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当事者性と「世界」 2020年9月4日

内野儀先生の「日本の演劇についていま考える「枠組み」も考えてみる(2) 実験とかコミュニティとか:リチャード・シェクナーから小劇場演劇へ」という話を一昨日うかがい、ここ二十年くらいもやもやしていたことが、少し輪郭を持ってきた気がする。

2016年にACC(アジアン・カルチュラル・カウンシル)のグランティーとしてニューヨークに滞在させていただいたが、ニューヨークに行きたかったのは、フランスで学んだ演劇学・演劇史がかなり狭いものに感じていたからだ。その前にアジアセンターのグラントで東南アジア三カ国視察に行かせていただいたとき、東南アジアの多くのアーティストがヨーロッパではなく米国で、演劇学ではなくパフォーマンス・スタディーズを学んだことを知って、ニューヨークに行けば、アジアのことをもっときちんと考えられるのではないかと思っていた。

だが実際に行ってみたら、ニューヨークではアジアのアーティストがあまり活躍しておらず、正直ちょっとがっかりした。パフォーマンス・スタディーズも、アジアのことよりも米国内のアジア系アメリカ人のことにばかり一生懸命で、なんだか視野が狭い感じがした。しかし、この半年ほどの米国滞在は、今日の舞台芸術の枠組みをめぐる問題に取り組む大きなきっかけになった。

ニューヨークに行く前に知っていたパフォーマンス・スタディーズといえば、リチャード・シェクナーくらいだった。シェクナーはACCの支援も得て、日本や中国からパプアニューギニアまでアジア中をリサーチし、それが「演劇」にとらわれない「パフォーマンス」一般についての新たな学問分野を切り拓くきっかけの一つになった。ニューヨーク大学でシェクナーの最後のセミナーに参加できたことは、本当に得がたい経験だった。だが、そのニューヨーク大学でも、シェクナー的な視野でパフォーマンス・スタディーズに取り組んでいる研究者はいなかった。

一昨日の内野先生の話で、1980年代のニューヨークでの経験とドワイト・コンカーグッドの話を聞いて、なるほど、と思った。1986年に内野先生がニューヨーク大学にいらした時には、「自己省察性(reflexivity)」がキーワードだったという。要は「自分のことを省みろ」「他人の話をする前に、自分がどの立場から言っているのかよく考えておけ」ということらしい。

「未開の地」がなくなっていき、ポストコロニアリズムを経過して、パフォーマンス・スタディーズの重要な基盤の一つだった文化人類学は大きく変容していく。そこで出てきたのが、シカゴのノースウェスタン大学でパフォーマンス・スタディーズを教えていたドワイト・コンカーグッド(Dwight Conquergood)だった。コンカーグッドはタイのモン族のヒーラーを対象にフィールドワークをしたのがきっかけで、モン族難民の権利の擁護にアクティヴィスト的に関わっていく。そして地元シカゴの問題に取り組むため、移民貧困層が多いリトル・ベイルートに住み込み、ギャングたちの相談に乗りながらリサーチを進めていく。コンカーグッドは55歳で亡くなるまでそこで暮らしていたという。いわば自分をむりやり地元のギャングたちの問題の当事者にしてしまったわけである。

これがパフォーマンス・スタディーズのその後の流れに大きな影響を与えることになる。私がノースウェスタン大学のパフォーマンス・スタディーズ科で話を聞いた時にも、今の学生のフィールドワーク先の多くはマクドナルドのアルバイトや地元の会社の新人研修で、タイやパプアニューギニアに行くような学生はほとんどいないとのことだった。ベトナム戦争、イラク戦争を経て、米国が内向きになっていったことも関係しているのだろう。米国滞在中、ちょうどトランプ政権の成立もあり、「世界」のことよりも足下の問題を見つめろ、という風潮を強く感じた。世界中のあらゆる地域からの移民がいる米国にいると、あたかもそこで「世界」が見えるような気がしてしまうこともあるのかもしれない。

この流れが今の東京の小劇場演劇にもつながっている、という話をするはずだったようだが、一昨日は少し触れただけで終わってしまった。しかし1980年代のニューヨークでキーワードだった「自己省察性(reflexivity)」という問題意識が、今の「当事者性」をめぐる問題につながっているのは間違いないだろう。1990年代以降の「現代口語演劇」も、「自分の足下のリアリティーを大事にする」という意味ではつながっている。現代口語演劇的なものへの共感と違和感、太陽劇団的なものへの共感と違和感がどこから自分に流れ込んできていたのか、少し見えてきた。

翻って自分の研究のことを考えると、「自分の問題」から出発しつつも、良くも悪しくも、これまではヨーロッパ的な普遍主義・客観主義のなかでやっていかざるを得なかったのだと思う。歌と踊りを排除した「近代劇」なるものがなぜヨーロッパで生まれ、そこで作られた基準がアジアにおいていかに身体性を抑圧してきたのか、ということを見つめることで、「近代劇後」「ヨーロッパ後」の舞台芸術のために何をすべきかを考えてきたつもりだが、話を大きくすればするほど、遠い地域の話、昔の話をすればするほど「当事者性」が薄くなっていくところはある。

だが舞台芸術の国際事業に関わっている立場からすると、この枠組みの問題はまさに当事者性をもった問題でもある。それに関わってこられたのは幸運なことだと、今にして思う。

今は足下を見つめなおす時期だと思いつつも、足下だけを見ていると見えないこともある。もう少し遠くのほうも見ておきたい。

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ウイルスと「世界」 2020年4月4日

胎盤の仕組みはウイルスに由来するという。母親にとって、胎児は自己の一部でもあり、他者でもある。ウイルスは自己と他者の境界を揺らがせる。それが、私たちには怖いのだろう。

私たちは「自己」によって守られ、国境によって守られている。自己があり、他者があり、他者のそれぞれが自己でもある世界。そしてそれらがひとまとまりになって「国」をなし、「自国」と「他国」が区別され、それぞれが他国に対して自国を守っているような世界。私たちはそんな「世界」に生きている、と思い込んでいる。

「ふじのくに⇄せかい演劇祭」の「せかい」という言葉には、「国際」ではない、という含意がある。国と国のつきあいではなく、「ふじのくに」という目に見える共同体が、直接に世界と交流するような場をつくりたい、という思いがある。

でも、もしかしたらそろそろ「世界」の方も疑ってみたほうがいいのかもしれない。より正確にいえば、「世界」というものをどのようにイメージすべきか、考えなおした方がいいのかもしれない。

DNAによる二重らせん構造には、コピーの誤りが起きたときに修正する機能がある。一方、コロナウイルスのRNAは一本鎖なので、「自己」の同一性が安定せず、とめどなく変異していく。とはいえ、DNAの二重らせん構造も、少し長めの時間でみれば、やはり変異していく。「自己保存」という原則がある世界とない世界、自他の区別がある世界とない世界は地続きなのかもしれないと想像してみること。「自己」と「世界」が地続きであることを想像してみること。「まつり」はそんなための場でもあった。

隔離の日々は境界を強化していくように見えるが、壁を高くするだけで「自己」を守ることはできない。隔離の日々が明けるのは、「自己」と「他者」の境界が少し変わったときだろう。

ウイルスは宿主を破壊すると、宿主を失ってしまう。そして宿主を変え、変異をつづけていくうちに、いつか、宿主と共生するすべを見いだす。そのあいだに、宿主自身も変わっていくことがある。ヒトのDNA配列のなかには、RNAウイルス由来とみられる配列が多く存在していて、ウイルスがヒトの進化に大きく貢献しているという。宿主がワクチンを開発することもまた、ウイルス側から見れば、そんな共生のプロセスの一つかもしれない。

…などと言ってはみても、私たち宿主の短い人生のなかでは、破壊的なウイルスとはなるべく共生しないのが一番ですので、まずは何卒ご自愛ください。

隔離の日々が一刻も早く明けることを、そして、そのときには「世界」を隔てる境界が少しちがって見えていることを祈りつつ。

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「舞台芸術」のフレームワーク問題について ~2030年代に向けて~ 2018年7月24日

「舞台芸術」のフレームワーク問題について ~2030年代に向けて~

(ON-PAM政策提言調査室での国際交流をめぐる議論のためのメモ)

「舞台芸術」のフレームワーク問題、というのは、たとえば22世紀に、今私たちがやっていることが語られる枠組みは何なのだろうか、といった問題です。それは「演劇史」ではないかも知れないし、もしかすると「舞台芸術史」でもないかも知れません。

というと、ずいぶん先のことだと思うかも知れませんが、私はこれから2030年代までが、この先どんなフレームワークが世界的なものになっていくかを決定づける重要な時期だと考えています。

「演劇」という概念にそろそろ賞味期限が来ているのではないか、と思っている人は少なくないと思います。今我々が使っている演劇という概念は、基本的には明治時代に西洋のtheatre/Theater/théâtre・・・といった概念の輸入語として使われるようになったものであり、そのもとをたどれば、16世紀から19世紀に西ヨーロッパで形成されてきた概念です。

西ヨーロッパの近代において、演劇theatre、ダンスdance、オペラoperaという3つのジャンルが、それを上演する仕組みと、そのための人材養成の仕組みとともに、制度として形成されてきました。この西欧近代における演劇の定義は、ジャンル規定は、歌と踊りの排除を基準としている以上、他の地域、他の時代の舞台芸術には必ずしも当てはまりません。この話劇としての近代演劇の起源として、いわゆる「演劇史theatre history」なるものが書かれるようになり、そこに古代ギリシアにあったtragoidia, comoidiaといったジャンル(これらのジャンルはtheatronと呼ばれてはいませんでした)や16世紀以前のpassionmystère(「受難劇」、「聖史劇」などと訳されます)といったものが、改めてtheatreとして語られるようになりました。

そして20世紀の後半になって、ようやくこの演劇やダンスといった分類、制度そのものを見直そうという動きが出てくる中で、今我々が語っている「舞台芸術英:performing arts / 仏:arts du spectacle」という言葉が使われるようになってきたわけです。でもこの言葉も、本当に適切な、あるいは有効な言葉なのかどうかは、もう数十年吟味してみる必要があるでしょう。

そもそも、この言葉に対応する西洋語については、英語とフランス語で、だいぶ語義が違っています(他の西洋語についてはよく知りませんが)。

英語の方には、とりわけ1970年代以降にはパフォーマンス・スタディーズ(パフォーマンス学)の影響があります。そして、この「パフォーマンスperformance」という概念は、「舞台芸術」という概念に代わり得る概念でもあります。

1980年代以降、演劇やダンスといった概念自体を見直そうという動きの中で、少なくとも西洋において、この2つの概念は、いわば競合関係にありました。

この2つの概念の大きな違いは、舞台芸術という概念は近代西欧において形成された「芸術art」という概念、そしてその芸術のうちの「ジャンル」という概念(そしてモダニズムにおけるジャンルの固有性・純粋性という概念)をある程度温存する志向を持っているのに対して、リチャード・シェクナーが提唱した「パフォーマンス」という概念は、むしろそれを解体する志向を持っていました。

ヨーロッパにおいては、「舞台芸術」に対応するarts du spectacleといった言葉が、オペラ・演劇・ダンスだけでなく、サーカスやストリートアートまでを含むものとして使われるようになり、さらに各ジャンルが拡張されて、また「複合領域的なもの」をも包含しうるものとして使われるようになりました。「パフォーマンス」という概念が非英語圏ヨーロッパにおいて普及しなかった理由としては、近代的「舞台芸術」各ジャンルが制度として強固に確立していたことだけでなく、performanceという言葉が英語特有のもので、他の西洋語に対応する言葉が見出しにくいという事情もありました。ヨーロッパで「タンツテアター」や「ポストドラマ演劇」のような言葉が流行したのには、ヨーロッパにおいては既存の「ダンス」「演劇」といったジャンルを拡張する方が(少なくとも短期的には)現実的だからでもあります。

ですが、個人的には、「舞台芸術arts du spectacle」よりもシェクナーがアジアやアフリカなどその他の地域の実践、さらにはスポーツや政治、日常生活における「パフォーマンス」にまで目を向けたうえで作り上げた「パフォーマンス」という概念のほうが、長い目で見れば有効性があるように思っています(そう思って、一昨年シェクナーの授業を受けにアメリカに行ったのでした)。

でも、この概念がアメリカにおいてすら十分に制度的に普及しなかった理由の一つは、ニューヨーク大学にパフォーマンス・スタディーズ科ができた1980年以降、アメリカがむしろ内向的になっていってしまい、60年代~70年代の第三世界主義的動きが退潮していった事があります。結果として、アメリカにおいても、「パフォーマンス」という言葉の便利さを生かしつつも、旧来の制度を解体することなく活用できる「パフォーミング・アーツperforming arts」と言う概念の方が、より実践的とみなされて使われるようになっていきました。

では「パフォーマンス」の方にはもう未来がないのかというと、そんなこともなさそうです。シェクナーに学んだWilliam Huizhu Sunは中国に戻り、上海戯劇学院でパフォーマンススタディーズを教え、他の大学にも広がりつつあります。パフォーマンススタディーズは中国語で「表演学」あるいは「人類表演学」と訳されています。この「表演」という表現は、中国語圏ではperformanceの訳語として普及していて、「表演芸術中心(performing arts center)」といった劇場名も見られます。

日本語では、近年芸団協が「実演芸術」という言葉を使っていて、文化行政においてはときどき微妙な選択になっていますね。ここでは「音楽」を含むか否かも問題になっています。

今私たちが行っていることが、一〇〇年後の22世紀にどのような概念、どのような枠組みで記述されるようになるのかは、今から2030年代にかけて、中国・インド・インドネシアにおいてどの言葉が使われるようになるのかにもかかっています。たとえば、テアトル・ガラシのUgoran Prasadは今、劇作家レンドラを中心に語られてきたインドネシア「演劇史theatre history」を、コンテンポラリーダンスの「振付家」と見なされているサルドノ・クスモを中心に書き直そうとしています。これはtheatre/Teaterという概念をインドネシアの実践に適合させていく動きと考えられます。22世紀に使われる概念は、英語やフランス語を基準にした言葉ではなく、「戯劇」や「戯曲」といった中国語の概念が基準になる可能性もあります。この際、もちろん歌舞伎・能・狂言・文楽を「演劇」という語で語ることで独自の「演劇」概念を形成してきた明治以来の日本の経験も一定の役割を果たしうると思いますが、今はこれを世界の他の地域の人々と議論し、共有する機会があまり持てていないように思われます。

今から2030年代にかけての決定的な時期に、私たち日本語話者が、世界の「舞台芸術界」の新たな枠組み形成において役割を果たせるか否かは、ここでの議論にもかかっているのだと思います。

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アジア演劇を「世界演劇」に接続することの困難について 2017年4月4日

  1. 3. 12 (日)   第八回D/J(Dramaturg/Japan)カフェ議事録 (記録:岸本佳子さん/横山加筆)

 

アジア演劇を「世界演劇」に接続することの困難について

 

SPAC-静岡県舞台芸術センターの仕事では、創作に関わることは多くない。クロード・レジ、ダニエル・ジャンヌトーなどフランスの演出家と一緒に仕事をすることはあったが。主に海外招聘、とりわけふじのくに⇄せかい演劇祭のプログラムを組む、という仕事をしている。そのなかで、ここ数年抱えていた疑問があったので、ACC(Asian Cultural Council)に応募して、2016年9月〜2017年2月までニューヨークに滞在して、リサーチをしていた。その疑問というのは、アジアの作品をプログラムに入れるのはなぜ難しいのか、ということ。

 

・なぜニューヨークか アジア演劇とパフォーマンス・スタディーズ

 

どうしてニューヨークに行きたかったのか。たとえばシンガポール国際芸術祭の芸術監督をしている演出家のオン・ケンセンと話していて、「ニューヨークのユダヤ人からバリ島の演劇のことを教えてもらったんだ」という話を聞いたことがあった。シンガポールからバリ島はすぐ近くなのに、なんでわざわざニューヨークを経由しなければいけなかったのか。

 

オン・ケンセンは1993年〜1994年にACCのグラントを獲得して、NYU(ニューヨーク大学)パフォーマンス・スタディーズ科修士課程に在籍し、リチャード・シェクナーからバリ島の演劇のことなどを学んだ。この当時、アジアの舞台芸術について学べるところは他にあまりなかったということだろう。マニラのCCP(Cultural Center of the Philippines)の芸術監督クリス・ミリヤード(Chris Milliado)にお目にかかったときにも、その1年後か2年後に、もACCのグラントでNYUのパフォーマンス・スタディーズ科に留学した、という話を聞いた。

 

つまり、東南アジアの重要な演劇人はNYで勉強しているんだ、と思った。フランスに留学していたが、東南アジアの演劇人にはほとんど会ったことがなかった。

 

たしかに、ヨーロッパで演劇学を学んでも、アジアの演劇の文脈には必ずしも結びつかない。ヨーロッパで作られた「演劇」という概念自体が、必ずしもアジアに当てはまらない。

 

NYUのパフォーマンス・スタディーズ科を立ち上げたリチャード・シェクナーは演出家でもあって、ウースター・グループの前身であるパフォーマンス・グループを主宰していた。シェクナー自身が、ACC財団ができた初期の頃にグラントを取ってアジアに行っていた。

 

シェクナーによれば、ACCを作ったジョン・D・ロックフェラー三世が “ディオニュソス69” (1968年)を観て、シェクナーに「アジアに行きたいか?」と聞いてきた。行きたいです、と答えたら、来年以降、どこでも好きな所に行ってください、と。それで1970年以降、インド、 スリランカ、インドネシア、中国、台湾、日本など、何年かかけて回った。それが一つのきっかけとなって、ヨーロッパだけでなくアジアやアフリカも含め、そしていわゆる演劇だけでなく儀礼やスポーツ、日常生活のルールまでも含めて、それまでの「演劇」の枠組みを拡張する試みを“Performance Studies”として立ち上げた。

 

ヨーロッパ人とアメリカ人の「歴史的自己認識」の違い

  • フランスでは、自分のルーツを遡るとギリシアやローマ人に行き着くと、なんとなく思い込んでいるところがある。地理的にも遠くない。一方アメリカ人はギリシアやローマにそこまで親近性を感じてはいない。アメリカから見れば、アテネやローマも、東京や北京と似たようなものではないか。

 

→ ヨーロッパではあまり「アジア人」が演劇界で活躍している感じはなかった。でも、ニューヨークではそうではないのでは?と思っていた。行って見たら、そうでもなかった。

 

・西洋演劇を基準にした「世界演劇」にアジア演劇を接続するのはなぜ困難なのか?

 

<レジュメHow to integrate the Asian theatre to the “World Theatre”?を参照>

 

それが困難なのは、そもそも西洋演劇自体に、アジアをアンチモデルとして成立してきた、という事情があるからではないか。

 

・近代演技論の成立と弁論術

 

  1. 歌と踊りのない演劇形態が確立したのはいつ頃か?
  2. フランスではフランスオペラを確立したジャン=バティスト・リュリの音楽アカデミーが1672年に音楽上演の独占勅許を獲得。一定以上の音楽を使ったパフォーマンスはリュリの許可なくして上演できなくなる。それまでは音楽劇が盛んに上演されていて、台詞中心の劇よりもその方がお客さんが入っていた。モリエールやコルネイユもそれにかかわっていた。だがこれによって、いわゆる「古典劇」の作家たちは、台詞劇に専念せざるを得なくなってしまう。

 

『演技論』が書かれ始めたのはこの少し後の時代から。

→ 演技論研究はごく最近発展してきた。2001年にサビーヌ・シャウーシュの『演技論七篇 雄弁術から演技論へ』(Sabine Chaouche (éd.), SEPT TRAITES SUR LE JEU DU COMEDIEN ET AUTRES TEXTES. De l’action oratoire à l’art dramatique (1657-1750), Honoré Champion, collection Sources classiques, 2001)という本が出て、これで国立図書館に行かないと読めなかった17世紀〜18世紀の演技論に関する本が自宅でも読めるようになった(すごく高いけど)。

 

  1. 16世紀〜18世紀のヨーロッパの中等教育(コレギウムでの教育)で、最も重要な科目だったのは?
  2. Rhetorica、弁論術(「修辞学」とも訳される)が最も重要な科目だった。

 

  1. 当時のコレギウムで一番読まれていた作家は?
  2. キケロ。古代ローマの政治家・弁護士(「雄弁家orator」)で、弁論術の理論家でもあった。言葉によって人を動かす術としての弁論術。当時の教育は基本的にラテン語なので、ラテン語でそのまま読んでいた。

 

この時代のフランスの教育では、毎日のようにキケロなどが書いた古代ローマ弁論術の本を読まされていた。

その中に、歌ったり踊ったりしてはダメ、と書いてある。議会とか裁判所とかでどうやって演説するか、という話なので、ある意味当たり前なんだけど。

 

当時の俳優論、演技論は、実はローマ弁論術をほとんどコピペしている。たとえばモリエールはもともと弁護士になるはずだったが、俳優兼劇作家になってしまう。そういう人、つまり教育を受けた俳優というのが出てきたから、ローマ弁論術をベースにした演技論が発生してきた。

 

でも不思議なのは、近代の俳優が、古代ローマの俳優ではなく、古代ローマの弁論家をモデルにしたこと。

 

たとえば、ジャン・ポワソンという18世紀フランスの俳優は、『公開の場で話す術についての考察』(Jean Poisson, Réflexions sur l’art de parler en public, 1717 (Chaouche, p. 407))という本で、クインティリアヌス『弁論家の教育』(Quintilian, Institutio oratoria, I, 11, 3)のこんな一節を引用している。

 

「身ぶりは舞台俳優から遠ざかるようにすること(Gestus aberit a scenico)」

 

この1文は、本来は弁論家=政治家や弁護士になろうとする人に向けて書かれたもの。だけど、ここではそれが俳優にも適用されるかのように引用されている。つまり、近代俳優は古代ローマの俳優のように過剰な身ぶりをしてはならない、ということになる。

=古代の弁論家が近代の演技術のモデル

 

・人文主義教育と俳優の社会的地位

 

「自由学芸Liberal Arts」とは何か?

「自由人」のための技術。

自由人=奴隷ではない人。

古代ローマにおいては自由人のトップが弁論家、政治家。もっとも自由ではない人間の一つが俳優。俳優の身分は多くの場合、奴隷や解放奴隷だった。古代ローマでは俳優には市民権がなかった。騎士でも、舞台に立ったら騎士の身分を剥奪された。

古代ローマにおいて、俳優と売春婦は同じカテゴリーだった。

「自分の身体を他人の快楽のために提供する人」というカテゴリー

 

こういう事情が背景にあって、弁論家をモデルにする、ということになった

 

近代になって、演劇をもう少し、貴族などにも見せられるものにしよう、となった時に、俳優という職業の社会的地位を多少引き上げなければ、という話にもなってくる。

俳優=身体ではなく、俳優=言葉だ、という転換。

実際革命前のフランスでは、俳優にはほぼ市民権がなかった。

 

「人文学Human Science / Humanities」とは何か?

人文主義教育(éducation humaniste)の中で、教育を受けた俳優が出てくる。ここでいうhumain (human)というのも、「(奴隷ではない)人間、自由人」という意味。キケロがいう「人間的教養(人文学)Humanitas (Humanities)」というのは、自由学芸と同様に、「自由人であるために学んでおくべきこと」。つまり、教育を受けた俳優とは、奴隷ではない俳優。

 

なぜフランスだったのか?

フランスでは17世紀くらいから、モリエールみたいに、教育を受けた俳優、というのが出てくる。とりわけフランスで弁論術の影響が強かったのは、16世紀のパリのコレギウムで、「パリ方式modus parisiensis」と呼ばれる人文主義教育のシステムが確立されたから。ルネサンスを経て、古代ギリシア・ローマの学問を復活させようとしたのが人文主義教育。実際には、ギリシア語ができる人は少なくて、ラテン語が共通語なので、古代ローマの学問、なかでもローマ人にとって一番大事だった弁論術が重要になっていく。

 

フランスでは一七世紀終わりくらいから、演技術のことをdéclamationと呼ぶようになった。日本語では「朗誦法」などと訳されたりするが、これは「言葉を語るのが演技」という発想から。

実はこの言葉のもとになったラテン語declamatioは「虚構の設定にもとづいたスピーチ(弁論)」という意味。

学校教育の中などで、弁論の演習として、今実際に起きていることではなくて、たとえばトロイア戦争とかをもとにスピーチをしてみること。

 

当時の高等教育の中では、このデクラマティオが最終地点、最後に学ぶことだった。当時の演劇人が「デクラマティオを学んだ」というのは、コレギウムでちゃんと最終課程まで勉強した、というくらいの意味でもある。

 

このデクラマティオの枠組みで、学生にローマ喜劇や、ラテン語で書かれた喜劇・悲劇を上演させたりもした。ローマ喜劇は「活きた(会話に適した)ラテン語」を学べる数少ない教材でもあった。

 

だから、フランスの近代俳優は、新たな演技術、近代演技術のことを「デクラマシヨン」という妙な言葉で呼ぶようになった。(当時のエリートにとって最も重要な学問である)弁論術教育を受けた俳優の演技、というくらいの意味。「本当は弁護士とかにもなれたけど、あえて俳優になったんだ」というようなアピールでもある。

 

・なぜ西洋近代劇にとってアジアはアンチモデルとなったのか?

 

キケロの弁論術書などで、「アジアの弁論家は歌うように話す」という逸話がある。これを近代弁論術では「アジア風(asianismus)」などと呼んだりする。

 

なぜアジア人は歌う(ということになっている)のか?

まずはイメージとして。

ギリシア悲劇で一番盛り上がるのは、ペルシャ人、トロイア人、といった「アジア」の女性が泣きながら歌うところ(cf. マダム・バタフライ、ミス・サイゴン etc)。

アジア人が最終的にはギリシア人に負けてしまうのは、真の言語、論理的言語(ロゴス)をマスターしていないから。

戦争に負けた結果、アジア人は奴隷となって、自らの境遇を嘆く。奴隷というのは、自分で自分の人生を導く能力がないために、自らの身体を他人に提供することで活かされている存在。ロゴスをマスターした者が、そうでない者を支配し、導く責任を負っている、というのが奴隷制の理屈。

 

キケロが語っているのは、アジア(小アジア、今のトルコ)の弁論家は、悲劇俳優が歌うような口調で嘆き、お涙頂戴の弁論で説得しようとする、というような話。このときにキケロが思い浮かべているのは、セネカの『トロイアの女』(『弁論家』27, 57)。

 

アジアの弁論家が歌で人を説得しようとするのは、アジア人はロゴスをマスターしていないから、ということ。つまり、歌と踊りのないヨーロッパの近代演劇は、このような「アジア人=奴隷(≒古代ローマの俳優)」を、いわばアンチモデルとして成立してきた。

 

こんな文脈を知ってみると、アジアの舞台芸術をヨーロッパ演劇史に接続することの難しさが見えてくる。西洋思想史のなかで、歌い踊る身体は、往々にして奴隷的身体とみられてきた。歌や踊りの訓練をすることは、他人の快楽に奉仕するために身体を変形させることと見なされた。一方、戦闘のための訓練は「自由人」にふさわしいものと見なされた。

 

19世紀以降、西洋演劇はアジア演劇の影響を受け、それが20世紀の「演出家の時代」にも影響を与えているとも言われるが、アジア的要素をスパイス以上のものとして使っている西洋の演劇を探すのは困難かも。フロランス・デュポンの『アリストテレス、西洋演劇のヴァンパイア』(Florence Dupont, Aristote ou le vampire du théâtre occidental, Paris, Aubier, 2007)によれば、いわゆる「演出の演劇」も、結局のところ演出さえもテクストと見なすようになったに過ぎないという。つまり、よく言われる「身体性」というのも、往々にして結局のところテクスト概念の拡張に過ぎないかも知れないということ。

 

Cf. 小山内薫による新劇の創出

その頃は、俳優といえば歌舞伎俳優。稽古場で小山内薫が「歌うな、話せ」「踊るな、動け」と叫んだという逸話。日本人も頑張って、歌わない、踊らない演劇をしようとすることで、演劇を「近代化」しようとしてきた。

 

果たして我々は「身体性」というものに、ふたたび正当な価値を与えうるのか?この問題は演劇において「アジア的なもの」とどう付き合っていくのか、という問題ともかかわってくる。

 

世界経済の重心が欧米からアジアに移行する時代が数十年以内に来るらしい。2030年くらいという話もある。だとすると、あと十数年。舞台芸術に関する価値観については、まだその準備ができていない。「アジア」という(西洋の視点から作られた)枠組みを実体化するのもよくないだろうが、少なくとも欧米中心ではない価値観や枠組みを、今からおおいそぎで作っていく必要があるのでは。

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オーストラリア先住民芸術とアジアの舞台芸術 2017年3月10日

振り返ってみると、メルボルンで行われた今回のAPP(Asian Producers Platform)キャンプは私にとって特別な意味を持っていたような気がする。四回参加したことで見えてきたことがあった。

APPキャンプ2017について

https://www.jpf.go.jp/j/project/culture/perform/oversea/2017/02-02.html

今回のグループリサーチでは「先住民芸術 未来の顔は?Indigenous Arts ― The Face of the Future?」というテーマのグループに参加した。オーストラリアには以前にもAPAMで来たことがあったが、先住民(いわゆるアボリジニとトレス海峡島嶼人)のプロデューサーやアーティストと直接話すことができたのは初めてだった。リサーチグループのリーダーのドリーナもマオリ系で、ニュージーランドで先住民によるダンスグループを立ち上げていた人で、当事者としてこの問題にかかわっている。

私がこれまで見てきたオーストラリア先住民アーティストによる作品は白人のプロデューサーによるものだったが、今回プロデューサーたちは、先住民としての立場から先住民アーティストの作品をプロデュースすることにこだわり、それによって作品をつくる枠組み自体を変えていこうとしている。私はこれまで先住民アーティストによる作品製作に「真剣に」関わってきた白人のプロデューサーたちを何人か知っていたので、この話を聞いて、はじめは今一つ意義が分からなかったが、具体例を聞いているうちに、何が問題なのかが少し見えてきた。

例えば、映画製作のための助成金申請には、通常スクリプトを提出する必要がある。だが、先住民アーティストたちはスクリプトを提出することを好まない。それでもプロデューサーは、彼/女たちが素晴らしい作品を作るアーティストであることを知っているので、それを信頼して、スクリプトなしで助成金が得られるように助成団体を説得することに成功した。

オーストラリア先住民には、ビジュアルアート、ダンス、音楽、演劇等々といったジャンルの概念はない。一口に「アボリジニ」といっても、言語も文化も部族によって全く異なるが、今回訪れたヴィクトリア州の先住民クリン人(Kulin Nation)は、これらを全て、物語を語るための手段と考えている。アボリジニには「ドリームタイム」という概念があるとされている(正確には、アボリジニのいくつかの部族の話から西洋人の人類学者が抽出した概念、といったところだが)。全てのものが生成し、名前がつけられていく時間。この過程には完成はなく、つねにつづいていく。だから、作品の完成という概念もない。すべては常にクリエーションの過程にある。時間の概念が異なるので、タイムキープや予算管理では、いわゆる近代的な、あるいは西洋的なアプローチとは全く違う方法を取る必要がある。

すべてはアーティスト本人と直接の信頼関係を築くことにある、と彼/女たちは語る。書類やお金やテクノロジーを媒介とせず、人と人との関係を築くこと。とにかくこの人なら、最後には何かすばらしいものを見せてくれるはずだと信頼すること。お互いにそれができるようになるには、時間をかけて、真に人間同士の関係を築く必要がある。もちろん同時に、家族や友達も大事にしなければいけない。だがアーティストも友人の一人なので、それは切り離せないもの。ときには職場に子どもを連れて行って、アーティストたちと一緒に時間を過ごすこともあるという。

非先住民のプロデューサーであれば、既存の西洋的な枠組みに適応させるための妥協をしてしまいがちなところで、今回会ったプロデューサーたちは、先住民の立場や考え方にこだわり、新たな枠組みを作り出そうとしている。「メルボルン先住民芸術祭Melbourne Indigenous Arts Festival」のディレクターとなった先住民系のプロデューサー、ジェイコブ・ボエム(Jacob Boehm)はフェスティバルの名前を「イーランボイ・ファースト・ネーションズ・アーツ・フェスティバル(YIRRAMBOI First Nations Arts Festival)」に変更した。「イーランボイ」はクーリン人の言葉で「明日」を意味する。ジェイコブとメルボルン市長は、この地域の6万年の歴史を見つめつつ、ともに「明日」を夢見ていこう、と呼びかける。

イーランボイ・ファースト・ネーションズ・アーツ・フェスティバルについて

http://yirramboi.net.au/about/

http://www.melbourne.vic.gov.au/news-and-media/Pages/updates-alerts.aspx

いろいろ話を聞いているうちに、西洋近代が作ってきた芸術という枠組みを越えていける可能性がここにあるような気すらしてきた。

六ヶ月ぶりに静岡に戻って、ちょっとほっとしたのは、まだここには顔の見える関係がある、と感じたからだ。「七間町ハプニング」のあいだに街を歩いていると、あちこちで知った顔を見つけ、声をかけてもらえる。パフォーマンスがあれば、同じ人に同じ場所で、同じ時間に出会うことで、会話が生まれ、束の間の共同性が生まれる。静岡市は2015年の「官能都市」(魅力的な街)ランキングで全国12位。東京・大阪を除けば、金沢市に次ぐ2位と評価された。

七間町ハプニング

http://www.c-c-c.or.jp/schedule/2017/02/post-18.html

「官能都市」ランキング

https://www.atpress.ne.jp/news/72741

人が人を魅了し、それが束の間の贈り物となって、複数の人の間に共同性を生んでいく。この「魅力」という「贈り物」のことを、ヨーロッパでは「優美(kharis, gratia, grâce…)」と呼んでいた。私が研究対象としてきた西洋演技論においては、この「優美」という概念が重要な位置を占めている。実はこの概念は、貨幣や書面での契約によらない、人と人との直接の信頼関係の礎となるような贈与を表す概念でもある。それが転用されて、舞台芸術のパフォーマーが観客を魅了する力を表すようになっていく。つまり舞台芸術はそもそも、このような第三項を媒介としない身体と身体との関係を築くものと考えられていた。それが近代になり、口承空間に代わって書記空間が社会のなかで重要な位置を占めるようになっていくなかで、第三項としてのテクストが主要な位置を占めるドラマというジャンルが立ち現れてくる。そのなかで、「優美」という概念がテクストの媒介者としての身体がもつ魅力へと、さらに転用されていくこととなる。

この流れは国民国家の生成とも重なっている。ラテン語に代わり、一定の地域で使われていた口語であった俗語が出版言語となり、やがて絶対王政のなかで国家語へと体裁を整えていく。このなかで、口承文化としての演劇もまた、宮廷と結託したアカデミーのお墨付きを得たテクストによって媒介されることになっていく。これはコミュニティの規模の問題でもある。口語はレヴィ=ストロースのいう「真正な社会」(顔が見える関係でつながっている社会)を越えられないのに対して、出版言語はそれを越えた規模の「非真正な社会」、アンダーソンのいう「想像の共同体」を築くことができる。

これに適合したのが、アリストテレス『詩学』に見えるテクスト中心主義だった。アテナイという出身ポリスを拠点とすることができたプラトンに対して、マケドニア出身のアリストテレスはアテナイにおいて、ある種の普遍主義を唱えざるをえなかった。口承文化への郷愁が色濃いプラトンに対して、アリストテレスは、地域と時間を越えるテクストの客観性を主張せざるをえなかった。これがマケドニア帝国主義のイデオロギー的根拠の一つとなり、「ギリシア語」を共通語とするヘレニズム世界が成立していく。

今の時代は、地中海世界の中心がギリシアからローマへと移っていったヘレニズム時代の後期とよく似ている気がする。世界経済の重心が移行していく中で、世界観や価値観も移り変わっていく。ここ数世紀の間、西ヨーロッパで培われてきた価値観が世界を覆ってきたが、これに伴って、新たな価値観が必要とされてきている。だが、それはまだ見つかったわけではない。新しい価値観は、おそらくまだこれから何世紀もかけて作り上げられていくのだろう。その中で、アジア太平洋地域のいろいろな現場で活動している人々が一同に集まって、一週間のあいだ、これからの舞台芸術のあり方について話し合うというのは、すぐに目覚ましい結果が出るものではないにしても、これまであまりなかっただけに、とても貴重な機会だと思う。

APPは来年以降も存続していくことになった。次回以降はより多くの人に開かれたものになりそうだ。日本からもより多くの人が参加してくれるものになることを願っている。

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カテゴリー: APP 世界演劇

パン・アジアン・レパートリー・シアター芸術監督ティサ・チャンさんのお話 2017年1月31日

昨日パン・アジアン・レパートリー・シアターの芸術監督ティサ・チャンさんにお話を伺うことができた。アジア系米国演劇のパイオニア的存在。他にも関連の書きかけメモが溜まっているのだが、とりあえずまとまったので。

Tisa Chang

https://en.wikipedia.org/wiki/Tisa_Chang

パン・アジアン・レパートリー・シアターPan Asian Repertory Theatreは1977年創立、今年で40周年。東海岸ではじめてのアジア系米国人によるプロの劇団。(西海岸ではマコ・イワマツらによりイースト・ウェスト・プレイヤーズEast west playersが1965年に創立されている。)

http://www.panasianrep.org/

ティサ・チャンさんは重慶で生まれたが、1946年、6歳のときに両親とともに渡米。両親は演劇活動が盛んな南開中学・高校で中国近代劇を代表する劇作家の曹禺や周恩来と同窓生。周恩来も芝居をやっていた。父親は蒋介石率いる中華民国の外交官だった。マンハッタンの舞台芸術専門の高校やバーナード・カレッジで音楽を学び、ダンサーとしてキャリアを出発。やがて俳優としてブロードウェイやハリウッドで活躍した。1950年代から60年代にかけて演劇活動をはじめた頃は、米国育ちでも、中国生まれということで、常に外国人扱いされていた。1977年にパン・アジアン・レパートリー・シアターを立ち上げた当初も、よく「マイノリティーシアター」と呼ばれた。

出発点はラ・ママ実験劇場のエレン・スチュワートとの出会い。エレンは1973年、私がはじめて演出した京劇の翻案『鳳凰の帰還The Return of Phoenix』に5,000ドル出資してくれた。この作品は大ヒットして、CBSテレビが買ってくれ、その後の活動につながった。ラ・ママでは中国系やアジア系の俳優とギリシャ悲劇、シェイクスピア、チェーホフ、ゴルドーニなどを上演。『真夏の夜の夢』では、普段は英語を話していて、魔法にかかると中国語を話す、という設定にした。自分たちの劇団は「アジア系米国人による古典劇の劇団」だと考えている。コメディー・フランセーズやモスクワ芸術座のようなレパートリーシアターがモデル。

日本の作家では安部工房、清水邦夫、三島由紀夫のサド公爵夫人などを1970年代にいち早く紹介。また、エドワード・サカモト、ワカコ・ヤマウチなど、それまでほとんど上演されることがなかった日系劇作家第1世代の作品も、やはり70年代に紹介していった。

当時はアジア系アメリカ人のプロの舞台俳優はほとんどいなかったが、私たちが出演した俳優にきちんと報酬を支払って、プロにしていった。その当時の主流はジョン・オズボーンのような「抵抗演劇」。それに対して、パン・アジアン・レパートリー・シアターがベースとした中国、インド、日本の伝統演劇は儀礼的祝祭的で、音楽や舞踊が重要な位置を占めている。それぞれの俳優が独自に学んできたものを、出自が異なる他の俳優とも共有していった。自分たちが演劇を始めた頃はアカデミックな演劇教育のシステムはほとんどできておらず、演劇学校に通ったり、個人的にレッスンを受けたりしていた。私はウタ・ハーゲンからレッスンを受けた。

私たちは訓練をベースにした卓越性と言う基準を守りつづけている。それに比べると、今の若い俳優は十分な訓練とディシプリンを獲得しておらず、表面的な作品が多いような気がしている。

創立して三年目の1980年にはニューヨーク市アーツカウンシルから「重要機関Primary Organization」と認められ、今までフォード財団などの財団のほか、国立芸術基金(NEA)やニューヨーク市、ニューヨーク州などから継続的に支援を受けている。2008年のリーマンショック以降、財団の支援システムが大きく変わって、苦労もある。

国内各地のほか、エジンバラ、シンガポール、カイロ、ヨハネスブルクなどでも公演。2003年にはハバナ演劇祭に招聘されたはじめての米国の劇団となった。

ルーシー・リューなど、ハリウッドに進出した俳優も少なくない。ただ、多くの俳優は、ハリウッドを目指すのではなく、私たちの舞台に立つことを望んでくれた。

認められるためには、他の米国の演劇人よりも2倍も3倍も働かなければいけなかった。(昨日も、月曜日で他の劇団員は休んでいたが、チャンさんは事務所に来て一人で働いていた。「私はiPhoneとかは使っていないので、パソコンに向かう時間を取らないとメールの返事も書けないから」という。)

重要なコラボレーターの一人、アーネスト・アブバさんのお話。アジア諸国ではナショナリズムが強く、国と国との間に緊張がある場合が多い。だが、米国では「パン・アジアン・シアター」が可能だったのは、米国にはアジア的なナショナリズムはなく、きわめて個人主義的なので、「みんなで一つになる」といった集団ではなく、一人一人が個性を保ったまま一緒に仕事をする、というスタイルを取れたからだという。

以下にチャンさんが詳しく来歴を語るインタビューがある。

https://www.tcg.org/Default.aspx?TabID=4347

先週、新作『秘寺での出来事INCIDENT AT HIDDEN TEMPLE』の幕が開いたところ。来年公演予定の次回作はパキスタン出身のムスリム作家の作品とのこと。

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ニューヨーク、ワシントンDC、北京 2017年1月21日

2017118

ニューヨークからワシントンDCへ。大統領就任式とウィーメンズ・マーチの見学に。明日1/19にはウェルカム・セレブレーション、1/20に就任式、そして1/21にはプロテストの意味も込めたウィーメンズ・マーチがある。ニューヨークの一月の舞台シーズンが一段落したので、こちらの方が見ものが多いのではないかと思った。

もう一つの目的は、米中文化交流のキーパーソンの一人、北京の舞台芸術制作会社ピンポン・プロダクション創立者のアリソン・フリードマンに会うこと。

http://pingpongarts.org/founder/

アリソンとは二年前のインドネシアン・ダンス・フェスティバル(ジャカルタ)で一度会っていて、一週間ほど前にニューヨークで再会した。アリソンはDC出身で、この時期にDCにいて、ウィーメンズ・マーチに向けて、多くの友人が泊まりにくると聞いて、一緒にご実家に泊めていただくことになった。

ワシントンDCはニューヨーク同様にかなりリベラルな土地柄で、民主党の地盤。アリソンのお母さんは「「ノードラマ・オバマ」と呼ばれた物静かなオバマが好きだったんだけど、ワシントンの雰囲気も変わるかもね」とおっしゃっていた。

アリソン・フリードマンはオバマやクリントンの娘と同じ中学・高校シドウェル・フレンズ・スクールに通い、中国語をはじめた。夏休みに六週間日本に滞在し、利賀村で鈴木忠志によるギリシャ悲劇を観て、広島の原爆記念館で献花とスピーチをしたこともあるという。(ちなみにオバマは娘サーシャをこの高校につづけて通わせるため、あと二年はDCに住みつづけるらしい。)

そしてブラウン大学卒業後にフルブライト奨学生として北京の国立舞踊学校に留学し、その後DCのケネディ・センターで、舞台芸術で米国と中国とをつなぐ活動をつづけている。アリソンが製作元になった北京のダンスカンパニー「タオ・ダンスシアター」やワン・チョン主催の薪伝実験劇団は世界各地で公演をつづけている。

最近北京につづいてニューヨーク事務所を開設。今はワシントンDC事務所開設のため、こちらに滞在している。

ピンポン・プロダクションの活動が米中文化交流において重要なのは、米国はヨーロッパ諸国のように文化省をもたないためでもある。米国では連邦政府は文化芸術にはなるべく口も手も出さない、というのが国是となっている。そのため、フランスのアンスティテュ・フランセやドイツのゲーテ・インスティチュートなどに匹敵するほど積極的に米国文化を発信している政府系の組織はない。

中国の観客は外国で起きていることへの関心が高いため、劇場は競って外国の作品やアーティストを招聘しようとしているが、その際には渡航費や輸送費をカンパニー・アーティスト側で負担することを要求する場合が多い。西ヨーロッパ諸国であれば、政府系の助成金でそれを賄えるケースが少なくないが、米国の場合には個別のケースごとに財団や企業や個人などに資金提供を依頼するほかない。そのためもあり、中国で米国の舞台作品を観る機会はヨーロッパに比べると少ない。

日本でもこれは米国の舞台作品を観る機会が比較的少ない理由の一つとなっている。外国公演のための助成金がないわけではなく、たとえば以前SPACでネイチャー・シアター・オヴ・オクラホマ『ライフ・アンド・タイムズ』を招聘した際にはACCが助成してくださった。ピンポン・プロダクションも何度かACCの助成を受けている。米国の場合には助成の母体があまりに多様で、プロセスも基準も団体により全く異なるので、部外者には仕組みが分かりにくい、というのが最大の問題だろう。

一方中国では、米国の大学がかなり積極的に文化の発信に動いている。最大の目的は留学生の獲得。そういえばNYU(ニューヨーク大学)パフォーマンス・スタディーズ科のシェクナーの授業では、20人ほどの受講生のうち10人くらいが外国生まれで、うち5人は中国生まれだった(残りはイラン人が二人、韓国人、カナダ人、メキシコ人といったところ)。米国の大学では学費が高いかわりに奨学金制度が充実しているが、外国人学生は基本的に数万ドルの学費を定価で払わなければならない。訪問研究員として受け入れてもらっているCUNY(ニューヨーク市立大学)演劇科シーガル・シアター・センターでは、中国からの訪問研究員が四人いた。上海戯劇学院にはパフォーマンス・スタディーズを教える「リチャード・シェクナー・センター」があり、さらにCUNY演劇科のマーヴィン・カールソンの名前を冠した「マーヴィン・カールソン・シアター・センター」も設立されている。

ニューヨークでは数多くの中国人留学生や中国出身のアーティストに出会ったが、みんな英語がよくできて、米国の先鋭的な芸術への関心が高い。彼女ら(演劇・芸術系では女性が圧倒的に多い)、彼らが帰国してから10年後、20年後の中国は、だいぶ様変わりしているのではないか。一方日本からの留学生にはあまり出会っていない。

中国では2015年に教育相が「西側の価値観」を排除するよう通達を出したこともあったが、米国の作品を紹介する場合、米国を批判するようなものであれば受け入れられる可能性が高いという。幸い、米国は米国を批判する作品には事欠かない(これが米国の面白いところでもある)。そういえばCUNY演劇科の中国からの訪問研究員のうち二人まではアフリカンアメリカン文学を研究していた。二人によれば、中国の米国研究者のなかでは比較的ポピュラーな主題だと言っていたが、今にして思うと、なるほど、と思わないでもない。

DCでは何年か前に中国語と英語半々で授業を行う公立の幼稚園・小学校ができた。それも、大半は特に中国系ではない白人や黒人の子どもが、4歳から中国語で社会科や算数の授業を受けている。アリソンは10歳児のクラスで中国出身の先生が早口でまくしたてるのに学生がふつうにうなずいているのを見て驚いたという。オバマの娘サーシャが中国語を学んでいたのは知られているが、DCには子どもに中国語を学ばせたいという親が一定数いるらしい。ピンポン・プロダクションのワシントン事務所ではこの学校と提携して、中国のアーティストとのワークショップなどを行う予定だという。

トランプ政権が始動する前から、米中外交は先行きが見えにくくなっているが、「国」同士の関係だけ見ていると、この先何が起きていくのかを見誤るかも知れない。

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アメリカンズとアメリカーノス メキシコ舞台芸術ミーティングENARTES 2017年1月9日

では、米墨国境の向こう側は今、どうなっているのか。
TPAMで出会ったエレノさん、ニューヨーク大学パフォーマンス・スタディーズ科で出会ったディエゴさんに勧められて、昨年12月にはじめてメキシコ舞台芸術ミーティングENARTES(Encuentro de las Artes Escénicas)に参加させていただいた。
 
ENARTES (Encuentro de las Artes Escénicas), 12/6-12, La Ciudad de México
http://fonca.cultura.gob.mx/enartes2016-presentacion/
 
ENARTESがはじまる前日にメキシコシティに到着したので、国際交流基金メキシコ事務所の州崎勝所長にメキシコの演劇事情についてお話をうかがった。日本とメキシコの間の演劇交流はあまり多くないそうだ。近年では、パパ・タラフマラや維新派の公演はあったが、メキシコの演劇人が日本で公演した例はほとんど聞かない。佐野碩は メキシコ近代演劇の父とされ、近年メキシコの大学でも研究は盛んに行われているものの、今のメキシコの演劇人の間でよく知られているとはいいがたい。ダンスの日墨交流はもう少し多い。室伏鴻さんをはじめ、舞踏の方々が何人もメキシコを訪れていて、メキシコのダンス界にも大きな影響を与えている。
 
州崎所長から、メキシコの映画やテレビ、舞台で俳優として活躍なさっている室川孝博さんをご紹介いただいた。現在メキシコ演劇界で活動している日本人は、日系メキシコ人を除けば、ほとんど他にいないという。メキシコでは、立派な国立・公立の劇場はたくさんあるものの、そこにパーマネントに劇団が付属しているという例はまずない。多くの場合、フリーで活動している演出家や俳優が集まって作品を作っている。舞台ではまず食べていけないので、テレビや映画の仕事の合間を舞台に出演している俳優が多いが、それでも舞台で活躍することで初めて真の「俳優」として認められる、という傾向はある、とのこと。
 
メキシコは制度的革命党が1929年以来、2000年~2012年の十数年を除き、直近一世紀の大半にわたって政権を握っている(党名の変更はあったが)。制度的革命党はキューバなど社会主義諸国と交流を保つ一方で、経済的には資本主義的なシステムを取り入れ、米国との取引を増やして経済を活性化させる、という複雑な舵取りを行ってきた。「メキシコの不幸は、アメリカ合衆国の隣にあることだ」などと言われたりもするが、そのせいもあって、ラテンアメリカ諸国では最も経済的に発展した国の一つでもある。米国の側からはメキシコから米国に来る移民が注目されるが、実は他のラテンアメリカ諸国からメキシコに来る移民も数多い(米国への入国が目的の場合も少なくないが)。
 
社会主義国では、旧ソ連や中国のように、国立劇場が劇団を持ち、国立演劇学校がそこに人材を提供する、というシステムを採っていた国が少なくないが、米国は全く逆に、国が直接に劇場や劇団を作るということを極力避けてきた。国立の劇場はあるが劇団はないメキシコは、ある種中間的な仕組みともいえる。今回の舞台芸術ミーティングENARTESは国立芸術基金FONCA(Fondo Nacional para la Cultura y las Artes)が主催し、今回が8回目になる。舞台芸術の発信には力を入れているようだ。今回訪れた国立の劇場設備は全て、かなり充実したものだった。メキシコでは今年の12月16日、国家文化芸術審議会(CONACULTA)が改組されて文化省が創設された。だが経済危機の余波もあり、文化予算は逆に縮小されてしまったという。
 
ENARTESがはじまってみると、まずは米国からの参加者が多いのに驚かされた。オースティンで出会った方だけでも、10人近く再会できたのではないか(オースティンに来ていたラテンアメリカ出身の方も少なくなかったが)。しかも米国やカナダからの参加者のほとんどがスペイン語が堪能。スペイン語が母語でない人でも、仕事やプライベートで何度もラテンアメリカを訪れているようだ。カリフォルニアから来ていたアジア系のプロデューサーも「カリフォルニアで生きていくにも少しくらいはスペイン語ができないとね」とのこと。シカゴ出身のキューバ系のアーティストから、「数年前からキューバの劇団とコラボレーションをしていて、シカゴの大学生を毎年キューバに連れて行ってワークショップをやっている」という話を聞いたのにも驚いた(長年に渡って、キューバ系以外のアメリカ人がキューバに渡航するのには大きな制限があった。キューバへの学生の渡航は2011年に可能になったらしい)。
 
200人ほどのプレゼンター(作品を招聘する側の参加者)のうち、アジアからは私を含め5人。他には、やはり舞台芸術ミーティングを手がけている韓国のKAMSから2人、シンガポールのダンスフェスティバルから2人。ヨーロッパからの参加者はおそらくスペインの方が数人のみ。アフリカからの参加者には出会わなかった。つまり、圧倒的多数は南北アメリカ大陸の方だった。ラテンアメリカ諸国のなかではかなり作品やアーティストの行き来が多いらしい。
 
六日間で二十本以上のショーケースを見たが、演劇については、魅力的な俳優が多いのが印象的だった。古典を通じてメキシコの問題を語る作品に秀逸なものがいくつか。同性愛やトランスジェンダーを扱った作品も少なくない。メキシコはカトリック教徒が国民の八割以上を占めるにも関わらず、2012年に同性婚が認められている。マヤ人の女性たちが自らの日常を語る演劇作品も。北部国境地帯に住むヤキ族の鹿踊りが、笛まで日本の神楽や鹿踊りに似ていて、これにも驚かされた。
 
ヤキ族の踊り
https://www.youtube.com/watch?v=IVcEUvFHMr4
 
墨米国境の壁を扱った作品もあった。墨米国境は3,000キロに及ぶが、すでにその三分の一にはフェンスが建設されている。米国内にはすでに3,000万人ほどのメキシコ系の住民がいて、メキシコには70万人以上の米国人が住んでおり、世界で最も多くの人が行き来する国境だという。メキシコシティにいると、「経済危機」とは聞くが、米国に比べてそれほど生活水準が低いようには見えず、どうしても米国に行きたい、という事情は理解しにくい。近年のメキシコの失業率は5%以下とかなり低い。物価は庶民的な飲食店であれば米国の半分くらいだが、スターバックス(かなりあちこちにある)ではコーヒー一杯3ドル(60ペソ)くらいするのに、ビジネスマンだけでなく学生の姿も見かける。
 
だが、富裕者層と貧困層、都市と地方の格差がきわめて大きいらしい。国境に近い地方の劇場の芸術監督によれば、地方の農業労働者の賃金は一日1ドル~2ドル程度。それが合衆国側に行けば、不法移民でも一日10ドルくらいはもらえる。(ちなみにニューヨーク市の最低賃金は一時間9ドルで、2019年までに15ドルに引き上げられる予定。)だから命の危険を冒してでも壁を超え、砂漠を越えて、合衆国側に行こうとするのだ、という。
 
しかし「トランプ後」の状況については、多くのメキシコ人にとって、「壁」よりも関税への懸念の方が大きいだろう。NAFTAで関税を免除されていたメキシコ産自動車への高関税導入を掲げたトランプ大統領の当選によって、メキシコペソは急落した。メキシコペソは現在、対米ドルで十年前の半分近くの1ドル=20ペソ近くまで値を下げている。メキシコの自動車産業は世界第七位で、米国や日本メーカーも多く進出している。日本とメキシコは舞台芸術よりも何よりも、自動車産業を通じて、ある程度運命を共有している。そしてメキシコの自動車産業は対米輸出への依存度が高い。とはいえ、捨てる神あれば拾う神あり、なのか、EU離脱を決定した英国がメキシコとの貿易拡大を模索している。
 
Newsweek: BREXIT AND TRUMP MEAN GLOBALIZATION IS CHANGING, NOT ENDING
http://www.newsweek.com/great-brexit-swindle-trump-free-trade-vote-530910?rx=us
 
最終日に少し足を伸ばして、室川さんのご案内でテオティワカン遺跡のピラミッドを観に行ってきた。市内中心部からタクシーとバスを乗り継いで二時間ほど。ナバホの国から来てみると、紀元前後からこのような巨大な建造物があったことに驚く。工芸品を見ても、北米先住民のものとは手間のかけ方も図案の複雑さも全く異なる。ヨーロッパ人がここに来る以前は、むしろこちらがアメリカ大陸の文化的中心だったのだ、ということを実感させられた。
 
なぜこれだけのちがいが生まれたのか。ジャレド・ダイアモンド(『銃・病原菌・鉄』)によれば、今のアメリカ合衆国となっている地域では、農作物となりうる植物がほとんどなく、先住民によって農業が行われていた地域も、メキシコなどで開発されたものが持ち込まれてきてはじまったのだという。石のピラミッドではなく多くのマウント(土塁)を築いたミシシッピ文化は、ヨーロッパからの移民が到達する以前にメキシコからヨーロッパ由来の病原菌が到達したためにほとんどの住民が亡くなり、壊滅してしまったらしい。ナバホの国では、そもそも農業に適した土地も水もかなり限られていて、大きな人口がまとまって定住できるような環境にない。それに対してメキシコシティは、かつては巨大な湖で、何世紀もかけて少しずつ干拓して、肥沃な土と豊富な水を利用して、アステカ帝国の首都テノチティトランとして築き上げられた。
 
ではなぜ、それから数世紀で南北の力関係が逆転してしまったのか。メキシコ独立後の度重なる内乱と、米墨戦争の敗北も大きかったのだろう。メキシコの人口は日本とほぼ同じで、面積は約6倍。経済成長率は2%前後。文化的バックグラウンドの豊かさを見ても、舞台芸術の分野で、これからラテンアメリカ諸国以外でもメキシコの作品が見られる機会は増えていくだろう。
 
舞台芸術においては、アメリカンズとアメリカーノス(アメリカ大陸の英語話者/スペイン語話者)のあいだの相互浸透が進んでいるようだ。この大陸の数十年後の姿を予見しているようでもある。
 
(墨米国境地帯の歴史についてはこちら)
http://yoshijiy.net/2017/01/02/%E3%83%86%E3%82%AD%E3%82%B5%E3%82%B9%E5%B7%9E%E2%80%8B%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%80%81npn%E5%B9%B4%E6%AC%A1%E7%B7%8F%E4%BC%9A%E3%81%A8%E3%80%8C%E3%82%A2%E3%82%A4/
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モントリオールから「世界」は見えるか? 2017年1月2日

2016/11/16

土砂降りのニューヨークから一時間以上遅れて飛び立ち、モントリオール空港に降りると、陽光が差している。こんなことになるならもう少しニューヨークで起きていることを見届けておきたかった気もするが、週末まで舞台芸術見本市CINARSに参加。

最近ニューヨークで何度かカナダのアーティストに会ったり、ニューヨークの演劇人とカナダの演劇について話したりする機会があったが、ニューヨークの演劇人は驚くほどカナダで何が起きているのか知らない。CINARSとかワジディ・ムアワッドなどといっても通じないのはフランス語圏のケベック州だからかとも思ったが、英語圏のカナダ演劇界ともさして交流がないらしい。ニューヨーク市立大学演劇科(CUNY)のマーヴィン・カールソンさんは「ニューヨークの演劇界は全然インターナショナルではない。たとえばここで50年以上演劇を見てきたが、カナダの作品は2本しか見ていない」とおっしゃっていた。

米国から一番近い外国なのに、なぜなのか。メキシコ人の方がまだ目立っている気がする。英語圏カナダ出身の演出家に聞いてみたところ、「カナダの方が社会が先進的なので、扱っている問題も米国よりも先進的で、優れた戯曲が多い。カナダでは戯曲を重視していて、劇作家と演出家の間にある種のヒエラルキーがある。一方米国では舞台作品としての形式やヴィジュアルを重視する。そのため、深い内容をもっていても、米国では評価されにくいのかもしれない」という。作品の作り方も、評価のされ方も、同じ北米でもだいぶ違うらしい。ニューヨークにいてもモントリオールに来ても、「世界中」から演劇人が来ている集まっている、と感じるが、その「世界」の構成は、実はだいぶ違っていたりもする。

SPACの演劇祭の名前が「ふじのくに⇄せかい演劇祭」になったこともあって、最近「世界演劇」とは何なのか、よく考える。地方で演劇祭をやることのメリットの一つは、「国」を介さないローカルとローカルの関係が築きやすいことだ。先日のニューヨーク大学でのフランス演劇をめぐるシンポジウムでケベック出身のジョゼット・フェラル(パリ第三大学)が「演劇は(「グローバリゼーション」の時代とされる)今でもローカルなものだ。幸運なことに。」と発言していたが、実際、演劇作品がローカルな観客に支えられることなくいきなり「世界」を相手にするのはほとんどありえない。そもそも演劇は、観客として「世界」という漠然としたものを相手にするものではなく、ある特定の場所に集まる特定の観客のために上演されるものだ。

とはいえ、演劇祭が描く世界地図は、国や地域政府の助成金事情によって、かなり地域の比重が異なってきている。ケベック州は、人口ではカナダ全体の20

数パーセントだが、たしかカナダ以外で上演されている舞台芸術作品の8割位はケベックの作品だと聞いた。大まかにいえば、国や州政府などが助成金を出しているところは、創作環境も充実しているので、クオリティーが高い作品を作っている傾向はある。もちろんお金さえ出せば良い作品ができるとも限らないが、少なくともケベックはこれまで、シルク・デュ・ソレイユだけでなく、ロベール・ルパージュやワジディ・ムアワッドなどの才能を排出してきた。一方で、作品を作る環境に恵まれていない国では、そもそも作品を作ること自体が困難だし、それを自国以外の人にまで知ってもらうのはいよいよ困難だ。だからといって、そういった国で優れた才能が生まれないとも限らない。だが、作品を見に行くための予算も時間も限られているので、どうしても比較的恵まれた国の優先順位が高くなってしまう。数年前、カメルーン公演の帰路で、たまたま内戦が終結したばかりの中央アフリカを経由したとき、「きっとこの国には演劇の仕事で来ることは一生ないんだろうな」と思い、「世界」にはそういう地域がたくさんあるということを実感した。

それ以前に、もっと根本的な問題として、そもそも「演劇」と呼ばれるものがほとんど行われていない地域もある。たとえば、中東「演劇」に詳しいマーヴィン・カールソンの話。「よく、中東の演劇は19世紀にはじまった、というが、それは西洋演劇の模倣がはじまったという意味だ。中東にはそれ以前にも、さまざまなパフォーマンスの伝統があった。たとえば人形劇。西洋人は人形劇は子供向けのものと思っていたが、中東やインドネシアの人形劇、それに日本の文楽だって、全然そうではない。だが、西洋で書かれる「演劇史」に人形劇が含まれることは滅多にない。」そして、もちろん人形劇だってない地域も世界にはたくさんあるが、英語でいう「パフォーマンス」や日本語でいう「芸能」といったものが存在しない地域はない。だとすれば、演劇という概念を拡張するのがいいのか、あるいは「パフォーマンス」といった言葉を使うのがいいのか。前者が今フランスやドイツなどで起きていることで、後者は米国の解決策。とはいえ米国で「演劇祭」が「パフォーマンス・フェスティバル」に置き換えられたわけでもなく、今でも「パフォーマンス」は主にギャラリーなど非劇場スペースでの小規模な上演形態に使われる場合が多い。そして「演劇」に比べて「パフォーマンス」という概念はあまりに英語特有のもので、他の西洋語にすら訳しにくい、という問題もある。少なくとも、ここで浮かび上がるのは、「演劇」という概念をかなり広く定義しておかないと、「世界演劇」も世界のうちの狭い地域だけの話になってしまうということだ。

植民地主義の時代が終わり、「世界」に主体的に参画する地域が増えてきたことで、「世界」を見る視線もさまざまになり、その視線の全てを含めるような視覚をもつことが不可能になってきた。では、今日の世界は演劇によって表象できるのだろうか。

ある意味では、(広い意味での)演劇はいつでも「世界」を表象できていたし、これからもできるだろう。カルデロンの『世界大劇場』のように、「世界」が登場人物の一人となっている作品すらある。どんな小さな村に住んでいる人にだって「世界」のイメージがあるし、逆にどんなに「世界中」を旅して知っている人にだって世界の全てが見えているわけでは全くない。「世界」のイメージは、今では多くの人がテレビを通じて得ているが、そのイメージは往々にして、「国」と一致した規模のマスメディアによって媒介されている。「国際」ではない「世界」のイメージが存在していくためには、「演劇」なり「パフォーマンス」なりのローカルな表象形態はまだまだ必要なのではないだろうか。だとすれば重要なのは、一九世紀以来発展してきた国家/メディアが描く力線の向こうに、演じる身体と見る身体のあいだに生じるローカル(局所的)な「世界」への視線をなんとかしてふたたび見出すことなのではないか。

…などとつらつら考えながらぶらぶらしていたら、「世界」の全てが見えている人に出会ってしまった。

夜11時近く、さっさと夕食を済まそうと、一番早そうな近所のプーティン(フライドポテトにソースとチーズをかけたカナダ名物)屋に入った。店のご主人はいかにも店を閉めたそうで、「ピザとプーティンしかないよ」とぶっきらぼう。「じゃあピザとプーティンを一つずつ」と注文。「ここで食べてもいいですか」と聞くと、「もうそろそろ閉めるからねえ」といい、テイクアウトの準備をはじめる。。「長居はしませんから」といってみたら、わかったよ、という感じでフォークをつけてくれた。「このソースなんですか?」「何だと思う?スネークだ!ハハハ!」(「ハラル」と書いてあったので)「スネークもハラルなんですか?」「おまえイスラム教を知ってるのか?冗談だよ。チキンだチキン、ブラザー」等々。

店内で食べていたら、わざわざトレーとナプキンを届けてくれる。「優しいですね!」「ムスリムだからな!」ピザもプーティンも、期待はしていなかったが、それ以上に美味しくなかった。ただ分量はすごかったので、半分くらい残してしまった。支払って帰ろうとすると、主人が声をかけてくる。

「俺がなんでナプキンを届けたか、わかるか?それは俺が本を読んでるからだ。お前は仏教徒か?神は信じてるか?俺は物理学を勉強した。物理学をやっていると、我々を越えたものの存在を信じざるをえなくなる。俺は今でも、この店で、暇さえあれば本を読んでいる。俺はこのコスモスというものがどういうものかを知りたいんだ。この世界はどうなっているのか、何が正しいのか。そう思って、聖書も読んだし、ユダヤ教の聖典も読んだし、仏陀も孔子も孟子も読んだし、プラトンもソクラテスもアリストテレスもアルキメデスも、デカルトもニュートンも、シュレジンガーもハイデルベルクも、アインシュタインもホーキンスも読んだ。でも、これが正しい、と思う人と、あっちが正しい、と思う人がいて、何を読んでも、結局のところ、世界の全員を幸せにしてくれるものはなかなか見つからなかった。いろいろ読んだ末に、一冊だけ、本当にこの世界の全てのことについて語っている本に出会ったんだ。何だかわかる?」

「コーランですか?」

「そうだ。父親の宗教がどうとか母親がどうとか、そんなことは関係がない。俺は世界中の本を読んだ末に、ここにこそ真理が書かれていることがわかったんだ。この本には全て書かれている。だから俺はこの本が大好きなんだ。俺たちの宗教には、人を説得して改宗させられるなんて思ったりはしないんだ。自分の意思で、そういう気持ちになって本を読まないとな。だからムスリムになれ、なんて言わないが、とにかく本を読んでみてくれ。お前はこうやってピザとプーティンを残したが、今世界中では七億六千万人の人が飢えている。この本には、銀行に金を預けるな、と書いてある。だから俺も預けない。金があったら、人にあげればいいんだ。そうすればこんなに人が飢えたりしない。ここには宇宙のことも、生物のことも、すべてが書かれている。俺はこれを読んだから、今ではどんな疑問にも答えられるし、だから毎日よく眠れる。何か疑問があったら俺に聞きに来てくれ、ブラザー。ブラザーと呼ぶのは、ほら見てみろ、この俺の手とお前の手はほとんど一緒だろ?俺とお前のDNAは25%は一緒なんだ。(注:多分もっと一緒じゃないだろうか。)だからブラザーなんだ。もう俺とお前は、もしかしたら二度と合わないかもしれないが、本当に来てくれてありがとう。いつか、その気になったら、本を読んでみてくれ。」お互い、インシャラー、といって別れを告げた。

そして夜中に目が冴えてしまい、あのブラザーを見倣ってもっと勉強しなければ、とつくづく思った。

モントリオールから「世界」は見えるか? へのコメントはまだありません
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「世界演劇」とは何か

2016/10/30

「世界演劇」とは何か。「世界で認められる」といったときの「世界」とはどこか。

ACCのリサーチテーマは「アジアの舞台芸術の同時代性とパフォーマンス・スタディーズ」としたのだが、アジアの舞台芸術を「世界」の舞台芸術のなかにどう組み込めばいいのか、ということを考えるには、まず「世界」とは何か、ということを、もう少し細かく知っておく必要があるように思われてきた。

20世紀においては、もちろんそれは欧米のことだった。今世紀になって、特に現代美術においては中国市場が急激に膨張し、「世界美術」市場の地図はここ10数年で大きく変化してきた。「世界演劇」市場(というものがあったとして)においては、アジアにおける演劇祭も数多くなり、アジアの同時代作品が他の地域で取り上げられることも増えたとは思うが、美術に比べると、アジアの比重が劇的に大きくなったわけではないように思う。

ニューヨークに来たかったのは、最近アジア太平洋地域に行ける機会が少しずつ増えてきて、フランスやドイツでは取り上げられることがないようなアジアのアーティストや作品、西ヨーロッパとは異なるネットワークが存在する、ということを実感するようになってきたからだ。たとえば英国からインド、マレーシア、シンガポール、オーストラリア、ニュージーランド、カナダまでを含む旧英連邦のネットワーク。だが同じ英語圏でも、ニューヨークはさらに異なるネットワークに属しているように思われる。ヨーロッパのみならずアジア太平洋からアフリカまで、世界中ほとんどの地域と独自の回路をもち、多くのアジア人がここで舞台芸術を学んでいる。歴史的には日本や韓国、フィリピンとの結びつきも強い。

これらのネットワークは、互いに重なり合いつつも、まだかなりの程度独自性を保っている。それぞれのネットワークの独自性、共約不可能性は、作品をめぐる価値観の違いにあるようだ。そしてそれはある程度、作品の制作形態に依存するのではないか。・・・というのが、今のところの仮説だ。なので、米国における舞台芸術の制作形態について、もう少し知りたいと思っている。

ニューヨーク大学でのフランス演劇をめぐるシンポジウムで話を聞いたりして、最近分かってきたのは、米国とフランスでは舞台作品を評価する基準が微妙に異なるということだ。とりわけ1960年代を境に価値観の亀裂が生まれているように思われる。たとえば1950年代には米国はフランスの「前衛演劇」(ここではとりわけベケットやイヨネスコなどの「不条理演劇」)を積極的に受容でき、1960年代には両国の舞台芸術が驚くほどに交叉する状況があるが、1970年代以降、米国で知られるフランスの演劇人は少なくなっていく。なぜなのか。ラ・ママやジャドソン・ダンス・シアターの話を聞いて見えてきたのは、この1960年代に、米仏両国の舞台制作状況が大きな転換を遂げたということだ。というわけで、これから少し米国の1960年代の製作事情を見ていきたい。1960年代のアーティストたちはどこから製作資金を調達していたのだろうか。

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