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当事者性と「世界」 2020年9月4日

内野儀先生の「日本の演劇についていま考える「枠組み」も考えてみる(2) 実験とかコミュニティとか:リチャード・シェクナーから小劇場演劇へ」という話を一昨日うかがい、ここ二十年くらいもやもやしていたことが、少し輪郭を持ってきた気がする。

2016年にACC(アジアン・カルチュラル・カウンシル)のグランティーとしてニューヨークに滞在させていただいたが、ニューヨークに行きたかったのは、フランスで学んだ演劇学・演劇史がかなり狭いものに感じていたからだ。その前にアジアセンターのグラントで東南アジア三カ国視察に行かせていただいたとき、東南アジアの多くのアーティストがヨーロッパではなく米国で、演劇学ではなくパフォーマンス・スタディーズを学んだことを知って、ニューヨークに行けば、アジアのことをもっときちんと考えられるのではないかと思っていた。

だが実際に行ってみたら、ニューヨークではアジアのアーティストがあまり活躍しておらず、正直ちょっとがっかりした。パフォーマンス・スタディーズも、アジアのことよりも米国内のアジア系アメリカ人のことにばかり一生懸命で、なんだか視野が狭い感じがした。しかし、この半年ほどの米国滞在は、今日の舞台芸術の枠組みをめぐる問題に取り組む大きなきっかけになった。

ニューヨークに行く前に知っていたパフォーマンス・スタディーズといえば、リチャード・シェクナーくらいだった。シェクナーはACCの支援も得て、日本や中国からパプアニューギニアまでアジア中をリサーチし、それが「演劇」にとらわれない「パフォーマンス」一般についての新たな学問分野を切り拓くきっかけの一つになった。ニューヨーク大学でシェクナーの最後のセミナーに参加できたことは、本当に得がたい経験だった。だが、そのニューヨーク大学でも、シェクナー的な視野でパフォーマンス・スタディーズに取り組んでいる研究者はいなかった。

一昨日の内野先生の話で、1980年代のニューヨークでの経験とドワイト・コンカーグッドの話を聞いて、なるほど、と思った。1986年に内野先生がニューヨーク大学にいらした時には、「自己省察性(reflexivity)」がキーワードだったという。要は「自分のことを省みろ」「他人の話をする前に、自分がどの立場から言っているのかよく考えておけ」ということらしい。

「未開の地」がなくなっていき、ポストコロニアリズムを経過して、パフォーマンス・スタディーズの重要な基盤の一つだった文化人類学は大きく変容していく。そこで出てきたのが、シカゴのノースウェスタン大学でパフォーマンス・スタディーズを教えていたドワイト・コンカーグッド(Dwight Conquergood)だった。コンカーグッドはタイのモン族のヒーラーを対象にフィールドワークをしたのがきっかけで、モン族難民の権利の擁護にアクティヴィスト的に関わっていく。そして地元シカゴの問題に取り組むため、移民貧困層が多いリトル・ベイルートに住み込み、ギャングたちの相談に乗りながらリサーチを進めていく。コンカーグッドは55歳で亡くなるまでそこで暮らしていたという。いわば自分をむりやり地元のギャングたちの問題の当事者にしてしまったわけである。

これがパフォーマンス・スタディーズのその後の流れに大きな影響を与えることになる。私がノースウェスタン大学のパフォーマンス・スタディーズ科で話を聞いた時にも、今の学生のフィールドワーク先の多くはマクドナルドのアルバイトや地元の会社の新人研修で、タイやパプアニューギニアに行くような学生はほとんどいないとのことだった。ベトナム戦争、イラク戦争を経て、米国が内向きになっていったことも関係しているのだろう。米国滞在中、ちょうどトランプ政権の成立もあり、「世界」のことよりも足下の問題を見つめろ、という風潮を強く感じた。世界中のあらゆる地域からの移民がいる米国にいると、あたかもそこで「世界」が見えるような気がしてしまうこともあるのかもしれない。

この流れが今の東京の小劇場演劇にもつながっている、という話をするはずだったようだが、一昨日は少し触れただけで終わってしまった。しかし1980年代のニューヨークでキーワードだった「自己省察性(reflexivity)」という問題意識が、今の「当事者性」をめぐる問題につながっているのは間違いないだろう。1990年代以降の「現代口語演劇」も、「自分の足下のリアリティーを大事にする」という意味ではつながっている。現代口語演劇的なものへの共感と違和感、太陽劇団的なものへの共感と違和感がどこから自分に流れ込んできていたのか、少し見えてきた。

翻って自分の研究のことを考えると、「自分の問題」から出発しつつも、良くも悪しくも、これまではヨーロッパ的な普遍主義・客観主義のなかでやっていかざるを得なかったのだと思う。歌と踊りを排除した「近代劇」なるものがなぜヨーロッパで生まれ、そこで作られた基準がアジアにおいていかに身体性を抑圧してきたのか、ということを見つめることで、「近代劇後」「ヨーロッパ後」の舞台芸術のために何をすべきかを考えてきたつもりだが、話を大きくすればするほど、遠い地域の話、昔の話をすればするほど「当事者性」が薄くなっていくところはある。

だが舞台芸術の国際事業に関わっている立場からすると、この枠組みの問題はまさに当事者性をもった問題でもある。それに関わってこられたのは幸運なことだと、今にして思う。

今は足下を見つめなおす時期だと思いつつも、足下だけを見ていると見えないこともある。もう少し遠くのほうも見ておきたい。

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「舞台芸術」のフレームワーク問題について ~2030年代に向けて~ 2018年7月24日

「舞台芸術」のフレームワーク問題について ~2030年代に向けて~

(ON-PAM政策提言調査室での国際交流をめぐる議論のためのメモ)

「舞台芸術」のフレームワーク問題、というのは、たとえば22世紀に、今私たちがやっていることが語られる枠組みは何なのだろうか、といった問題です。それは「演劇史」ではないかも知れないし、もしかすると「舞台芸術史」でもないかも知れません。

というと、ずいぶん先のことだと思うかも知れませんが、私はこれから2030年代までが、この先どんなフレームワークが世界的なものになっていくかを決定づける重要な時期だと考えています。

「演劇」という概念にそろそろ賞味期限が来ているのではないか、と思っている人は少なくないと思います。今我々が使っている演劇という概念は、基本的には明治時代に西洋のtheatre/Theater/théâtre・・・といった概念の輸入語として使われるようになったものであり、そのもとをたどれば、16世紀から19世紀に西ヨーロッパで形成されてきた概念です。

西ヨーロッパの近代において、演劇theatre、ダンスdance、オペラoperaという3つのジャンルが、それを上演する仕組みと、そのための人材養成の仕組みとともに、制度として形成されてきました。この西欧近代における演劇の定義は、ジャンル規定は、歌と踊りの排除を基準としている以上、他の地域、他の時代の舞台芸術には必ずしも当てはまりません。この話劇としての近代演劇の起源として、いわゆる「演劇史theatre history」なるものが書かれるようになり、そこに古代ギリシアにあったtragoidia, comoidiaといったジャンル(これらのジャンルはtheatronと呼ばれてはいませんでした)や16世紀以前のpassionmystère(「受難劇」、「聖史劇」などと訳されます)といったものが、改めてtheatreとして語られるようになりました。

そして20世紀の後半になって、ようやくこの演劇やダンスといった分類、制度そのものを見直そうという動きが出てくる中で、今我々が語っている「舞台芸術英:performing arts / 仏:arts du spectacle」という言葉が使われるようになってきたわけです。でもこの言葉も、本当に適切な、あるいは有効な言葉なのかどうかは、もう数十年吟味してみる必要があるでしょう。

そもそも、この言葉に対応する西洋語については、英語とフランス語で、だいぶ語義が違っています(他の西洋語についてはよく知りませんが)。

英語の方には、とりわけ1970年代以降にはパフォーマンス・スタディーズ(パフォーマンス学)の影響があります。そして、この「パフォーマンスperformance」という概念は、「舞台芸術」という概念に代わり得る概念でもあります。

1980年代以降、演劇やダンスといった概念自体を見直そうという動きの中で、少なくとも西洋において、この2つの概念は、いわば競合関係にありました。

この2つの概念の大きな違いは、舞台芸術という概念は近代西欧において形成された「芸術art」という概念、そしてその芸術のうちの「ジャンル」という概念(そしてモダニズムにおけるジャンルの固有性・純粋性という概念)をある程度温存する志向を持っているのに対して、リチャード・シェクナーが提唱した「パフォーマンス」という概念は、むしろそれを解体する志向を持っていました。

ヨーロッパにおいては、「舞台芸術」に対応するarts du spectacleといった言葉が、オペラ・演劇・ダンスだけでなく、サーカスやストリートアートまでを含むものとして使われるようになり、さらに各ジャンルが拡張されて、また「複合領域的なもの」をも包含しうるものとして使われるようになりました。「パフォーマンス」という概念が非英語圏ヨーロッパにおいて普及しなかった理由としては、近代的「舞台芸術」各ジャンルが制度として強固に確立していたことだけでなく、performanceという言葉が英語特有のもので、他の西洋語に対応する言葉が見出しにくいという事情もありました。ヨーロッパで「タンツテアター」や「ポストドラマ演劇」のような言葉が流行したのには、ヨーロッパにおいては既存の「ダンス」「演劇」といったジャンルを拡張する方が(少なくとも短期的には)現実的だからでもあります。

ですが、個人的には、「舞台芸術arts du spectacle」よりもシェクナーがアジアやアフリカなどその他の地域の実践、さらにはスポーツや政治、日常生活における「パフォーマンス」にまで目を向けたうえで作り上げた「パフォーマンス」という概念のほうが、長い目で見れば有効性があるように思っています(そう思って、一昨年シェクナーの授業を受けにアメリカに行ったのでした)。

でも、この概念がアメリカにおいてすら十分に制度的に普及しなかった理由の一つは、ニューヨーク大学にパフォーマンス・スタディーズ科ができた1980年以降、アメリカがむしろ内向的になっていってしまい、60年代~70年代の第三世界主義的動きが退潮していった事があります。結果として、アメリカにおいても、「パフォーマンス」という言葉の便利さを生かしつつも、旧来の制度を解体することなく活用できる「パフォーミング・アーツperforming arts」と言う概念の方が、より実践的とみなされて使われるようになっていきました。

では「パフォーマンス」の方にはもう未来がないのかというと、そんなこともなさそうです。シェクナーに学んだWilliam Huizhu Sunは中国に戻り、上海戯劇学院でパフォーマンススタディーズを教え、他の大学にも広がりつつあります。パフォーマンススタディーズは中国語で「表演学」あるいは「人類表演学」と訳されています。この「表演」という表現は、中国語圏ではperformanceの訳語として普及していて、「表演芸術中心(performing arts center)」といった劇場名も見られます。

日本語では、近年芸団協が「実演芸術」という言葉を使っていて、文化行政においてはときどき微妙な選択になっていますね。ここでは「音楽」を含むか否かも問題になっています。

今私たちが行っていることが、一〇〇年後の22世紀にどのような概念、どのような枠組みで記述されるようになるのかは、今から2030年代にかけて、中国・インド・インドネシアにおいてどの言葉が使われるようになるのかにもかかっています。たとえば、テアトル・ガラシのUgoran Prasadは今、劇作家レンドラを中心に語られてきたインドネシア「演劇史theatre history」を、コンテンポラリーダンスの「振付家」と見なされているサルドノ・クスモを中心に書き直そうとしています。これはtheatre/Teaterという概念をインドネシアの実践に適合させていく動きと考えられます。22世紀に使われる概念は、英語やフランス語を基準にした言葉ではなく、「戯劇」や「戯曲」といった中国語の概念が基準になる可能性もあります。この際、もちろん歌舞伎・能・狂言・文楽を「演劇」という語で語ることで独自の「演劇」概念を形成してきた明治以来の日本の経験も一定の役割を果たしうると思いますが、今はこれを世界の他の地域の人々と議論し、共有する機会があまり持てていないように思われます。

今から2030年代にかけての決定的な時期に、私たち日本語話者が、世界の「舞台芸術界」の新たな枠組み形成において役割を果たせるか否かは、ここでの議論にもかかっているのだと思います。

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アジア演劇を「世界演劇」に接続することの困難について 2017年4月4日

  1. 3. 12 (日)   第八回D/J(Dramaturg/Japan)カフェ議事録 (記録:岸本佳子さん/横山加筆)

 

アジア演劇を「世界演劇」に接続することの困難について

 

SPAC-静岡県舞台芸術センターの仕事では、創作に関わることは多くない。クロード・レジ、ダニエル・ジャンヌトーなどフランスの演出家と一緒に仕事をすることはあったが。主に海外招聘、とりわけふじのくに⇄せかい演劇祭のプログラムを組む、という仕事をしている。そのなかで、ここ数年抱えていた疑問があったので、ACC(Asian Cultural Council)に応募して、2016年9月〜2017年2月までニューヨークに滞在して、リサーチをしていた。その疑問というのは、アジアの作品をプログラムに入れるのはなぜ難しいのか、ということ。

 

・なぜニューヨークか アジア演劇とパフォーマンス・スタディーズ

 

どうしてニューヨークに行きたかったのか。たとえばシンガポール国際芸術祭の芸術監督をしている演出家のオン・ケンセンと話していて、「ニューヨークのユダヤ人からバリ島の演劇のことを教えてもらったんだ」という話を聞いたことがあった。シンガポールからバリ島はすぐ近くなのに、なんでわざわざニューヨークを経由しなければいけなかったのか。

 

オン・ケンセンは1993年〜1994年にACCのグラントを獲得して、NYU(ニューヨーク大学)パフォーマンス・スタディーズ科修士課程に在籍し、リチャード・シェクナーからバリ島の演劇のことなどを学んだ。この当時、アジアの舞台芸術について学べるところは他にあまりなかったということだろう。マニラのCCP(Cultural Center of the Philippines)の芸術監督クリス・ミリヤード(Chris Milliado)にお目にかかったときにも、その1年後か2年後に、もACCのグラントでNYUのパフォーマンス・スタディーズ科に留学した、という話を聞いた。

 

つまり、東南アジアの重要な演劇人はNYで勉強しているんだ、と思った。フランスに留学していたが、東南アジアの演劇人にはほとんど会ったことがなかった。

 

たしかに、ヨーロッパで演劇学を学んでも、アジアの演劇の文脈には必ずしも結びつかない。ヨーロッパで作られた「演劇」という概念自体が、必ずしもアジアに当てはまらない。

 

NYUのパフォーマンス・スタディーズ科を立ち上げたリチャード・シェクナーは演出家でもあって、ウースター・グループの前身であるパフォーマンス・グループを主宰していた。シェクナー自身が、ACC財団ができた初期の頃にグラントを取ってアジアに行っていた。

 

シェクナーによれば、ACCを作ったジョン・D・ロックフェラー三世が “ディオニュソス69” (1968年)を観て、シェクナーに「アジアに行きたいか?」と聞いてきた。行きたいです、と答えたら、来年以降、どこでも好きな所に行ってください、と。それで1970年以降、インド、 スリランカ、インドネシア、中国、台湾、日本など、何年かかけて回った。それが一つのきっかけとなって、ヨーロッパだけでなくアジアやアフリカも含め、そしていわゆる演劇だけでなく儀礼やスポーツ、日常生活のルールまでも含めて、それまでの「演劇」の枠組みを拡張する試みを“Performance Studies”として立ち上げた。

 

ヨーロッパ人とアメリカ人の「歴史的自己認識」の違い

  • フランスでは、自分のルーツを遡るとギリシアやローマ人に行き着くと、なんとなく思い込んでいるところがある。地理的にも遠くない。一方アメリカ人はギリシアやローマにそこまで親近性を感じてはいない。アメリカから見れば、アテネやローマも、東京や北京と似たようなものではないか。

 

→ ヨーロッパではあまり「アジア人」が演劇界で活躍している感じはなかった。でも、ニューヨークではそうではないのでは?と思っていた。行って見たら、そうでもなかった。

 

・西洋演劇を基準にした「世界演劇」にアジア演劇を接続するのはなぜ困難なのか?

 

<レジュメHow to integrate the Asian theatre to the “World Theatre”?を参照>

 

それが困難なのは、そもそも西洋演劇自体に、アジアをアンチモデルとして成立してきた、という事情があるからではないか。

 

・近代演技論の成立と弁論術

 

  1. 歌と踊りのない演劇形態が確立したのはいつ頃か?
  2. フランスではフランスオペラを確立したジャン=バティスト・リュリの音楽アカデミーが1672年に音楽上演の独占勅許を獲得。一定以上の音楽を使ったパフォーマンスはリュリの許可なくして上演できなくなる。それまでは音楽劇が盛んに上演されていて、台詞中心の劇よりもその方がお客さんが入っていた。モリエールやコルネイユもそれにかかわっていた。だがこれによって、いわゆる「古典劇」の作家たちは、台詞劇に専念せざるを得なくなってしまう。

 

『演技論』が書かれ始めたのはこの少し後の時代から。

→ 演技論研究はごく最近発展してきた。2001年にサビーヌ・シャウーシュの『演技論七篇 雄弁術から演技論へ』(Sabine Chaouche (éd.), SEPT TRAITES SUR LE JEU DU COMEDIEN ET AUTRES TEXTES. De l’action oratoire à l’art dramatique (1657-1750), Honoré Champion, collection Sources classiques, 2001)という本が出て、これで国立図書館に行かないと読めなかった17世紀〜18世紀の演技論に関する本が自宅でも読めるようになった(すごく高いけど)。

 

  1. 16世紀〜18世紀のヨーロッパの中等教育(コレギウムでの教育)で、最も重要な科目だったのは?
  2. Rhetorica、弁論術(「修辞学」とも訳される)が最も重要な科目だった。

 

  1. 当時のコレギウムで一番読まれていた作家は?
  2. キケロ。古代ローマの政治家・弁護士(「雄弁家orator」)で、弁論術の理論家でもあった。言葉によって人を動かす術としての弁論術。当時の教育は基本的にラテン語なので、ラテン語でそのまま読んでいた。

 

この時代のフランスの教育では、毎日のようにキケロなどが書いた古代ローマ弁論術の本を読まされていた。

その中に、歌ったり踊ったりしてはダメ、と書いてある。議会とか裁判所とかでどうやって演説するか、という話なので、ある意味当たり前なんだけど。

 

当時の俳優論、演技論は、実はローマ弁論術をほとんどコピペしている。たとえばモリエールはもともと弁護士になるはずだったが、俳優兼劇作家になってしまう。そういう人、つまり教育を受けた俳優というのが出てきたから、ローマ弁論術をベースにした演技論が発生してきた。

 

でも不思議なのは、近代の俳優が、古代ローマの俳優ではなく、古代ローマの弁論家をモデルにしたこと。

 

たとえば、ジャン・ポワソンという18世紀フランスの俳優は、『公開の場で話す術についての考察』(Jean Poisson, Réflexions sur l’art de parler en public, 1717 (Chaouche, p. 407))という本で、クインティリアヌス『弁論家の教育』(Quintilian, Institutio oratoria, I, 11, 3)のこんな一節を引用している。

 

「身ぶりは舞台俳優から遠ざかるようにすること(Gestus aberit a scenico)」

 

この1文は、本来は弁論家=政治家や弁護士になろうとする人に向けて書かれたもの。だけど、ここではそれが俳優にも適用されるかのように引用されている。つまり、近代俳優は古代ローマの俳優のように過剰な身ぶりをしてはならない、ということになる。

=古代の弁論家が近代の演技術のモデル

 

・人文主義教育と俳優の社会的地位

 

「自由学芸Liberal Arts」とは何か?

「自由人」のための技術。

自由人=奴隷ではない人。

古代ローマにおいては自由人のトップが弁論家、政治家。もっとも自由ではない人間の一つが俳優。俳優の身分は多くの場合、奴隷や解放奴隷だった。古代ローマでは俳優には市民権がなかった。騎士でも、舞台に立ったら騎士の身分を剥奪された。

古代ローマにおいて、俳優と売春婦は同じカテゴリーだった。

「自分の身体を他人の快楽のために提供する人」というカテゴリー

 

こういう事情が背景にあって、弁論家をモデルにする、ということになった

 

近代になって、演劇をもう少し、貴族などにも見せられるものにしよう、となった時に、俳優という職業の社会的地位を多少引き上げなければ、という話にもなってくる。

俳優=身体ではなく、俳優=言葉だ、という転換。

実際革命前のフランスでは、俳優にはほぼ市民権がなかった。

 

「人文学Human Science / Humanities」とは何か?

人文主義教育(éducation humaniste)の中で、教育を受けた俳優が出てくる。ここでいうhumain (human)というのも、「(奴隷ではない)人間、自由人」という意味。キケロがいう「人間的教養(人文学)Humanitas (Humanities)」というのは、自由学芸と同様に、「自由人であるために学んでおくべきこと」。つまり、教育を受けた俳優とは、奴隷ではない俳優。

 

なぜフランスだったのか?

フランスでは17世紀くらいから、モリエールみたいに、教育を受けた俳優、というのが出てくる。とりわけフランスで弁論術の影響が強かったのは、16世紀のパリのコレギウムで、「パリ方式modus parisiensis」と呼ばれる人文主義教育のシステムが確立されたから。ルネサンスを経て、古代ギリシア・ローマの学問を復活させようとしたのが人文主義教育。実際には、ギリシア語ができる人は少なくて、ラテン語が共通語なので、古代ローマの学問、なかでもローマ人にとって一番大事だった弁論術が重要になっていく。

 

フランスでは一七世紀終わりくらいから、演技術のことをdéclamationと呼ぶようになった。日本語では「朗誦法」などと訳されたりするが、これは「言葉を語るのが演技」という発想から。

実はこの言葉のもとになったラテン語declamatioは「虚構の設定にもとづいたスピーチ(弁論)」という意味。

学校教育の中などで、弁論の演習として、今実際に起きていることではなくて、たとえばトロイア戦争とかをもとにスピーチをしてみること。

 

当時の高等教育の中では、このデクラマティオが最終地点、最後に学ぶことだった。当時の演劇人が「デクラマティオを学んだ」というのは、コレギウムでちゃんと最終課程まで勉強した、というくらいの意味でもある。

 

このデクラマティオの枠組みで、学生にローマ喜劇や、ラテン語で書かれた喜劇・悲劇を上演させたりもした。ローマ喜劇は「活きた(会話に適した)ラテン語」を学べる数少ない教材でもあった。

 

だから、フランスの近代俳優は、新たな演技術、近代演技術のことを「デクラマシヨン」という妙な言葉で呼ぶようになった。(当時のエリートにとって最も重要な学問である)弁論術教育を受けた俳優の演技、というくらいの意味。「本当は弁護士とかにもなれたけど、あえて俳優になったんだ」というようなアピールでもある。

 

・なぜ西洋近代劇にとってアジアはアンチモデルとなったのか?

 

キケロの弁論術書などで、「アジアの弁論家は歌うように話す」という逸話がある。これを近代弁論術では「アジア風(asianismus)」などと呼んだりする。

 

なぜアジア人は歌う(ということになっている)のか?

まずはイメージとして。

ギリシア悲劇で一番盛り上がるのは、ペルシャ人、トロイア人、といった「アジア」の女性が泣きながら歌うところ(cf. マダム・バタフライ、ミス・サイゴン etc)。

アジア人が最終的にはギリシア人に負けてしまうのは、真の言語、論理的言語(ロゴス)をマスターしていないから。

戦争に負けた結果、アジア人は奴隷となって、自らの境遇を嘆く。奴隷というのは、自分で自分の人生を導く能力がないために、自らの身体を他人に提供することで活かされている存在。ロゴスをマスターした者が、そうでない者を支配し、導く責任を負っている、というのが奴隷制の理屈。

 

キケロが語っているのは、アジア(小アジア、今のトルコ)の弁論家は、悲劇俳優が歌うような口調で嘆き、お涙頂戴の弁論で説得しようとする、というような話。このときにキケロが思い浮かべているのは、セネカの『トロイアの女』(『弁論家』27, 57)。

 

アジアの弁論家が歌で人を説得しようとするのは、アジア人はロゴスをマスターしていないから、ということ。つまり、歌と踊りのないヨーロッパの近代演劇は、このような「アジア人=奴隷(≒古代ローマの俳優)」を、いわばアンチモデルとして成立してきた。

 

こんな文脈を知ってみると、アジアの舞台芸術をヨーロッパ演劇史に接続することの難しさが見えてくる。西洋思想史のなかで、歌い踊る身体は、往々にして奴隷的身体とみられてきた。歌や踊りの訓練をすることは、他人の快楽に奉仕するために身体を変形させることと見なされた。一方、戦闘のための訓練は「自由人」にふさわしいものと見なされた。

 

19世紀以降、西洋演劇はアジア演劇の影響を受け、それが20世紀の「演出家の時代」にも影響を与えているとも言われるが、アジア的要素をスパイス以上のものとして使っている西洋の演劇を探すのは困難かも。フロランス・デュポンの『アリストテレス、西洋演劇のヴァンパイア』(Florence Dupont, Aristote ou le vampire du théâtre occidental, Paris, Aubier, 2007)によれば、いわゆる「演出の演劇」も、結局のところ演出さえもテクストと見なすようになったに過ぎないという。つまり、よく言われる「身体性」というのも、往々にして結局のところテクスト概念の拡張に過ぎないかも知れないということ。

 

Cf. 小山内薫による新劇の創出

その頃は、俳優といえば歌舞伎俳優。稽古場で小山内薫が「歌うな、話せ」「踊るな、動け」と叫んだという逸話。日本人も頑張って、歌わない、踊らない演劇をしようとすることで、演劇を「近代化」しようとしてきた。

 

果たして我々は「身体性」というものに、ふたたび正当な価値を与えうるのか?この問題は演劇において「アジア的なもの」とどう付き合っていくのか、という問題ともかかわってくる。

 

世界経済の重心が欧米からアジアに移行する時代が数十年以内に来るらしい。2030年くらいという話もある。だとすると、あと十数年。舞台芸術に関する価値観については、まだその準備ができていない。「アジア」という(西洋の視点から作られた)枠組みを実体化するのもよくないだろうが、少なくとも欧米中心ではない価値観や枠組みを、今からおおいそぎで作っていく必要があるのでは。

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1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(6) フィランソロピーと「芸術の自由」 2017年3月22日

2.米国における実験的演劇の製作状況

(承前)

2.4.フィランソロピーと「芸術の自由」

「全米芸術人文財団」傘下にできた「全米芸術基金(NEA, National Endowment for the Arts)」の仕組みは、日本やフランスから見ると、かなり不思議なものだ。ジョンソン大統領はこの組織の設立を推進しながらも、芸術はフィランソロピーと裕福な寄付者に任せねばならず、公的支援に関しては連邦政府よりもまず州や市町村に頼らなければならない、と考えていた。そのため、ここでは「マッチング・ファンド」というルールが採用されている。「ある文化団体が公的助成を受けるためには、他の財源から同額の資金を団体自ら調達することが条件となる。…国の助成金を撒き餌として他の資金を獲得することで、間接的にフィランソロピーを活性化するのである。」これは「芸術や芸術団体が国のみに依存し、国に対して服従し、官僚まがいの存在となる危険を犯すことを避けて、彼らの自由を保障することができる唯一の方法だ、と考えられている。」そして、審査にあたっても国の直接介入を避け、官僚ではなく芸術家と専門家で構成される中立な審査委員会によるものとした。(マルテル『超大国アメリカの文化力』p. 86-92)

つまり全米芸術基金は、独自の「文化政策」を実現するための文化庁/省のようなものでは全くなく、むしろ「民間によるフィランソロピーを活性化する」ことを目的とした組織なのだ。なぜ国家よりも富裕者が作った財団の方を信用するのか。このあたりは「国家」を信頼しがちなフランス人や日本人にはなかなか理解し難いところだろう。アメリカ合衆国は「国家」というものへの徹底した懐疑に基づく逆説的な国家なのである。たとえば銃の個人所有に関する規制への根強い反対も、これが見えないと理解しづらいだろう。ハワード・ファインマンは銃規制の難しさについて、「アメリカの建国者たちは、啓蒙主義思想の一環として「武器を所有する」権利を支持した。一国家の中で複数の権力が存在することによって専制国家になることを防ぐことができるとする思想だ。だから、合衆国憲法修正第2条では、地域ごとの民兵は中央権力に対抗し均衡を維持するために必要であるという旨を述べている」とする。

http://www.huffingtonpost.jp/2015/10/08/why-america-wont-quit-guns_n_8266830.html

ちょっと話が逸れたが、フィランソロピーという思想を理解することは、米国における「前衛芸術」というものの位置を考える際にも重要になる。ゴールドバーグは1961年のメトロポリタン・オペラの労働争議の際、フィランソロピーについて、「芸術はしばしば観客の趣味よりも先を行っていたり、これに対するものであったりし、それゆえにまだ一般に広まってない間は支援を必要とするため」重要なのだ、と語っている(p. 48)。米国では、主に富裕層が前衛的な芸術家を保護する役割を果たしているという現状があり、今後もその役割を果たしつづけてもらいたい、という認識を示しているわけである。ここでは、たとえばジョン・D・ロックフェラー二世夫人アビーらによって創設されたニューヨーク近代美術館(MoMA)などを思い浮かべてもらえばよいだろう。「ゴールドバーグ宣言」に見られるこの認識は、米国における「アヴァンギャルド」とは何か、ということを考える際に、きわめて重要である。

一方、フィランソロピーというのは徹底的に資本主義的な仕組みであり、とりわけアンドリュー・カーネギー(1835-1919)の実践と、その著書『富の福音』(1889)が最大のモデルとなっている。芸術におけるフィランソロピーの発想の基底には、富裕者(=ビジネスにおける成功者)は知者であり賢者である、という了解がある。米国においては富裕者は社会におけるイノベーションを担う人間であり、この意味で、まさに富裕者こそが社会の「前衛」であるとみなされる素地がある。このあたりはカソリック思想をもとに作り上げられた社会には受け入れられにくいものなのかもしれない。

もう少し正確にいえば、「フィランソロピー」という語はそもそも「人間愛」という意味で、必ずしも富裕者が行うものとは限らない。カーネギーも、大きな財産をもたない人々が少しずつ寄付したり、貧しい人々もボランティアとして自分の時間を提供したりすることで「フィランソロピー」に参加する、ということを重視している。さらにいえば、フィランソロピー全体のなかで文化芸術が占める割合はそれほど大きいものではない。米国における非営利組織への寄付の内訳は、36%が教会、13%が学校や大学、8.6%が医療・保健、5.4%が芸術文化だという(p. 335)。ただ、たとえば国家予算と比べると、文化予算の割合が大きいフランスでも1%くらい(日本は0.1%、米国は0.04%くらい)なので、比較的大きな割合ともいえる(もちろんフィランソロピーが担う分野と国家が担う分野が一致するわけではないが)。

そして、とりわけ文化において、フィランソロピーを先導するのが貧しい人々ではなく富裕者であるということは間違いない。寄付文化は米国の多くの階層に根づいていて、1998年には全世帯の70%が何らかの寄付をしたとされる。だが庶民的な階層や中産階級が寄付をするのは主に教会、保健医療、学校といった分野で、芸術に対する寄付の93%は米国人口の4.2%にあたる最富裕層から、そして76%はその最富裕層のわずか1.2%の大富豪から提供されている(p. 379-380)。最富裕層が文化芸術に力を入れるのは、一つには、宣伝効果という面でコストパフォーマンスがいいことだろう。フォード財団で文化事業を担当するマクニール・ラウリーによれば、「フォード財団が六万ドルを文化に寄付すれば、ニューヨーク・タイムズの表紙を飾ることも可能だが、七〇〇〇万ドルを教育支援事業に生じたとしても三七面に乗るだけだ」(p. 342)という。ケネディ以降の政権が徐々に「文化政策」に力を注いでいくのも(もちろん相対的にではあるが)、同じ理由だろう。とりわけ、ほぼゼロからの出発であれば、相対的な予算額は小さいにしても、そのインパクトは大きなものとなる。

では、具体的に誰が先鋭的な芸術にお金を出していたのか。1960年代には、とりわけロックフェラー家とフォード財団の貢献が大きい。まずはロックフェラー家の方から。先代のジョン・D・ロックフェラー・ジュニアの時代には、ロックフェラー財団は「保守色がきわめて強かった。それは強烈な反共産主義と共和党支持(後にはヴェトナム戦争支持)によっても明らかである」(p. 324)。一方、その妻アビーは先述したようにMoMAの創設者の一人だった。

このMoMAが抽象表現主義の普及に果たした役割は、米国におけるフィランソロピーと連邦政府との錯綜した関係を象徴するものでもある。ロスコ、ポロックらの抽象表現主義は、社会主義リアリズムとは対照的な表現で、態勢に迎合しない米国の自由社会の象徴として、1946年から国務省が予算を出して巡回展をはじめていた。ところがマッカーシズムのなかで共和党から、抽象表現主義もヨーロッパのさまざまな「~イズム」に起源をもつもので、共産主義と共謀して米国の倫理的基盤を危うくするものだ、と批判されるようになる。そして展覧会に参加したアーティストのなかに「非米」活動や共産党の活動に関わった人物がいることも明らかになる。その結果、1950年代からは、MoMAが国務省に代わって抽象表現主義を世界に普及させていく役割を果たしていくことになる。1954年にはMoMAがヴェネチア・ビエンナーレのアメリカ館を国務省から買いとり、世界で唯一、政府ではなく民間の施設がここで国を代表することになった。だがこのMoMAの当時の理事長は政界で活躍したネルソン・ロックフェラーで、1960年以来三度にわたって共和党の大統領候補になっており、当時は国務次官だった。MoMAによる国際事業の活動資金はジョン・D・ロックフェラー・ジュニアやネルソンが創設したロックフェラー兄弟基金だけでなく、CIAからも提供されていたことが分かっている(p. 124-133)。つまりこの時代、ロックフェラー家の公私にまたがる文化活動は、冷戦下の自由主義的資本主義陣営において、文字どおり「前衛」の役割を果たしていたのである。

ジョン・D・ロックフェラー・ジュニアの息子である「ジョン・D・ロックフェラー三世は一九五二年に一族の財団の理事長となり、…古典バレエやモダン・ダンス、大学の出版局、交響楽、実験演劇などの分野に向けてロックフェラー財団の舵を大きく切った…。マーサ・グレアムからマース・カニングハム、フィリップ・ロス、フィリップ・グラスにいたるまで、現代アーティストに助成金を支給し、黒人劇作家や前衛的な劇作家にもさまざまな支援をした。しかしながら、ロックフェラー三世が文化の分野にしっかりと軸足を置くことになるのは、個人の資格で、彼個人の財団を通じて(ジョン・D・ロックフェラー三世基金)、後のNEA総裁ナンシー・ハンクスに舞台芸術についての徹底的な調査と報告書の作成を命じ、とりわけ一九五九年にリンカーン・センターを作ったことによってである。」同センターは「ニューヨーク・フィルハーモニックを始めとして、ジョージ・バランシンのニューヨーク・シティバレエ、メトロポリタン・オペラ、ニューヨーク・ステイト・シアターの本拠地となっている。さらに芸術専門の図書館、映画史料館、ジュリアード音楽院、室内楽協会やウィントン・マルサリスのジャズ・オーケストラもある。八〇〇〇人が働き、年間予算は四億五〇〇〇万ドル。毎年三〇〇〇のイベントを行い、四七〇万人の観客を迎える。」(p. 324-325)1950年代末から1960年代にかけてのニューヨークの舞台芸術状況においても、ロックフェラー三世をはじめとするロックフェラー家とその財団がかなり重要な役割を果たしていたのは間違いない。

ちなみに、ここに登場するナンシー・ハンクスも、60年代~70年代の文化政策において中心的な役割を果たしている。ハンクスは1950年代前半からネルソン・ロックフェラーの個人的アシスタントを務め、ジョン・D・ロックフェラーの信頼を得て、1959年から69年にかけてロックフェラー財団における文化芸術部門を担った。1965年に発表されたレポート『舞台芸術 課題と展望』はジョンソン政権において全米芸術基金(NEA)が創設されるきっかけともなった。ネルソン・ロックフェラーは1969年の大統領選の共和党予備選挙でニクソンの対立候補だった。ニクソン政権発足後、NEA新総裁の候補としてジョン・D・ロックフェラー三世の名も挙がったが、本人の辞退によって実現しなかった。ニクソン政権には、元ハーヴァード大学教授でネルソン・ロックフェラーと親しく、ハンクスとともにロックフェラー兄弟基金の調査を担っていたキッシンジャーが加わっており、このキッシンジャーの推挙もあって、ハンクスは1969年にNEA総裁に任命される。ハンクスは1970年から79年にかけて、NEAの予算を840万ドルから1億ドルにまで引き上げることに成功した。にもかかわらず、ハンクスはこのNEAの最も大きな成功は「民間のリーダーシップ、民間のイニシアティヴ、民間の資金の資金を促進したこと」だとしている(p. 145-180)。このハンクスの言葉と来歴を見れば、NEAがいわばフィランソロピーの従属的存在であり、しかもそうでありつづけなければならない、という公式の了解があったことがよく分かる。

また、フォード財団の存在も非常に重要だ。フォード財団はカーネギー財団やロックフェラー財団に比べて後発だったが、芸術のなかでも演劇という分野への助成はそれまであまり行われていなかったことを知り、演劇の支援に力を注いだ。フォード財団は50年代から米国の舞台芸術状況に関する調査を進め、経済的危機を詳細に認識していた。また、助成の仕組みに関する研究開発を進め、「マッチング・ファンド」などの手法を導入。これらは全米芸術基金のモデルともなった。

フォード社の本拠地がデトロイトだったこともあり、フォード財団はとりわけ地域の劇場を重視した。だが一方で、もちろんニューヨークを無視したわけでもなく、例えばラ・ママ実験劇場の最も重要なスポンサーの一つでもある。 これらの財団の提供している資金は、全米芸術基金よりもずっと規模が大きい。

これらは、日本やヨーロッパの基準では「私立財団」ということになるが、多くの場合、創業時には資金を提供した創業者が大きく関わるものの、その後は徐々に専門家集団と新たな理事たちに運営が委ねられ、創業者からは独立していくことで、自立した公益的組織になっていく。この意味では、米国的な基準では「公共の」組織、ということになる。

シェクナーによれば、フォードやロックフェラーはあまり前衛演劇を支援しなかったというが、少なくともシェクナーはアジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)の財団支援を受けて、1970年以降たびたびアジア各国に赴いている。

Cf. Richard Schechner, Ford, Rockefeller, and Theatre, The Tulane Drama Review, Vol. 10, No. 1 (Autumn, 1965), pp. 23-49(まだきちんと読めていませんが・・・)

https://www.jstor.org/stable/1124678

ACCは1963年にジョン・D・ロックフェラー三世によって創立された。日本からは、60年代~80年代に限ると、山崎正和、寺山修司、笈田ヨシ、唐十郎、鈴木忠志などが助成を受けている。

http://www.asianculturalcouncil.org/japan/

1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(6) フィランソロピーと「芸術の自由」 へのコメントはまだありません

「ミス・サイゴン」問題、あるいはアイデンティティをめぐる非対称性について(1) 2017年2月4日

先日アジアン・アメリカン・アーツ・アライアンス専務理事のアンドレア・ルイさんにお目にかかって、「アジア系の舞台俳優は米国の舞台で仕事を得られる機会が少ない」という話を聞いた。以下の統計によれば、この10年平均で、ニューヨークのブロードウェイと非営利の劇場において、アジア系俳優の出演は平均して4%程度に過ぎない。一方、ニューヨーク市民のなかのアジア系の比率は12%以上。

Asian American Arts Alliance

http://aaartsalliance.org/

AAPAC (ASIAN AMERICAN PERFORMERS ACTION COALITION)

http://www.aapacnyc.org/stats-2014-2015.html

まだはっきりした答えが得られたわけではないが、ブロードウェイ版『ミス・サイゴン』のキャスティングをめぐる議論が参考にはなりそうだ。1990年、ロンドンで大ヒットしたミュージカル『ミス・サイゴン』のブロードウェイ版の製作が予定されていた。ロンドン版では、フランス人の父とベトナム人の母から生まれ、狂言回し的な役割を担う「エンジニア」役に英国人の白人俳優ジョナサン・プライスが起用されて評価を得ていて、ブロードウェイ版でもこの配役が踏襲されることになっていた。

ところがプライスはアメリカン・アクターズ・エクイティ(American Actors Equity, 米国人俳優にとっての利益に配慮しつつ、米国での米国市民ならびに非市民の俳優の雇用を管理する舞台俳優と舞台監督の労働組合、以下「エクイティ」とする)によって労働許可を拒否される。しかしエクイティのメンバーたちがこれに反対する署名を集め、一週間後に特別審議会が開かれて、エクイティは一転して労働許可を認めるに至った。プライスは1991年4月に開幕したブロードウェイ版でも無事に同じ役を演じることができ、同年のトニー賞ミュージカル主演男優賞を受賞している。ブロードウェイでの『ミス・サイゴン』は、このプライスをめぐる論争の拡がりもあって、記録的な大ヒットとなり、9年以上のロングランとなった。(ちなみに今はブロードウェイで上演されていないので、実際に観られてはいません。ご覧になった方やお詳しい方、誤解などあればぜひご指摘ください。)

この問題については、NYUパフォーマンス・スタディーズ科のカレン・シマカワさんが詳細な分析をしているので(Karen Shimakawa, National Abjection. The Asian American Body Onstage, Duke University Press, 2002, Chapter I “I should be ― American!”)、以下、それに基づいて。エクイティがはじめ労働許可を拒否したのは、『M. バタフライ』で知られる中国系劇作家デビッド・ヘンリー・ファンらの抗議に基づいている。抗議の焦点は主に(1)アジア系の俳優が主要な役で舞台に立つ機会が十分にないなかで、アジア系の役ですらヨーロッパ系白人俳優が配役されてしまうことへの反発、(2)プライスによる「アジア人」の演じ方自体への反発(とりわけヨーロッパ系俳優が目張りやメイクでアジア系らしい顔を作り、ステレオタイプな「アジア人」を演じる、いわゆる「イエローフェイス」に対する反発)、の二点にあるようだ。

『ミス・サイゴン』のプロデューサーであるキャメロン・マッキントッシュはプライスの起用にこだわって、プライスが出演できなければブロードウェイ公演初日をキャンセルするとまで言明した。この労働許可拒否問題は社会的に大きく取り上げられることになる。大手紙の大半は、保守・リベラルを問わず、プライスの起用を支持する論説を発表した。

プライスの起用を支持する側の主な主張は以下の通り。すでにシェイクスピアなどの西洋古典作品で、ヨーロッパ系を想定して書かれた登場人物に黒人俳優を起用する、といった「カラー・ブラインド・キャスティング(肌の色を無視したキャスティング)」がなされてきた。だとすれば、逆にヨーロッパ系の俳優がアジア人を演じるのも「芸術上の自由」ではないか。そして、これを認めないのはむしろ「逆差別」なのではないか。

この主張は『ミス・サイゴン』制作側の説明にもとづくもので、実際にキャメロン・マッキントッシュも『オペラ座の怪人』の主役に黒人のロバート・ギロームを起用しており、またその直前にやはり黒人のモーガン・フリーマンが『じゃじゃ馬ならし』のペトルーキオを演じたり、デンゼル・ワシントンが『リチャード三世』で主演したり、といった例があった。この作品のキャスティング・ディレクターはさらに、アジア系で45歳~50歳で、プライスと同じくらいの古典的演劇出演の経験があり、国際的な名声を得ている俳優がいれば見つけていただろうが、「世界中を探してみたうえで」見当たらなかった、と説明している。

というわけで、アジア系演劇人の抗議は、最終的に、論争に加わった米国の多くの「識者」から、「芸術上の自由」を侵害しかねないものとみなされることになった。だが、この抗議は本当に不当なものだったのだろうか。

ファンとともに最初の抗議に加わった俳優のB. D. ウォンは、「私たちは自分たち自身の肌の色の役を演じる機会も十分に与えられておらず、(フリーマンやワシントンのような)「非伝統的」なキャスティングのために闘う状況とはほど遠い」と語っていた。そもそもこの時代、アジア系の舞台俳優が「国際的な名声」を得られうる機会はほとんどなかった。ブロードウェイで上演された、アジア系の男性が主要な役を演じる作品は、『王様と私』や『太平洋序曲』など、数えるほどしかない(ちなみに1976年に初演された『太平洋序曲』ではイースト・ウェスト・プレイヤーズのマコ・イワマツとパン・アジアン・レパートリー・シアターのアーネスト・アブバが共演している)。

実のところ、先ほどのキャスティング・ディレクターの説明は、あまり正確なものではなかったことが分かっている。「世界中を探してみた」のはヒロインのキム役の女優と、その他のベトナム人の脇役についてであり、実際にヒロイン役にはフィリピン人女優レア・サロンガが起用された(サロンガはプライスとともにトニー賞ミュージカル主演女優賞を受賞している)キム役については、白人女優が目張りをして顔に黄色あるいは濃い色のメイクをして演じる、という選択肢ははじめからなかったようだ。つまり、「オリエンタル・ビューティー」にはアジア系の女優が必要だ、というプロデューサー側の判断があったわけである。

一方「エンジニア」役については、早々にプライスの起用が決まっていて、アジア系の俳優は実際のところ、特に検討された形跡がない。ここで分かるのは、英国においても米国においても、「オリエンタル・ビューティー」は(英国や米国で無名の女優であったとしても)すでに商品価値を持っているのに対して、アジア系の男優は集客に必要な魅力を持っているとは見なされていない、ということだ。

キムは17歳で売春婦となっていて、初めての客となった米軍兵クリスと恋に落ち、子どもを宿す。クリスはそれを知らず米国に帰国し、米国人の白人女性エレンと結婚する。キムはクリスの帰還を待ちわびるが、クリスはエレンを伴ってヴェトナムを訪れる。クリスが結婚したことを知ってエレンは絶望し、子どもがクリス夫妻によって米国で育てられることを望んで自殺を遂げる。ここでキムは、米国人白人男性にとって、いわばきわめて都合のよい存在として描かれている。(・・・とまとめると、クリスがひどい人間のようだが、あちこちでクリスの行動を倫理的に正当化する仕掛けがなされている。)

一方「エンジニア(「やり手」「世渡り上手」というようなの意味らしい)」は、売春宿を経営し、キムやキムの息子を利用してなんとか米国に渡ろうとする、という、いわば汚れ役である。父親がフランス人ということになってはいるが、たまにフランス語が出てくる以外、特に「ヨーロッパ系」であることが強調されることはない。パン・アジアン・レパートリー・シアターの創始者ティサ・チャンは、フリーマンがペトルーキオを演じたり、ワシントンがリチャード三世を演じたりするときには「白塗り」する必要はなかった、ということを指摘している。ここでプライスが濃い色のメイクをし、目張りをしたのは、明らかにこの「狡猾なアジア人」のステレオタイプを演じるためであり、「肌の色を無視した」役柄を演じるためではなかった。つまり、ここで問題となっていたのは、アジア人(あるいはアジア系米国人)が自ら、自分自身の表象を統御する機会が十分に与えられていない、ということだった。

(つづく)

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「ポスト真実」の政治 2017年1月29日

「ポスト真実」の政治などというが、未だかつて地球上で、「真実による統治」が実現したためしはない。これがあったかのように思うのは、知的エリートによる情報管理が可能だった近過去に「哲人統治」の理想を投影しているに過ぎない。

経済については、ずっと以前から「思惑」や「思惑の思惑」によって動くことが容認されている。むしろ恐ろしいのは、生の枠組み自体を決定する政治が経済に服従し、政治に経済と同じ速度が求められるようになりつつあることだ。(昨日一月ぶりに再会したニューヨーク大学のイラン人の学生は、「イラン人の入国ができなくなるので、国に帰れなくなった」という。)良くも悪しくも、アテナイの口頭による直接民主主義に近づいてきたのかもしれない。

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ウィーメンズ・マーチ 2017年1月27日

2017121

前夜、アリソン・フリードマンの家に集まった人たちでポスター作り。

朝10時に議事堂近くの広場に集合、との話だったが、10時過ぎにアリソンの家を出発。地下鉄は超満員。一本やり過ごして、なんとか二本目に乗り込む。土曜日だが、平日のラッシュ時よりも乗降客が多かったという。11時過ぎに議事堂最寄り駅に着く。議事堂に近づくに連れて人が増えていく。昨日の就任式よりもはるかに人が多い。男性も結構いて、安心した。

耳がついたピンクのニットキャップをかぶっている方がたくさんいる。これは「プッシーキャット」を意味するのだという。

時々小雨が降るが、幸いそれほど寒くない。マーチは午後1:15に始まると聞いていたが、なかなか始まらない。多くの人は手書きで思いの「サイン」を書いて掲げている。アリソンの家に集まった人たちは中国語ができる人が多いので、「中国からトランプへ。グレート・ウォール(万里の長城)はうまくいかなかったぞ」というサインを英中二カ国語で作ったら、道行く人にawesome!などと声をかけられた。サインは本当に様々で、中には「パレスチナ解放!」といったものもあれば、ごく稀に「家族計画を増やして中絶を減らせ」というリベラル派らしくないものも見かけたりする。

声の通る人が節をつけて耳なじみのいいキャッチフレーズを叫ぶと、周りの人がついていく。”my body, my choice”, “black lives matter”, “we need a leader, not a frequent tweeter”, “we’ll not go away, welcome to your first day!”等々。以前宮内康乃さんがニューヨークのデモのときに「音楽の生まれる瞬間に立ち会っているよう」と言っていたのを思い出した。

午後2時近くなって、ようやく行進が始まった。

著名人のスピーチやライブなどもあったらしいが、いつどこでやるのかは公表されておらず、結局一度も出会わなかった。だが、それもまたよかった気がする。ふつうの市民が、主張はけっこうばらばらのまま、とにかく自分の思っていることを書いたり叫んだりして歩く、というのが、近代で最も古い民主主義の歴史をもつこの国ならではのことのように思えた。”we gonna show, what the democracy look like!”というリフレインが心に残った。

午後10時の便でシカゴへ。直行便が高騰していて、ふつうは二、三時間のところ、フロリダ経由で10時間近くかかることに。電車では17時間くらいかかって翌日の舞台に間に合わないので、仕方なく。

夜のワシントン発オーランド行きの機内は、ウィーメンズ・マーチTシャツを着た女性同士がハイタッチしているのをトランプTシャツを着た男性が片目で眺めている、という他ではあまり見られなかった状況。フロリダ州は大統領選で票が分かれ、最後まで勝敗が決まらなかった州の一つ。フロリダに戻ったら、この人たちが対話を交わす機会はどれくらいあるのだろうか。

(おまけ)以下、Kumi Smithさんによるウィーメンズ・マーチで見かけた「サイン」、聞こえたキャッチフレーズ集

From the poetic to the profane, a catalogue of all the signs seen at the DC women’s march today:

–Rest of the world: we are sorry!

–Books not crooks

–Read more, tweet less

–I can’t believe I’m still protesting this shit

–Urine a lot of trouble

–Dump trump

–White silence = white violence

–Melania, blink twice if you need help

–Nobody likes you

–Screw us and we multiply

–You’re so vain you probably think this march is about you

–Show us your taxes

–Science is real

–Words matter

–GOP so small it fits in your uterus

–Patriarchy is for dicks

–Feminist AF

–OMG GOP WTF

–Tired of Trump already

–Grab them by the constitution

–Our children are watching

–Resistance is fertile

–What Meryl said

–Queer as Fuuuuu

–There will be hell toupe

–Tomorrow there will be more of us

–Nasty women seeking bad hombres, must love tacos

–Slay the patriarchy

–Let’s discuss the 🐘 in the womb

–Can’t combover mysogeny

–Seas are rising, so should we

–Make America good again

–Whit house white power

–Girls just want to have fundamental rights

–We will overcomb

–My family fled Russia for this?

–I may be gay but I can see straight through your BS

–Climate is changing why aren’t we

–We are not ovary-acting

–Cervix says: not my president

–This march doesn’t end today

–Don’t g̶e̶t̶ raped̶

–Global mourning

–Take your rosaries off my overvaries

–Our rights are not up for grabs, neither are we

–Fight like a girl

–Equal pay for equal work

–Science is real, unlike Trump’s tan

–I’d call him a cunt but he’s not warm or deep enough

–Patriots don’t grab pussy

–Sexual predator in chief

–I got 99 problems and white heteronormative patriarchy is all of them

–Separation of state and vagina

–You tweet, we march

–Eat pussy, don’t grab it

–Viva la vulva

–Watch his policies not his tweets

–There is no force more powerful than a woman determined to rise

–Keep public land in public hands

Rachael Cleghorn Veto the Cheeto!! 😆

Sami Khoury They do say that the best art is born from struggle.

Josefine Dz 1. “Patriots dont grab pussy was my friends sign – we were so close!

2. Another good one “Trump has 99 problems and THIS BITCH IS ONE.”

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大統領就任式

2017年1月20日

11時半から大統領就任式。近いエリアで見られるチケットを数日前に申し込んだつもりだったが、遅かったのか届かなかったので、仕方なくチケットなしで入れるというエリアに行ってみる。

途中で抗議活動も見かける。11時過ぎに連邦議会議事堂前に着くと、長蛇の列。昨日のウェルカム・セレブレーションに比べれば有色の人々の割合が多く、トランプに反対する立場を表明するバッジなどを身につけて参加する人もそれなりにいる。以下によれば、やはり白人が大多数ではあったようだが。
https://www.indy100.com/article/trump-inauguration-white-crowd-diverse-pictures-7538011?utm_source=indy&utm_medium=top5&utm_campaign=i100

仮面をかぶり、顔を隠して参加する五人のグループ。仮面を取ると「ノー・トランプ」とペインティング。「バイカーズ・フォー・トランプ」のメンバーから「ここはおまえらが来るところじゃないぞ」と声がかかる。「支持してなくても私たちの大統領なんだから、就任式を見にきてやったんだ。今こそ一つにならないと。」「ここはおまえらにとって安全なところじゃない。カメラに向かって微笑んでみな!」等々。

隣にいたMy Body My Choiceというバッジ(翌日開催予定のウィーメンズ・マーチのモットーの一つ)をつけた女性に声をかけられる。ニューヨークから来た学生で、ジャーナリスト志望だという。「あなたもニューヨークから?なんで来たの?」「ニューヨークではトランプ支持者に会う機会がないから」「そう、私もそう思って。あ、ちょっと声が大きいかも。気をつけて!」

持ち物検査がなかなか進まない。あとで聞くと、一部で抗議活動が暴徒化したせいもあったらしい。12時くらいになんとかゲートを通過したものの、チケットなしで入れるエリアにはスクリーンすらなく、声もよく聞こえない。携帯で生中継を観ている人も。時々演説に反応して声を上げる人もいるが、今ひとつ盛り上がらない。失敗。

なぜかトランプの演説中なのに、レッドチケットエリアから出てくる人も少なくない。スクリーンが小さく、そこでも見にくかったのかも知れない。

国家が聞こえると、沿道の警官たちが手を額にかざす。トランプ支持者の一人も真似するが、他の人たちはただ聞くだけ。

あまりに議事堂からもスクリーンからも遠く、2時間後にはパレードが通ると聞いたものの、体調も今ひとつだったので、今日は早めに退散。

アリソンの家に戻って、テレビで就任演説を見ていたアリソンのお母さんの感想を聞くと、「思ってたほどひどくはなかったけど、これまでの大統領の演説に比べて、哲学的な深みが全くなかった」とのこと。

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大統領就任式記念コンサートと表象の寡占という問題 2017年1月24日

2017年1月19日

ワシントンDCに来たかったのは、高校時代の同級生が記者としてここに赴任していることを知ったためでもある。

お昼をご一緒して、大統領選についていろいろ伺った。プロレス経験の後にキャラクターが変わったという話もあり、トランプの言動がどこまで「演技」なのかには議論があるらしい。ここまで世界の行く末を左右するパフォーマンスもなかなかないだろう。

今日は午後四時から、リンカーン記念館前で「メイク・アメリカ・グレート・アゲイン!ウェルカム・セレブレーション」がある。

http://www.independent.co.uk/…/donald-trump-inaugural-conce…
https://en.wikipedia.org/…/Make_America_Great!_Welcome_Cele…

ホワイト・ハウス前の通りを「バイカーズ・フォー・トランプ」が爆音でハーレー・ダヴィッドソンを飛ばしていく。ホワイトハウス前からリンカーン記念館までは徒歩で30分くらい。近づくに連れて人が増える。記念公園の入り口で荷物チェック。「バッグを持っている人はこっちの列に!」と叫んでいる女性は「ドナルドがヒラリーに勝利するDonald Trumps Hilary」というティーシャツを着ている。裏には「魔女は死んだThe witch is dead」。

ぱっと見たところ95%以上は白人だが、ごくたまにアジア人も見かける。スペイン語も時々聞こえる。ウィーメンズマーチのバッジをつけた人も。黒人は周囲には数人しかすれ違わなかったが、10人くらいの「ブラックズ・フォー・トランプ」というグループが通りかかると、歓声を呼んでいた。

リンカーン記念館前の客席には招待状を持っている人以外は入れず、それ以外は記念館前に延びる運河沿いに設置されたスクリーンでセレモニーの様子を観ることができる。前座として、「ザ・レパブリカン・ヒンドゥー」というインド系のグループがボリウッド風ダンスを披露している。

午後3:45頃、無名戦士の墓に花輪を手向ける儀式。ジャレド・クシュナー夫妻が出てきたところで大きな拍手。トランプが出てくると「USA、USA!」と連呼。

「バイカーズ・フォー・トランプ」の革ジャンを着た男性が隣の中国系の男性に、なぜトランプを支持するか、経済統計の数字を挙げながら熱く語っている。「俺の年収は4000万ドルだが(注:全然そう見えないのがすごい)、そのうち40%は税金で取られている。それがオバマ政権では敵国の支援に回されたりしている。ヒラリーになったらもっと税金が上がるという。やってられるか。どうせ税金をとられならアメリカのために使ってほしい。今の中国や日本との貿易はフェアじゃない」等々。

軍楽隊が国家の演奏をはじめる。ほとんどが白人だが、国歌を独唱するのはなんとアジア系の軍人。そのあと、インド系のドラマー「ラヴィ・ドラムズ」によるソロ・ドラム・パフォーマンスに乗せて50州の名前が次々に投影される。(ここではドラムセットに書かれたYAMAHAの文字がスクリーンにかなり大きく映っていて、「米国第一」のはずなのに大丈夫かな、と余計な心配をしていたら、だんだん映らなくなっていった。ちなみにあとで「ピアノ・ガイズ」が演奏するピアノもスタンウェイではなくヤマハ製だった。)そしてソウルの大御所で黒人のサム・ムーアと、黒人合唱隊による『アメリカ』。「ソウル・マン」で知られるムーアは今年81歳。かつて公民権運動に参加したこともあるというムーアは、「みんなで手を携えて新たな大統領と一緒に働いていかなければならない」という声明を発表している。

この日の参加アーティストと、参加に関する声明については以下を参照。
http://www.vulture.com/…/donald-trump-inauguration-performe…

ここまでは一見すると、人種問題にかなり配慮しているように見える。だが全体を通して見れば、「有色」のアーティスト(「多様性」担当の)をいわば前座扱いでなるべく早めに出しておいて、後半の盛り上がりは白人のアーティストで作っていくことを正当化する戦略があることが分かる。その後に出演するのは主に南部のカントリー歌手で、最後はモルモン・タバナクル合唱団。歴史的経緯から、モルモン教徒には黒人はかなり稀で、この名高い合唱団にも黒人メンバーは360人中数人しかいない。タバナクル合唱団はかつてニクソン、レーガン、ブッシュ父子の就任式にも参加している。

たしかカントリー歌手の一人の歌のなかで「白人だとか黒人だとかで、なぜお互い傷つけあうのか?」というのがあったが、非対称性をもった関係を「お互い(each other)」という表現で語るのが微妙だと思ったら、帰り道に「黒人もヘイトクライムを煽っている」というメッセージTシャツを着た白人の男性を見かけた。

米国は「国家のために国民一人一人が命を捧げる」ことを可能にする近代的ナショナリズムの表象体系を最も早く築き上げた国でもある。とりわけコンサートの後半では、このイデオロギーを個人の自発的意志として語る歌が多かった。

カントリー歌手リー・グリーンウッドの『ゴッド・ブレス・ザ・USA』は準国歌とも言われる歌で、トランプ陣営のキャンペーンにも使われていた。最も盛り上がった場面の一つ。

「今日ここで暮せるという幸運の星に感謝しよう
自由のために立つ旗は 誰も奪えはしない

アメリカ人であることに誇りを持つ
とにかくここは自由だから

忘れてはならないだろう
私に自由を与えるために亡くなった人たちを

喜んで立ち上がろう
今日アメリカを守るために君に続こう
だってこの国を愛しているのは間違いないのだから

合衆国に神のご加護あらんことを」

(翻訳は以下より)
http://igusa.doorblog.jp/archives/27930048.html

この日出演した最大のビッグネームはオクラホマ州出身のカントリー歌手トビー・キース。キースはブッシュ、オバマのためにも歌っていて、トランプを祝福するのと同時に「バラク・オバマの8年間の奉仕に感謝する」とも述べている。イラクやアフガニスタンでも米軍のために200回以上歌ってきたという。

なぜ神はとりわけアメリカ合衆国を祝福するのか。合衆国大統領は「グローバル・リーダー」だという大統領就任式チェアマンのトム・バラックの演説、トビー・キースの軍人だった父に捧げる歌や最後のタバナクル合唱団による「リパブリック讃歌(グローリー・ハレルヤ)」などを聞いて、その論理がちょっと腑に落ちた気がする。なぜならアメリカ人は身を賭して(この国の国民の、時には世界の)自由のために戦っているからだ。「神の真理が前進していく」ために。アメリカ人は自分たちが自由でいられるために戦って死んでいった軍人たちを敬わなければならない。そして世界の人々も。

「主が人々を聖きものとするため死したように、我らを人々を自由にするため死なしめよ
そして神は進み続ける

栄光あれ、栄光あれ、神を称えよ!(Glory, glory, hallelujah!)
主の真理は進み続ける

世界は主の御足台となり、時の[悪しき]魂は主のしもべとなる
我らの神は進み続ける」
(「リパブリック讃歌」抜粋、邦訳は以下より)
https://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%AA%E3%83%91%E3%83%96%E3%8…

後ろにいたテキサスから来たという70代の白人男性はティム・ラシュロー(元リトル・テキサス)の「ゴッド・ブレス・テキサス」で涙を流していたが、ニューヨーク育ちのトランプがやたらと南部のカントリー歌手を持ち上げるのもちょっと奇妙な話ではある。このコンサートでは、なかなか出演してくれるアーティストが見つからない、というのが話題になっていた。特に若い世代のアーティストは名前の知られたアーティストがほとんど出演していない。「ラヴィドラムズ」が三回目に登場した際には、「もう見飽きた」ということなのか、周囲からブーイングの声も聞こえた。

1/21に予定されているウィーメンズ・マーチの方が、「大物」アーティスト(基準にもよるが)の登場が見込まれている。2009年のオバマ就任時のウェルカム・セレブレーションにはビヨンセ、ブルース・スプリングスティーン、U2、スティーヴィー・ワンダー、ボン・ジョヴィなどが出演して40万人を集めたのに対して、今回の来場者数は1万人程度だった。
http://www.independent.co.uk/…/donald-trump-inaugural-conce…

このあたりで気になるのは、この国における表象の寡占をめぐる問題だ。記者の友人から、ワシントン・ポストやニューヨーク・タイムズなど大手の新聞はほとんど民主党支持で、共和党支持の重要なニュースメディアはFOXニュースくらいだ、という話を聞いた。これは今回の大統領選挙でトランプ当選を予想した大手メディアがほとんどなかった理由の一つでもある。

ニューヨークやワシントンD.C.やハリウッドのリベラルなメディア関係者の多くには、メディアを通じて国民を先導しているという意識を持っている一方で、中西部や被都市部の住民の多くは、マスメディアは自分たちの思いを代弁してくれない、と感じているのだろう。この構造がトランプ当選の背景にあるのだとすれば、反トランプ派が「トランプの就任記念イベントにはほとんど大スターが登場せず、観衆も大して集まらなかった」と言い立てることは、この溝を深めることにしかならないようにも思う。

大統領就任式記念コンサートと表象の寡占という問題 へのコメントはまだありません

ニューヨーク、ワシントンDC、北京 2017年1月21日

2017118

ニューヨークからワシントンDCへ。大統領就任式とウィーメンズ・マーチの見学に。明日1/19にはウェルカム・セレブレーション、1/20に就任式、そして1/21にはプロテストの意味も込めたウィーメンズ・マーチがある。ニューヨークの一月の舞台シーズンが一段落したので、こちらの方が見ものが多いのではないかと思った。

もう一つの目的は、米中文化交流のキーパーソンの一人、北京の舞台芸術制作会社ピンポン・プロダクション創立者のアリソン・フリードマンに会うこと。

http://pingpongarts.org/founder/

アリソンとは二年前のインドネシアン・ダンス・フェスティバル(ジャカルタ)で一度会っていて、一週間ほど前にニューヨークで再会した。アリソンはDC出身で、この時期にDCにいて、ウィーメンズ・マーチに向けて、多くの友人が泊まりにくると聞いて、一緒にご実家に泊めていただくことになった。

ワシントンDCはニューヨーク同様にかなりリベラルな土地柄で、民主党の地盤。アリソンのお母さんは「「ノードラマ・オバマ」と呼ばれた物静かなオバマが好きだったんだけど、ワシントンの雰囲気も変わるかもね」とおっしゃっていた。

アリソン・フリードマンはオバマやクリントンの娘と同じ中学・高校シドウェル・フレンズ・スクールに通い、中国語をはじめた。夏休みに六週間日本に滞在し、利賀村で鈴木忠志によるギリシャ悲劇を観て、広島の原爆記念館で献花とスピーチをしたこともあるという。(ちなみにオバマは娘サーシャをこの高校につづけて通わせるため、あと二年はDCに住みつづけるらしい。)

そしてブラウン大学卒業後にフルブライト奨学生として北京の国立舞踊学校に留学し、その後DCのケネディ・センターで、舞台芸術で米国と中国とをつなぐ活動をつづけている。アリソンが製作元になった北京のダンスカンパニー「タオ・ダンスシアター」やワン・チョン主催の薪伝実験劇団は世界各地で公演をつづけている。

最近北京につづいてニューヨーク事務所を開設。今はワシントンDC事務所開設のため、こちらに滞在している。

ピンポン・プロダクションの活動が米中文化交流において重要なのは、米国はヨーロッパ諸国のように文化省をもたないためでもある。米国では連邦政府は文化芸術にはなるべく口も手も出さない、というのが国是となっている。そのため、フランスのアンスティテュ・フランセやドイツのゲーテ・インスティチュートなどに匹敵するほど積極的に米国文化を発信している政府系の組織はない。

中国の観客は外国で起きていることへの関心が高いため、劇場は競って外国の作品やアーティストを招聘しようとしているが、その際には渡航費や輸送費をカンパニー・アーティスト側で負担することを要求する場合が多い。西ヨーロッパ諸国であれば、政府系の助成金でそれを賄えるケースが少なくないが、米国の場合には個別のケースごとに財団や企業や個人などに資金提供を依頼するほかない。そのためもあり、中国で米国の舞台作品を観る機会はヨーロッパに比べると少ない。

日本でもこれは米国の舞台作品を観る機会が比較的少ない理由の一つとなっている。外国公演のための助成金がないわけではなく、たとえば以前SPACでネイチャー・シアター・オヴ・オクラホマ『ライフ・アンド・タイムズ』を招聘した際にはACCが助成してくださった。ピンポン・プロダクションも何度かACCの助成を受けている。米国の場合には助成の母体があまりに多様で、プロセスも基準も団体により全く異なるので、部外者には仕組みが分かりにくい、というのが最大の問題だろう。

一方中国では、米国の大学がかなり積極的に文化の発信に動いている。最大の目的は留学生の獲得。そういえばNYU(ニューヨーク大学)パフォーマンス・スタディーズ科のシェクナーの授業では、20人ほどの受講生のうち10人くらいが外国生まれで、うち5人は中国生まれだった(残りはイラン人が二人、韓国人、カナダ人、メキシコ人といったところ)。米国の大学では学費が高いかわりに奨学金制度が充実しているが、外国人学生は基本的に数万ドルの学費を定価で払わなければならない。訪問研究員として受け入れてもらっているCUNY(ニューヨーク市立大学)演劇科シーガル・シアター・センターでは、中国からの訪問研究員が四人いた。上海戯劇学院にはパフォーマンス・スタディーズを教える「リチャード・シェクナー・センター」があり、さらにCUNY演劇科のマーヴィン・カールソンの名前を冠した「マーヴィン・カールソン・シアター・センター」も設立されている。

ニューヨークでは数多くの中国人留学生や中国出身のアーティストに出会ったが、みんな英語がよくできて、米国の先鋭的な芸術への関心が高い。彼女ら(演劇・芸術系では女性が圧倒的に多い)、彼らが帰国してから10年後、20年後の中国は、だいぶ様変わりしているのではないか。一方日本からの留学生にはあまり出会っていない。

中国では2015年に教育相が「西側の価値観」を排除するよう通達を出したこともあったが、米国の作品を紹介する場合、米国を批判するようなものであれば受け入れられる可能性が高いという。幸い、米国は米国を批判する作品には事欠かない(これが米国の面白いところでもある)。そういえばCUNY演劇科の中国からの訪問研究員のうち二人まではアフリカンアメリカン文学を研究していた。二人によれば、中国の米国研究者のなかでは比較的ポピュラーな主題だと言っていたが、今にして思うと、なるほど、と思わないでもない。

DCでは何年か前に中国語と英語半々で授業を行う公立の幼稚園・小学校ができた。それも、大半は特に中国系ではない白人や黒人の子どもが、4歳から中国語で社会科や算数の授業を受けている。アリソンは10歳児のクラスで中国出身の先生が早口でまくしたてるのに学生がふつうにうなずいているのを見て驚いたという。オバマの娘サーシャが中国語を学んでいたのは知られているが、DCには子どもに中国語を学ばせたいという親が一定数いるらしい。ピンポン・プロダクションのワシントン事務所ではこの学校と提携して、中国のアーティストとのワークショップなどを行う予定だという。

トランプ政権が始動する前から、米中外交は先行きが見えにくくなっているが、「国」同士の関係だけ見ていると、この先何が起きていくのかを見誤るかも知れない。

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