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シンポジウム「なぜ他者と空間を共有するのか? ~メディア、医療、パフォーマンスの現場から~」 2022年12月18日

東京芸術祭シンポジウム「なぜ他者と空間を共有するのか? ~メディア、医療、パフォーマンスの現場から~」(ゲスト:坂本史衣さん、ドミニク・チェンさん、MIKIKOさん)、【シリーズ・持続可能な舞台芸術の環境をつくる】として、昨年は「ライブでしか伝わらないものとは何か?」というテーマで、ライブの意義について考えたのですが、そこでライブ性には空間の共有と時間の共有があるということが分かり、劇場での公演も増えてきたので、今回は空間の共有に焦点を当てることにしました。
まず、今このテーマについて話すなら、コロナ禍の現状もきちんと踏まえておかなければと思い、感染症対策の最前線でご尽力なさっている坂本史衣さんにお声がけしました。ではそもそも空間の共有ってなんだろう、と思い、「お互いに影響を与えうる場に身を置くこと」と定義してみると、フィジカルな空間の共有だけでなく、今はバーチャルな空間の共有もけっこう重要じゃないかという気がしてきました。そんなこともあって、インターネットをはじめとするメディアの現状と歴史をよくご存知のドミニク・チェンさん、Perfumeのライブやリオ五輪閉幕式など最新のデジタル技術を駆使した演出で知られるMIKIKOさんにお声がけしました。実際にお話ししてみると、一人で考えていたときとはだいぶ違う風景が見えてきました。
ここであんまり詳しく話してしまってももったいないので、少しだけ。フィジカルな空間を共有するというのは、つまり一時生死を共にするということなんだな、と思いました。なんだか無味乾燥な題名にしてしまったような気もしていたのですが、エモーショナルな瞬間が多かったのが印象的でした。
そして舞台芸術の面白さは、バーチャルな空間を、このフィジカルな空間に重ねることなのではないかと思えてきました。昨年の時点では、ライブ性に焦点を当てた結果、舞台芸術のバーチャル性についてはあまり考えられませんでしたが、言葉も、振付も、あるいは人が「死ぬ」ということを考えることですら、人と人の間で作られてきたバーチャルな空間を抜きにしては考えられないということに気づかされました。
かつてはそんなバーチャルな空間の共有にもフィジカルな空間の共有が欠かせない場面が多かったのですが、今ではフィジカルな空間を共有することは選択肢の一つとなりました。だからこそ、その意味をきちんと考えたうえで、それを選択することが重要になってきます。
実際に人が生き、死んでいくフィジカルな空間の重要性は、もちろんこれからもそう簡単に変わっていくことはないでしょう。そのフィジカルな空間にどう意味を重ね合わせていくのかも、私たち人類の課題でありつづけていくはずです。そこに舞台芸術がどのように関わっていけるのか。お三方のおかげで、深く考えさせられる時間となりました。ご覧くださった方はぜひご感想やご意見をお寄せください。

【シリーズ・持続可能な舞台芸術の環境をつくる】

東京芸術祭 2022 シンポジウム

「なぜ他者と空間を共有するのか? ~メディア、医療、パフォーマンスの現場から~」

紹介サイト:https://tokyo-festival.jp/2022/program/symposium_d

場所:オンライン配信

言語:日本語(近日中に英語字幕も)

登壇者:

坂本史衣(聖路加国際病院QIセンター感染管理室 マネジャー)

ドミニク・チェン(情報学研究者)

MIKIKO(演出振付家/ ダンスカンパニー「ELEVENPLAY」主宰)

モデレーター:

横山義志(東京芸術祭リサーチディレクター)

多田淳之介(東京芸術祭ファームディレクター)

人に会うって、リスクなの?

コロナ禍を通じて、いよいよ多くのことがオンラインで出来るようになりました。それでもなお空間を共有したいとすれば、あるいはせざるをえないとすれば、それはなぜなのか。メディア、医療、パフォーマンスの専門家とともに、空間を共有することの意義を問いなおしてみたいと思います。

プログラムディレクターコメント

東京芸術祭では、「シリーズ 持続可能な舞台芸術の創造環境をつくる」として、舞台芸術が今日直面している課題について論じる場を設けています。今年のシンポジウムでは、コロナ禍によって困難になった「空間を共有すること」、「国境を越えて移動すること」に焦点を当て、さまざまな現場で活躍する専門家から、今まさにお考えになっていること、試みていることをうかがっていきます。ポストコロナ時代に向けて、みなさんと一緒に、これからの上演や国際交流のあり方を考えていきたいと思います。

シンポジウム「なぜ他者と空間を共有するのか? ~メディア、医療、パフォーマンスの現場から~」 へのコメントはまだありません

シンポジウム「芸能者はこれからも旅をするのか? ~コロナ後の国際舞台芸術祭における環境と南北問題~」 2022年10月28日

東京芸術祭 2022 シンポジウム「芸能者はこれからも旅をするのか? ~コロナ後の国際舞台芸術祭における環境と南北問題~」、オンライン配信を開始しました。

国際舞台芸術祭で働いていて、ここ三年ほどは自分の仕事を問いなおす日々でした。国境を越える移動が少しずつ再開してきましたが、世界中の人が飛行機に乗れるようになってきたことは、コロナ禍がパンデミックとなった原因でもあり、環境破壊や気候変動を促進する一要素でもあります。一方で、移動が制限されたり、移動のリスクが高まってしまうと、舞台芸術の世界では、すでに著名なアーティストに仕事が集まり、南北格差が固定化されることにもつながりかねません。この問題について話すために、ヨーロッパ、アメリカ大陸、アジアからそれぞれ一人ずつお招きして、オンラインでシンポジウムを行いました。

アウサ・リカルスドッティルさんは、ブリュッセル(ベルギー)に拠点を置く世界最大の舞台芸術ネットワークIETMの事務局長です。2020年、コロナ禍を受けて、IETM他ヨーロッパを拠点とする四つの舞台芸術ネットワークが共同で、「よりインクルーシブで持続可能でバランスの取れた」国際ツアーのあり方を欧州圏41カ国で実証的に検証する試み「パフォーム・ヨーロッパPerform Europe」が立ち上げられました。ここで明らかになったことの一つが、ヨーロッパの内部でもアーティストのモビリティには大きな格差があるということでした。つまり、国際舞台芸術祭を通じて見える「世界」は、地域やジェンダー、障害の有無などにより、視野がかなり限定されてしまっていたわけです。この格差はコロナ禍により、さらに拡大する傾向にありました。そこで、より環境に優しいツアーの仕方を検討するだけでなく、この格差をいかに減らすかも大きな課題となりました。

モントリオール(カナダ)のフェスティバル・トランスアメリーク共同芸術監督となったマーティン・デネワルさんは、北米先住民アーティストの視点から環境問題を捉えなおす試みをご紹介いただきました。マーティンさんはヨーロッパ出身で、先住民に「我々の土地にようこそ」と迎え入れられたといいます。他者や環境から収奪する関係から、ホストとゲストとが相互に敬意を払う関係へと関わり合いをむすびなおすことで、南北問題と環境問題に同時にアプローチする可能性が見えてきました。

そしてコロナ禍の渦中にシンガポール国際芸術祭ディレクターとなったナタリー・ヘネディゲさんからは、今日の東南アジアの現実に根づいたプログラムをどう組んでいったのか、お話をうかがうことができました。航空機による移動が止まったなか、ナタリーさんはまず「ウェブサイト上で旅をした」と言います。コロナ禍で極めて厳しい状況に置かれた東南アジアのアーティストたちは、積極的にオンラインで情報を発信していました。それ以前は、一人あたりGDPが高いシンガポールとそれ以外の国々ではモビリティにかなりの格差がありましたが、そこでは逆に、より水平的な出会いが可能になったといいます。

お三方のお話から、一人ではとても思いつかなかった糸口が見えてきました。経済がグローバル化するなかで、地理的な南北だけでなく、「資本主義経済のグローバル化により負の影響を受ける地域や人々」を指す「グローバルサウス」という概念が提唱されてきましたが、グローバルサウスは北にも南にも、またいわゆる先進国にもあります。そしてグローバルサウス間の連帯を模索する動きも拡がっています。一カ所に人が集まらないと成立しないという極めて「非効率的」な舞台芸術も、グローバル資本主義とはなかなか相容れません。これからの舞台芸術の国際交流は、グローバルサウスから新たな経済圏をつくる動きとの連帯を模索する必要があるのかもしれません。

12月11日まで配信の予定です。私1人では消化しきれない話ばかりですので、ぜひご感想をお寄せください。
https://tokyo-festival.jp/2022/program/symposium_i

シンポジウム「芸能者はこれからも旅をするのか? ~コロナ後の国際舞台芸術祭における環境と南北問題~」 へのコメントはまだありません

「人材」とは 2022年6月14日

今参加者募集中の「東京芸術祭ファーム」は「人材育成と教育普及のための枠組み」ということになっていますが、この「人材」という言葉を使うべきかについては、昨年立ち上げの際に、だいぶ議論がありました。私も少し調べてみて、最終的に、使ってもよいのではと思いました。誤解を避けるためにも、この機会に、経緯を少しお話ししておきます。

まずは否定的な意見から。今「人材」という概念が普及したのは、新自由主義的経済学の人的資本(human capital)論によるもので、人間そのものが市場において「資本」や「商品」として機能するような考え方にもとづいている、という話があります。この意味での人材概念は、2011年に内閣府に設置された「グローバル人材育成会議」から、教育行政でも広く使われるようになったのだそうです。経済産業省の「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会報告書」(二〇二〇年九月)には、「人材の『材』は『財』であるという認識」によって「人的資本」を論じたと明言されています。(佐藤学『第四次産業革命と教育の未来 ポストコロナ時代のICT教育』)また、「人材」は英語のhuman resouces「人的資源」の訳語でもあって、この語は第一次大戦の頃から「国家に奉仕する人間のストック」といったニュアンスで使われ、日本でも大政翼賛運動の中で使われてきた経緯があります。この意味では、たしかにあまり使いたくない言葉です。

一方で、漢語の「人材」はかなり古い言葉で、『詩経』(紀元前12-6世紀の祭礼歌や民謡の集成)が出典です。「小雅・菁菁者莪 序」にはこうあります。

「菁菁者莪、樂育材也。君子能長育人材、則天下喜樂之矣。」
「菁菁たる莪は、材を育するを楽しむなり
君子よく人材を長育すれば、則ち天下之を喜楽す」

「キツネアザミ(莪)が茂るのを楽しむように、君子が人材を育成すれば社会全体がそれを享受することになる」という意味だそうです。ここで紹介されている歌は、川辺や丘にキツネアザミが茂っている様子(菁莪)を眺め、それを憑代とする水神が人里に近づいてくる歓びを歌うものです。キツネアザミは明らかに栽培植物ではなく、勝手に茂っているわけで、しかもすごく役に立つというよりも(薬草として使うこともあるようですが)、むしろあまり茂っていると困るくらいのものです。それが「材」だというのは、水神の憑代だからであって、人間の世界とは違った理屈で、勝手に生い茂っていくのを、元気にやっているなあ、となんとなく見守っていられる人こそが度量の広い「君子」なのだ、ということなのでしょう。(「君子」というのは、歌のなかでは水神のことのようですが、序のほうでは人間への教訓を述べているのかもしれません。)

まあ「東京芸術祭ファーム」の運営側に「君子」というほどの人がいるわけでもありませんが、できるのはせいぜい「何かやってみたい人」のために、なるべく安全にやってみることができる場をつくるくらいのことではないか、と思うと、この『詩経』に採録された歌がしっくりくるように思いました。そんな「人材」が、いつかみんなを楽しませてくれることを祈りつつ、ご応募をお待ちしております。

菁菁者莪 在彼中阿 既見君子 樂且有儀
菁菁者莪 在彼中沚 既見君子 我心則喜
菁菁者莪 在彼中陵 既見君子 錫我百朋
汎汎楊舟 載沈載浮 既見君子 我心則休

茂れるきつねあざみは、川の隈(くま)に。
水神の御出ましに、我が心も楽しみ静まらん。
茂れるきつねあざみは、川の水際に。
水神の御出ましに、我が心も喜ばん。
茂れるきつねあざみは、高き丘の上に。
水神の御出ましに、我らの多福を祈らん。
やなぎの舟はゆらゆらと、浮き沈みしつつ来る。
水神の御出ましに、我が心も喜ばん。
( 『新釈漢文大系第111巻 詩経(中)』石川忠久著、明治書院)

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東京芸術祭ファーム2022 ラボ
参加者募集中のプログラム
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※応募資格等の詳細は、下記より募集要項をご確認ください
https://tokyo-festival.jp/tf_farm

「人材」とは へのコメントはまだありません

劇場は可能か? 2022年1月5日

2020年、2021年と、劇場関係者にとってはつらい年がつづきました。世界中の劇場が一度に扉を閉じたというのは、有史以来初めてのことでした。一方で、そもそも世界中にこれほど「劇場」なるものが存在したのも、有史以来初めてだったはずです。西洋演劇史においても、常設の屋内劇場ができたのは16世紀以降のことに過ぎません。

コロナ禍で、世界中の劇場が一度に扉を閉じました。でも、コロナ禍が収束すれば劇場に平穏な日常が戻ってくる、というわけでもなさそうです。奇しくも2020年は、アジア経済の重みが世界経済の半分を越えた年でもありました。劇作家の岸井大輔さんは、「私たちアジア人にとって…シアターの建設と舞台化こそ近代化であり、植民地化である」とおっしゃっていました。2020年代は世界劇場史にとって、節目の時代となるでしょう。アジアのなかでも重要な劇場興行の歴史を持つ日本にとっては、自らの歴史と折り合いをつけ、近隣の実践も参照しながら、新たなモデルを創造する好機にもなりうるはずです。

これまでの20数年間、私は劇場というものがあったおかげで生きていくことができました。ではこれからの20年間はどうなるのか。私にも確実な答えがあるわけではありません。

劇場関係者に「劇場は可能か?」という問いを投げかけていくインタビューシリーズ、まずは1月11日にオープニングトークを行い、今日の社会において劇場というものが抱えている問題を岸井大輔さんと一緒に解きほぐしてみます。そのうえで、まちを舞台に演出する石神夏希さん、「木ノ下歌舞伎」の木ノ下裕一さん、世田谷パブリックシアターの初代芸術監督佐藤信さん、キラリ☆ふじみ芸術監督の白神ももこさん、ドラマトゥルクでF/T・東京芸術祭でディレクターを務めてきた長島確さん、KYOTO EXPERIMENTを立ち上げたロームシアター京都の橋本裕介さん、新長田DANCEBOXの横堀ふみさん、照明家の吉本有輝子さん、演出家でアートスペースUrBANGUILDの運営にも携わっている和田ながらさんに問いをぶつけていきます。

自分の生にとって不可欠だった場を、次の世代にはどのような形で引き継いでいけばよいのか。みなさんと一緒にじっくり考えてみたいと思っています。今年も何卒よろしくお願いいたします。


横山義志(演劇研究)×岸井大輔(劇作家)
劇場は可能か シーズン0
企画司会:岸井大輔 横山義志
優れた活動をしている多くの劇場が存続の危機に晒されている中、今日も新しい劇場が開く。
しかしそもそも日本で劇場をやるというのはどういうことか?コロナが続きオリンピック終了したこのタイミングで考え直してみたい。
まずは、インタビュー8本と2回の対話の場。
インタビューイー(各2時間程度・録画次第都度共有・各単独2500円)
石神夏希 3月2日収録予定
木ノ下裕一 3月7日収録予定
佐藤信 3月9日収録予定
白神ももこ 2月24日収録予定
長島確 2月25日収録予定
橋本裕介 2月15日収録予定
横堀ふみ 3月14日収録予定
吉本有輝子 3月7日収録予定
ゲストインタビュアー 和田ながら
オープニングトーク(基調講演) 1月11日(火)11時30分ー14時 単独2500円
リアル会場(@PARA会場は予約者に告知)+オンライン+録画 岸井大輔・横山義志
企画者それぞれから企画の趣旨を説明し、参加者とディスカッション。インタビューイーへの質問も募ります。
エンディングトーク 4月19日(火)11時30分ー14時 単独参加不可
リアル会場(@PARA)+オンライン+録画  岸井大輔・横山義志

インタビュー録画8本+イベント2回 
全て込み1万円(学生5000円)/各イベント・動画2500円(学生1500円)、インターン制度あり

https://docs.google.com/document/d/1c0AcRmH1GKlbLfu5W_DnwICJCSMz3Rdob11YtkCslbs/edit?fbclid=IwAR1HCFqG6Yrif4EI_KkkQATqhoPhIyAImIWmEioOAl_gPZIsfLo7cLU16fI

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私に向けられていない声  〜「劇場は可能か」に向けて〜 2022年1月4日

ふと思った。私に向けられていない声を、日々どれだけ聴いているのだろうか。
同じようなことを、中学生の頃にも思ったことがある。昼間は本ばかり読んで、夜はテレビを見たり、ラジオを聴いたりしていた。でもある日、それがみんな空しいことに思えた。それで、精神科医を目指した。目の前の人と向き合って、何か役に立つことができそうに見えたから。
結局医学部には入れず、大学で精神科のゼミに通って現場の話をうかがうと、あまり一人一人と向き合っている時間はなさそうだった。劇場に通うようになって、そこでは、今ここにいる自分に向けられている声があると感じた。それに、もしかしたら自分の声も向こう側に届きそうな気がした。
アルバイトも含めたら、もう20年以上劇場で働いている。しんどいことも山ほどあったけど、人とほとんど話せなかった自分が、世界と少しずつ和解できた時間だった。
よく考えてみれば、劇場とは「その場にいる人に聞こえるように、その人に向けられているのではない言葉を発する」というちょっとややこしい場所で、自分にはそれが必要だったんだと思う。だとすれば、「その場にいる人には向けられていない言葉を発する」という技術も、そもそも劇場で発明されたのではないか*。だがその技術の発展によって、今では劇場が危機に陥っている。
今もこういう場所を必要としている人がいるはずだが、劇場は今でも、そしてこれからも、この機能を果たしつづけることができるのだろうか。
自分のためにも、そこのところをちゃんと考えてみたいと思い、以下の企画に参加します。
「劇場は可能か シーズン0」、劇作家の岸井大輔さんと一緒に、石神夏希さん、木ノ下裕一さん、佐藤信さん、長島確さん、橋本裕介さん、横堀ふみさん、吉本有輝子さん、和田ながらさん等にお話をうかがっていく予定です。1月11日にオープニングトークを行うことになりましたので、一緒に考えてくださる方はぜひお声がけください。

*対話体になっている演劇の台詞は、舞台上の登場人物がお互いに向かって発しているもので、その物語世界の中では、観客にむかって発しているわけではないことになっている。
古代ギリシア・ローマの演劇も、能楽や江戸時代の歌舞伎小屋も、神事として、あるいは神々に向けて上演するということになってた。なので、少なくとも形式的には、この場合にはそこにいる観客は上演者がこの物語世界を差し向けている相手でもない。だが、たとえばローマ演劇では、観客が拍手をしたり笑ったりするのは神々が喜んでいる徴だと考えられてた。
実際に自分が観客として劇場に行くと、上演者は当然自分一人のために上演してくれるわけではなく、集合体としての観客のために上演していて、そこに自分も含まれている、という構造になる。そこで登場人物を演じる演技者が発する声は、他の登場人物に向けられた声であると同時に、観客全体に向けられた声でもある。自分を含む集団を第三者であるとみなせば、それは二重の意味で第三者に向けられた声になっている。
一方で、ここでは二層あるいは三層の自己同一化が起きている。観客である自分は、演技者の身体を通じて舞台上の登場人物に自己同一化し、さらに観客という集団にも自己同一化する。この仕組みが、近代ヨーロッパにおいては、「国民」の形成上重要だった。
だがこの機能は、二〇世紀には映画やラジオ、テレビによって担われるようになる。これらも、「その場にいる人には向けられていない言葉を発する」という劇場で培われた技術を応用してできたメディアだった。これらのメディアは劇場よりもずっと経済効率がよいので、二〇世紀を通じて、劇場は次第にマージナルな位置に追いやられていくことになる。
これらが劇場と大きく異なるのは、観客が声を発しても、上演者には必ずしも届かないということである。劇場では、観客が上演を妨害することができるし、上演者になってしまうことも可能である。この上演者と観客の対等性が失われてきたことは、今、多くの人が「自分には社会を変えることはできない」という諦念を抱いていることと関係があるのではという気がする。インターネットやSNSもこの非対称性の問題を必ずしも解消できてはいないように思う。

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森元庸介講演会「西洋はいかにして演劇を許し、芸術を愛するようになったか ~決疑論と美学の誕生~」(1/21) 2022年1月3日

森元庸介さんを招いて、1月21日にオンラインで「西洋はいかにして演劇を許し、芸術を愛するようになったか ~決疑論と美学の誕生~」と題した講演会をしていただくことにしました。
ご著書『芸術の合法性 決疑論が映し出す演劇の問い』(Yosuke Morimoto, La légalité de l’art. La question du théâtre au miroir de la casuistique, préface de Pierre Legendre, Paris, Cerf, 2020)をひもといていくと、西洋近代美学の土台がキリスト教の決疑論によって形づくられたことが見えてきます。そして、その際に中心的な役割を果たしたのが、演劇を許容してよいのか否かという問題だったのです。古代ローマの教父たちは、演劇を観に行くこと、上演することを激しく断罪していました。それが中世から近代にかけて、条件付きで許容されるようになっていきます。それを可能にしたのは、決疑論における演劇と俳優をめぐる長年にわたる記述の積み重ねでした。決疑論というのは、キリスト教の枠組みのなかで、個々の具体的な行いが良いものか悪いものかを判断するための学問です。この分野の書物は膨大にあるようですが、一九世紀以来ほとんど再版されておらず、研究もあまりないそうです。
一見断絶のない解釈の積み重ねのなかで起きる微細で緩慢な変化が、やがて演劇への新たな態度を生み、ついにはキリスト教のあり方自体にも問い直しを迫るものになっていきます。そして演劇を許容する理論的枠組みが形成されると、それが芸術全般を受容する際の枠組みにもなっていきます。この経緯を知ると、「芸術」の名のもとで何が許容され、何が排除されているのかも見えてくるかもしれません。
近年、フランス旧体制下における演劇批判については優れた研究がなされてきましたが、演劇に対する寛容論の構造を解明する試みはあまりなされてきませんでした。極めて刺激的な論考なのですが、まだ邦訳はなく、神学用語やラテン語・古代ギリシア語がたくさん出てきて、読むのはなかなか大変です。森元さんに「ヨーロッパ文化の舞台裏」(ルジャンドル)をお見せいただく貴重な機会となりそうです。

講演会に向けて森元庸介さんの『芸術の合法性 決疑論が映し出す演劇の問い』を日々読んでいると、近代演技論と古代演技論のあいだのミッシングリンクがここにあったのか、と思います。名優たちは真情をもって演技をしているというキケロの話と近代の感情主義演技論とのあいだには、誠実さを一つの条件として俳優を「合法化」した中世の神学/決疑論における議論があったようなのです。というわけで、スタニスラフスキーやストラスバーグとかに興味がある方もぜひ。

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【日仏演劇協会ZOOM演劇講座】
《第四回》
西洋はいかにして演劇を許し、芸術を愛するようになったかー決疑論と美学の誕生

講師:森元庸介(東京大学総合文化研究科准教授・表象文化論)
聞き手:横山義志(日仏演劇協会実行委員・西洋演技論史)

「異邦人の眼ざしが静かな水面をかき乱す、私たちが知り尽くしていると思い込んでいた認識論的カテゴリーのなめらかな鏡面を。」(ピエール・ルジャンドルによる序文から)

森元庸介
1976年生。パリ西大学博士(哲学)。東京大学大学院総合文化研究科・准教授。著書に La Légalité de l’art. La question du théâtre au miroir de la casuistique (Cerf, 2020). 共編著に『カタストロフからの哲学 ジャン=ピエール・デュピュイとともに』(以文社、2015)。また、ディディ=ユベルマン、デュピュイ、ルジャンドル、レーベンシュテインなどを翻訳している。

横山義志
1977年生。SPAC-静岡県舞台芸術センター文芸部、東京芸術祭リサーチディレクター、学習院大学非常勤講師。専門は西洋演技論史。パリ第10大学でLa grâce et l’art du comédien. Conditions théoriques de l’exclusion de la danse et du chant dans le théâtre des Modernes(『優美と俳優術 近代人の演劇における踊りと歌の排除の理論的条件』)により博士号を取得。論文に「アリストテレスの演技論 非音楽劇の理論的起源」、翻訳にジョエル・ポムラ『時の商人』など。

【日時】
2022年1月21日(金)20時~22時
【無料・要事前登録】
以下のurlで事前に参加登録をお願いします。定員は60名、先着順となります。
https://us02web.zoom.us/meeting/register/tZMud-ygrjkrG9bVUBxBm0q53uJi2F44wRC7
登録後、ミーティング参加に関する情報の確認メールが届きます。

【注意】
·登録は原則本名でお願いします。
·ミーティングルームには参加登録したメールアドレスでしかログインできません。
·ミーティングルームに入られましたら「ミュート」「ビデオ・オフ」になっていることを御確認ください。
·Zoomオンライン演劇講座は録画されます。また録画した内容を編集のうえ、後日、youtubeの日仏演劇協会チャンネルに公開される可能性があります。

【問い合わせ】
日仏演劇協会事務局(office@sfjt.sakura.ne.jp
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森元庸介講演会「西洋はいかにして演劇を許し、芸術を愛するようになったか ~決疑論と美学の誕生~」(1/21) へのコメントはまだありません

ライブとオンラインでは何がどうちがうのか(3) 振付家・ダンサーの北村明子さん、交流、体験、体感、「ラサ」 2022年1月2日

ライブとオンラインでは何がどうちがうのか。シンポジウム「ライブでしか伝わらないものとは何か? 〜教育、育児、ダンスの現場から考える〜」から、ちがいを説明するための材料をご紹介しています。三回目・最後にご紹介するのは振付家・ダンサーの北村明子さんのお話です。
北村明子さんをお招きしたのは、舞台芸術において「ライブでしか伝わらないもの」について話しにくくなってしまったのは、西洋的な芸術観のせいもあるんじゃないかと思ったからです。北村さんはレニ・バッソという最先端のテクノロジーを駆使したコンテンポラリーダンスのカンパニーを率いて、欧米でもかなり活動なさっていたのですが、気がつけばアジアでの活動が多くなり、インドネシア武術プンチャク・シラットの使い手にもなっていました。そこで、アジアからの視点でお話しいただきたいと思った次第です。
北村さんは各地で公演する中で、欧米でのマーケットで作品を売っていくためには作品のコンセプトを明確に言葉にする必要がある、ということに気づいていきます。でも、そんな「読み解かれるダンス」には何か欠けているものがあるんじゃないかと思い、カンパニーを閉じてからは一つのコンセプトをもとに効率的に作品をつくるのではなく、長期間のフィールドワークをもとに作品をつくるようになっていきました。効率化のなかで削がれてしまっていたのは「交流、体験、体感」だったと北村さんはおっしゃいます。そこで、長い時間をかけて、人の体を通じて伝えられてきた伝統舞踊やシラットに出会います。そしてシラットを学ぶなかで、自分をリスキーな状態に置くことの喜びを体感します。稽古が終わると、技をめぐっておしゃべりをすることになります。共同体のなかに入り、生活を共にしていくなかで、時にすれちがう対話のなかで伝統が問いなおされていくことを北村さんは目撃してきました。対話がすれちがうと、オンラインではスルーされがちですが、ライブでは何かしら反応せざるを得ません。
そんな体験や対話を通じてしか獲得できない感覚として、「ラサ」というものがあるそうです。ラサというのは、古代インド芸能論のキーワードの一つで、もともとは「味覚」、「味わい」といった意味です。ヨーロッパの美学は官能的な快楽を警戒するキリスト教の影響もあって、もっぱら目と耳によって距離をとった「高級な」感覚を重視してきました。距離を取れる感覚であれば、「読み解く」ための対象化がしやすいわけです。私もヨーロッパで「コンセプトは面白いんだけどなあ」という作品をたくさん見てきました…。それに対して、ほとんど内臓ともいえる舌の感覚をモデルとしてパフォーマンスの良し悪しを論じるインド美学は、舞台芸術における身体性の問題を問いなおすためのよりどころの一つにもなりうるかもしれません。
「舞台芸術」というと、舞台のうえで動いている人を目で見るもの、と考えられがちですが、見ている私たちのなかでもミラーニューロンが反応し、体全体が稼働しているはずです。そのような共振が起きると、自他の境界も曖昧になっていきます。
時間と場所を共有して体験したことをその場で話すと、すれちがう対話のなかから、予期しなかったような気づきが生まれることがあります。北村明子さんのお話は、オンラインの出会いで失われているものをヴァーチャルに体感させてくれるものでした。
北村明子さんの近作についてはこちらに紹介がございます。
ラサの概念については、北村明子さんと同じ信州大学人文学部の名誉教授船津和幸さんが「初心者向けのラサ論」として「芸術の中の感性」(篠原昭他編『感性工学への招待』森北出版、1996所収)という文章を書いていらっしゃいます。この概念については、古代インド芸能論『ナーチャ・シャーストラ』第6章が重要な典拠となっています。この第6章は上村勝彦『インド古典演劇論における美的経験』のなかに翻訳があります。

キリスト教と舞台芸術について、ちょうど今読んでいる本に、カトリック神学がどのような論理で観劇を許容するに至ったか、という話がありました。アントニオ・エスコバル・イ・メンドサという神学者の『道徳神学』(1644)に、以下のような一節があります。「破廉恥なことを含む、あるいは肉欲を激しく刺激するような仕方で演劇を上演する者たちは死に値する罪を犯している。だが知識を得るためなど何かしらのよい目的をもってそれを聴きに行く者たちは罪を犯しているわけではない。[・・・]そこから生じる快楽のために行く者たち、あるいはそのような危険を冒す可能性があることを知って行く者たちは致命的な罪を犯す者である。」つまり、官能的な舞台でも、自分はそれに心や体を動かされることはないという確信をもって「知識を得るため」に行くのであれば、罪にはならないという理屈です。こういった理屈によって、キリスト教徒はおおっぴらに演劇やダンスを観に行くことができるようになったわけで、この論理はその後の芸術論にも大きな影を落としています。
(Antonio Escobar y Mendoza, Liber theologiae moralis, Lyon, P. Borde, L. Arnaud et C. Rigaud, 1659, p. 134, Yosuke Morimoto, La légalité de l’art. La question du théâtre au miroir de la casuistique, Paris, Cerf, 2020, p. 29による引用から)

ライブとオンラインでは何がどうちがうのか(3) 振付家・ダンサーの北村明子さん、交流、体験、体感、「ラサ」 へのコメントはまだありません
カテゴリー: 文化政策

ライブとオンラインでは何がちがうのか(2) 学校教育学の佐藤学さん、第四次産業革命と産業としての教育/舞台芸術 2021年11月27日


ライブとオンラインでは何がどうちがうのか。シンポジウム「ライブでしか伝わらないものとは何か? 〜教育、育児、ダンスの現場から考える〜」から、ちがいを説明するための材料をご紹介しています。二回目は学校教育学の佐藤学さんです
「ビジネス」として捉えると、教育と舞台芸術はちょっと構造が似ています。1人の先生が1教室で教えられる人数は限られています。教室が大きくなるほど、授業を聞きながら寝てる人も増えますよね(私もかなり経験あります)。だから教育は舞台芸術と同様に人件費が削りにくく、他の産業が機械化によって効率化するほど、相対的にコストが上がってしまいます(この現象は「ボウモル&ボウエンのコスト病」と呼ばれています)。その費用を国が負担していたとしても、今では多くの国が債務国家となり、いわゆる先進国では高齢化も進み、教育のコストを負担できなくなっていきます。当然そうなると現場にしわ寄せが来ます。
ボウモル&ボウエン「舞台芸術 芸術と経済のジレンマ」では、「(舞台芸術の)実演家というのは、他の経済活動であればぞっとするような経済状態であっても、働く意志のあるひたむきな人であることが多いので、舞台芸術は一般の賃金のトレンドに相対的に鈍感」だといいます。それでもそこに人が集まるのは、「心理所得」というのがあるからだそうです。確かに今、自分の体がやったことによって他人の眼差しが変わるのを直に見ることができる仕事というのはなかなかありません。きっと学校の先生にも、同じようなところがあるのではと思います。
でも佐藤さんによれば、今「教育産業」が飛躍的に成長しているそうです。2011年に400兆円規模だったグローバル教育市場は、2020年には600兆円にまで膨張し、自動車市場の三倍になりました。毎年約14%という他の産業分野を超える加速度的な成長をつづけています。その背景にはICTの導入と民間委託の進行があります。公教育の経費の8割は人件費で、収益が見込める事業ではなかったのですが、IT技術によって収益性の高い事業に変貌していったわけです。公立学校を民営化した企業や業務委託を受けた企業は教員をコンピュータに置き換えることで人員を削減し、利益を上げてきました。そしてコロナ禍によって、日本でも義務教育へのICT導入が急速に進みました。
でも、学校でコンピュータの使用が長時間になると、読解力も数学の成績も下がった、というデータがあるそうです(国際学習到達度調査PISAがOECD加盟国29カ国のデータをもとに2015年にまとめた報告書)。さらに、コロナ禍による学校閉鎖で、米国では授業が五ヶ月間オンラインで代替されたことにより、生徒たちの生涯賃金は600万円以上低下するという試算もあるとのこと。
世界経済フォーラムの報告書「未来の仕事2020」によれば、労働の29%はすでに自動化されていて、2025年には52%の労働がAIとロボットに代替され、労働の中心が人からAIとロボットに移行するとされています。この第四次産業革命では、頭脳労働まで技術化してしまうので、新たに創出される労働のほとんどは現在の労働より知的に高度な仕事になります。今の小中学生が大人になって就く職業のかなりの部分は、機械によって置き換えることができない職業、まだ存在していない職業になっていきます。だから、「コンピュータを使いこなす」だけでは仕事にならなくなっていくわけです。
もちろん、だからといって「コンピュータを使うのはやめよう」という話ではありません。コンピュータを使うほど学力が低下するのは、それを「教える機械(Teaching Machine)」として使うからだ、と佐藤さんはおっしゃいます。佐藤学さんは学校を「学びの共同体」とすることを提唱なさっています。教室では教師が多くの生徒に一方的に教えるのではなく、四人の生徒が机を囲んで課題について話し合い、学び合っていきます(これがコロナ禍によって困難になっているわけです)。その際に、「学びの道具」、「探求と協同の道具」として、今ではタブレットやコンピュータも活用されています。教師や保護者も、学び合いの輪を広げていきます。「学びの共同体」構想は、国内3000校以上で採用されている他、韓国、中国、台湾、シンガポール、インド、インドネシア、ベトナム、米国、メキシコ等々でも導入されているそうです。これらの国で「学びの共同体」が採用された背景には、第四次産業革命への危機感があります。佐藤さんは40年以上にわたり、毎週2、3校のペースで国内外の学校の教室に足を運び、現場の教師や生徒と対話を重ねていらっしゃいます。
舞台芸術も産業としての効率化を目指し、大きな劇場で同じ演目をロングランして収益を上げるモデルを作ってきました。しかし、ブロードウェイですら、産業の機械化が急激に進行した1960年代には経済危機に陥っていきます。これがボウモルとボウエンという気鋭の経済学者2人が舞台芸術の産業構造分析に取り組んだきっかけでした。舞台芸術が「ライブ」にこだわる限り、チケット代を値上げしつつ人件費を圧縮せざるを得なくなる。だからそれを公共財として存続させる必要があるとすれば、公的支援が必要になる、というのが2人の結論でした。
一方で、舞台芸術から派生した映画やテレビは多くの視聴者を得ることで産業として成り立っているわけなので、舞台芸術も映像配信によって一定の収益を得ることは不可能ではないでしょう。音楽の例を見ても、「ライブ」と映像の組み合わせにも、まだまだ模索の余地があるはずです。
しかし、一九三〇年代にトーキーが生まれて以降、「舞台芸術」は「ライブ」のメディアとして再定義され、結果的に「ライブでしか伝わらないこと」を探るメディアになっていきました。ここで培われた技術は、「人にしかできないこと」「人と人のあいだでしか生まれないこと」を探り、「身につける」上で、これからいよいよ重要になっていくでしょう。だとしたら、「効率が悪い」とされている舞台芸術も、これから重要な道具として見直されていくはずです。この先、舞台芸術に携わる者にとっても、「一切コンピュータは使わない」というのは難しいでしょうが、ライブの経験をつくり、分かちあっていくために、それを意識的に「探求と協同の道具」として使いこなしていく必要があるのかもしれません。

佐藤学さんのお話はシンポジウムの12:25〜です。配信は11月30日までの予定です。


コンピュータの使用と学力の話は佐藤さんのインタビューをもとにした朝日新聞の記事「学校1人1台コンピューター 「一見よさそう」の落とし穴」(岡崎朋子、2021年5月25日)、それも含めたICT教育と教育産業の問題点については佐藤学『第四次産業革命と教育の未来 ポストコロナ時代のICT教育』(岩波書店、2021年、とりわけ「3.巨大化するグローバル教育市場」、「5.ICT教育の現在と未来」、「6.学びのイノベーションへ」)で詳細に扱われています。

「ボウモル&ボウエンのコスト病」と今の日本における文化経済学(とりわけ指定管理者制度)の関係については、こんな紹介記事があります。

舞台芸術がライブに特化していった事情については『表象』誌15号「座談会:オンライン演劇は可能か――実践と理論から考えてみる」岩城京子+須藤崇規+長島確+横山義志[兼・司会]で話しています。

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ライブとオンラインでは何がちがうのか(1) 赤ちゃん学の開一夫さん、ライブと映像でのミラーニューロンの反応のちがい 2021年11月22日

舞台芸術関係者のあいだでも、ライブとオンラインでは何がちがうのかということを説得的に言えるような材料がなかなか見つからないようなので、シンポジウム「ライブでしか伝わらないものとは何か? 〜教育、育児、ダンスの現場から考える〜」を企画しました(2021年11月30日まで配信予定)。「でも今忙しいし、二時間も見てるヒマないよ」という方にもぜひ知っていただきたいので、どんな話が出たのか、いくつか紹介しておこうと思います。
この企画で真っ先に思い浮かべたのが赤ちゃん学の開一夫さんでした。ミラーニューロンの反応がライブと映像ではちがうことを実証した方です。最初に開さんのことを知ったのはイアコボーニ『ミラーニューロンの発見 「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学』という本でした(ハヤカワノンフィクション文庫、196頁〜。この本にも舞台芸術関係者が知っておくとよさそうな話がたくさんあります)。ミラーニューロンというのは他者の行動を見たときに、自分が行動しているときと同じように反応する脳神経細胞のことで、20世紀末に発見され、DNAに匹敵する発見ともいわれています。ここでこの世界的にも貴重な実験をしたのが日本の研究者だと書いてあって、注を見て検索してみたら、乳幼児向けテレビ番組『シナぷしゅ』や絵本『もいもい』でも有名な赤ちゃん学の第一人者でした。以来、『シナぷしゅ』もよく娘と一緒に見ています。
開一夫さんは『赤ちゃんの不思議』(岩波新書)の「赤ちゃん脳はテレビ映像をどう捉えるか」というところで、この実験について詳しく書いています(154頁〜)。お姉さんがおもちゃを使っている同じ場面をリアルとテレビ映像で成人に見せると、テレビではミラーニューロン・システムがあまり反応しなかったのですが、リアルでは一次運動野周辺が大きく活動しました。開さんによれば、だからこそ、こたつでミカンを食べながら凶悪事件の犯人が登場するドラマを見ることができるのだそうです。人間の脳は「今、ここ」で起きていることとそうでないことを区別して反応しているわけです。
同じ実験を六ヶ月の赤ちゃんで行うと、赤ちゃんではテレビでもミラーニューロン・システムがある程度活動しましたが、やはりリアルのほうがより強く活動しました。別の実験で、赤ちゃんは一〇ヶ月頃までにテレビ映像で見ることが「今、ここ」で起きているわけではないと認識するということがわかっています(73頁〜)。
今回のシンポジウムでは、時間のずれに関する実験も紹介されています。赤ちゃんとお母さんがモニター越しに顔を見合うとき、お母さんの声かけに反応して赤ちゃんがお母さんに笑いかけ、お母さんがほほ笑み返せば、赤ちゃんはお母さんに興味をもちつづけます。ところがお母さんの映像を一秒遅れで映すようにすると、しだいに赤ちゃんは興味を失い、笑いかけることもなくなっていきます(シンポジウムの45:30頃から)。
同じ空間にいて物理的に働きかけてくる可能性があるかどうか(「ここ」性)、同じ時間を生きていて今の自分に対して反応してくれるかどうか(「今」性)に応じて、脳の反応はだいぶちがうようです。自分が微笑んだり、悲しい顔をしても何も変わらないんだと知っているときと、それが影響を与えうると感じているときとでは、私たちの体はだいぶちがう仕方で世界と接しているようです。

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贈与としての舞台芸術は可能か 2020年7月11日

コロナ禍をきっかけに、舞台芸術に関するクラウドファンディングがいくつか立ち上がりました。でもその少し前から、市場経済の仕組みでは成り立ちにくい舞台芸術に贈与経済の考え方を導入すべきではないか、という機運はありました。それについて、古代ローマの例が役に立つような気がしたので、ローマ演劇における贈与と俳優の関係について、少し書き留めておきます。

古代ローマ社会においては、贈与経済が圧倒的な重要性を持っていました。劇場や演劇公演を含め、大規模な工事やイベントの多くは、権力者や資産家による贈与によって成り立っていました(ポール・ヴェーヌ『パンと競技場』)。

贈与によって恩を受けると感謝の念が生まれ、恩返しをしなければならないという気持ちが生じます。恩返しをすると、そこに再び感謝が生まれ、両者のあいだに信頼関係が生じていきます。このような「恩恵」、「感謝」、「信頼」を、ラテン語では全てグラティア(gratia)という言葉で表現します。ローマの支配階級は、このグラティアのサークルによって結びついていました(Claude Moussy, Gratia et sa famille)。

これは神々と人間との関係でもありました。ローマ人は神々に日ごろの「恩恵」への「感謝」のしるしとして犠牲を捧げ、時にはギリシア由来のエキゾティックな娯楽である演劇を捧げたりもします。こんな儀式へのお返しとして、神々はふたたび人間に恩恵を授け、神々と人間との絆が深まっていくわけです。

ローマ市民は演劇に熱狂し、政治家が人気取りのために競って演劇を上演するようになっていきました。人気俳優は巨万の富を築きました。ところが、俳優たちはこのグラティアのサークルのなかに入ることはできませんでした。俳優は報酬を受け取って演じていたからです。

ローマ社会では、お金のために仕事をすることは卑しいことだと考えられていました。そして俳優は、他人の快楽のために自分の身体を提供する仕事として、売春と同様に不名誉で奴隷的な職業とみなされていました。

同じような行為をしても、金銭による取引となると、支払いで関係が終わってしまい、「恩恵」も「感謝」も「信頼」も発生せず、グラティアのサークルには入ることができません。政治家が劇団の座長に演劇を上演してもらい、それによって庇護民の支持を得ることができたとしても、報酬をもらった座長は政治家に恩を売ることはできません。神々にこの娯楽を「感謝」のしるしとして捧げた主体も、あくまでお金を出した主催者であって、実際に演じた俳優ではありません(これについては『西洋演劇論アンソロジー』の「クインティリアヌス」の項目で少し書いています)。

ではどうすれば俳優はグラティアのサークルに入れるのか。近代ヨーロッパの演技論は、この難題が一つの出発点になっています。ここから、近代演技論では、ラテン語のグラティアから派生した「優美(grace, grâce, Grazie, etc…)」という概念が重要になっていくのですが、ここから先はややこしい話なので、またいずれ。歌と踊りを排除した今のリアリズム的な演技は、この「優美」の追求がきっかけとなって生まれた、というのが私の考えです。

これは近代において、俳優が再び市民となっていく過程でもありました。フランス革命のなかで、俳優はときに共和政ローマの英雄を演じることで、市民のモデルを提示する役割を果たしました。革命後の社会では市場経済が拡大し、グラティアのサークルは徐々に姿を消していきます。そしてようやく市民権を得た俳優は、興行としての演劇を牽引していきます。

二〇世紀以降、映画やテレビやインターネットの出現で、舞台芸術を興行として成立させることは徐々に困難になっていきました。では今、どうすれば舞台芸術にふたたび贈与経済の考え方を導入することができるのか。そしてどうすれば贈与のサークルの中で舞台芸術の担い手自身が主体的な位置を占めることができるのか。これは今、私たちが直面している難題です。たぶんそれには、今の舞台芸術の枠組みやあり方自体を問い直すようなことが必要になるでしょう。もしかすると何世紀もかかかるようなことなのかも知れません。あるいは、意外とあっという間にそうなっていくのかもしれません。

いずれにしても確かなのは、これまでやってきたことを、けっこう根本的に問いなおす必要に迫られているということだと思います。

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