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テキサス州​オースティン、NPN年次総会と「アイデンティティ」 (2)NPN/VANの国際的ミッションと米国の未来 2017年1月2日

2016/12/27

NPN/VANはアメリカ国内の70の組織が参加するクローズド・ネットワーク。日本やヨーロッパでは「ナショナル」というと政府関連の機関のように思ってしまいがちだが、米国においては「政府は文化芸術に口を出さない」という原則があるので、「全国規模の」というような意味だと思えばわかりやすいのだろう。

だが、それ以上に、米国においては、そもそも国家というものは国民一人一人のイニシアティヴで作っていくものだ、という了解がある。その意味では、これも「国立」という言葉の意味と重なるところはある。NPN/VANも、参加/メンバー団体がボトムアップのイニシアティヴで作ってきた組織だ。日本のJCDN(Japan Contemporary Dance Network)は、NPNでインターンをした経験がおありの佐東範一さんが、これをモデルにして作られたという。

1985年にNPN/VANが作られた最大の目的はアーティストの国内ツアー/モビリティを促進すること。米国はあまりにも大きく、「国内」ツアーにしても、たとえばニューヨークからフェニックスまでは6時間のフライトになるし、ニューヨークから比較的近いワシントンDCやボストンでも、飛行機に乗らずに行こうと思うとかなり時間がかかる。

今回この会合に参加してみて気づいたのは、ニューヨークでは他の州で作られた作品を見る機会がきわめて限られているということだ。カリフォルニアなど西海岸の作品どころか、東海岸の他の都市の作品ですらそれほど上演されていない。ニューヨークでは、場合によってはカリフォルニアの作品を呼ぶよりも、ヨーロッパの作品を呼ぶ方が、助成金なども考慮すると安くつく場合すらあるという。

NPNは全米組織としてニューオリンズにある本部が大型の助成金を定期的に獲得しメンバーに配分することで、ツアーを組みやすくしている。また、レジデンシーツアー(ツアーの際には各地に一週間滞在して教育プログラムなども行うようにする)、定額報酬制など、プレゼンターとアーティストが密接かつ対等の関係を築くためのきめ細かい仕組みが作られてきた。

メンバーとなっている「パートナー組織」が助成金を確実に使えるように、固定メンバー制を採っている。パートナー組織は地域、文化背景、運営規模などのバランスを考慮して選ばれていて、ニューヨーク州からは70団体中、Performance Space 122など5団体。50州のなかでは比較的多いともいえるが、ニューヨークから来ると、圧倒的多数のそれ以外の地域の人々と一度に出会えるのは得がたい機会だった。

パートナー組織となるには、地域バランスだけでなく、NPNの理念も共有しなければならない。理念として真っ先に上げられているのが「社会的・人種的公平性(Social and racial justice)」。人種的・性的マイノリティが芸術分野において十分に表象されていない現状を変えていく、というのが、設立以来の理念となっている。

発足準備の会合をしたときに、その場に集まったのが白人ばかりだったのを見て、​アフリカ系、アジア系、ネイティブ・アメリカン、ラテン系などの団体にも声をかけ、孤立しがちな地方で活動するマイノリティのアーティストを支援することも活動に含めるようになった。

NPNの会合では、人種的・性的マイノリティ差別を排除するためのガイドラインが設けられている。米国に永住していないアジア人として参加してみて、多くの方が議論や会話に参加できるように促してくれるのがありがたかった。

NPN/VANは2016年度、226のプロジェクトに対して180万ドルを助成(マッチングファンドによるレバレッジ効果370万ドル)、30万人の観客・参加者に作品等を提供。

助成対象となった1,000人のうち62%は「有色のアーティスト(artists of color)」だったという。

さらに文化的多様性を促進するために、ラテンアメリカ・カリブ海とアジアに関しては、双方向の国際交流プログラムを実施している。それぞれ「パフォーミング・アメリカス・プログラム(PAP)」、「アジア・エクスチェンジ」と名づけられている。前者はすでに15年前から実施されていて、24人のラテンアメリカ・カリブ海のアーティストを米国で、同じく24人の米国のアーティストをラテンアメリカ・カリブ海でツアーを実施してきた。

後者は2010年にはじまり、韓国のKAMS(Korea Arts Management Services)、日本のJCDN、ON-PAM、アーツNPOリンクをパートナーとし、国際交流基金、日米友好基金、KAMSの支援を受けて、日韓のアーティストの米国ツアー二回、米国のアーティストの日本における滞在制作を三回行ってきた。

今年は関かおりさんがシカゴで滞在制作を行っている。「アジア・エクスチェンジ」をめぐるセッションではKyoto Experimentの橋本裕介さん、Dance Boxの岩本順平さん(横堀ふみさんが原稿を執筆なさったという)が東アジア・東南アジアの舞台芸術状況に関する紹介もあった。それぞれ、アジアのアーティストたちとのこれまでの共同作業の実績を踏まえ、明確なヴィジョンを提示するもので、質疑応答も活発だった。

これらのプロジェクトには、ラテン系・アジア系のバックグラウンドをもつ米国在住のプロデューサーやアーティストがもつ知見やネットワークを活用する、という意図もある。「パフォーミング・アメリカス・プログラム(PAP)」はマイアミ在住でキューバ系のエリザベス・ダウドさんがコーディネーターとして活躍していて、後者についてはカリフォルニアを拠点とする吉田恭子さんの存在が大きい。(今回私に声をかけてくださったのも、ON-PAM会員でもある吉田さんだった。)

オースティンという町は、今や第二のシリコンバレーとも言われ、急速な発展を遂げている。あるセッションでは、オースティンをモデルとして、ジェントリフィケーションによって、古くから街に住んでいた有色人種(ヒスパニック系とアフリカ系が多い)の貧困層が中心部から立ち退きを余儀なくされていく、という問題をどう解決すべきかについて議論していた。

(参考)TEDxNewYork>貧困層が土地を追われ、よそ者が街を支配する… アメリカで注目を浴びる「ジェントリフィケーション問題」とは

http://logmi.jp/41962

オースティンのNPN/VANのメンバーたちは(自身がヒスパニック系の方も含め)、ここがかつてメキシコの一部だったことを強調していた。米墨戦争で獲得・確保されたテキサスからカリフォルニアに至る旧メキシコ北部に「ヒスパニック系(とりわけメキシコ系)」の住民が多いのは、歴史的にも地理的にも、それほど不思議なことではない(テキサス革命時にはすでにメキシコ系よりもアングロサクソン系の住民の方がずっと多かったわけだが)。問題は、移住者によって新たな共同体、新たな文化が創られていくときに、それまであった共同体/文化に対して十分に敬意を払えるか、ということだろう。

劇場などの文化施設は往々にしてこのジェントリフィケーションの原因の一つを作り(場合によってはまさにそれを目的の一つとして創設される場合も少なくない)、またそれによって恩恵を受けるものでもある。そのことにどこまで意識的になれるか。米国のプロデューサーやアーティストたちがこの問題を強く意識しているのは、人口密度と移動性のちがいもあって、日本よりもこのジェントリフィケーションが急激に進行するケースが多いせいなのかも知れない。

ただし、オースティン市全体のここ半世紀の人口動勢を見れば、白人・アフリカンアメリカンの割合が減少し、「ヒスパニックあるいはラテン系」とアジア系が増える傾向にある。つまり、もともとヒスパニック系の割合はそれなりに多かったが、近年になっていよいよ増えているわけで、その増加率は白人の増加率よりもずっと高い。

2010年の統計によれば、オースティン市の人種構成は、白人68%(非ヒスパニックの白人49%)、ヒスパニックあるいはラテン系35%(メキシコ系29%、キューバ系5%他)、アフリカンアメリカン8%、アジア系6%、アメリカン・インディアン1%。全米の最新統計(白人72%(非ヒスパニックの白人69%)、ヒスパニックあるいはラテン系13%、アフリカンアメリカン13%、アジア系5%、アメリカン・インディアン1%、2014年)に比べても、ヒスパニック系の多さが際立っている。

現在、いわゆる「マジョリティ=マイノリティ州(Majority-Minority States, 非ヒスパニック系白人以外の「マイノリティ」が多数派になっている州)」はカリフォルニア、ハワイ、ニューメキシコ、そしてテキサスの四州だが、2044年には全米で「非ヒスパニック系白人」がマジョリティではなくなるという予測が発表されている。2050年には米国内のヒスパニック系の人口は倍以上になるとの予測もある。

今回一番熱を帯びていたセッションの一つは、ツアー可能なラテンアメリカの作品を紹介するものだった。マイアミではスペイン語演劇の国際演劇祭も行われているという。キューバの対岸に位置するマイアミでは、スペイン語話者が人口の三分の二以上を占めている。米国のメンバーからもスペイン語で質問が発せられたりする。このオースティンでのNPN年次総会は米国の未来を先取りしているようにも見えた。

マイアミ国際ヒスパニック演劇祭(International Hispanic Theatre Festival of Miami/Festival Internacional de Teatro Hispanico de Miami)

http://www.arshtcenter.org/Tickets/Subscriptions/International-Hispanic-Theatre-Festival/XXIX-International-Hispanic-Theatre-Festival/

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テキサス州​オースティン、NPN年次総会と「アイデンティティ」 (1)テキサスとメキシコ/テハスとメヒコ

2016/12/24

困窮した農民たちが新天地を夢見て、次々とメキシコ国境越えていく。アメリカ合衆国からメキシコ領テハス州へ。

・・・というのは1820年代から30年代の話。NPN/VAN(National Performance Network/Visual Artists Network、以下”NPN”と略す)年次総会にご招待いただき、12月2日にアリゾナ州フェニックスからテキサス州オースティンに。これもまた、ニューヨークでは見えていなかった「アメリカ」が垣間見えるいい機会になった。

地元オースティンの劇団プロジェクトテアトロ(ProyectoTeatro)の作品『不法移民たちのために(Por Los Majados / For the Wetbacks)』に寄せられたスタンディング・オベーションが、今回のNPN総会のトーンを集約していたように思える。

2014年に中央アメリカ諸国から何千人もの未成年者が不法移民として国境を越えてやってきた事件の背景を、米国のパナマ侵攻などラテンアメリカ諸国への度重なる介入に探る作品だが、何よりも実際にラテンアメリカ諸国出身の子どもや青年たちが「なぜ米国に来ざるを得なかったのか」を自分のこととして語るのには、心を打たれずにいられない。もちろん誰もがトランプの「壁を作る」発言を思い起こしつつ見ていたのだろう。だが同時に、これだけ強烈に米国の対外政策を批判する作品を、圧倒的多数のNPNメンバーが支持しているのが、ちょっと不思議でもあった。

https://www.fuseboxfestival.com/featured-pr…/por-los-mojados

オースティンはテキサス州の州都で、名前は「テキサス革命」の主導者スティーヴン・オースティンに由来する。1819年の恐慌により、米国の実業家でスペイン王国臣民でもあったスティーヴンの父モーゼス・オースティンは鉱山経営から撤退を余儀なくされ、テキサス(スペイン語の発音はテハス)での植民事業を計画した。1820年、モーゼスはスペイン王国のテハス州知事から公有地払い下げの許可をもらう。

だが翌年1821年にはモーゼス・オースティンが死去し、メキシコは独立。息子のスティーヴン・オースティンはこの事業を引き継ぎ、時々刻々と政情が変わるなか、メキシコ新政府との度重なる交渉を経て、メキシコ国籍を得て、アングロサクソン系の米国人たちをテキサスに入植させた。これには国防上の理由もあった。テキサスはあまりに人口密度が低く、まだアメリカ先住民の支配が及んでいる地域もあった。入植者にはスペイン語の使用とカソリックの信仰が義務づけられた。まもなくテキサスではアングロサクソン系の人口がメキシコ系の人口を圧倒するようになる。

米国南部からの移住者は奴隷を持ち込んでいたが、1829年にメキシコ政府は奴隷制を全面的に廃止した。1833年に大統領に就任したサンタ・アナによる圧政もあり、入植者たちは不満を募らせるようになる。スティーヴン・オースティンは入植者たちを率いてメキシコ軍への反乱を主導するに至る。やがてオースティンに代わり、サミュエル・ヒューストンが軍事司令官としてテキサス軍を率いてメキシコ軍に勝利し、1836年にテキサス共和国が誕生する。

オースティンやヒューストンによる「テキサス革命」は、はじめから十分な勝算があったものではないらしい。アングロサクソン系のテハス入植者たちによるメキシコ政府への反乱は、アメリカ合衆国からの義勇兵の加勢を得てもなお、メキシコ大統領サンタ・アナ将軍自ら率いる騎馬隊に当時の米墨国境近くにまで追い詰められつつあった。メキシコ軍は数でも経験でもテキサス軍に勝っていた。だが、連日の行軍で疲労困憊したメキシコ軍が休息を取っていたところに、ヒューストン将軍率いるテキサス軍が急襲し、混乱したメキシコ軍は潰走。

逃亡したサンタ・アナは翌日捕獲され、ワシントンDCまで連行されて、身の安全と引き替えにテキサス共和国の独立を承認させられることになる。だがそのときにはサンタ・アナは大統領を解任させられていて、メキシコ新政府はこれを認めなかった。これがやがて米墨戦争へと至る火種となっていく。もしサンタ・アナの失策がなければ、もしかしたらアメリカ合衆国がテキサスからカリフォルニアまで拡大することもなく、今もなおメキシコ北部でありつづけたのかも知れない。このオルタナティブな歴史を思い描いたことがあるメキシコ人は少なくないだろう。

このときのテキサス共和国には、コロラド州やニューメキシコ州の大半も含まれている。テキサス共和国初代大統領に就任したヒューストンはアメリカ合衆国への併合を進めようとしたが、合衆国側では、この併合に反対する議員が少なくなかった。その主な理由は、メキシコとの戦争が避けられなくなるという懸念と、新たに「奴隷州」が加入することで「自由州」とのバランスが崩れることだった。併合は独立から9年を経た1845年に、ようやく合衆国によって承認されたが、翌年に米墨戦争がはじまる。そして合衆国が米墨戦争に勝利した結果、メキシコ領カリフォルニアを含めさらに領土を拡大し、今度は「自由州」の拡大を懸念する南部奴隷州の連邦離脱によって1961年に南北戦争がはじまることになる。つまり、テキサス併合はまさに米国が今抱えている人種問題・地域格差問題・国境問題の火種になったともいえる。

テキサス州の人種構成は、2010年の統計によれば、白人70% (非ヒスパニックの白人45%)、黒人・アフリカンアメリカン12%、アジア人4%、アメリカン・インディアン1%弱。ちなみに今回の大統領選挙では、テキサス州全体ではドナルド・トランプが52%の得票で勝利したが、オースティンでは例外的に民主党支持の傾向があり、ヒラリー・クリントンが66%の得票を得ている。

今回の旅では、オースティンでのNPN総会の翌週がメキシコシティでの舞台芸術ミーティングENARTESで、このオースティンの歴史が導きの糸のようになっている気がした。NPNでもラテンアメリカ諸国との交流促進を担う多くのプロデューサーやアーティストに出会い、翌週ふたたびメキシコで出会った方も少なくない。

NPNについてはPerforming Arts Network Japanのサイトに以下の日本語記事がある。

NPNの紹介

http://www.performingarts.jp/J/society/0705/1.html

http://performingarts.jp/J/calendar/201612/s-01761.html

前NPN理事長兼CEO、MK・ウェグマン氏のインタビュー

http://performingarts.jp/J/pre_interview/1104/1.html

写真はアフリカンアメリカン文化を紹介するオースティンのGeorge Washington Carver Museum and Cultural Centerから。

(つづく・・・長くなったので、連載にします。)

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1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(1) フランスの状況と米仏関係

2016/11/02

(改めて断っておきますが、ここで公開しているのは、見たこと、聞いたこと、考えたことなどをなるべくその場で書き留めておいて、あわよくばよくご存知の方に教えてもらおうという位の魂胆ですので、無知にもとづく誤解なども多々あると思いますが、お気づきの方はぜひご教示いただければと思います。というわけで、ちょっとした思いつきを書くつもりだったのに、いろいろ気になってきて、なんだか長くなってしまっていますが・・・)

60年代以降、米仏の演劇の間になぜ溝ができたのか。制作形態の変化がその原因の一つなのではないか。この問題にこだわるのは、今後日本の「公共」演劇がどのような道を取るべきなのかを考えるうえで重要な問題のように思えるからだ。

ニューヨーク大学でのフランス演劇をめぐるシンポジウムにおいて印象的だったのは、「アヴァンギャルド(前衛)」という概念をめぐる意識のずれだった。シェクナーが米国における「アヴァンギャルド・シアター」についての歴史と現状について語り、今日のフランスにはその対応物はあるのだろうか、という問いを発したのに対して、パリ第三大学のジョゼット・フェラルは「前衛という概念自体、今では意味を失っているのではないか」と答えていた。

フェラルはカナダ・ケベック州の出身なので、このときは一般的な話として受け取っていたが、そういえば米国に関しては、とりわけ1960年代~70年代の演劇・ダンスについて「アヴァンギャルド」という言葉がよく使われ、その後もある程度使われつづけている。たとえば邦訳もあるクリストファー・イネスの『アヴァンギャルド・シアター 〈1892-1992〉』(原著1993年刊行)では、少なくとも90年代まで「アヴァンギャルド・シアター」があったことになっている。

Avant Garde Theatre, 1892-1992, By Christopher Innes

https://www.questia.com/library/104687273/avant-garde-theatre-1892-1992

それに対して、フランスでは、この言葉がよく使われたのはベケットら不条理演劇の世代までで、それ以降はあまり使われなくなったように思う。イネスの著作ではジャン=ルイ・バローや太陽劇団も扱われているが、フランスでバローや太陽劇団を「アヴァンギャルド」と形容するのはあまり聞いたことがない。面白いことに、wikipediaの「太陽劇団」(1964年創立)の項目では、フランス語版には「アヴァンギャルド」という言葉が全く使われていないのに対して、英語版では「パリのアヴァンギャルド・ステージ・アンサンブル」という紹介がなされていた。

https://en.wikipedia.org/wiki/Th%C3%A9%C3%A2tre_du_Soleil

フランスでこの言葉が余り使われなくなったのは、理念の問題だけではなく、舞台作品の制作形態の変容にも起因しているのではないか。1950年代までは、フランスと米国の実験的な舞台芸術の生産形式、つまり興行形態にはまだ大きな違いがなかった。フランスにはコメディ=フランセーズという国立劇場があるが、ここは少なくとも20世紀の実験的演劇(商業演劇と区別する意味で、とりあえずはこの言葉を使っておこう)にとって最も重要な場ではなかった。両国とも、1950年代の実験的演劇は主に私立劇場で上演されていた。1950年代、ブロードウェイに新たなビジネスモデルを持ち込んだプロデューサー、ロジャー・スティーヴンズは『ウェストサイド物語』のかたわら、ジロドゥー、アヌイ、ベケットといったフランスの同時代作家の作品を米国の観客に知らしめている(マルテル『超大国アメリカの文化力』p. 59)。これらの作家の作品はパリでも主に私立劇場で上演されていた。

だが1960年代以降、米仏両国で、実験的演劇の製作形態が徐々に変わっていく。パリでも50年代までは私立劇場の役割がきわめて重要だったが、60年代以降、徐々に公共劇場へと比重が移っていく。これを象徴するのが、この時期最も重要な演出家の一人であるジャン=ルイ・バローの動きだろう。ルノー=バロー劇団は1959年に私立のマリニー座を離れて、国立のオデオン座を本拠地とし(1959-68)、それまで私立劇場で上演されていたベケット、イヨネスコ、ナタリー・サロートといった同時代作家の作品を国立劇場で上演するようになる。

ルノー=バロー劇団は、米仏交流においても重要な存在だった。1962年の訪米ではジャクリーヌ・ケネディに迎えられ、公演は米国のメディアでも大きく取り上げられた。1965年にはメトロポリタン・オペラで『ファウスト』を演出している。オデオン座ではエドワード・オールビーやコリン・ヒギンズといった米国の同時代作家の作品も手がけている。そしてバローは1965年から「諸国民演劇祭(Théâtre des Nations)」の運営を担い、1966年にはリヴィング・シアター(同演劇祭には1961年につづいて二度目の参加)を招聘している。リヴィング・シアターとバローとの関係はその後思いがけない展開を見せるのだが、その話は追って。

この1960年代における米仏関係の「近さ」は、今の状況からすればちょっと意外に見えるかも知れないので、少し歴史的な流れを補足しておけば、フランスはもともとヨーロッパで最大の親米国だった。フランス王国はアメリカ独立戦争(1775~83、米国ではむしろ「アメリカ革命American Revolution」と呼ぶ)を支援して参戦し、これがフランス革命(1787~)の直接の原因の一つにもなっている。1803年にナポレオンは広大なフランス領ルイジアナ(現在のルイジアナ州はその一部に過ぎず、現在の15州に及ぶ)を合衆国に売却するが、ここで獲得した領土はそれまでの領土に匹敵するものだった。この時点で、多数のフランス語を母語とする住民が「合衆国民」となったわけだ。19世紀のフランス演劇では「アメリカのおじさん」というのが登場し、突然莫大な遺産を相続してハッピーエンド、という定番があったりもした。「自由の女神」は米国独立100周年を記念してフランスから贈られたものだった。

第一次大戦中にはジャック・コポー率いるヴィユー・コロンビエ座がクレマンソーの意を受けてニューヨークで2シーズンに渡って滞在している(1917-19)。そしてもちろん米国は、第二次大戦でフランスを第三帝国から「解放」した国でもあった。1948年から51年にかけて、マーシャル・プランで大規模な復興援助もしている。パリの中心部にウィルソン通りやルーズベルト通りやあるのもそのためだ。

いろいろ余計なことまで書いてしまった気もするが、要は米仏ともに、一世紀以上にわたって、互いを革命の大義を共有する世界に数少ない同士として認識してきた、ということだ。そして前衛という概念はもちろん、革命と結びついた政治的概念であった。

ド・ゴール政権(1959~69)は米国に対して独自路線の外交を展開したことで知られているが、米国との文化交流は盛んだった。同政権下で、はじめての文化大臣(1959~69)となったアンドレ・マルローはたびたび米国を訪れている。1963年に、ルーヴル美術館学芸員の強い反対を押し切って「モナリザ」を渡米させた際には、ケネディに対して、「(「モナリザ」のリスクよりも)あの日ノルマンディーに敵前上陸した若者達―さらにその前の第一次大戦末期に大西洋を渡った若者達は言うまでもないことですが―のリスクの方がはるかに大きいものでした。大統領閣下、あなたが今夜歴史的讃辞を捧げられてこの傑作は、彼らが救ったのです」と述べている(マルテルp. 36)。マルローはその前年の訪米で「(仏米両国のあいだに)大西洋の文化」というべきものが新たに形成されつつあると感じている、とまで語っている(p. 35)。マルテルはこのマルローを「最も親米のドゴール主義者か、さもなければ最も反共主義者」と呼んでいるが(id.)、少なくともこの世代までのフランス人には、二つの大戦で助けにきてくれた同志、という意識が残っていたのは確かだろう。

オデオン座をコメディ=フランセーズから分離して独立の国立劇場「オデオン座=フランス劇場」とし、バローを支配人に任命したのもこのアンドレ・マルローだった。マルローは1961年に「文化の家(Maisons de la Culture)」を創設するなど、舞台芸術の振興と地方分散化に大きな役割を果たし、その後のフランスの文化政策に決定的な影響を与えた。

もう一人、この時代のフランス演劇の重要人物をもう一人挙げるとすれば、ジャン・ヴィラール(1912~71)だろう。ヴィラールはコポーやジェミエといった前世代の演出家たちから「民衆演劇(Théâtre populaire)」という旗印を引き継ぎ、1951年から1963年まで「国立民衆劇場」(1952年からシャイヨー宮内)を率いていた。国立民衆劇場は1947年に創立されたアヴィニョン演劇祭(当初は「アヴィニョン芸術週間」)とともに「民衆演劇」の拠点となっていく。国立民衆劇場はヴィラール時代には古典の上演が多かったが、次のジョルジュ・ウィルソン時代(1963~72)にはジロドゥー、サルトルに加えブレヒト、ジョン・オズボーンなど、積極的に同時代作家を取り上げるようになっていく。

1965年にはオデオン座のルノー=バロー劇団もアヴィニョン演劇祭に参加するようになる。バローが「前衛」の場から「民衆演劇」の場へと移行できる状況が完全に整ったのがこの時代なのだろう。このあたりで、フランスにおいては、「(国立劇場による)公共の演劇(théâtre public)」と「民衆演劇(théâtre populaire)」、さらには「実験的同時代演劇」がだいぶ重なるようになってくる。このなかで、多くの演劇人に共通の旗印として選ばれていくのが、最も曖昧な「公共の演劇(théâtre public)」という概念だったのだろう。この時代のフランスの状況においては、ほぼ「公共劇場」=国立劇場であり、publicには「公立の」という意味もあるが、さらに「観客/公衆(public)のための」という含意もあり、「民衆的な(populaire)」にきわめて近い意味でも解釈しうる。1974年に演出家ベルナール・ソベルが「テアトル/ピュブリック(Théâtre/public)」誌を創刊するが、この時点ではソベルはまだ自ら創立した劇団「ジェヌヴィリエ演劇アンサンブル」の代表に過ぎなかった(この劇団が国立演劇センター「ジェヌヴィリエ劇場」になるのは1983年)。間に/があるのは、「公立劇場」についての雑誌なのではなく、むしろ演劇の「公共性」を問題にする雑誌だ、ということだろう。

話が長くなり、少々先走ってしまったが、要はフランスにおいては1960年代に「前衛」よりも「公共の演劇」という旗印の方が重要になっていく文脈が成立しつつあった、ということのようだ。

これにはおそらく1968年に起きたことも関連してくるのだろうが、まずは、とりあえずこのあたりで・・・。次回は米国の状況を。

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「世界演劇」とは何か

2016/10/30

「世界演劇」とは何か。「世界で認められる」といったときの「世界」とはどこか。

ACCのリサーチテーマは「アジアの舞台芸術の同時代性とパフォーマンス・スタディーズ」としたのだが、アジアの舞台芸術を「世界」の舞台芸術のなかにどう組み込めばいいのか、ということを考えるには、まず「世界」とは何か、ということを、もう少し細かく知っておく必要があるように思われてきた。

20世紀においては、もちろんそれは欧米のことだった。今世紀になって、特に現代美術においては中国市場が急激に膨張し、「世界美術」市場の地図はここ10数年で大きく変化してきた。「世界演劇」市場(というものがあったとして)においては、アジアにおける演劇祭も数多くなり、アジアの同時代作品が他の地域で取り上げられることも増えたとは思うが、美術に比べると、アジアの比重が劇的に大きくなったわけではないように思う。

ニューヨークに来たかったのは、最近アジア太平洋地域に行ける機会が少しずつ増えてきて、フランスやドイツでは取り上げられることがないようなアジアのアーティストや作品、西ヨーロッパとは異なるネットワークが存在する、ということを実感するようになってきたからだ。たとえば英国からインド、マレーシア、シンガポール、オーストラリア、ニュージーランド、カナダまでを含む旧英連邦のネットワーク。だが同じ英語圏でも、ニューヨークはさらに異なるネットワークに属しているように思われる。ヨーロッパのみならずアジア太平洋からアフリカまで、世界中ほとんどの地域と独自の回路をもち、多くのアジア人がここで舞台芸術を学んでいる。歴史的には日本や韓国、フィリピンとの結びつきも強い。

これらのネットワークは、互いに重なり合いつつも、まだかなりの程度独自性を保っている。それぞれのネットワークの独自性、共約不可能性は、作品をめぐる価値観の違いにあるようだ。そしてそれはある程度、作品の制作形態に依存するのではないか。・・・というのが、今のところの仮説だ。なので、米国における舞台芸術の制作形態について、もう少し知りたいと思っている。

ニューヨーク大学でのフランス演劇をめぐるシンポジウムで話を聞いたりして、最近分かってきたのは、米国とフランスでは舞台作品を評価する基準が微妙に異なるということだ。とりわけ1960年代を境に価値観の亀裂が生まれているように思われる。たとえば1950年代には米国はフランスの「前衛演劇」(ここではとりわけベケットやイヨネスコなどの「不条理演劇」)を積極的に受容でき、1960年代には両国の舞台芸術が驚くほどに交叉する状況があるが、1970年代以降、米国で知られるフランスの演劇人は少なくなっていく。なぜなのか。ラ・ママやジャドソン・ダンス・シアターの話を聞いて見えてきたのは、この1960年代に、米仏両国の舞台制作状況が大きな転換を遂げたということだ。というわけで、これから少し米国の1960年代の製作事情を見ていきたい。1960年代のアーティストたちはどこから製作資金を調達していたのだろうか。

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米国の文化団体の「理事会」と寄付文化について

2016/10/26

米国の文化団体の「理事会」と寄付文化について。

なにしろはじめての米国長期滞在なので、何から何まで驚くことばかりなのだが、アメリカの文化団体の「理事会」というものの話も、ちょっと驚いた。例えば、ニューヨークの比較的若手の演劇集団に関する論文を読んでいたら、昨年理事の一人から、運営資金として匿名で4万ドルの寄付を受け、それによって制作者一人がアルバイトをやめて専属で働けるようになった、という話が出てきた。日本でもフランスでも、劇団や劇場の「理事」が400万円の寄付をした、という話は聞いたことがない。論文でも特筆されていたので、アメリカの若手劇団事情においてはそれなりに特殊な例ではあるのだろうが、対象と金額はともかくとして、少なくとも理事が寄付をするということ自体は「普通のこと」らしい。

以下、フレデリック・マルテル『超大国アメリカの文化力』(根本長兵衛他監訳、岩波書店、2009、p. 370-373)から。

「非営利文化団体の中枢にあるのは「理事会(ボード)」である。大美術館であろうと小さな劇場であろうと、この「理事会」が組織に対して責任を負い、無報酬で運営に当たる。裕福な寄付者はその財産と時間を文化団体に捧げ、ときには団体の運営力を注ぐあまり、その後半生全てを捧げてしまうこともある。

「理事会」のメンバー(理事)は、まず第一に、団体に多大な寄付をする人々なのであり、たいていはそれぞれの寄付可能額に応じて「理事会」の一員に選ばれている。「理事会」において、寄付は寛大さや善意に基づいて自由に行う行為ではなく、それは義務である。「ピア・プレッシャー」、すなわち仲間からの圧力。まさにこの表現がぴったりだ。・・・メトロポリタン・オペラの「理事会」に入るには毎年少なくとも二五万ドルの寄付をしなくてはならない・・・ニューヨーク・シティ・バレエの推奨額は控えめだが、それでも二万五〇〇〇ドルの寄付が必要だ。理事会のトップである理事長には、通常他の理事をはるかに上回る寄付が求められる。寄付額がずば抜けて多いことが理事長という肩書きを正当化するのであり、たいていは寄付額が多いことでその文化団体の「理事長(チェアマン)」という栄えあるポストに任命されるのだ。理事たちはそれぞれが模範となるべき寄付を行うが、それ以外の「資金集め(ファンドレイジング)」も彼らの重要な職務となっている。自分たちの人脈やネットワークを絶えず利用して、キャンペーンを張って資金を集め、そして自分たちが運営する文化団体のために寄付を蓄えていく。彼らは資金を見つけてくるからこそ、権力を持つことができるのである。

こうした理事会では、徹底した合議制に基づいて、文化団体の責任者の人選や給与の問題から、資産の投資・運用、団体の事業計画の大枠作りに至るまで、あらゆる問題を決めていく。したがってこの理事会に参加することはヴォランティア活動だが、重大な責務を課せられることになる。理事たちは時間や金銭面での重い負担を無報酬で引き受けている。通常、劇場の理事であっても観劇には入場料を払わなくてはならないし、美術館の理事でも入場券や館内レストランでの夕食は自腹を切らなくてはならない。こうしたものが寄付に対する特典として提供される場合には、それに相応する金額は税控除の対象から外れる。結局、理事は寄付者でもあり、ある意味で彼ら自身の資金の管理を任されて任されることになるわけで、それゆえ理事会に参加する事は重大な責任を伴うのである。

・・・「理事会」に参加する大半は権力の「転売」をするような、「影の実力者(パワー・ブロウカーズ)」とも呼ばれる金持ちであり、それぞれの地元で突出した資金力を誇る有力者たちなのだ。…地域の美術館や市の図書館の理事長に選ばれることでその人物が社会的な名声を獲得し、その地方で一つの成功遂げたことが誰の目にも明らかになる。」

先ほどの演劇集団の例は匿名ではあるが、少なくとも理事会のメンバーたちはそれが誰なのかを知っているはずだ。この寄付は、地方都市の名士のように、いわゆる「社会的な名声」を求めたものではないだろうが、少なくともそこには「私がこの文化活動を支えているのだ」という自負はあるのだろう。

私も昨年から舞台芸術制作者オープンネットワーク(ON-PAM)という団体の「理事」をやらせてもらっているが、時間は多少使っているはものの、「では年間100万円を基準にご寄付をお願いします」といわれていたら、到底引き受けられなかっただろう。そういえば、例えばパブリック・シアターやブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージック(BAM)など非営利の(大まかにいえばブロードウェイ以外の)劇場でやっている作品のチケットを買おうとすると、よく「何ドル寄付をする」という項目が出てくる。場合によっては、デフォルトで20ドルなり寄付をすることになっていて、しないのであればその項目を外す、という仕組みになっていたりする。日本人の感覚からすれば、なんで2,000円のチケットを買ってさらに2,000円寄付しないといけないのか、と憤慨しかないところだが、この仕組みは、非営利の文化事業がそもそも有志の寄付によって成り立っているものであり、それがなければ、本来はこのような「安価」で当該のイベントを享受する事はできないのだ、ということを意識させるものでもある。このような非営利の劇場には、「資金開発部(デヴェロップメント・デパートメント)」というのがあり、いわゆるファンドレイジングを主な業務としている。

ファンドレイジングの手段としては、通常の寄付とは別に、イベントによるものもある。ちょうど昨晩、私がグラントをいただいているアジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)のカクテル・パーティー+オークションというイベントがあった。私たちグランティーはもちろん無料で参加できるのだが、一般参加者の参加費は175ドル。メインイベントは1969年のグランティー篠原有司男さんによるボクシング・ペインティング。オークションでは、ACCの元グランティーが寄付した絵画・彫刻などの作品が参考価格2,000ドル程度から購入できることになっている。先日退官されたNYUの先生のためのガラ・コンサートは参加費750~1,000ドル。それなりの身分になると、日本の結婚式よりお金がかかるようなイベントにも顔を出さなければならないようになっているのだろう。

マルテルによれば、この仕組みはとりわけ1917年に制定された税法「内国歳入法五〇一条C項三」によって、非営利文化団体が「公共の慈善団体」として、寄付の税控除が認められるようになったことに由来するという(p. 366-367)。つまり、米国においても、これはちょうど一世紀以上をかけて作り上げられてきたシステムであり、これをそのまま日本に導入したところで、とりわけ今の経済状況の中で、到底同じような結果を期待することはできないだろう。何よりも、この仕組みが機能しているのは、財界人や一般の観客のうちに「文化を支えているのは自分たちだ」という意識を作ってきたことによるのだから。

このような仕組みがあるのは、米国では政府は芸術にお金を出さないからだ、という説明もされるが、実のところ、米国でも「政府」が全くお金を出していないわけではない。その話はまたいずれ・・・。

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カテゴリー: ACC 文化政策

フランスの単一言語政策と米国の複数言語政策について、あるいは二つの普遍主義について 2016年12月31日

2016/10/22

ちょっと話が戻るが、ニューヨーク大学でのフランス演劇に関するシンポジウムの話のつづき。フランスの単一言語政策と米国の複数言語政策(?)について、あるいは二つの普遍主義について。

フランスのアーティストから、「フランスは常に「受け入れの地(la terre d’accueil)」だった。フランス共和国の理念からも、フランスはもっと難民を受け入れるべきだ」という話があったのに対して、在米フランス大使館文化部の方から「シリア難民向けにその母語で舞台を提供するという計画はあるか」という質問があった。すでに30年以上ニューヨークに住んでいるフランス人。これに対して、フランスから呼ばれたフランス人アーティストの多くは「難民は数ヶ月でフランス語が話せるようになるので、フランス語で問題ない」という立場だった。これはフランスと米国の「普遍主義」のちがいを象徴しているように思えた。

最近知ってちょっと驚いたのだが、アメリカ合衆国にはなんと国語も公用語も存在しない。州単位では、英語を公用語としているところも結構あるが、連邦単位ではそのような規定はない。つまり、アメリカ合衆国の国民は、必ずしも「英語を話せる人」として定義されているわけではないのである。たとえばハワイ州、ルイジアナ州、ニューメキシコ州などには、公式あるいは事実上の第二公用語(ハワイ語、フランス語、スペイン語)がある。米国は建国以来、英語単一主義と複数言語主義(近年の用語ではEnglish OnlyかEnglish Plusか)のあいだで揺れてきたが、連邦単位では今に至るまでついに英語単一主義に関する合意を形成できなかったため、結果として、フランスに比べればはるかに複数言語の使用が認められているわけである。ニューヨークではスペイン語や中国語などで書かれた広告や掲示をよく見かける。中華街に行けば、中国語だけで書かれた中国系の地方議会議員候補のポスターがあったりする。このような掲示はフランスではまず見たことがない。フランス語の保護をうたうトゥーボン法(1994年制定)に反する行為だからだろう。(ですよね?詳しい方がいたら教えてください。)

米国の言語政策については、たとえばこちらを参照

http://www.yoshifumi-sato.com/old_html/note/backnumber/note1.html

http://user.keio.ac.jp/~rhotta/hellog/2013-11-09-1.html

また、翻訳に関するパネルで、「ドイツ語の方言をフランス語の方言に置き換えて翻訳することはできない、たとえばミュンヘン方言をマルセイユ方言にしてみても滑稽なだけになってしまう」という話があった。連邦制でもともと地方ごとの自立意識が強いドイツにおいては、それぞれの地域において、その地域特有の言葉が一定の誇りと郷土愛をもって話されているのに対して、フランスでは必ずしもそうではない、といったところだろう。

こういった話を受けて、フランス・フランス語圏の劇作家たちに、「フランスにおける単一言語主義政策に対して疑念をもったことはないか?」と質問してみたが、この問いにまともに答えてくれたのは、アルザス語・アレマン語も話されているストラスブールの出身でドイツ語戯曲の翻訳をしている方くらいだった。彼はフランスがEUで唯一「ヨーロッパ地方言語・少数言語憲章」を批准していないことを指摘してくれた。だが、それに対して他の劇作家たちから何の反応もなかったところを見ると、フランスの多くの演劇人にとって、これは大きな問題とは捉えられていないのかも知れない。実はフランスにおいても、フランス語を国民全員に話させる、ということは、「全国」単位で見れば、それほど古い話ではない。むしろ17世紀から推し進められているフランス語パリ方言への同化政策、つまり地方言語・方言を圧殺していく政策が今なお推進されているということである。(ドーデ「最後の授業」が、実はドイツ語に近いアルザス語を母語とするアルザス人にとってはかなり複雑な話だった、等々。)他方、EUが「地方語の保護」を打ち出すのは、ヨーロッパ全土における「言語の統一」は現状において政治的選択肢とはなりえないからでもある。

フランスにおいては公式には民族による差別は否定されているので、フランス語がフランス王国だけでなくフランス共和国の国語ともなったのは、少なくとも理念的には、それが特定の民族の言語だからではない。むしろ、それが革命の理念である啓蒙主義を胚胎した言語だからであり、革命後の公教育において共和国の理念を全国に広めた媒体だったからである。フランス語ができればルソーやヴォルテールを読むことができる。つまり有り体にいえば、共和国の理念にアクセスしやすい言語と、そうでない言語があるということだろう。逆にいえば、アルザス語、ブルトン語、コルシカ語等々を長年にわたって公教育から排除してきたのは、それが共和国の理念の媒体ではなかったからだ。

「フランス語」問題についてフランス人に質問すると、まずはじめに返ってくる返答は、(アメリカのように)公の場で複数の言語を使用することを許容してしまうと、それぞれの言語にもとづく共同体(たとえば「チャイナタウン」やアラビア語などの共同体)ができ、共和国が分断されてしまう、というものだ。この議論は革命期のジャコバン派の政策に由来する。1790年の時点では、正確な「国語」を話せる者は人口の1割超に過ぎなかったといわれる。革命政府は一度同年に「言語の自由」を宣言するが、やがてジャコバン派主体の革命政府は、地方の反革命派が反旗を翻しつづけているのを見て、それを撤回していく。このあと推進されていく単一言語政策の論拠は、以下のベルトラン・バレール(1755-1841)の言葉に集約されているといってよいだろう。

「最初の国民議会で採択された法令をフランスの方言に翻訳するのにどれほどの出費を要したことか。まるで、我々の方がこうした野蛮な、わけの分からない言葉、下品な方言を擁護しているようではないか。こうした方言なぞ狂信者や反革命主義者にしか役に立たないというのに!」

(以下より)

大場静枝「フランスの言語政策と地域語教育運動-ブレイス語を事例として-」

https://www.waseda.jp/inst/cro/assets/uploads/2010/03/b85db14613fbec321910ced448fe48a0.pdf

つまり、ここでは1)国語としての「フランス語」以外の(多くの場合筆記言語としての普及率が低い)言語において「理性的」な思考とコミュニケーションが可能か、という問題と、2)複数言語コミュニケーションにおける経済効率の悪さという問題が提起されているわけである。

私もフランスにいる間は、この「共同体主義(コミュノタリスム)を防ぐ」という理屈にある程度納得していたが、ニューヨークに来てみて、本当に共同体主義はそんなに悪いものなんだろうか、と自問するようになってきた。少なくともニューヨークの状況を見ていると、複数言語の使用によって決定的に分断された共同体ができてしまっているかというと、そうも思えない。たしかに中国語を母語とする移民は、チャイナタウンに住み、中国語だけ話して生きていくことも可能ではある。だが、中国語でも地方語を母語とする場合には、北京語を学ぶよりもむしろ英語を学ぶ人も多いだろう。本当に英語を全く話さずに暮らしている中国人がそれほど多いとは思えないし、米国の中華系移民の英会話能力がフランスの中華系移民のフランス語会話能力よりも平均的に劣っているという気もしない。ニューヨークの街中を歩くカップルを見ていれば、「同じ民族のパートナーを選ぶ」という傾向が特に強いようには思えない。この米国の言語政策が見せるある種の鷹揚さの背景には、英語の経済・文化面における圧倒的な優位もある。移民の子どもたちも英語のテレビドラマとハリウッド映画を観て育ち、就職のために英語によるコミュニケーション能力を磨く。そのため、とりわけ二世代目以降は「異人種間結婚」の割合も高い。ただ、米国が歴史的に共同体主義を許容してきた背景には、言語の問題とは別に宗教的共同体の問題があり、さらには黒人問題もある。このあたりも考えに入れなければ、フランスがなぜ共同体主義を断固として拒否してきたのかが見えてこないだろう。

米国の場合はともかくとして、フランスの場合、「地方語」の問題と「異国語」の問題は一応分けて考えてみよう。フランスにおいて、いわゆるフランス語を話すことが異国の出身者を受け入れる際の条件となっていったのは、おそらく17世紀以降だろう。16世紀までは、他国出身の知識人がフランスを拠点にラテン語で教え、著作する例は多かった。演劇史においては、17世紀にイタリア語でコメディア・デラルテを上演していたイタリア人劇団が追放されていったことは「フランス語演劇史」において重要な出来事だったといえる。一方でやはりイタリア出身のジャン=バティスト・リュリ/ジョヴァンニ・バッティスタ・ルッリは、フランス語をマスターし、フランス語特有のリズムを重視したオペラをつくることで、宮廷で生き残ることができた。そして18世紀にふたたびフランスに戻ってきたイタリア人劇団も、フランス語での上演を余儀なくされていく。これらの出来事を解釈するうえで知っておくべきなのは、16世紀以来フランス語が「国語」と規定されてはいても、フランス王国「臣民」のなかには、とりわけ東部・南部国境付近ではイタリック語派の言語を話す人々が少なくなかったということである。

そもそも、異国語を話す他者を受け入れる際に、自らの言語を話すことを受け入れの条件とすることは、「歓待」の論理として、本当に正当なのだろうか。フランス語を話す人のみを「共和国の理念を共有できる人」として受け入れる、という話になれば、マリーヌ・ル・ペン以降の国民戦線のアイデンティタリスム的な路線とさして大きく違わないところに落ち着きかねない。フランスの単一言語政策は、本当に「理性」に基づくものなのか。あるいはむしろ異国語を話す共同体へのほとんど動物的な恐怖を、疑似論理で正当化したものに過ぎないのだろうか。

もう一つ、フランス人がもちだすのは、政治的合意を成り立たせる「対話」が困難になってしまう、という理屈だ。だがよく考えてみると、多言語の国においては対話によって共和国あるいは民主主義国家を成立させることはできないのか、というと、そんなこともないはずだとは思う。民主主義なり共和主義なりといった理念が一つの言語を超える普遍的なものなのだとすれば、もちろん効率は悪くなるだろうが、翻訳を通じての対話は可能なはずだろう。少なくとも、国会においても同時通訳が不可欠なインドという例はある(「対話」がうまくいっている例として適切なのかは難しいところだが)。

より原理的には、共和国の理念の普遍性と単一言語政策のあいだには矛盾があるように思われてならない。共和国の理念が言語を越えた普遍性を持っているのであれば、それはいかなる言語にも翻訳可能でなければならない。たとえばフランスにおける共和国の理念が普遍的かついかなる言語にも翻訳可能なもので、言語よりも重要なのであれば、シリア難民にフランス語を教えるより先に、まずアラビア語シリア方言で共和国の理念を共有してもらった方がいいかも知れない。そして、通訳や翻訳を通じた対話や政治参加も原理的には可能だろう。一方で、もしある言語でしかうまく表現できない思想があるのだとすれば、そして、共和国においてはあらゆる思想を表明できるべきなのだとすれば、あらゆる言語を尊重すべきだということになる。

もちろんこの単一言語政策は、日本の近代化において推し進められていった政策でもある。アイヌとして初めての国会議員となった萱野茂さんが、1996年に国会においてはじめてアイヌ語で質問したときのことを、今でも忘れることができない。今となってはアイヌ語を母語とする話者はかなり少なくなっているようだが、翌年成立した「アイヌ新法」や最近の北海道新幹線開通にも関わらず、近年は「全国」単位でアイヌ語問題が取り上げられる機会がほとんどなくなってしまった気がする。

萱野茂さんの質問

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/131/1020/13111241020007c.html

Cf. 佐藤知己「アイヌ語の現状と復興」(2012)

http://www.ls-japan.org/modules/documents/LSJpapers/journals/142_sato.pdf

なんでここまで「国語」の問題が気になるのかというと、日本のように単一言語政策が極めて成功してきたところにいるとなかなか気づかないが、演劇が結果的にせよ単一言語政策の媒体として機能してきたという現実があるからだ。言語を使用する演劇作品の潜在的観客数は、その言語の話者数によって規定される。当然多くの場合、その予算規模もそれに相関する。演劇作品が後世に残るか否かについても、観客数や予算規模、そしてとりわけ、それが筆記言語であるか否かに依存する部分が大きい。となると、演劇にとってはどうしても複数言語政策よりも単一言語政策のほうが有利になりがちなのである。これは、演劇が「国民国家」という制度とともに発展してきた理由でもある。だが、国民国家という制度自体を問わなければならない時代になったとすれば、演劇を成り立たせる仕組みにも問いを向けなければならない。

「国語」は社会階層の問題でもある。フランスの小児科で働いている友人がある時、「正書法というのは文化的エリートとそうでない人を区別するためにあるんじゃないか。履歴書やモチベーションレターでは、綴りを間違えていないかによってフィルターがかけられる。バカロレアでも一緒だ」と話していた。正書法というのは、たとえば日本語でいえば「こんにちは」を「こんにちわ」と書いたら間違い、というたぐいのものだが、日本語の仮名遣いや漢字と一緒で、フランス語のつづりにもいろいろややこしい規則や例外がある。この正書法はフランスでは首相が議長を務め、アカデミー・フランセーズ会員などが加わる「フランス語高等審議会」が決めている。いくら頭が良くても、この正書法をマスターしていないと、なかなかエリート層にはアクセスできないわけだ。フランスで劇作家として生き残っていくには、この正書法をきちんと身につける必要がある。これに疑いを持ち、拒否するような人が劇作家として生きていける可能性は非常に低い。フランス演劇についてのシンポジウムでも話に出たが、ジュネは以下のインタビューで「私の拷問者たちと呼ぶべき階層によく知られているフランス語で書く必要があるのです。俗語を使えるのはブルジョワの作家だけなのです」等々と語っている。

http://www.lepetitcelinien.com/2011/12/jean-genet-propos-de-celine-et-largot.html

だが、ジュネの特異な言語をもってしてもなお演劇は「正しい国語」を流通させることに資するものになりうるのだとすると、それはそれで、このシステムから逃れることの困難をいよいよ実感させられるものでもある。

・・・こんなことを一人で考えていたのだが、あとで、アメリカのフランス文学研究者が、「私もフランスにおけるフランス語単一言語政策は、一種のモノテイスム(単一神信仰)だと思う」と話しかけてくれて、ちょっと救われた気がした。

(追記)

この問題が語りにくいのは、それがいわば近代国家の原罪のようなものだからだろう。実際問題として、例えば明治期の日本は「西洋列強」に倣ってなんとか「国語」をつくることに成功したわけだが、もしそれが成功せず、薩摩と九州、東京と京都で異なる言語が使われつづけていたとすれば、植民地化を免れえなかったかもしれない。

一方、明治6年の時点で、留学から戻ったばかりの青年森有礼は、日本語の口語は近代化を遂げ、西洋列強と互角に渡り合うには貧しすぎる、と考えていた。このとき森が考えたように英語を「国語」として採用していたら、「日本」という国の形もかなり異なるものになっていただろう。森がそのような提案をなしえたのは、ヨーロッパ以上に米国での経験が大きかっただろう。ベネディクト・アンダーソンによれば、ヨーロッパにおける国民国家形成においては「国民的出版言語」が大きな意味をもったのに対して、それにほぼ先行するアメリカ合衆国を含む南北アメリカの「クレオール国家」の独立運動においては、言語を共有する「本国」からの分離を要求するものだったので、言語問題は争点とはならなかった(『想像の共同体』第4章~第5章)。南北アメリカの分離運動において、焦点はむしろ出生地にあった。「アメリカ人」とは、なによりもまず、(多くはかつて「クレオール」と呼ばれていた)アメリカ大陸で生まれた人々のことなのである。米国の国籍方が出生地主義を取るのもそのためだろう。幕末に薩摩藩士として18歳で渡英し、3年間の日本滞在を経てふたたび外交官として米国に渡っていた森にとって、「日本諸語」の現状はほとんどクレオール的なものに見えたのかも知れない。

このような規模・効率・「国際」的力関係といった問題は、原理的問題とは別として、もちろん、今何が可能か、ということにも関わってはくる。しかしこれだけを教訓に今後100年の道筋を考えるのは誤りだろうし、ここから「演劇が何を問題にすべきか」を演繹すべきでもないだろう。

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