Menu

「日本の現代演劇」とは何か 2023年2月10日

「日本の現代演劇」とは何か、何であり得るのか、私たちはまだ十分に知らないのかもしれない。日本語で上演のために書かれた多くのテクストは、「伝統芸能」や「伝統演劇」の枠内でしか使われていない。その原因の一つは、テクストと身ぶりや音楽とが不即不離の関係にあるためである。もちろんヨーロッパの戯曲も多くはそうだったはずだが、近代ヨーロッパでは、テクスト中心主義を媒介にして、テクストを当初想定されていた身体性から切り離して上演する慣習が確立した。

もう一つの原因は、日本語で上演のために書かれたテクストの多くが「公論」の形成を目的としていなかったことだろう。一八世紀以降の西欧においては公的資金が用いられる劇場が公論形成の場ともなり、それを目的として書かれる戯曲も出現してきた。さらに、過去のレパートリーもそれを基準として読み直されるようになっていく。

日本では歌舞伎を「旧劇」として否定する「新劇」から近代演劇の歴史が始まったことになっている。「伝統芸能」、「伝統演劇」あるいは「旧劇」をすでに発展段階を終えた歴史の遺物とみなし、西洋の演劇史と接続することで、日本の「近代演劇/現代演劇」の歴史は紡がれてきた。

20世紀以来、ヨーロッパの演劇もテクスト中心主義を問い直し、身体性や音楽性の価値を再発見するための試みを重ねている。だが、「演劇」と呼ばれる枠組み自体がテクスト中心主義と分かちがたいため、そこから逃れるのは容易ではない。「演出家の時代」を経ても、「演出」をテクストと見なす新たなテクスト中心主義以外の道はなかなか見えてこない。

公論の形成だけが舞台芸術の価値だとすれば、言葉を使わないパフォーマンスの多くを排除してしまうことになりかねない。ヨーロッパの公共劇場における舞台芸術は、舞踊や音楽を含むさまざまなパフォーマンスを、アーティストの言葉や企画書によってなんとかテクストに回収させることで公共性を確認してきた。だが、そこで使われている言葉は、本当に身体性の価値を評価できるものになっているのだろうか。身ぶりを身ぶりによって、音楽を音楽によって批判することが可能であり、身ぶりや音楽にアイロニーがありうるのだとすれば、その意味は私たちが今使っている言葉で十分に回収可能なのだろうか。

私が演技論史に取り組んでいるのは、「演劇」の歴史ではなく「演技」の歴史を辿ってみれば、違う道筋が見えてくるのではないかと思ったからだ。テクスト中心主義へと向かう演技論史を、そのローカルな文脈のもとに置き直してみるだけでも、それがどれだけ特殊な状況で成立したものなのかが見えて、その普遍性を問い直すことができるかもしれない。

そして、いわゆる「伝統演劇」のテクストを、それが前提としていた身体性とともに、今の私たちの身体を通じて上演しなおす試みは、ヨーロッパの特殊な状況で培われた「演劇」の枠組みから排除されてしまったものにも目を向けられるような、私たちの「現代演劇」のあり方を考えるための重要な手がかりになるかもしれない。

(木ノ下歌舞伎/岡田利規『桜姫東文章』を拝見して。)

「日本の現代演劇」とは何か へのコメントはまだありません

シンポジウム「なぜ他者と空間を共有するのか? ~メディア、医療、パフォーマンスの現場から~」 2022年12月18日

東京芸術祭シンポジウム「なぜ他者と空間を共有するのか? ~メディア、医療、パフォーマンスの現場から~」(ゲスト:坂本史衣さん、ドミニク・チェンさん、MIKIKOさん)、【シリーズ・持続可能な舞台芸術の環境をつくる】として、昨年は「ライブでしか伝わらないものとは何か?」というテーマで、ライブの意義について考えたのですが、そこでライブ性には空間の共有と時間の共有があるということが分かり、劇場での公演も増えてきたので、今回は空間の共有に焦点を当てることにしました。
まず、今このテーマについて話すなら、コロナ禍の現状もきちんと踏まえておかなければと思い、感染症対策の最前線でご尽力なさっている坂本史衣さんにお声がけしました。ではそもそも空間の共有ってなんだろう、と思い、「お互いに影響を与えうる場に身を置くこと」と定義してみると、フィジカルな空間の共有だけでなく、今はバーチャルな空間の共有もけっこう重要じゃないかという気がしてきました。そんなこともあって、インターネットをはじめとするメディアの現状と歴史をよくご存知のドミニク・チェンさん、Perfumeのライブやリオ五輪閉幕式など最新のデジタル技術を駆使した演出で知られるMIKIKOさんにお声がけしました。実際にお話ししてみると、一人で考えていたときとはだいぶ違う風景が見えてきました。
ここであんまり詳しく話してしまってももったいないので、少しだけ。フィジカルな空間を共有するというのは、つまり一時生死を共にするということなんだな、と思いました。なんだか無味乾燥な題名にしてしまったような気もしていたのですが、エモーショナルな瞬間が多かったのが印象的でした。
そして舞台芸術の面白さは、バーチャルな空間を、このフィジカルな空間に重ねることなのではないかと思えてきました。昨年の時点では、ライブ性に焦点を当てた結果、舞台芸術のバーチャル性についてはあまり考えられませんでしたが、言葉も、振付も、あるいは人が「死ぬ」ということを考えることですら、人と人の間で作られてきたバーチャルな空間を抜きにしては考えられないということに気づかされました。
かつてはそんなバーチャルな空間の共有にもフィジカルな空間の共有が欠かせない場面が多かったのですが、今ではフィジカルな空間を共有することは選択肢の一つとなりました。だからこそ、その意味をきちんと考えたうえで、それを選択することが重要になってきます。
実際に人が生き、死んでいくフィジカルな空間の重要性は、もちろんこれからもそう簡単に変わっていくことはないでしょう。そのフィジカルな空間にどう意味を重ね合わせていくのかも、私たち人類の課題でありつづけていくはずです。そこに舞台芸術がどのように関わっていけるのか。お三方のおかげで、深く考えさせられる時間となりました。ご覧くださった方はぜひご感想やご意見をお寄せください。

【シリーズ・持続可能な舞台芸術の環境をつくる】

東京芸術祭 2022 シンポジウム

「なぜ他者と空間を共有するのか? ~メディア、医療、パフォーマンスの現場から~」

紹介サイト:https://tokyo-festival.jp/2022/program/symposium_d

場所:オンライン配信

言語:日本語(近日中に英語字幕も)

登壇者:

坂本史衣(聖路加国際病院QIセンター感染管理室 マネジャー)

ドミニク・チェン(情報学研究者)

MIKIKO(演出振付家/ ダンスカンパニー「ELEVENPLAY」主宰)

モデレーター:

横山義志(東京芸術祭リサーチディレクター)

多田淳之介(東京芸術祭ファームディレクター)

人に会うって、リスクなの?

コロナ禍を通じて、いよいよ多くのことがオンラインで出来るようになりました。それでもなお空間を共有したいとすれば、あるいはせざるをえないとすれば、それはなぜなのか。メディア、医療、パフォーマンスの専門家とともに、空間を共有することの意義を問いなおしてみたいと思います。

プログラムディレクターコメント

東京芸術祭では、「シリーズ 持続可能な舞台芸術の創造環境をつくる」として、舞台芸術が今日直面している課題について論じる場を設けています。今年のシンポジウムでは、コロナ禍によって困難になった「空間を共有すること」、「国境を越えて移動すること」に焦点を当て、さまざまな現場で活躍する専門家から、今まさにお考えになっていること、試みていることをうかがっていきます。ポストコロナ時代に向けて、みなさんと一緒に、これからの上演や国際交流のあり方を考えていきたいと思います。

シンポジウム「なぜ他者と空間を共有するのか? ~メディア、医療、パフォーマンスの現場から~」 へのコメントはまだありません

「演技論」という言葉 2022年12月3日

日本語で「西洋演技論史」というのを書こうとしているということの奇妙さに、ふと気づかさ日本語で「西洋演技論史」というのを書こうとしているということの奇妙さに、ふと気づかされた。思えば「演技論」などという研究ジャンルはフランス語でも英語でも存在しない。フランス語の博士論文は「俳優術(art du comédien)」について書いたし、英語では「演技理論(theory of acting)」について研究している、と説明することが多い。だが、たとえば最近は教会法やローマ法における俳優の位置づけについて調べているが、これはどちらにもあてはまらない。自分がやっている「演技論史」というのは「演技について語られてきたこと」についての歴史であり、それをフランス語や英語にしようとすると、「演技についての言説の歴史(histoire des discours sur l’art du comdien, history of discourse on acting)」とか、なんだかややこしい言い方になってしまう。なんでこんなことになってしまったのか。
もとをたどれば、リアリズム的演技の起源を知りたかったのだが、俳優が書いた実践的な「演技理論」などというものはせいぜい一八世紀くらいまでしか遡れない。でも、そこで「よい演技」とされているものは、特定の社会的・歴史的背景から要請されたものであって、そこで使われている語彙は弁論術、哲学、神学、法学、文学等々のなかで使われてきたものの借り物だったりする。「演劇独自の価値」などというものは存在しないのであって、そういうネットワークの全体を見なければ、なぜそのような演技がよいということになったのかは理解できないし、一八世紀より先に遡ることすら難しくなってしまう。
というわけで、日本語の「演技論」という言葉がなんだかしっくりきた。日本語で書くと、西洋語の言説をある種突き放して相対化できるというメリットもある。西洋語で書いていると、自分が書いている言葉自体を分析・批判しながら書くというややこしい作業をしなければならない(まあ日本語でも結局翻訳語を多用することになるので、ある程度そうならざるをえないが)。ふたたび西洋語で語らなければいけない機会に、「日本語からの視点で西洋語で西洋演技論を語る」というアクロバティックなことができるか、考えてみたりしている。

「演技論」という言葉 へのコメントはまだありません

「人材」とは 2022年6月14日

今参加者募集中の「東京芸術祭ファーム」は「人材育成と教育普及のための枠組み」ということになっていますが、この「人材」という言葉を使うべきかについては、昨年立ち上げの際に、だいぶ議論がありました。私も少し調べてみて、最終的に、使ってもよいのではと思いました。誤解を避けるためにも、この機会に、経緯を少しお話ししておきます。

まずは否定的な意見から。今「人材」という概念が普及したのは、新自由主義的経済学の人的資本(human capital)論によるもので、人間そのものが市場において「資本」や「商品」として機能するような考え方にもとづいている、という話があります。この意味での人材概念は、2011年に内閣府に設置された「グローバル人材育成会議」から、教育行政でも広く使われるようになったのだそうです。経済産業省の「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会報告書」(二〇二〇年九月)には、「人材の『材』は『財』であるという認識」によって「人的資本」を論じたと明言されています。(佐藤学『第四次産業革命と教育の未来 ポストコロナ時代のICT教育』)また、「人材」は英語のhuman resouces「人的資源」の訳語でもあって、この語は第一次大戦の頃から「国家に奉仕する人間のストック」といったニュアンスで使われ、日本でも大政翼賛運動の中で使われてきた経緯があります。この意味では、たしかにあまり使いたくない言葉です。

一方で、漢語の「人材」はかなり古い言葉で、『詩経』(紀元前12-6世紀の祭礼歌や民謡の集成)が出典です。「小雅・菁菁者莪 序」にはこうあります。

「菁菁者莪、樂育材也。君子能長育人材、則天下喜樂之矣。」
「菁菁たる莪は、材を育するを楽しむなり
君子よく人材を長育すれば、則ち天下之を喜楽す」

「キツネアザミ(莪)が茂るのを楽しむように、君子が人材を育成すれば社会全体がそれを享受することになる」という意味だそうです。ここで紹介されている歌は、川辺や丘にキツネアザミが茂っている様子(菁莪)を眺め、それを憑代とする水神が人里に近づいてくる歓びを歌うものです。キツネアザミは明らかに栽培植物ではなく、勝手に茂っているわけで、しかもすごく役に立つというよりも(薬草として使うこともあるようですが)、むしろあまり茂っていると困るくらいのものです。それが「材」だというのは、水神の憑代だからであって、人間の世界とは違った理屈で、勝手に生い茂っていくのを、元気にやっているなあ、となんとなく見守っていられる人こそが度量の広い「君子」なのだ、ということなのでしょう。(「君子」というのは、歌のなかでは水神のことのようですが、序のほうでは人間への教訓を述べているのかもしれません。)

まあ「東京芸術祭ファーム」の運営側に「君子」というほどの人がいるわけでもありませんが、できるのはせいぜい「何かやってみたい人」のために、なるべく安全にやってみることができる場をつくるくらいのことではないか、と思うと、この『詩経』に採録された歌がしっくりくるように思いました。そんな「人材」が、いつかみんなを楽しませてくれることを祈りつつ、ご応募をお待ちしております。

菁菁者莪 在彼中阿 既見君子 樂且有儀
菁菁者莪 在彼中沚 既見君子 我心則喜
菁菁者莪 在彼中陵 既見君子 錫我百朋
汎汎楊舟 載沈載浮 既見君子 我心則休

茂れるきつねあざみは、川の隈(くま)に。
水神の御出ましに、我が心も楽しみ静まらん。
茂れるきつねあざみは、川の水際に。
水神の御出ましに、我が心も喜ばん。
茂れるきつねあざみは、高き丘の上に。
水神の御出ましに、我らの多福を祈らん。
やなぎの舟はゆらゆらと、浮き沈みしつつ来る。
水神の御出ましに、我が心も喜ばん。
( 『新釈漢文大系第111巻 詩経(中)』石川忠久著、明治書院)

━━━━━━━━━━
東京芸術祭ファーム2022 ラボ
参加者募集中のプログラム
━━━━━━━━━━
※応募資格等の詳細は、下記より募集要項をご確認ください
https://tokyo-festival.jp/tf_farm

「人材」とは へのコメントはまだありません

演劇というジャンル/ディシプリン 2022年6月6日

週末に多摩美術大学で行われた日本演劇学会2022年度全国大会「演劇と美術」は自分にとってアクチュアルな問題を問う発表やシンポジウムが多く、刺激的だった。「演劇と美術」と並べると、「劇場」と「美術館」という制度を問いなおすことにならざるを得ない。そして、その問いは「演劇(学)」というジャンル/ディシプリンそのものを問いなおすものともならざるを得ない。「演劇と美術 —入り交じる時間と空間—」と題された最後のシンポジウムで、登壇者に「現場の視点から、演劇学あるいは演劇教育というディシプリンに期待するものは?」と質問したところ、「アーカイブを整備してほしい」という返答があり、とても腑に落ちた。ゼロから新しいものを作ることはできない。アーカイブがなければ実験もできない。そしてジャンルやディシプリンといった枠がなければ、アーカイブも成り立たない。仮に枠組みのないアーカイブがあっても、ほしいものにたどりつくことはできない。「越境」が大事だからといって、全ての壁を壊したほうがいいというわけではない。壁の中でしかできない実験はあるし、だからそもそも壁をつくってきたのだろう。
自分が演劇学を選んだのは、ご多分に漏れず、演劇に救われたからだった。今にして思えばそれも「劇場」という壁があり、「演劇」という枠があったからこそ可能な出会いに救われたのだと思う。だがアジアからの留学生としてフランスで演劇学を学んでみると、いかにその枠がヨーロッパ中心にできているかを実感させられることになった。それから劇場で働くことになり、「演劇祭」のプログラムを考えていると、「演劇」という枠組みで本当にちゃんと「世界」が見えるのか、という疑問が湧いてきた。それでパフォーマンス研究を学びにニューヨークに行った。リチャード・シェクナーは1992年の全米高等教育演劇学会で、演劇学科をみんな解体してパフォーマンス研究科に改組することを提唱したが、今のところそうなってはいない。広すぎる枠はアーカイブとして使いづらいからなのかもしれない。
今、西洋演技論史を書こうとしているのは、西洋でできた「演劇」という枠組みにかなりの不満と不信感があるからだ。その土台まで、一歩ずつ掘り進めていって、自分の違和感の正体を見極めたい。その向こう側に何があるのかは、まだよくわからない。植民地時代に作られたインフラであろうと、ただ破壊してしまっては自分の生活が不便になるだけ、ということも往々にしてある。自分が受けた恩恵を、今よりもいい形で次代につなげるための仕事ができればと思う。
どんなインフラも、日々の集団的実践のなかで保持され、更新されていく。日々の研究や教育のかたわらで研究会を開き、学会誌を発行し、といった作業をしてくださる方々がいるおかげで、出会いが生まれ、アーカイブが更新され、枠からの越境も生じる。学会の受付を通るたびに、以前SPAC-静岡県舞台芸術センターで演劇学会の研究集会を開催させていただいたときのことを思い出す。コロナ禍もあり、今回もみなさん大変だったと思いますが、本当におつかれさまでした!

演劇というジャンル/ディシプリン へのコメントはまだありません

『アリアーヌ・ムヌーシュキン:太陽劇団の冒険』とリアリズム演技論への問い 2021年10月24日

『アリアーヌ・ムヌーシュキン:太陽劇団の冒険』を見て、今さらながら、この周辺で起きていたことには大きな影響を受けたんだなと思った。歌舞伎や能や文楽に改めて興味を持つようになったのも、留学していた頃にパリの演劇科で、太陽劇団の影響が色濃かったということがあった。自分が西洋演技論史を専門にしたのは、今あたかも普遍的なものであるかのようにみなされている「リアリズム」と呼ばれる演技形式が、特定の地域・時代の特殊な状況のなかで生まれてきたことを示すためだった。この映画のなかでムヌーシュキンは、リアリズムが演劇にとっての最大の危機だと語っている。太陽劇団はインドや日本の演技形態にも普遍性がありうるということを体当たりで示そうとしていた。

太陽劇団の作品や活動のすべてを肯定してきたわけではないが、こういった試みが減ってしまったことはちょっと残念に思っている。いわゆる「リアリズム」的な演技形態や、シェイクスピアやギリシア悲劇のテクストを使うことが「文化の盗用」とされないのは、それに普遍性があるということが前提になっているからだが、これらが普遍的なものとみなされた背景には、植民地時代の政治的・経済的構造がある。ハンバーガーが世界化したからといってその「普遍性」を肯定的に評価すべきとは限らないし、今「エスニックフード」とみなされているものが今後世界化していく可能性は十分にある。

いわゆる先進国においてマジョリティに属するアーティストたちが、植民地支配を受けた国や先住民の文化に目を向けたことは、脱植民地化の一つのステップだった(太陽劇団の場合、ムヌーシュキン自身をはじめ、多くの劇団員が移民層の出身で、マジョリティとも言い切れないが)。それに対して、植民地支配を受けた側や先住民のアーティストたちが「文化の盗用」という批判を向けたのもまた、重要なステップだった。表象の担い手が出自に応じて平等に権利を得られていない状況に対しては、まだまだ取り組まなければならないことがたくさんある。

だがそこには、アイデンティティポリティクスだけでは解決しない問題も少なくない。「普遍」とされるものを疑いながら、「普遍」とされていないものに特定の集団を超える意味を見出すことは、世界の均衡を取り戻すためにまだまだ必要な作業ではないか、などと思いながら、リアリズム演技論の起源について考えつづけている。

『アリアーヌ・ムヌーシュキン:太陽劇団の冒険』とリアリズム演技論への問い へのコメントはまだありません

コロナとモノカルチャー 2020年5月27日

伝染病が一番蔓延しやすいのは「単一栽培(モノカルチャー)」の畑です。一つの品種だけを集中的に植えると、効率よく大量に収穫できる一方で、伝染病が発生すると畑全体がダメになってしまうことがあります。

コロナ禍で分かったのは、人類全体がモノカルチャーになりつつある、ということです。ここ一世紀ほどのあいだにヒトは都市に集中し、気がつけば世界中の都市で同じような生活が送れるようになりました。

今必要なのは、新しい生活様式を想像し、実験し、実践し、他の人にもそうしてみたいと思わせてくれるような人たちです。

芸術文化を支えているフリーランスのアーティスト、スタッフ、制作者はそんな人たちです。今回のコロナ禍で中止・延期になった事業では、ずっと前から手がけていた仕事に対して十分報酬が支払われないケースが多々あります。人が再び顔を合わせられるようになる時まで、日々新たな生き方を探っている人たちが生きのびていけるよう、AUFの活動を支援していきたいと思います。

***

芸術文化を担うフリーランスを支援するアーツ・ユナイテッド・ファンド(AUF)の寄付募集、今週末5/31までです。

私を含め、舞台芸術業界で働いている人のほとんどは「非正規雇用」で、翌年の収入も不透明です。数ヶ月仕事ができなくなることで、貴重な才能が離職せざるをえなくなることが少なくありません。劇場や団体などの支援に比べて分かりにくいところがあるかもしれませんが、芸術文化活動を担っている「人」を直接に支える、貴重な活動だと思います。

支援の対象となるのは、実演家、演奏家や俳優、ダンサー、歌手、作曲家、指揮者、実演家、劇作家、演出家、振付家、美術・工芸作家、デザイナー、映像作家、写真家、建築家、茶華書道家、プロデューサー、制作者、舞台・音響・照明・映像・衣装スタッフ、調律師、ドラマトゥルク、翻訳・通訳者、字幕オペレーター、キュレーター、コーディネーター、インストーラー・設営スタッフ、プランナー、アートディレクター、編集者、広報スタッフ、批評家、ライター、額装家、アクセスコーディネーター等々だそうです。ぜひご検討ください。

https://camp-fire.jp/projects/271390/activities/135839?fbclid=IwAR2c7kQ3uz5ux65XoyxYutjizGt6hrIje23jKI5BDSgemlRnO7a15sye400#main

コロナとモノカルチャー へのコメントはまだありません

ウイルスと「世界」 2020年4月4日

胎盤の仕組みはウイルスに由来するという。母親にとって、胎児は自己の一部でもあり、他者でもある。ウイルスは自己と他者の境界を揺らがせる。それが、私たちには怖いのだろう。

私たちは「自己」によって守られ、国境によって守られている。自己があり、他者があり、他者のそれぞれが自己でもある世界。そしてそれらがひとまとまりになって「国」をなし、「自国」と「他国」が区別され、それぞれが他国に対して自国を守っているような世界。私たちはそんな「世界」に生きている、と思い込んでいる。

「ふじのくに⇄せかい演劇祭」の「せかい」という言葉には、「国際」ではない、という含意がある。国と国のつきあいではなく、「ふじのくに」という目に見える共同体が、直接に世界と交流するような場をつくりたい、という思いがある。

でも、もしかしたらそろそろ「世界」の方も疑ってみたほうがいいのかもしれない。より正確にいえば、「世界」というものをどのようにイメージすべきか、考えなおした方がいいのかもしれない。

DNAによる二重らせん構造には、コピーの誤りが起きたときに修正する機能がある。一方、コロナウイルスのRNAは一本鎖なので、「自己」の同一性が安定せず、とめどなく変異していく。とはいえ、DNAの二重らせん構造も、少し長めの時間でみれば、やはり変異していく。「自己保存」という原則がある世界とない世界、自他の区別がある世界とない世界は地続きなのかもしれないと想像してみること。「自己」と「世界」が地続きであることを想像してみること。「まつり」はそんなための場でもあった。

隔離の日々は境界を強化していくように見えるが、壁を高くするだけで「自己」を守ることはできない。隔離の日々が明けるのは、「自己」と「他者」の境界が少し変わったときだろう。

ウイルスは宿主を破壊すると、宿主を失ってしまう。そして宿主を変え、変異をつづけていくうちに、いつか、宿主と共生するすべを見いだす。そのあいだに、宿主自身も変わっていくことがある。ヒトのDNA配列のなかには、RNAウイルス由来とみられる配列が多く存在していて、ウイルスがヒトの進化に大きく貢献しているという。宿主がワクチンを開発することもまた、ウイルス側から見れば、そんな共生のプロセスの一つかもしれない。

…などと言ってはみても、私たち宿主の短い人生のなかでは、破壊的なウイルスとはなるべく共生しないのが一番ですので、まずは何卒ご自愛ください。

隔離の日々が一刻も早く明けることを、そして、そのときには「世界」を隔てる境界が少しちがって見えていることを祈りつつ。

ウイルスと「世界」 へのコメントはまだありません

テネシー・ウィリアムズ『財産没収』と「ヒトの巣」の構成について 2019年1月1日

2018年12月21日 山口茜演出、テネシー・ウィリアムズ作 『財産没収』こまばアゴラ劇場

テネシー・ウィリアムズの短編集は執拗に人間の交換可能性をめぐる問題を扱っているように見える。テクストだけを読んでいると、その面白さに気づけないこともあるが、それが身体をもつと、そこで言われていることとその身体が言わんとしていることとの矛盾が見事に立ち上がっていく。
都市で人の流れを見ていると、人間が社会性動物のように見えることがある。アリやハチのように。アリストテレスの『政治学』によれば、人間は「ポリス的動物」だという。ポリスとは集住の拠点、言ってみれば「人間の巣」のことだ。
だが、人間はアリやハチと異なり、有性生殖でしか生まれてこない。また、同じ二つの個体から生まれた個体でも、多くの場合は遺伝情報に違いがある。この意味で、「ヒトの巣」を構成している個体群は、同じような遺伝情報をもった個体でできているアリやハチの巣の個体群とは異なる。
ではなぜヒトは社会性動物のように見えるのか。それが長年疑問だったが、今夜、なんとなくわかったような気になった瞬間があった。それはもしかすると、ヒトが言語のなかに生まれ落ちるからなのかもしれない。一つの言語を共有する個体群が巣を作っていく。
「演劇」というものは一つのポリス、一つの巣の中で作られるものだと思われがちだが、個人的に近年興味を持っているのは、どちらかというと、境界や極地で生まれる演劇だ。巣と巣の間、巣と巣でない空間の間で生きる身体と言語が作り出す緊張関係。
世界恐慌時の米国南部の人々を描くテネシー・ウィリアムズの作品群には、それがきわめて生々しく描かれていることに気づかされた。

テネシー・ウィリアムズ『財産没収』と「ヒトの巣」の構成について へのコメントはまだありません
カテゴリー: 日本の舞台芸術