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当事者性と「世界」 2020年9月4日

内野儀先生の「日本の演劇についていま考える「枠組み」も考えてみる(2) 実験とかコミュニティとか:リチャード・シェクナーから小劇場演劇へ」という話を一昨日うかがい、ここ二十年くらいもやもやしていたことが、少し輪郭を持ってきた気がする。

2016年にACC(アジアン・カルチュラル・カウンシル)のグランティーとしてニューヨークに滞在させていただいたが、ニューヨークに行きたかったのは、フランスで学んだ演劇学・演劇史がかなり狭いものに感じていたからだ。その前にアジアセンターのグラントで東南アジア三カ国視察に行かせていただいたとき、東南アジアの多くのアーティストがヨーロッパではなく米国で、演劇学ではなくパフォーマンス・スタディーズを学んだことを知って、ニューヨークに行けば、アジアのことをもっときちんと考えられるのではないかと思っていた。

だが実際に行ってみたら、ニューヨークではアジアのアーティストがあまり活躍しておらず、正直ちょっとがっかりした。パフォーマンス・スタディーズも、アジアのことよりも米国内のアジア系アメリカ人のことにばかり一生懸命で、なんだか視野が狭い感じがした。しかし、この半年ほどの米国滞在は、今日の舞台芸術の枠組みをめぐる問題に取り組む大きなきっかけになった。

ニューヨークに行く前に知っていたパフォーマンス・スタディーズといえば、リチャード・シェクナーくらいだった。シェクナーはACCの支援も得て、日本や中国からパプアニューギニアまでアジア中をリサーチし、それが「演劇」にとらわれない「パフォーマンス」一般についての新たな学問分野を切り拓くきっかけの一つになった。ニューヨーク大学でシェクナーの最後のセミナーに参加できたことは、本当に得がたい経験だった。だが、そのニューヨーク大学でも、シェクナー的な視野でパフォーマンス・スタディーズに取り組んでいる研究者はいなかった。

一昨日の内野先生の話で、1980年代のニューヨークでの経験とドワイト・コンカーグッドの話を聞いて、なるほど、と思った。1986年に内野先生がニューヨーク大学にいらした時には、「自己省察性(reflexivity)」がキーワードだったという。要は「自分のことを省みろ」「他人の話をする前に、自分がどの立場から言っているのかよく考えておけ」ということらしい。

「未開の地」がなくなっていき、ポストコロニアリズムを経過して、パフォーマンス・スタディーズの重要な基盤の一つだった文化人類学は大きく変容していく。そこで出てきたのが、シカゴのノースウェスタン大学でパフォーマンス・スタディーズを教えていたドワイト・コンカーグッド(Dwight Conquergood)だった。コンカーグッドはタイのモン族のヒーラーを対象にフィールドワークをしたのがきっかけで、モン族難民の権利の擁護にアクティヴィスト的に関わっていく。そして地元シカゴの問題に取り組むため、移民貧困層が多いリトル・ベイルートに住み込み、ギャングたちの相談に乗りながらリサーチを進めていく。コンカーグッドは55歳で亡くなるまでそこで暮らしていたという。いわば自分をむりやり地元のギャングたちの問題の当事者にしてしまったわけである。

これがパフォーマンス・スタディーズのその後の流れに大きな影響を与えることになる。私がノースウェスタン大学のパフォーマンス・スタディーズ科で話を聞いた時にも、今の学生のフィールドワーク先の多くはマクドナルドのアルバイトや地元の会社の新人研修で、タイやパプアニューギニアに行くような学生はほとんどいないとのことだった。ベトナム戦争、イラク戦争を経て、米国が内向きになっていったことも関係しているのだろう。米国滞在中、ちょうどトランプ政権の成立もあり、「世界」のことよりも足下の問題を見つめろ、という風潮を強く感じた。世界中のあらゆる地域からの移民がいる米国にいると、あたかもそこで「世界」が見えるような気がしてしまうこともあるのかもしれない。

この流れが今の東京の小劇場演劇にもつながっている、という話をするはずだったようだが、一昨日は少し触れただけで終わってしまった。しかし1980年代のニューヨークでキーワードだった「自己省察性(reflexivity)」という問題意識が、今の「当事者性」をめぐる問題につながっているのは間違いないだろう。1990年代以降の「現代口語演劇」も、「自分の足下のリアリティーを大事にする」という意味ではつながっている。現代口語演劇的なものへの共感と違和感、太陽劇団的なものへの共感と違和感がどこから自分に流れ込んできていたのか、少し見えてきた。

翻って自分の研究のことを考えると、「自分の問題」から出発しつつも、良くも悪しくも、これまではヨーロッパ的な普遍主義・客観主義のなかでやっていかざるを得なかったのだと思う。歌と踊りを排除した「近代劇」なるものがなぜヨーロッパで生まれ、そこで作られた基準がアジアにおいていかに身体性を抑圧してきたのか、ということを見つめることで、「近代劇後」「ヨーロッパ後」の舞台芸術のために何をすべきかを考えてきたつもりだが、話を大きくすればするほど、遠い地域の話、昔の話をすればするほど「当事者性」が薄くなっていくところはある。

だが舞台芸術の国際事業に関わっている立場からすると、この枠組みの問題はまさに当事者性をもった問題でもある。それに関わってこられたのは幸運なことだと、今にして思う。

今は足下を見つめなおす時期だと思いつつも、足下だけを見ていると見えないこともある。もう少し遠くのほうも見ておきたい。

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「ミス・サイゴン」問題、あるいはアイデンティティをめぐる非対称性について(1) 2017年2月4日

先日アジアン・アメリカン・アーツ・アライアンス専務理事のアンドレア・ルイさんにお目にかかって、「アジア系の舞台俳優は米国の舞台で仕事を得られる機会が少ない」という話を聞いた。以下の統計によれば、この10年平均で、ニューヨークのブロードウェイと非営利の劇場において、アジア系俳優の出演は平均して4%程度に過ぎない。一方、ニューヨーク市民のなかのアジア系の比率は12%以上。

Asian American Arts Alliance

http://aaartsalliance.org/

AAPAC (ASIAN AMERICAN PERFORMERS ACTION COALITION)

http://www.aapacnyc.org/stats-2014-2015.html

まだはっきりした答えが得られたわけではないが、ブロードウェイ版『ミス・サイゴン』のキャスティングをめぐる議論が参考にはなりそうだ。1990年、ロンドンで大ヒットしたミュージカル『ミス・サイゴン』のブロードウェイ版の製作が予定されていた。ロンドン版では、フランス人の父とベトナム人の母から生まれ、狂言回し的な役割を担う「エンジニア」役に英国人の白人俳優ジョナサン・プライスが起用されて評価を得ていて、ブロードウェイ版でもこの配役が踏襲されることになっていた。

ところがプライスはアメリカン・アクターズ・エクイティ(American Actors Equity, 米国人俳優にとっての利益に配慮しつつ、米国での米国市民ならびに非市民の俳優の雇用を管理する舞台俳優と舞台監督の労働組合、以下「エクイティ」とする)によって労働許可を拒否される。しかしエクイティのメンバーたちがこれに反対する署名を集め、一週間後に特別審議会が開かれて、エクイティは一転して労働許可を認めるに至った。プライスは1991年4月に開幕したブロードウェイ版でも無事に同じ役を演じることができ、同年のトニー賞ミュージカル主演男優賞を受賞している。ブロードウェイでの『ミス・サイゴン』は、このプライスをめぐる論争の拡がりもあって、記録的な大ヒットとなり、9年以上のロングランとなった。(ちなみに今はブロードウェイで上演されていないので、実際に観られてはいません。ご覧になった方やお詳しい方、誤解などあればぜひご指摘ください。)

この問題については、NYUパフォーマンス・スタディーズ科のカレン・シマカワさんが詳細な分析をしているので(Karen Shimakawa, National Abjection. The Asian American Body Onstage, Duke University Press, 2002, Chapter I “I should be ― American!”)、以下、それに基づいて。エクイティがはじめ労働許可を拒否したのは、『M. バタフライ』で知られる中国系劇作家デビッド・ヘンリー・ファンらの抗議に基づいている。抗議の焦点は主に(1)アジア系の俳優が主要な役で舞台に立つ機会が十分にないなかで、アジア系の役ですらヨーロッパ系白人俳優が配役されてしまうことへの反発、(2)プライスによる「アジア人」の演じ方自体への反発(とりわけヨーロッパ系俳優が目張りやメイクでアジア系らしい顔を作り、ステレオタイプな「アジア人」を演じる、いわゆる「イエローフェイス」に対する反発)、の二点にあるようだ。

『ミス・サイゴン』のプロデューサーであるキャメロン・マッキントッシュはプライスの起用にこだわって、プライスが出演できなければブロードウェイ公演初日をキャンセルするとまで言明した。この労働許可拒否問題は社会的に大きく取り上げられることになる。大手紙の大半は、保守・リベラルを問わず、プライスの起用を支持する論説を発表した。

プライスの起用を支持する側の主な主張は以下の通り。すでにシェイクスピアなどの西洋古典作品で、ヨーロッパ系を想定して書かれた登場人物に黒人俳優を起用する、といった「カラー・ブラインド・キャスティング(肌の色を無視したキャスティング)」がなされてきた。だとすれば、逆にヨーロッパ系の俳優がアジア人を演じるのも「芸術上の自由」ではないか。そして、これを認めないのはむしろ「逆差別」なのではないか。

この主張は『ミス・サイゴン』制作側の説明にもとづくもので、実際にキャメロン・マッキントッシュも『オペラ座の怪人』の主役に黒人のロバート・ギロームを起用しており、またその直前にやはり黒人のモーガン・フリーマンが『じゃじゃ馬ならし』のペトルーキオを演じたり、デンゼル・ワシントンが『リチャード三世』で主演したり、といった例があった。この作品のキャスティング・ディレクターはさらに、アジア系で45歳~50歳で、プライスと同じくらいの古典的演劇出演の経験があり、国際的な名声を得ている俳優がいれば見つけていただろうが、「世界中を探してみたうえで」見当たらなかった、と説明している。

というわけで、アジア系演劇人の抗議は、最終的に、論争に加わった米国の多くの「識者」から、「芸術上の自由」を侵害しかねないものとみなされることになった。だが、この抗議は本当に不当なものだったのだろうか。

ファンとともに最初の抗議に加わった俳優のB. D. ウォンは、「私たちは自分たち自身の肌の色の役を演じる機会も十分に与えられておらず、(フリーマンやワシントンのような)「非伝統的」なキャスティングのために闘う状況とはほど遠い」と語っていた。そもそもこの時代、アジア系の舞台俳優が「国際的な名声」を得られうる機会はほとんどなかった。ブロードウェイで上演された、アジア系の男性が主要な役を演じる作品は、『王様と私』や『太平洋序曲』など、数えるほどしかない(ちなみに1976年に初演された『太平洋序曲』ではイースト・ウェスト・プレイヤーズのマコ・イワマツとパン・アジアン・レパートリー・シアターのアーネスト・アブバが共演している)。

実のところ、先ほどのキャスティング・ディレクターの説明は、あまり正確なものではなかったことが分かっている。「世界中を探してみた」のはヒロインのキム役の女優と、その他のベトナム人の脇役についてであり、実際にヒロイン役にはフィリピン人女優レア・サロンガが起用された(サロンガはプライスとともにトニー賞ミュージカル主演女優賞を受賞している)キム役については、白人女優が目張りをして顔に黄色あるいは濃い色のメイクをして演じる、という選択肢ははじめからなかったようだ。つまり、「オリエンタル・ビューティー」にはアジア系の女優が必要だ、というプロデューサー側の判断があったわけである。

一方「エンジニア」役については、早々にプライスの起用が決まっていて、アジア系の俳優は実際のところ、特に検討された形跡がない。ここで分かるのは、英国においても米国においても、「オリエンタル・ビューティー」は(英国や米国で無名の女優であったとしても)すでに商品価値を持っているのに対して、アジア系の男優は集客に必要な魅力を持っているとは見なされていない、ということだ。

キムは17歳で売春婦となっていて、初めての客となった米軍兵クリスと恋に落ち、子どもを宿す。クリスはそれを知らず米国に帰国し、米国人の白人女性エレンと結婚する。キムはクリスの帰還を待ちわびるが、クリスはエレンを伴ってヴェトナムを訪れる。クリスが結婚したことを知ってエレンは絶望し、子どもがクリス夫妻によって米国で育てられることを望んで自殺を遂げる。ここでキムは、米国人白人男性にとって、いわばきわめて都合のよい存在として描かれている。(・・・とまとめると、クリスがひどい人間のようだが、あちこちでクリスの行動を倫理的に正当化する仕掛けがなされている。)

一方「エンジニア(「やり手」「世渡り上手」というようなの意味らしい)」は、売春宿を経営し、キムやキムの息子を利用してなんとか米国に渡ろうとする、という、いわば汚れ役である。父親がフランス人ということになってはいるが、たまにフランス語が出てくる以外、特に「ヨーロッパ系」であることが強調されることはない。パン・アジアン・レパートリー・シアターの創始者ティサ・チャンは、フリーマンがペトルーキオを演じたり、ワシントンがリチャード三世を演じたりするときには「白塗り」する必要はなかった、ということを指摘している。ここでプライスが濃い色のメイクをし、目張りをしたのは、明らかにこの「狡猾なアジア人」のステレオタイプを演じるためであり、「肌の色を無視した」役柄を演じるためではなかった。つまり、ここで問題となっていたのは、アジア人(あるいはアジア系米国人)が自ら、自分自身の表象を統御する機会が十分に与えられていない、ということだった。

(つづく)

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パン・アジアン・レパートリー・シアター芸術監督ティサ・チャンさんのお話 2017年1月31日

昨日パン・アジアン・レパートリー・シアターの芸術監督ティサ・チャンさんにお話を伺うことができた。アジア系米国演劇のパイオニア的存在。他にも関連の書きかけメモが溜まっているのだが、とりあえずまとまったので。

Tisa Chang

https://en.wikipedia.org/wiki/Tisa_Chang

パン・アジアン・レパートリー・シアターPan Asian Repertory Theatreは1977年創立、今年で40周年。東海岸ではじめてのアジア系米国人によるプロの劇団。(西海岸ではマコ・イワマツらによりイースト・ウェスト・プレイヤーズEast west playersが1965年に創立されている。)

http://www.panasianrep.org/

ティサ・チャンさんは重慶で生まれたが、1946年、6歳のときに両親とともに渡米。両親は演劇活動が盛んな南開中学・高校で中国近代劇を代表する劇作家の曹禺や周恩来と同窓生。周恩来も芝居をやっていた。父親は蒋介石率いる中華民国の外交官だった。マンハッタンの舞台芸術専門の高校やバーナード・カレッジで音楽を学び、ダンサーとしてキャリアを出発。やがて俳優としてブロードウェイやハリウッドで活躍した。1950年代から60年代にかけて演劇活動をはじめた頃は、米国育ちでも、中国生まれということで、常に外国人扱いされていた。1977年にパン・アジアン・レパートリー・シアターを立ち上げた当初も、よく「マイノリティーシアター」と呼ばれた。

出発点はラ・ママ実験劇場のエレン・スチュワートとの出会い。エレンは1973年、私がはじめて演出した京劇の翻案『鳳凰の帰還The Return of Phoenix』に5,000ドル出資してくれた。この作品は大ヒットして、CBSテレビが買ってくれ、その後の活動につながった。ラ・ママでは中国系やアジア系の俳優とギリシャ悲劇、シェイクスピア、チェーホフ、ゴルドーニなどを上演。『真夏の夜の夢』では、普段は英語を話していて、魔法にかかると中国語を話す、という設定にした。自分たちの劇団は「アジア系米国人による古典劇の劇団」だと考えている。コメディー・フランセーズやモスクワ芸術座のようなレパートリーシアターがモデル。

日本の作家では安部工房、清水邦夫、三島由紀夫のサド公爵夫人などを1970年代にいち早く紹介。また、エドワード・サカモト、ワカコ・ヤマウチなど、それまでほとんど上演されることがなかった日系劇作家第1世代の作品も、やはり70年代に紹介していった。

当時はアジア系アメリカ人のプロの舞台俳優はほとんどいなかったが、私たちが出演した俳優にきちんと報酬を支払って、プロにしていった。その当時の主流はジョン・オズボーンのような「抵抗演劇」。それに対して、パン・アジアン・レパートリー・シアターがベースとした中国、インド、日本の伝統演劇は儀礼的祝祭的で、音楽や舞踊が重要な位置を占めている。それぞれの俳優が独自に学んできたものを、出自が異なる他の俳優とも共有していった。自分たちが演劇を始めた頃はアカデミックな演劇教育のシステムはほとんどできておらず、演劇学校に通ったり、個人的にレッスンを受けたりしていた。私はウタ・ハーゲンからレッスンを受けた。

私たちは訓練をベースにした卓越性と言う基準を守りつづけている。それに比べると、今の若い俳優は十分な訓練とディシプリンを獲得しておらず、表面的な作品が多いような気がしている。

創立して三年目の1980年にはニューヨーク市アーツカウンシルから「重要機関Primary Organization」と認められ、今までフォード財団などの財団のほか、国立芸術基金(NEA)やニューヨーク市、ニューヨーク州などから継続的に支援を受けている。2008年のリーマンショック以降、財団の支援システムが大きく変わって、苦労もある。

国内各地のほか、エジンバラ、シンガポール、カイロ、ヨハネスブルクなどでも公演。2003年にはハバナ演劇祭に招聘されたはじめての米国の劇団となった。

ルーシー・リューなど、ハリウッドに進出した俳優も少なくない。ただ、多くの俳優は、ハリウッドを目指すのではなく、私たちの舞台に立つことを望んでくれた。

認められるためには、他の米国の演劇人よりも2倍も3倍も働かなければいけなかった。(昨日も、月曜日で他の劇団員は休んでいたが、チャンさんは事務所に来て一人で働いていた。「私はiPhoneとかは使っていないので、パソコンに向かう時間を取らないとメールの返事も書けないから」という。)

重要なコラボレーターの一人、アーネスト・アブバさんのお話。アジア諸国ではナショナリズムが強く、国と国との間に緊張がある場合が多い。だが、米国では「パン・アジアン・シアター」が可能だったのは、米国にはアジア的なナショナリズムはなく、きわめて個人主義的なので、「みんなで一つになる」といった集団ではなく、一人一人が個性を保ったまま一緒に仕事をする、というスタイルを取れたからだという。

以下にチャンさんが詳しく来歴を語るインタビューがある。

https://www.tcg.org/Default.aspx?TabID=4347

先週、新作『秘寺での出来事INCIDENT AT HIDDEN TEMPLE』の幕が開いたところ。来年公演予定の次回作はパキスタン出身のムスリム作家の作品とのこと。

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