよいのか否かという問題だったのです。古代ローマの教父たちは、演劇を観に行くこと、上演することを激しく断罪していました。それが中世から近代にかけて、条件付きで許容されるようになっていきます。それを可能にしたのは、決疑論における演劇と俳優をめぐる長年にわたる記述の積み重ねでした。決疑論というのは、キリスト教の枠組みのなかで、個々の具体的な行いが良いものか悪いものかを判断するための学問です。この分野の書物は膨大にあるようですが、一九世紀以来ほとんど再版されておらず、研究もあまりないそうです。
一見断絶のない解釈の積み重ねのなかで起きる微細で緩慢な変化が、やがて演劇への新たな態度を生み、ついにはキリスト教のあり方自体にも問い直しを迫るものになっていきます。そして演劇を許容する理論的枠組みが形成されると、それが芸術全般を受容する際の枠組みにもなっていきます。この経緯を知ると、「芸術」の名のもとで何が許容され、何が排除されているのかも見えてくるかもしれません。
近年、フランス旧体制下における演劇批判については優れた研究がなされてきましたが、演劇に対する寛容論の構造を解明する試みはあまりなされてきませんでした。極めて刺激的な論考なのですが、まだ邦訳はなく、神学用語やラテン語・古代ギリシア語がたくさん出てきて、読むのはなかなか大変です。森元さんに「ヨーロッパ文化の舞台裏」(ルジャンドル)をお見せいただく貴重な機会となりそうです。

講演会に向けて森元庸介さんの『芸術の合法性 決疑論が映し出す演劇の問い』を日々読んでいると、近代演技論と古代演技論のあいだのミッシングリンクがここにあったのか、と思います。名優たちは真情をもって演技をしているというキケロの話と近代の感情主義演技論とのあいだには、誠実さを一つの条件として俳優を「合法化」した中世の神学/決疑論における議論があったようなのです。というわけで、スタニスラフスキーやストラスバーグとかに興味がある方もぜひ。

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【日仏演劇協会ZOOM演劇講座】
《第四回》
西洋はいかにして演劇を許し、芸術を愛するようになったかー決疑論と美学の誕生

講師:森元庸介(東京大学総合文化研究科准教授・表象文化論)
聞き手:横山義志(日仏演劇協会実行委員・西洋演技論史)

「異邦人の眼ざしが静かな水面をかき乱す、私たちが知り尽くしていると思い込んでいた認識論的カテゴリーのなめらかな鏡面を。」(ピエール・ルジャンドルによる序文から)

森元庸介
1976年生。パリ西大学博士(哲学)。東京大学大学院総合文化研究科・准教授。著書に La Légalité de l’art. La question du théâtre au miroir de la casuistique (Cerf, 2020). 共編著に『カタストロフからの哲学 ジャン=ピエール・デュピュイとともに』(以文社、2015)。また、ディディ=ユベルマン、デュピュイ、ルジャンドル、レーベンシュテインなどを翻訳している。

横山義志
1977年生。SPAC-静岡県舞台芸術センター文芸部、東京芸術祭リサーチディレクター、学習院大学非常勤講師。専門は西洋演技論史。パリ第10大学でLa grâce et l’art du comédien. Conditions théoriques de l’exclusion de la danse et du chant dans le théâtre des Modernes(『優美と俳優術 近代人の演劇における踊りと歌の排除の理論的条件』)により博士号を取得。論文に「アリストテレスの演技論 非音楽劇の理論的起源」、翻訳にジョエル・ポムラ『時の商人』など。

【日時】
2022年1月21日(金)20時~22時
【無料・要事前登録】
以下のurlで事前に参加登録をお願いします。定員は60名、先着順となります。
https://us02web.zoom.us/meeting/register/tZMud-ygrjkrG9bVUBxBm0q53uJi2F44wRC7
登録後、ミーティング参加に関する情報の確認メールが届きます。

【注意】
·登録は原則本名でお願いします。
·ミーティングルームには参加登録したメールアドレスでしかログインできません。
·ミーティングルームに入られましたら「ミュート」「ビデオ・オフ」になっていることを御確認ください。
·Zoomオンライン演劇講座は録画されます。また録画した内容を編集のうえ、後日、youtubeの日仏演劇協会チャンネルに公開される可能性があります。

【問い合わせ】
日仏演劇協会事務局(office@sfjt.sakura.ne.jp
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『アリアーヌ・ムヌーシュキン:太陽劇団の冒険』とリアリズム演技論への問い 2021年10月24日

『アリアーヌ・ムヌーシュキン:太陽劇団の冒険』を見て、今さらながら、この周辺で起きていたことには大きな影響を受けたんだなと思った。歌舞伎や能や文楽に改めて興味を持つようになったのも、留学していた頃にパリの演劇科で、太陽劇団の影響が色濃かったということがあった。自分が西洋演技論史を専門にしたのは、今あたかも普遍的なものであるかのようにみなされている「リアリズム」と呼ばれる演技形式が、特定の地域・時代の特殊な状況のなかで生まれてきたことを示すためだった。この映画のなかでムヌーシュキンは、リアリズムが演劇にとっての最大の危機だと語っている。太陽劇団はインドや日本の演技形態にも普遍性がありうるということを体当たりで示そうとしていた。

太陽劇団の作品や活動のすべてを肯定してきたわけではないが、こういった試みが減ってしまったことはちょっと残念に思っている。いわゆる「リアリズム」的な演技形態や、シェイクスピアやギリシア悲劇のテクストを使うことが「文化の盗用」とされないのは、それに普遍性があるということが前提になっているからだが、これらが普遍的なものとみなされた背景には、植民地時代の政治的・経済的構造がある。ハンバーガーが世界化したからといってその「普遍性」を肯定的に評価すべきとは限らないし、今「エスニックフード」とみなされているものが今後世界化していく可能性は十分にある。

いわゆる先進国においてマジョリティに属するアーティストたちが、植民地支配を受けた国や先住民の文化に目を向けたことは、脱植民地化の一つのステップだった(太陽劇団の場合、ムヌーシュキン自身をはじめ、多くの劇団員が移民層の出身で、マジョリティとも言い切れないが)。それに対して、植民地支配を受けた側や先住民のアーティストたちが「文化の盗用」という批判を向けたのもまた、重要なステップだった。表象の担い手が出自に応じて平等に権利を得られていない状況に対しては、まだまだ取り組まなければならないことがたくさんある。

だがそこには、アイデンティティポリティクスだけでは解決しない問題も少なくない。「普遍」とされるものを疑いながら、「普遍」とされていないものに特定の集団を超える意味を見出すことは、世界の均衡を取り戻すためにまだまだ必要な作業ではないか、などと思いながら、リアリズム演技論の起源について考えつづけている。

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贈与としての舞台芸術は可能か 2020年7月11日

コロナ禍をきっかけに、舞台芸術に関するクラウドファンディングがいくつか立ち上がりました。でもその少し前から、市場経済の仕組みでは成り立ちにくい舞台芸術に贈与経済の考え方を導入すべきではないか、という機運はありました。それについて、古代ローマの例が役に立つような気がしたので、ローマ演劇における贈与と俳優の関係について、少し書き留めておきます。

古代ローマ社会においては、贈与経済が圧倒的な重要性を持っていました。劇場や演劇公演を含め、大規模な工事やイベントの多くは、権力者や資産家による贈与によって成り立っていました(ポール・ヴェーヌ『パンと競技場』)。

贈与によって恩を受けると感謝の念が生まれ、恩返しをしなければならないという気持ちが生じます。恩返しをすると、そこに再び感謝が生まれ、両者のあいだに信頼関係が生じていきます。このような「恩恵」、「感謝」、「信頼」を、ラテン語では全てグラティア(gratia)という言葉で表現します。ローマの支配階級は、このグラティアのサークルによって結びついていました(Claude Moussy, Gratia et sa famille)。

これは神々と人間との関係でもありました。ローマ人は神々に日ごろの「恩恵」への「感謝」のしるしとして犠牲を捧げ、時にはギリシア由来のエキゾティックな娯楽である演劇を捧げたりもします。こんな儀式へのお返しとして、神々はふたたび人間に恩恵を授け、神々と人間との絆が深まっていくわけです。

ローマ市民は演劇に熱狂し、政治家が人気取りのために競って演劇を上演するようになっていきました。人気俳優は巨万の富を築きました。ところが、俳優たちはこのグラティアのサークルのなかに入ることはできませんでした。俳優は報酬を受け取って演じていたからです。

ローマ社会では、お金のために仕事をすることは卑しいことだと考えられていました。そして俳優は、他人の快楽のために自分の身体を提供する仕事として、売春と同様に不名誉で奴隷的な職業とみなされていました。

同じような行為をしても、金銭による取引となると、支払いで関係が終わってしまい、「恩恵」も「感謝」も「信頼」も発生せず、グラティアのサークルには入ることができません。政治家が劇団の座長に演劇を上演してもらい、それによって庇護民の支持を得ることができたとしても、報酬をもらった座長は政治家に恩を売ることはできません。神々にこの娯楽を「感謝」のしるしとして捧げた主体も、あくまでお金を出した主催者であって、実際に演じた俳優ではありません(これについては『西洋演劇論アンソロジー』の「クインティリアヌス」の項目で少し書いています)。

ではどうすれば俳優はグラティアのサークルに入れるのか。近代ヨーロッパの演技論は、この難題が一つの出発点になっています。ここから、近代演技論では、ラテン語のグラティアから派生した「優美(grace, grâce, Grazie, etc…)」という概念が重要になっていくのですが、ここから先はややこしい話なので、またいずれ。歌と踊りを排除した今のリアリズム的な演技は、この「優美」の追求がきっかけとなって生まれた、というのが私の考えです。

これは近代において、俳優が再び市民となっていく過程でもありました。フランス革命のなかで、俳優はときに共和政ローマの英雄を演じることで、市民のモデルを提示する役割を果たしました。革命後の社会では市場経済が拡大し、グラティアのサークルは徐々に姿を消していきます。そしてようやく市民権を得た俳優は、興行としての演劇を牽引していきます。

二〇世紀以降、映画やテレビやインターネットの出現で、舞台芸術を興行として成立させることは徐々に困難になっていきました。では今、どうすれば舞台芸術にふたたび贈与経済の考え方を導入することができるのか。そしてどうすれば贈与のサークルの中で舞台芸術の担い手自身が主体的な位置を占めることができるのか。これは今、私たちが直面している難題です。たぶんそれには、今の舞台芸術の枠組みやあり方自体を問い直すようなことが必要になるでしょう。もしかすると何世紀もかかかるようなことなのかも知れません。あるいは、意外とあっという間にそうなっていくのかもしれません。

いずれにしても確かなのは、これまでやってきたことを、けっこう根本的に問いなおす必要に迫られているということだと思います。

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Pourquoi (Une rencontre avec Claude Régy) 2019年12月27日

Pourquoi

Quand j’ai rendu visite à Claude Régy, le 23 juin 2019, j’ai eu l’impression que j’avais finalement compris quelque chose, dont je voulais prendre notes pour moi-même.

Je lui ai dit qu’au Japon, beaucoup de jeunes artistes japonais ont été influencés par son travail.

Une jeune actrice lui a dit aussi que beaucoup de ses amis de Kyoto avaient été touché par ses spectacles. Il lui a dit « Pourquoi ? C’est dur de les voir. » Elle a souri.

Alexandre Barry m’a dit qu’il avait reçu Valérie Dréville la semaine dernière, et qu’il lui avait dit que son rêve était de retourner à Shizuoka et de venir voir les comédiens avec qui il avait eu travaillé pour Intérieur (alors que Valérie Dréville n’a rien à voir avec son aventure japonaise). Ça m’a ému. Et le nom de Valérie Dréville m’a rappelé Quelqu’un va venir qu’il avait monté avec elle en 1999. Je lui ai dit que je me souvenais souvent de ce spectacle, et que ce spectacle m’avait tellement touché.

Là, il m’a dit :

« Reste touché, c’est la seule chose valable dans la vie.

Les acteurs entendent le texte d’un auteur comme une langue étrangère et ça se traduit dans sa tête.

Si ça se traduit bien, ça touche le public aussi. »

À cet instant, j’avais l’impression de comprendre pourquoi il nous demande toujours pourquoi. Parce qu’il ne le sait vraiment pas, et il veut le savoir.

J’avais toujours peur de ce pourquoi. Il m’a posé cette question plusieurs fois, mais je n’ai jamais pu y répondre vraiment.

Pour être touché, il faut accepter qu’il y a quelque chose qu’on ne connait pas, qui nous dépasse. C’est pourquoi « rester touché » est extrêmement difficile…

Apparemment, c’était une phrase qu’il disait souvent pendant la répétition d’Intérieur, selon les comédiens. Il remarque tout de suite quand un comédien va sur un chemin déjà connu, sans être touché.

Just avant de le quitter, j’ai pu finalement lui dire que sans avoir connu son travail, je n’aurais pas travaillé au théâtre.

Il m’a dit : « Ce que tu m’a dit est très beau. »

Je me rappelle aussi ce que Bertrand Krill, son administrateur, m’a dit quand je lui ai dit la même chose : c’est le cas pour beaucoup qui ont travaillé avec lui.

Je pense toujours à ce que je peux lui dire à la prochaine fois qu’il me demande pourquoi.

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カテゴリー: フランス演劇

なぜ(クロード・レジとの会話)

なぜ

日本でも多くの若いアーティストたちがレジの仕事に影響を受けている、と伝えた。

若い女優の一人も、京都の友達が何人も彼の作品に感動した、と付け加えた。

レジは彼女に、「なぜ?あんなに観るのがしんどいのに」と言った。彼女は笑っていた。

アレクサンドル・バリーによれば、その前の週にヴァレリー・ドレヴィルが訪問してきた際、レジは、静岡に戻って『室内』で一緒に働いた俳優たちに再会するのが夢だ、と語ったという。ヴァレリー・ドレヴィルの名前を聞いて、1999年に初めて見たレジの作品『誰か、来る』を思い出した(ドレヴィルはその主演女優だった)。そしてレジに、この作品のことをよく思い出している、とても感動した、と伝えた。

そこで、レジはこう言った。

「感動しつづけなさい。それが人生のなかで唯一、意味のあることだから。

俳優は作者の書いたテクストを外国語のように聞いて、それが頭の中で翻訳される。

その翻訳がよかったら、観客も感動するんだ。」

この瞬間、なぜレジがいつも「なぜ」と聞くのか、分かった気がした。本当にそれが分からないから、知りたいのだ。

私はいつも、この「なぜ」が怖かった。私にも、何度もこの質問が投げかけられたのだが、一度もちゃんと答えなかった。

心が動くには、知らないものがあるということ、自分を超えたものがあるということを受け入れなければならない。だから「感動しつづける」というのはすごく難しい。

どうも、『室内』の稽古のあいだも、レジはよくこの言葉を口にしていたらしい。俳優が「感動する」ことなく、すでに知った道をたどるとき、レジはすぐにそれに気づく。

レジのもとを去るとき、ようやく「レジさんの作品に出会わなかったら、劇場で働くこともなかったと思います」と告げることができた。

レジさんは「いいことを聞かせてくれた」と言ってくれた。

このことを制作のベルトラン・クリルさんに話したとき、「彼と働いている人の多くはそうだよ」という答えが返ってきたのを思い出した。

また彼から「なぜ」と聞かれたとき、なんて答えようか、いまだに考えている。

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カテゴリー: フランス演劇

モーリス・オーダンとラシッド・タハ、アルジェリア戦争の記憶 2018年9月30日

『顕れ』パリ日記(番外篇)として。

9/14の「ル・モンド」紙一面は、アルジェリア独立戦争の犠牲者の一人に、大統領が国家の責任を認めた、というニュースだった。

アルジェリア戦争はフランスの国論を二分する大事件で、少なからぬ「フランス人」も、アルジェリア独立のために戦い、犠牲となった。アルジェ在住の数学者モーリス・オーダンはアルジェリア共産党のメンバーで、アルジェリアの独立を支持していた。独立運動が激しくなっていた1957年のある日、オーダンは突如自宅でフランス軍の兵士たちに捕らえられ、連行される。そして妻と三人の子を残して、二度と戻らなかった。

その後の公式発表では、オーダンは移送中に逃走して行方不明、とされていた。だがそれから61年を経て、オーダンが拘禁中に拷問を受け、殺害されたことをマクロン大統領が公式に認め、アルジェリア戦争での行方不明者に関する資料を公開することを決めて、国民に証言を呼びかけた。モーリス・オーダンが誰によって、どこで殺害され、遺体がどうなったのかは、いまだ明らかにされていない。妻ジョゼットは今なお、61年前に何が起きたのかを探り続けている。

マクロンは大統領に就任する前に、アルジェにおいて、フランスによる植民地支配を「人道に対する罪」と認めている。アルジェリア独立戦争でフランスはのべ130万人の兵士を動員し、アルジェリア側の死者は45万人、フランス側の死者は3万人とされている。

『顕れ』にも、植民地支配と闘い、「死して弔われなかった魂」のことが語られている。

その魂たちは、

「いつの日か、我われへの弔いがなされるなら、

そのとき、我われの苦しみも終わる」

とつぶやく。

一面のもう一つのニュースは、フレンチロックの巨星の一人、ラシッド・タハの死だった。

心臓発作で、59歳の若さだった。アルジェリア戦争が終わったのが1962年なので、タハは3歳の時に「アルジェリア人」になったことになる。10歳で両親とともにアルジェリアからフランスに渡ったときにはアラビア語しかできなかったという。「俺たち(北アフリカ出身者)が言えるのは「エクスキューゼ・モワ(すいません)」だけだ」と、タハはよく語っていた。

「カルト・ド・セジュール(滞在許可証)」という名前のバンドで、1986年にドイツ占領下で書かれたシャルル・トレネのヒット曲「優しきフランス(Douce France)」をアルジェリア音楽を取り入れてカバーし、国中を巻き込む論争となった。来週リヨン・オペラ座で大規模なコンサートが予定されていたという。

アフリカでもヨーロッパでも、植民地時代の傷はまだ癒えてはいない。それが歴史の一頁になるには、まだもう少し時間が必要だろう。

(『顕れ』パリ日記本編はこちら

(追記)

ラシッド・タハ、個人的に思い入れがあるのは『バッラ・バッラ』。こんな強烈なトレーラーがあったとは。

Rachid Taha, Barra Barra

歌詞の英訳がこちらに。

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特異点が集まるところ/オリヴィエ・ピィ、アヴィニョン演劇祭2018(第72回)によせて(試訳) 2018年7月18日

「金融界、財界、政界にとっては、メッセージは一つしかない。「この道しかない」。「この道しかない」というのが、私たちの時代の合い言葉で、政治上のプラグマティズムの定義そのものでもあるようだ。この道しかない。経済成長のみがより良い生活をもたらす。富の再分配がなされないのは必要悪だ。ビジョンといえるものを提示できるのは経済だけで、文字/文学(les lettres)は数字によって完全に置き換えられる。「この道しかない」という主張には、証拠の暴力性と数量の残酷さがある。2008年の恐るべき金融危機のあと、規制緩和、租税回避、労働の民営化、そして常軌を逸した金融投機がかつてないほどに再開され、往々にして中央銀行や政府までがそれに加担している。

いくら考えてみても、市場経済の他には道はない。市場経済自体による定式化のなかで「他の道」を考えなければならないのだとすれば。

政治権力が金融権力に徐々に置き換えられていく過程は、つねに不可避のものとして進行する。神授王権と同じように必然的なものとして。だが、世界の未来を決めている一握りの大富豪にとってこの不可避性がいかに有用なものだとしても、私たちはこれに満足しているわけにはいかない。

今度は私たちがこのように言う番だ。「文化と教育、この道しかない」と。それがもう何度も言われてきたことだとしても。聞く者のいないところで、何度も何度も叫ばれてきたことだとしても、少数者が、それに耳を傾けてくれる別の少数者に向かって語っていることだとしても。問題を、もう一つの欲望の光の下で考察してみる他に、道はない。

違う。芸術はネオリベラリストに心の慰めを提供したり、課税軽減分を精神的なもので補ったり、私たち自身の無力さと優雅で贅沢な調停をするためにあるわけではない。芸術とはまさに、何もかもが不可能であるかのように見えるとき、そして支配者たちが自分たちの権力を確かなものにするためにこの不可能性を標榜するときに、可能性の扉を開いておいてくれるものなのだ。

リベラルな世界の問題を解決するのは、もっとリベラルな世界だけだ、という論法にも、他に道はある。視点を変え、視野をより高みに移し、私たちの勝利ではなく、来たるべき世代の勝利のために闘いはじめなければならない。「歴史」は信じられなくても、まだ未来を信じることはできる人々に、明晰な見通しという絶望を乗り越えて、鮮烈さという希望へと導いてくれるのは芸術なのだ。

だが時として、私たちはなんと孤独になり、途方にくれ、気力を失ってしまうものだろうか!エネルギーに満ち、精神性をもったあの変化の力、所有よりも知識を、略奪よりも驚嘆を、無駄なテクノロジーを購入することよりも他者との出会いを欲望させる変化の力は、どうやって見いだせばよいのか。意味だけでなく地球をも破壊してしまう生活様式とは異なる道は、その力から生まれるはずだ。

長い間、人は一人では世界の暴力を転覆することはできない、と考えてきた。様々な闘争を収斂させて、反抗する群衆を作り出す政治的組織のみが世界を変えることができる、と考えてきた。だが、新世代は寄せ集めの集団よりも特異点(singularité)を信じている。特異点とは物理学者たちがブラックホールの全能の中心に与えている名だ。そこで発生する未知のエネルギーは、時間を止めるほどの強さをもつ。これは芸術というものの完璧な定義といっていいだろう。時間をねじ曲げ、不幸の連鎖を止めてしまうほどのポジティヴなエネルギーが集中する特異点。それは時間を越えた表象/上演(représentation)の神秘のなかで到来するものだ。共同体が意味の中心へと収斂すると同時に、政治上のあらゆる他の道が開ける。だからこそ舞台芸術は一つの超越なのだ。超越だというのは、それが私たちに単一の神の力を崇めることを要求するからではなく、集団のなかには特異点の集積があり、それが調和しさえすれば、本当に時の流れを変えることができるからだ。集団はそれ自体超越であり、客席の暗闇のなかでその沈黙を聞くことで、私たちは集団の経験を更新することができるのだ。

私たちは希望をもっている。政治は私たちの未来を、経済的必然性や金融の薄暗い神々に委ねてしまわないようなものに変化しうるのだ。来たるべき世代たちが可能性への陶酔をもちつづけることができるように、私たちは、別のものを欲望することを学びつつある。」

特異点が集まるところ(Singularités)/オリヴィエ・ピィ(劇作家・演出家、アヴィニョン演劇祭芸術監督)、アヴィニョン演劇祭2018(第72回)によせて(試訳)

原文:以下でダウンロードできるProgramme completやGuide du spectateurなどの巻頭に掲載。
http://www.festival-avignon.com/fr/telechargements

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