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1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(3) 舞台芸術の構造的危機 2017年3月19日

(承前)

2.米国における実験的演劇の製作状況

2.1.舞台芸術の構造的危機

まずはアーティストの視点から見ていこう。以下のイヴォンヌ・レイナーの言葉が、この時代のニューヨークの実験的な舞台芸術の経済状況とその変化を端的に示している。

「ニューヨークで生活することの経済的な負担が、・・・自分たちがやっていることによってみずからの生活を維持することへのいかなる期待をも抱かないことを許したのです。成功は人が招待された展覧会の数ではなく、仲間内での尊敬によって測られていました。・・・市場経済に乗せることのできる売買可能な品物を作ることからくるプレッシャーは、ダンスの制作においてまったく欠如していました。これは私たちを金銭的報酬の可能性から自由に――そして幸福にもそれを忘却しながら――制作することを許したもうひとつの要因でした。

私があなたに見せびらかしている「古き良き時代」は、だいたい1960年から64年のあいだのほんの数年しか続かなかったことを認めなければなりません。その後には全面的なディアスポラが――地理的にも職業的にも――起こりました。アーティストたちは自分のギャラリーと教職を見つけ、コレオグラファーたちはカンパニーと役員会によってみずからを制度化しはじめました。これは前衛の活動がたどる一般的な道筋のようです。」

若いアーティストへの手紙/イヴォンヌ・レイナー(訳:中井悠)

http://nocollective.com/transferences/rainer/letter.html

この「1960年から64年」というのは、ほぼケネディ政権に相当する。この表現から、1965年に大きな変化があったことが見えてくるが、まずはケネディ政権下の芸術活動の状況を見ていこう。以下、主にフレデリック・マルテル『超大国アメリカの文化力』から(ほとんど読書メモです)。

米国では1960年代初頭、文化的活動と芸術鑑賞の機会が増え、「文化ブーム」という言葉が流行していた。五〇〇〇の劇団、七五四のオペラカンパニー、二〇〇のダンスカンパニーがあり、美術館・博物館もほぼ一〇年で四倍に増えた。ケネディも「野球の試合に行く人よりも音楽会に行く人の方が多い」と繰り返し語っている。だが、このうちプロといえる劇団や楽団はそれほど多くなかった(マルテル『超大国アメリカの文化力』p. 31)。レイナーの言葉からも見えるように、ブロードウェイなどのいくつかの限られた場所以外では、舞台芸術を職業として生きていくということが考えられる状況ではなかった。

とはいえ、「文化ブーム」のなかで需要は喚起されたものの、プロとしての舞台芸術家を雇用している特権的な場所においてすら、労働環境はかなり厳しかった。それが露呈したのが1961年のメトロポリタン・オペラの労働争議である。同年夏、低賃金を不服とする音楽家たちがストライキに突入。経営陣は「幕が上がるたびに」赤字が嵩む、とし、労働組合の交渉も不調に終わる。シーズンが中止され、500人が解雇の危機にさらされた。スター歌手たちに懇願されたケネディは労働長官アーサー・ゴールドバーグに調停を命じ、この種の社会紛争にはじめて連邦政府が介入することになった。不満は国内の他のオーケストラにも広がっていた。

ゴールドバーグはこれが構造的問題であることを認め、「民間」の文化施設に対する公的助成という考えをはじめて提示し、入場料収入とフィランソロピーという伝統的財源のほかに、営利企業・労働組合・州や都市・連邦政府の六つの異なる財源から資金を獲得することで収支を均衡させ、同時に創造の自由と多様性を確保すべきだとした。この「ゴールドバーグ宣言」が画期的だったのは、「連邦政府」が民間の芸術活動の財源の一つとなる可能性を提示したことだった。ゴールドバーグは文化分野への支援を検討するために「連邦芸術諮問会議」の設置を提案した。このあと、1962年夏に、ケネディは大統領特別補佐官シュレジンガーと特別文化補佐官アウグスト・ヘクシャーに、現在連邦政府や州政府が行っている文化に関する施策、ヨーロッパで行われている文化政策、芸術のための免税制度等について詳細な調査を依頼した。ヘクシャーは1963年6月に詳細な報告書を提出し、芸術家・文化機関に助成金を交付する連邦機関「全米芸術財団」の設置を提言した。同月、「連邦芸術諮問会議」も創設されることになった。これらはメディアからは評価されたが、ケネディは議会との関係に苦慮しつづけ、芸術支援事業を法制化するには至らなかった。ケネディは同年11月に暗殺される(p. 46-48)。

つづくジョンソン政権の時代に、舞台芸術の危機的状況をより俯瞰的に示す重要なレポートがいくつか発表される。一つは二人の若手経済学者ウィリアム・J・ボウモル、ウィリアム・G・ボウエンによる『舞台芸術 芸術と経済のジレンマ』(原著刊行は1966年、邦訳1994年、池上 惇・渡辺守章監訳)。大量生産時代にあって、舞台公演は手作りでしか成り立たないという特異性があり、「だれも、45分間のシューベルトのカルテットを演奏する労働コストを削減することはできない」。そのために、今日の舞台芸術は慢性的な危機状況にある。赤字を埋めるためには今後10年間で入場料を70%上げなければならないが、そうすると観客が減り、さらに一席あたりのコストがさらに増大するという悪循環を招く。唯一の解決策は観客数の母集団を引き上げること。この時点ではまだ舞台公演はほとんど大都市に限られてきたが、地方での公演を増やし、庶民やマイノリティの観客にも芸術を開放することが必要だ、と主張した。同時期に発表されたロックフェラー兄弟基金による報告書も、プロの実演家となることが困難な状況にあることを指摘し、「文化の民主化と芸術的質の両立」を目指すべきだとしている。そして、フィランソロピーだけが芸術家の自由を保つことができる、としながらも、州や市の助成金拡大を促し、さらにはじめて連邦政府にも支援を呼びかけることを提案している。以下の言葉は、「文化の民主化」という新たな思想を端的に表している。「芸術はごく少数の特権階級のためのものではなく、万人に開かれていなければならない。…文化が占める位置は、社会の周縁ではなく中心である。文化は娯楽の一つの形態ではなく、我々の福祉と幸福に欠くことができないものだからである。」

これと並行して、アーティスト側の意識も変化しはじめる。オーケストラ・美術館・博物館などは芸術活動の自由を護るために公的助成に激しく反対してきたが、1960年代に財政的安定が崩れると、より開かれた態度を示すようになる。そして劇場連絡協議会、オペラ・アメリカ、ダンスUSAなど専門団体の組織化がフォード財団やロックフェラー財団の支援を受けて進み、労働組合とともにロビー活動をはじめるようになる。これらもケネディ・ジョンソン政権が芸術活動の支援を構想する背景となった。(p. 67-71)

(つづく)

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パン・アジアン・レパートリー・シアター芸術監督ティサ・チャンさんのお話 2017年1月31日

昨日パン・アジアン・レパートリー・シアターの芸術監督ティサ・チャンさんにお話を伺うことができた。アジア系米国演劇のパイオニア的存在。他にも関連の書きかけメモが溜まっているのだが、とりあえずまとまったので。

Tisa Chang

https://en.wikipedia.org/wiki/Tisa_Chang

パン・アジアン・レパートリー・シアターPan Asian Repertory Theatreは1977年創立、今年で40周年。東海岸ではじめてのアジア系米国人によるプロの劇団。(西海岸ではマコ・イワマツらによりイースト・ウェスト・プレイヤーズEast west playersが1965年に創立されている。)

http://www.panasianrep.org/

ティサ・チャンさんは重慶で生まれたが、1946年、6歳のときに両親とともに渡米。両親は演劇活動が盛んな南開中学・高校で中国近代劇を代表する劇作家の曹禺や周恩来と同窓生。周恩来も芝居をやっていた。父親は蒋介石率いる中華民国の外交官だった。マンハッタンの舞台芸術専門の高校やバーナード・カレッジで音楽を学び、ダンサーとしてキャリアを出発。やがて俳優としてブロードウェイやハリウッドで活躍した。1950年代から60年代にかけて演劇活動をはじめた頃は、米国育ちでも、中国生まれということで、常に外国人扱いされていた。1977年にパン・アジアン・レパートリー・シアターを立ち上げた当初も、よく「マイノリティーシアター」と呼ばれた。

出発点はラ・ママ実験劇場のエレン・スチュワートとの出会い。エレンは1973年、私がはじめて演出した京劇の翻案『鳳凰の帰還The Return of Phoenix』に5,000ドル出資してくれた。この作品は大ヒットして、CBSテレビが買ってくれ、その後の活動につながった。ラ・ママでは中国系やアジア系の俳優とギリシャ悲劇、シェイクスピア、チェーホフ、ゴルドーニなどを上演。『真夏の夜の夢』では、普段は英語を話していて、魔法にかかると中国語を話す、という設定にした。自分たちの劇団は「アジア系米国人による古典劇の劇団」だと考えている。コメディー・フランセーズやモスクワ芸術座のようなレパートリーシアターがモデル。

日本の作家では安部工房、清水邦夫、三島由紀夫のサド公爵夫人などを1970年代にいち早く紹介。また、エドワード・サカモト、ワカコ・ヤマウチなど、それまでほとんど上演されることがなかった日系劇作家第1世代の作品も、やはり70年代に紹介していった。

当時はアジア系アメリカ人のプロの舞台俳優はほとんどいなかったが、私たちが出演した俳優にきちんと報酬を支払って、プロにしていった。その当時の主流はジョン・オズボーンのような「抵抗演劇」。それに対して、パン・アジアン・レパートリー・シアターがベースとした中国、インド、日本の伝統演劇は儀礼的祝祭的で、音楽や舞踊が重要な位置を占めている。それぞれの俳優が独自に学んできたものを、出自が異なる他の俳優とも共有していった。自分たちが演劇を始めた頃はアカデミックな演劇教育のシステムはほとんどできておらず、演劇学校に通ったり、個人的にレッスンを受けたりしていた。私はウタ・ハーゲンからレッスンを受けた。

私たちは訓練をベースにした卓越性と言う基準を守りつづけている。それに比べると、今の若い俳優は十分な訓練とディシプリンを獲得しておらず、表面的な作品が多いような気がしている。

創立して三年目の1980年にはニューヨーク市アーツカウンシルから「重要機関Primary Organization」と認められ、今までフォード財団などの財団のほか、国立芸術基金(NEA)やニューヨーク市、ニューヨーク州などから継続的に支援を受けている。2008年のリーマンショック以降、財団の支援システムが大きく変わって、苦労もある。

国内各地のほか、エジンバラ、シンガポール、カイロ、ヨハネスブルクなどでも公演。2003年にはハバナ演劇祭に招聘されたはじめての米国の劇団となった。

ルーシー・リューなど、ハリウッドに進出した俳優も少なくない。ただ、多くの俳優は、ハリウッドを目指すのではなく、私たちの舞台に立つことを望んでくれた。

認められるためには、他の米国の演劇人よりも2倍も3倍も働かなければいけなかった。(昨日も、月曜日で他の劇団員は休んでいたが、チャンさんは事務所に来て一人で働いていた。「私はiPhoneとかは使っていないので、パソコンに向かう時間を取らないとメールの返事も書けないから」という。)

重要なコラボレーターの一人、アーネスト・アブバさんのお話。アジア諸国ではナショナリズムが強く、国と国との間に緊張がある場合が多い。だが、米国では「パン・アジアン・シアター」が可能だったのは、米国にはアジア的なナショナリズムはなく、きわめて個人主義的なので、「みんなで一つになる」といった集団ではなく、一人一人が個性を保ったまま一緒に仕事をする、というスタイルを取れたからだという。

以下にチャンさんが詳しく来歴を語るインタビューがある。

https://www.tcg.org/Default.aspx?TabID=4347

先週、新作『秘寺での出来事INCIDENT AT HIDDEN TEMPLE』の幕が開いたところ。来年公演予定の次回作はパキスタン出身のムスリム作家の作品とのこと。

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ラ・ママ実験劇場アーカイヴ 2017年1月2日

2016/10/28

ラ・ママ実験劇場のアーカイヴを訪問。劇場と同じ大きさのビル一フロア分を使って過去55年の舞台装置・小道具・衣装・ポスターなどが展示してあり、配布資料や上演台本、そして公演のビデオなどがきれいに整理されている。今日はオランダの大学から15人くらい、韓国から3人、そして私で、20人くらいでツアー。アーカイブ主任のオッジ・ロドリゲスさんがラママの歴史を熱く語ってくれる。30分かせいぜい1時間くらいかと思っていたら、劇場案内もふくめ、なんと3時間も語ってくれた。記憶に残った話をいくつか。(私の理解力によるものも含め、誤りもあるかも知れませんが、お気づきの方はぜひご指摘ください。)

ラ・ママの創設者エレン・スチュワートはシカゴ生まれのファッション・デザイナー。だが、シカゴでは黒人にデザイナーの仕事などなく、ニューヨークに出てきて、このイーストヴィレッジにアパートを借りた。当時イーストビレッジはドイツ人、ウクライナ人、ポーランド人、カリブ海からの移民、そして黒人が次々と住み着いてきたいわばゲットーで、エレンがそこを選んだのも、単に家賃が安いからだった。1960年代、ヴェトナム反戦運動、黒人の市民権運動、フェミニズム、ゲイ解放運動が一度に起き、ニューヨークは「セックス・ドラッグ・ロックンロール」の街に。ところがハリウッドやブロードウェイはそういった動きを反映することなく、相変わらず中流階層以上の白人が出てくる話ばかり。「戦争に行きたくない!」「どこも白人専用なんてやってられない!」「一日中キッチンにいるような生活はしたくない!」「ボーイフレンドと堂々と街を歩きたい!」といった気持ちを代弁をしてくれるところは全くない。

エレンはそんな状況を見て、ほかに自分を表現できる場所を持たないアーティストたちが自分の好きなことを言える場所を作りたいと思った。当時はゼロックス製のコピー機の発明などで産業構造が変わりつつあったところで、付近の印刷工場がつぶれたりして、使われていないスペースがたくさんあった。そんななか、ビルの地下室を借りて、発表の場として使えるようにした。当時はそんな先例はなく、黒人女性のところに白人がたくさん出入りしているのを見て通報があり、警察により不法使用として禁止された。だが、飲食店としてであれば不特定多数の人に来てもらう許可が得られる、という話を聞き、カフェとして登録することにした。店の名前を聞かれ、ちょうど内装をしていた人から「ママ、ここどうすればいいの?」と聞かれたので、「じゃあ「ママ」で」とエレンが答え、その場にいた友人の助言で「カフェ・ラ・ママ」という名前で営業をはじめる。

やがて、ヴェトナム戦争反対のメッセージをロックにのせて語る『ヴェト・ロック』(オープン・シアター、ミーガン・テリー作・演出、1966年)が大ヒット。ブロードウェイにも注目され、これがブロードウェイ初のロック・ミュージカル『ヘアー』として、世界的大ヒットになる。ラ・ママの活動に注目が集まるにつれ、大新聞の批評家もラ・ママでやっている作品に好意的な批評を寄せるようになった。ところがそれに対して、批評家にお金を払って記事を書いてもらっていたブロードウェイから圧力がかかる。そこで、エレンはラ・ママのレジデント・アーティストたちの作品をヨーロッパに紹介することを思い立った。当時ヨーロッパでは、アメリカ演劇といえばブロードウェイくらいしか知られておらず、演劇祭でヴェトナム戦争や黒人問題などを正面から扱った作品を見て、観客からも批評家からも大きな反響を得た。ニューヨークの文化人はヨーロッパコンプレックスが強いので、ヨーロッパで評価された、ということで、ブロードウェイから何と言われようとも記事を書かなければいけない、と思ってくれるようになった。

そして東京キッドブラザーズによる東京発のロック・ミュージカル『黄金バット』も大ヒット(1970年)。第二次世界大戦で敵国だった日本と米国のサブカルチャーがヴェトナム反戦を通じて響き合うことに。その後、寺山修司、鈴木忠志など日本のアーティストも次々に紹介され、2007年には日本で最も権威のある文化賞、高松宮殿下記念世界文化賞を受賞、等々。

東京キッドブラザーズ『黄金バット』ニューヨーク公演の経緯

http://www.sweat-and-tears.net/kid/

http://www.endless-kid.net/lamama/kid_an_lamama.html

高松宮殿下記念世界文化賞 エレン・スチュワート

http://www.praemiumimperiale.org/ja/laureate/music/stewart

ラ・ママには前田順さん以外にも日本人スタッフが少なくない。前回ラ・ママについて記事を書いたときに伺って驚いたが、『ヘアー』の演出家トム・オホーガンやロバート・ウィルソンと仕事をしてきた画家・舞台美術家のキクオ・サイトウさんは、藤枝市で手作りの家具を作っていらっしゃる斉藤衛家具工房の斉藤衛さんのお兄さんだそうだ。サイトウさんはこの春お亡くなりになり、9月にはラ・ママで記念式典が行われていた。

キクオ・サイトウ・メモリアル

http://lamama.org/kikuo-saito-memorial/

この充実したアーカイブも、エレンさんの意向で作られたという。様々な支援団体から支援をいただくのにも、何よりも生の資料や映像を見ていただくのが一番説得力がある。そして、この50年間の活動をより若い人たちに世代に届ける必要がある、という思いから作られたそうだ。アメリカ演劇に興味がある方は、ニューヨークにいらした際は訪問して損はないと思います。

ラ・ママ・アーカイヴ

http://lamama.org/programs/archives/

https://pushcartcatalog.wordpress.com/2014/09/09/history/

https://vimeo.com/30554340

ここで話を伺って、いろいろつながってきたことがある。その話はまた次回。

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ラ・ママ実験劇場美術家、前田順さんのお話 2016年12月31日

2016/10/21

ラ・ママ実験劇場美術家の前田順さんのお話。前田さんはラ・ママで働きはじめてから43年。「もうラ・ママには俺より古いのはいないね」とのこと。今でも毎日劇場にいらしているという。先日劇場で案内係が「マエダサン!」と挨拶をしているのを見てお声をかけたら、作業場見学に誘ってくださった。

今日作業場にお伺いしたときには、日本の民話「鶴の恩返し」をモチーフにした作品のために、竹の箸を使って羽を作っていらした。竹の箸を何枚かに割り、その一方の端を割いてささがき状にし、それを編み上げていく、という気の遠くなるような作業。他に、アルミ缶を割いて細く長い帯状にし、それを編み上げて形を作る作品も。素手でその作業をしていると、はじめは手がささくれ立って血だらけになり、よくエレンに「もうやめてよ」と言われたが、つづけているうちに、ささくれないように切れるようになっていったという。

日大を卒業して工務店に就職。当時、同じ工務店に、楯の会の若手がよくアルバイトに来て、一緒に「塹壕堀り」などをしていた。その後、日大闘争が始まり、現場経験を活かして、建物確保の最前線で活躍。ベ平連にも参加。出身地の仙台で寺山修司の映画の上映会や石牟礼道子の水俣病に関する講演会を企画。

工務店では主にブルドーザーを操作していたが、別荘地の造営で道を作っているときに、やたらとウサギが跳ねてくるのを見て、獣道を寸断していることを知り、嫌になってくる。その頃、東京キッドブラザーズの作品作りのために、劇団員と一緒に、全て手作りで山荘を作ることに。これに感嘆した東に「セットを作ってくれないか」と言われ、「セットなら家を建てるより簡単だ」と即答。東京キッドブラザーズのために、プロレスリングの上に巨大なボートを立てる。資材は森ビルの資材置き場から調達。

東京キッドブラザーズは『黄金バット』でニューヨーク公演をすることに。紆余曲折あって、ラ・ママが引き受け手となった。ハワイ、ロサンゼルス経由でニューヨークへ。工具を買ったらお金がなくなり、ポケットには100円しかなく、両替もしてもらえず、コーヒーも飲めなかった。ラ・ママでは地下の作業場に段ボールを敷いて寝た。ニューヨーク大学の金属ゴミ集積場で資材を調達し、舞台を組み立て、大ヒット。この舞台美術を見たエレン・スチュワートに、ニューヨーク市から1ドルで受け渡された新劇場の内装を依頼された。東京キッドブラザーズが帰国してもラ・ママに残り、今に至るまで働きつづけている。別の東京キッドブラザーズ公演では、劇場の壁に穴を開けてワイヤを通し、空中を本物のオートバイが走る仕掛けを作った。この穴は今でも残っている。

ラ・ママで思い出深かったのは寺山修司やタデウシュ・カントールの公演。寺山の『盲人書簡』を上演した際には、五カ所の非常灯すべてに人を配置し、非常灯を完全に隠す箱を作って、光漏れがないかを入念にチェックした。本番では5人がタイミングを揃えて非常灯を隠し、完全暗転を実現した。その暗闇のなかでマッチを擦り、大山デブ子の裸体が浮かび上がる場面はすごかった。

カントール『死の教室』ニューヨーク初演時には、「共産圏からの積み荷に適用される24時間の保税措置」という制度を知らず、舞台装置の半分が初日に間に合わなかった。カントールは激怒していたが、「お前、頭から湯気出てるよ」と言ったら、「本当か」と鏡を見に行き、自分の怒り顔を見てバカらしくなったらしく、怒るのをやめた。エレンからは「私はこれに全財産つぎ込んだんだから、これが当たらなかったらおしまいなの。何とかして!」と泣きつかれ、急遽5人の人手を確保してもらい、徹夜で作り上げた。カントールとはベネズエラのホテルの部屋で昼間から酒を飲みつづけ、二人で肩を組んで歌ったことも。70年代のアメリカ演劇を代表する演出家の一人でオープン・シアター創立者でもあるジョゼフ・チャイキンにも舞台美術を任されていた、等々。

前田さん、とても面白い方なので、どなたかちゃんとインタビューをしてまとめていただけないでしょうか・・・?

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ラ・ママ実験劇場芸術監督ミア・ユウさんのお話

2016/10/21

ラ・ママ実験劇場(La MaMa Experimental Theatre Club)で芸術監督のミア・ユウさんにお話をうかがった。ラ・ママは今年55周年。(よくご存じの方には特に目新しいことはないでしょうが・・・。)

http://lamama.org/

ラ・ママはファッションデザイナーをしていたエレン・スチュワートが、地元イーストビレッジ近辺に住む知り合いの若手劇作家を支援するために始めたものだった。そこで活躍の場を得たサム・シェパードなどが、やがてアメリカを代表する劇作家になっていく。エレンはアメリカのカンパニーをヨーロッパにも紹介していった。そして、ヨーロッパで出会ったカンパニーをラ・ママで紹介。そのなかで、エレンは国際交流によって得る刺激の重要性を実感し、ラ・ママを演劇による国際交流の拠点にしていこうとする。アジアにも旅するようになり、寺山修司や大野一雄、鈴木忠志などもラ・ママを通じてニューヨークに紹介されていった。

エレン・スチュワートはアフリカ系、最近2代目の芸術監督に就任したミア・ユウは韓国系で、日本人のスタッフもいらしたりする。今のニューヨークでも珍しいくらいに出自の多様性が高い劇場だろう。ラ・ママの活動によって、かつてはむしろ避けられていたような街が、劇場やギャラリー、カフェ、バーなどが密集する一大文化拠点となっていった。その功績を讃え、ラ・ママがある通りは「エレン・スチュワート通り」と名付けられている。一方で、そのために地価が高騰し、以前からの住民が住みにくくなっているという問題もある。これはソーホーやブルックリンなどにも共通する課題。

ラ・ママは現在、劇場の建物が2つ、稽古場が1つ、ギャラリーが1つと、全部で4つの建物を管理している。年間60から70近い作品を上演。興行収入よりもファンドレイズで得ている収入のほうが大きく、これによってリスクの高い実験的な作品を上演することが可能になっている。20から30の「レジデント・カンパニー」があり、その他にも数多くの「レジデント・アーティスト」が、米国のみならず世界各地からやってきて、ラ・ママを拠点に作品を制作している。

ミア・ユウはもともとエレン・スチュワートがルーマニア出身の演出家アンドレイ・シェルバンとともに立ち上げたレジデント・カンパニー「グレート・ジョーンズ・レパートリー・シアター」の女優として活躍していたが、1990年代からラ・ママで制作の仕事もはじめ、2000年を過ぎた頃からエレン・スチュワートのアシスタントとしてフルタイムで働くようになった。エレン・スチュワートの死を受け、2011年にラ・ママの芸術監督に就任。パフォーマーとしての仕事はここ10年ほどしていないが、これから再びレパートリーシアターの舞台に上がる予定があるとのこと。

エレン・スチュワートについては、たとえば以下の記事がある。

http://www.wonderlands.jp/archives/17375/

http://www.praemiumimperiale.org/ja/laureate/music/stewart

ミア・ユウさんについてはこちら。

http://www.nytimes.com/2011/10/16/theater/mia-yoo-steps-into-ellen-stewarts-shoes-at-la-mama.html?_r=0

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