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1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(3) 舞台芸術の構造的危機 2017年3月19日

(承前)

2.米国における実験的演劇の製作状況

2.1.舞台芸術の構造的危機

まずはアーティストの視点から見ていこう。以下のイヴォンヌ・レイナーの言葉が、この時代のニューヨークの実験的な舞台芸術の経済状況とその変化を端的に示している。

「ニューヨークで生活することの経済的な負担が、・・・自分たちがやっていることによってみずからの生活を維持することへのいかなる期待をも抱かないことを許したのです。成功は人が招待された展覧会の数ではなく、仲間内での尊敬によって測られていました。・・・市場経済に乗せることのできる売買可能な品物を作ることからくるプレッシャーは、ダンスの制作においてまったく欠如していました。これは私たちを金銭的報酬の可能性から自由に――そして幸福にもそれを忘却しながら――制作することを許したもうひとつの要因でした。

私があなたに見せびらかしている「古き良き時代」は、だいたい1960年から64年のあいだのほんの数年しか続かなかったことを認めなければなりません。その後には全面的なディアスポラが――地理的にも職業的にも――起こりました。アーティストたちは自分のギャラリーと教職を見つけ、コレオグラファーたちはカンパニーと役員会によってみずからを制度化しはじめました。これは前衛の活動がたどる一般的な道筋のようです。」

若いアーティストへの手紙/イヴォンヌ・レイナー(訳:中井悠)

http://nocollective.com/transferences/rainer/letter.html

この「1960年から64年」というのは、ほぼケネディ政権に相当する。この表現から、1965年に大きな変化があったことが見えてくるが、まずはケネディ政権下の芸術活動の状況を見ていこう。以下、主にフレデリック・マルテル『超大国アメリカの文化力』から(ほとんど読書メモです)。

米国では1960年代初頭、文化的活動と芸術鑑賞の機会が増え、「文化ブーム」という言葉が流行していた。五〇〇〇の劇団、七五四のオペラカンパニー、二〇〇のダンスカンパニーがあり、美術館・博物館もほぼ一〇年で四倍に増えた。ケネディも「野球の試合に行く人よりも音楽会に行く人の方が多い」と繰り返し語っている。だが、このうちプロといえる劇団や楽団はそれほど多くなかった(マルテル『超大国アメリカの文化力』p. 31)。レイナーの言葉からも見えるように、ブロードウェイなどのいくつかの限られた場所以外では、舞台芸術を職業として生きていくということが考えられる状況ではなかった。

とはいえ、「文化ブーム」のなかで需要は喚起されたものの、プロとしての舞台芸術家を雇用している特権的な場所においてすら、労働環境はかなり厳しかった。それが露呈したのが1961年のメトロポリタン・オペラの労働争議である。同年夏、低賃金を不服とする音楽家たちがストライキに突入。経営陣は「幕が上がるたびに」赤字が嵩む、とし、労働組合の交渉も不調に終わる。シーズンが中止され、500人が解雇の危機にさらされた。スター歌手たちに懇願されたケネディは労働長官アーサー・ゴールドバーグに調停を命じ、この種の社会紛争にはじめて連邦政府が介入することになった。不満は国内の他のオーケストラにも広がっていた。

ゴールドバーグはこれが構造的問題であることを認め、「民間」の文化施設に対する公的助成という考えをはじめて提示し、入場料収入とフィランソロピーという伝統的財源のほかに、営利企業・労働組合・州や都市・連邦政府の六つの異なる財源から資金を獲得することで収支を均衡させ、同時に創造の自由と多様性を確保すべきだとした。この「ゴールドバーグ宣言」が画期的だったのは、「連邦政府」が民間の芸術活動の財源の一つとなる可能性を提示したことだった。ゴールドバーグは文化分野への支援を検討するために「連邦芸術諮問会議」の設置を提案した。このあと、1962年夏に、ケネディは大統領特別補佐官シュレジンガーと特別文化補佐官アウグスト・ヘクシャーに、現在連邦政府や州政府が行っている文化に関する施策、ヨーロッパで行われている文化政策、芸術のための免税制度等について詳細な調査を依頼した。ヘクシャーは1963年6月に詳細な報告書を提出し、芸術家・文化機関に助成金を交付する連邦機関「全米芸術財団」の設置を提言した。同月、「連邦芸術諮問会議」も創設されることになった。これらはメディアからは評価されたが、ケネディは議会との関係に苦慮しつづけ、芸術支援事業を法制化するには至らなかった。ケネディは同年11月に暗殺される(p. 46-48)。

つづくジョンソン政権の時代に、舞台芸術の危機的状況をより俯瞰的に示す重要なレポートがいくつか発表される。一つは二人の若手経済学者ウィリアム・J・ボウモル、ウィリアム・G・ボウエンによる『舞台芸術 芸術と経済のジレンマ』(原著刊行は1966年、邦訳1994年、池上 惇・渡辺守章監訳)。大量生産時代にあって、舞台公演は手作りでしか成り立たないという特異性があり、「だれも、45分間のシューベルトのカルテットを演奏する労働コストを削減することはできない」。そのために、今日の舞台芸術は慢性的な危機状況にある。赤字を埋めるためには今後10年間で入場料を70%上げなければならないが、そうすると観客が減り、さらに一席あたりのコストがさらに増大するという悪循環を招く。唯一の解決策は観客数の母集団を引き上げること。この時点ではまだ舞台公演はほとんど大都市に限られてきたが、地方での公演を増やし、庶民やマイノリティの観客にも芸術を開放することが必要だ、と主張した。同時期に発表されたロックフェラー兄弟基金による報告書も、プロの実演家となることが困難な状況にあることを指摘し、「文化の民主化と芸術的質の両立」を目指すべきだとしている。そして、フィランソロピーだけが芸術家の自由を保つことができる、としながらも、州や市の助成金拡大を促し、さらにはじめて連邦政府にも支援を呼びかけることを提案している。以下の言葉は、「文化の民主化」という新たな思想を端的に表している。「芸術はごく少数の特権階級のためのものではなく、万人に開かれていなければならない。…文化が占める位置は、社会の周縁ではなく中心である。文化は娯楽の一つの形態ではなく、我々の福祉と幸福に欠くことができないものだからである。」

これと並行して、アーティスト側の意識も変化しはじめる。オーケストラ・美術館・博物館などは芸術活動の自由を護るために公的助成に激しく反対してきたが、1960年代に財政的安定が崩れると、より開かれた態度を示すようになる。そして劇場連絡協議会、オペラ・アメリカ、ダンスUSAなど専門団体の組織化がフォード財団やロックフェラー財団の支援を受けて進み、労働組合とともにロビー活動をはじめるようになる。これらもケネディ・ジョンソン政権が芸術活動の支援を構想する背景となった。(p. 67-71)

(つづく)

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米国におけるtheatreとtheater 2017年3月18日

そういえば米国に行ってみて、一つ積年の謎が解けた。静岡県舞台芸術センターと静岡芸術劇場の英語表記について。Shizuoka Performing Arts Center, Shizuoka Arts Theatreと、なぜCenterはerで、Theatreはreなのか?どちらも英国ではer、米国ではreと、学校では習っていたので、ずっと不思議に思っていた。

実際には事態はより複雑だった。演劇/劇場については、米国でもtheatreとtheaterの両方の表記が混在している。この使い分けは、結局のところ統一の基準があるわけではなく、人によって様々のようだが、こんな話がある。以下、フレデリック・マルテル『超大国アメリカの文化力』から、ケネディの文化特別補佐官だったアーサー・シュレジンガーについて。

「演劇ファンと言っても、実のところシュレジンガーはミュージカルの熱烈なファンだったのだ。彼が回顧録で一九三〇年代の歌について語るとき、読み手には彼の熱い気持ちが伝わってくる。だが同時に彼の劣等感も読み取れる。偉大なる英国演劇に対して、アメリカでは「シリアスな」演劇が主流とならない現実。シェイクスピアに対して、ミュージカルがもたらす安易な喜び。これらを考えあわせた時、シュレジンガーはいささか引け目を感じていたようだ。そんな時彼は、アメリカの「演劇(Theater)」は英国の貴族的でエリート主義の「演劇(Theatre)」とは異なり、民衆により近いものなのだと自分に言い聞かせた。だからこそ、彼は「プロレタリア的な」作品を賞賛するのである。」(p. 22)

これはもちろんフランス人外交官の意地悪な分析なので、シュレジンガーが本当にミュージカルにそんなに「引け目を感じて」いたかは定かではないが、少なくとも英国的な「演劇」と、より米国的な「演劇」(とりわけミュージカル)とが、米国である程度共存していることも読み取れる。英語のtheatre/theaterはフランス語のthéâtreから来ているので、reの方がヨーロッパ的なのに対して、erの方が英語の発音の論理に忠実で、英国ではあまり使われない分、より米国の独自性が主張できるわけだ。

実際に現在の米国の劇場を見ると、ミュージカル劇場や映画館ではよくtheaterが使われているのに対して、非営利のより「シリアス」で「芸術的」な劇場では、基本的にはtheatreが使われている場合が多い。(以下にシカゴの劇場の例を。)

だとすれば、「静岡芸術劇場」は、米国の文脈でも、やはりarts theatreでなければならない、というわけなのだろう。

Victory Gardens Biograph Theater, 今は劇場として使われているが、元は映画館だった

Goodman Theatre, シカゴを代表するレパートリー・シアターの一つ

Harris Theater, ダンスや音楽がメインの劇場

Steppenwolf Theatre Comapny, シカゴを代表するもう一つのレパートリー・シアター

ノースウェスタン大学演劇科、もちろんtheatre

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カテゴリー: ACC 文化政策 米国演劇

1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(2) 米国演劇における「前衛」とは何か

以下、すっかり出しそびれていましたが、全米芸術基金(NEA)予算削減/廃止問題で米国の文化政策への注目が集まっている(?)うちに…。

(承前、2016年112日の「1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(1) フランスの状況と米仏関係」 https://goo.gl/Kbvkmi につづく )

ちょっと話が戻るが、なぜここで米仏の事情を取り上げているかというと、1970年代以降に米国でパフォーマンス・スタディーズが研究対象としてアジアの演劇を取り上げていくことと、同時代にフランスで太陽劇団やピーター・ブルックが実践的にアジア演劇に触れていくことは、一見似ているが、実は文脈がだいぶ異なっていた、という話をしたかったのだった。大まかにいえば、一方は「前衛演劇」、もう一方は「民衆演劇」という枠組が前提になっていたわけである。これは1970年代以降、米仏の演劇交流が少なくなっていった理由の一つだろう。では、なぜ米国では「前衛演劇」という枠組が重要だったのか。

(もう一つ米国において重要なのは、「前衛演劇」の系譜においては多くの場合言及されることのない、アジア系米国人による演劇の歴史が並行してあるということだが、これについてはここではあまり触れない。また、いわばこの間にあるのがバルバの「文化人類学的演劇」だろうが、これについてもここでは触れずにおく。)

0.米国演劇における「前衛」とは何か

もう少し問題の焦点を絞っておこう。フランスでは60年代以降「前衛演劇」という枠組みが参照されなくなっていくのに対して、米国ではなぜ70年代に至るまでそれが存続したのか。あるいは、今に至るまで「前衛演劇」というモデルが存続しつづけているのか。

まずは米国の文脈において、「前衛」とは何かを確認しておこう。クリストファー・イネス(『アヴァンギャルド・シアター 〈1892-1992〉』、原著1993年刊)では、「前衛」という概念の参照項として、マルクス、バクーニン、ポッジョーリ、ビュルガーを挙げている。つまりこの言葉は共産主義や無政府主義における革命という概念と結びついていた。残る二人は革命家ではなく、1960年代以降に活躍した研究者・批評家である(レナート・ポッジョーリ『アヴァンギャルド芸術の理論』イタリア語版1962年/英訳1971年、ペーター・ビュルガー『アヴァンギャルドの理論』(ドイツ語版1974年)。これらは60年代の演劇活動自体に大きな影響を与えたわけではない。ここで重要なのは、ここで挙げられている四人が全員ヨーロッパの出身だということだ。Avant-gardeという言葉は、フランス語がそのまま使われていることからも分かるように、ヨーロッパの近代芸術史との接続を示す概念であり、アメリカ固有の歴史に根ざすものではない。より英語固有のvanguardという単語もあり、「ヴィレッジ・ヴァンガード」(ニューヨークのジャズクラブ、1935年創業)などで使われることはあるものの、この文脈ではむしろavant-gardeが使われる。ここには、東海岸知識人のヨーロッパ文化に対する憧憬と愛着が表れている。

だが共産主義や無政府主義の文脈において使われてきた概念が、なぜ冷戦下の米国においてこれほど重要なものでありえたのか。それには少し歴史的文脈を知っておく必要がある。米国における「前衛」美術・演劇の歴史においてはガートルード・スタインが果たした役割が大きい。スタインは1903年から1914年にパリに滞在し、前衛芸術運動に深く関わった。そしてアーティストたちのパトロンとなって、米国に多くの作品をもたらした。これは米国のコレクターにも影響を与え、同時代のヨーロッパ作品が数多く米国に渡るきっかけともなった。さらには第二次大戦中、米国はデュシャン、ブレヒト、クルト・ヴァイルなど、多くのアーティストを亡命者として受け入れることとなる。つまり、米国は少なからず、ヨーロッパで危機的状況にあった「前衛芸術」の救世主ともなったのである。

1960年代は、「文化ブーム」の時代であると同時にテレビの時代でもあった。ケネディ・ジョンソン政権下の文化政策は、マス・カルチャーの圧倒的な隆盛に対して、いかにしてハイ・カルチャーを保護するか、という視点から考えられていた。冷戦下の外交上の理由からも、いかにして米国の「自由」な環境が(ソ連やあるいはヨーロッパよりも)「卓越した」芸術を生み出しうるのか、ということを示す必要があったのである。

米国のアヴァンギャルド・シアターは、マス・カルチャーでもハイ・カルチャーでもないカウンター・カルチャーを生み出そうとしていた。だが一方で、この動きを主導したアーティストの多くは東海岸知識人の系譜に連なり、ヨーロッパの近代演劇史を強く意識していた。リヴィング・シアターやオープン・シアターがアメリカ式の(「大衆的演劇」といったニュアンスを持つ)theaterではなくヨーロッパ式のtheatreを使っていたことはこの系譜的意識を象徴している。(ちなみに、例えばネイチャー・シアター・オブ・オクラホマは、主にtheaterを使っている。)ヨーロッパの歴史的アヴァンギャルドとこの米国演劇界の動きの共通点は、純粋芸術を否定し、社会運動としての側面を重視していることである。つまり、米国のアヴァンギャルド・シアターは、純粋芸術でもなければ、大衆的演劇でもない。一方で、フランス的「民衆演劇」の理念を共有しているわけでもない。では米国の前衛演劇はどのような意味で「社会運動」なのか、というのは、かなりややこしい問題だが、追って少しずつ見ていこう。

70年代に至るまで、というのは、1980年代初頭にはリチャード・シェクナーが一度「前衛演劇」の終焉を宣告しているからだ。演出家の権威が失われ、パフォーマーが演出家に従わなくなったという。80年代以降、劇団による活動よりもパフォーマーが個人として行う「パフォーマンス」が盛んになっていき、また「プロフェッショナル」としての技術自体が疑われるようになり、アマチュアとの境界もあいまいになっていく。ここにはシェクナー自身が創始したパフォーマンス・スタディーズの影響も見ることができるだろう。

80年代~90年代以降にもジョン・ジェスラン(1951~)やレザ・アブドー(1963~1995)など「前衛」の系譜に連なるような演出家が出現するが、たとえばイラン出身のアブドーは明確に「前衛」というレッテルを拒否し、「自分がやっているのは大衆的なエンターテインメントだ」と主張していた(Arnold Aronson, American Avant-Garde Theatre: A History, Routledge, 2000, p. 181-197による)。この背景には、連邦政府の方針転換もあるだろう。1981年に発足したレーガン政権で全米芸術基金(NEA)の事業計画において大きな役割を果たした保守派の美術批評家ルーズ・ベレンソンは、「私たちの文化の保守的な面が(全米芸術基金においては)まったく見えない。・・・前衛あるいは自称前衛は、一種のアカデミーになってしまった」と発言している(フレデリック・マルテル『超大国アメリカの文化力』p. 261)。

だが一方で、今でも「前衛演劇」は米国において重要な参照項ではありつづけている。その理由の一つとしては、ウースター・グループやリヴィング・シアターといった60年代~70年代に活躍した劇団がまだ活動をつづけているということがある。リチャード・シェクナーもロバート・ウィルソンもまだ演出家として現役だし、リチャード・フォアマンは最近活動を停止したばかりだ。だが、フランスでも太陽劇団やピーター・ブルックはまだ健在であり、焦点はむしろ、なぜフランスではこれらを「前衛」とは名指さなくなったのに対して、米国ではこの概念が使われつづけているのか、ということだ。

さらに問題を先取りしておけば、だからといって、1960年代において米仏の個々の演劇人の表現がどの程度「前衛的」で、どの程度「民衆的」だったか、というのはまた別の問題だということだ(また、「民衆」とは誰か、というのもさらに別の大きな問題である)。たとえば1968年において、リヴィング・シアターはパリの学生とともにオデオン座占拠に加わり、またアヴィニョン演劇祭において『パラダイス・ナウ』の上演中止を機に、学生たちとともに演劇祭の運営側と対立している。このなかで、「民衆演劇」運動を主導していたアヴィニョン演劇祭創立者のジャン・ヴィラールやオデオン座支配人だったジャン=ルイ・バローは、むしろ国家の支援を受けた既得権層と見なされるに至る。皮肉にも、少なくとも五月革命に加わったフランスの学生たちにとっては、フランスの「民衆演劇」よりも米国の「前衛演劇」の方が親近感を持てる存在だったわけである。

だが、1960年代に生まれるこの米仏演劇史の差異は、1970年代以降の流れを決定づけ、それ以降は米仏演劇史がほとんど交叉しなくなるに至る。これは「世界演劇史」を考える上でも、重要な出来事だと思われる。

以下、このような事態に至った原因を、理念よりもむしろ米国における舞台芸術の制作状況と文化政策にもとづいて考えてみたい。

(つづく)

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カテゴリー: ACC 文化政策

ハバナ滞在記(3) キューバの舞台芸術事情 2017年3月17日

ようやく少し、舞台の話も。キューバの舞台芸術製作事情について。劇場は基本的に国営で、俳優やダンサーは基本的に文化省から給料をもらっている。というと、旧ソ連・東欧や中国のような共産圏の国立劇場システムを思い浮かべてしまうが、よく聞いてみると、だいぶ事情が異なる。

ハバナで「国立劇場」といえば、アリシア・アロンソ・ハバナ大劇場(Gran Teatro de La Habana «ALICIA ALONSO»)。主にオペラやバレエを上演している。1915年、莫大な建設費がつぎ込まれて落成した巨大で華やかな建築。今はキューバを代表するバレリーナ、アリシア・アロンソの名が冠せられ、オペラやダンスやクラシック音楽を中心とする劇場となっている。アリシア・アロンソは72歳まで現役で、目が見えなくなっても『カルメン』などを踊りつづけた。今では95歳になっているが、なお劇場に足を運びつづけている。目が見えなくても、振付家に意見を聞かれると、「今日はあのダンサーのステップが違った」などと指摘するという。ガイドツアーに参加したら、オペラの練習風景も見ることができた。ガイドさんが若手のオペラ歌手だそうで、ときどき歌を口ずさんでいるのを聞いてリクエストしたら、よく響くホワイエで短い曲を歌ってくれて、うれしかった。今回は残念ながらここでは作品が見られなかった。

アリシア・アロンソ

ハバナ大劇場

アリシア・アロンソが立ち上げたバレエ・カンパニーは1955年に「国立バレエ団」となった。同様に、キューバの演劇界では、劇場が先にあるのではなく、まずは「劇団」らしい。その劇団が自ら劇場を作ったり、既存の劇場をカスタマイズして使ったりして、活動が成功したものは、国がその劇場を「国立劇場」として支援したり、新たに劇場を貸し与えたりする。今回話を聞くことができた劇団の多くは、国営の劇場の一つを占有使用している。

一番典型的かつ重要な例はテアトロ・ブエンディーア(Teatro Buendía)だろう。ブエンディーアは2012年にロンドンのグローブ座で37カ国からシェイクスピアの37作品を上演したワールド・シェイクスピア・フェスティバルで『(もう一つの)テンペスト』を上演している。この劇団は1980年代に演出家フロラ・ラウテン(Flora Lauten, director)と劇作家ラケル・カリオ(Raquel Carrió)によって創立。フロラはキューバ革命直後、1960年にミス・キューバとなり、革命政権の宣伝のために世界中を回った経験があって、キューバでは有名人だ。ラケルは1976年にハバナの国立芸術大学演劇科の創立に関わり、フロラとはそのときから一緒に仕事をしている。演劇科の卒業生が舞台に立てる場を作るためも考え、廃墟となっていたギリシア正教会を、元学生たちとともに改修して劇場にしていた。だが昨年、隣の大木が朽ちて倒れ、屋根と給水タンクが壊れてしまい、復旧の見込みは立っていないという。

劇団が公演する際には、劇場と衣裳製作費等、一定の製作費が与えられるが、数百CUC程度。多くの場合、それだけでは足りないので、それ以外にもスポンサーを探すことになる。たとえばテアトロ・エル・プブリコの公演の場合、ノルウェー大使館やドイツ大使館の他、いくつかのお店などかがスポンサーになっている。俳優もダンサーも、月給は20CUC(=20USドル)前後らしい。基本的には副業をせずに、なんとかその仕事のみで生活をしているという(どうやって?と思わないでもないが・・・)。ダンスの方が観客は多く、ダンサーは比較的仕事があるが、演劇の場合には仕事を見つけるのはそれほど容易ではない。ダンサーは30代後半になると、生活に不安を感じて、外国に行ってしまうケースが少なくないという。演劇の場合はダンスよりも年齢に見合った仕事が見つかりやすく、米国では言葉の問題もあるために、ダンサーよりも国外に出ることが選択肢とはなりにくいのだろう。

キューバ演劇は、今回知った限りでは、米国と違ってほとんどリアリズム的な演技が見られず、その意味ではむしろヨーロッパ的な感じがする。劇団制度があって、一応生活が保障されているため、俳優のレベルというか、作品への打ち込み度も米国よりも高い印象がある。全て国営なのに、かなり体制批判的な作品も作られているのが、ちょっと不思議な気もする。中国などのように脚本を事前検閲する制度はない。テレビの検閲は厳しいが、演劇はマスメディアではないので、かなりセンシティブな問題に触れることも比較的容認されているという。批評家が専門家としての立場でそれを支持することで、政府も内容に介入しにくくなっている。マスメディアが触れられないことに触れられるからこそ、人気劇団の公演は何ヶ月もにわたって毎週末満員になっているのだろう。ただし、内容によって上演中止になることはある。作る側は、だいたいどれくらいまでなら大丈夫か、よく分かっているらしい。今回唯一実際に見ることができたテアトロ・エル・プブリコの新作『ハリー・ポッター』(!)は、オバマ、トランプ、ヒラリーが出てきて、キューバ政治への強烈な皮肉もあり、政治的にもセクシャルな表現についても、かなり過激な作品だった。なんで『ハリー・ポッター』なんだ?と演出家のカルロス・ディアスに聞いてみたら、「キューバで生きていくには魔法が必要なんだ」とニヤリ。たしかに・・・。

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オーストラリア先住民芸術とアジアの舞台芸術 2017年3月10日

振り返ってみると、メルボルンで行われた今回のAPP(Asian Producers Platform)キャンプは私にとって特別な意味を持っていたような気がする。四回参加したことで見えてきたことがあった。

APPキャンプ2017について

https://www.jpf.go.jp/j/project/culture/perform/oversea/2017/02-02.html

今回のグループリサーチでは「先住民芸術 未来の顔は?Indigenous Arts ― The Face of the Future?」というテーマのグループに参加した。オーストラリアには以前にもAPAMで来たことがあったが、先住民(いわゆるアボリジニとトレス海峡島嶼人)のプロデューサーやアーティストと直接話すことができたのは初めてだった。リサーチグループのリーダーのドリーナもマオリ系で、ニュージーランドで先住民によるダンスグループを立ち上げていた人で、当事者としてこの問題にかかわっている。

私がこれまで見てきたオーストラリア先住民アーティストによる作品は白人のプロデューサーによるものだったが、今回プロデューサーたちは、先住民としての立場から先住民アーティストの作品をプロデュースすることにこだわり、それによって作品をつくる枠組み自体を変えていこうとしている。私はこれまで先住民アーティストによる作品製作に「真剣に」関わってきた白人のプロデューサーたちを何人か知っていたので、この話を聞いて、はじめは今一つ意義が分からなかったが、具体例を聞いているうちに、何が問題なのかが少し見えてきた。

例えば、映画製作のための助成金申請には、通常スクリプトを提出する必要がある。だが、先住民アーティストたちはスクリプトを提出することを好まない。それでもプロデューサーは、彼/女たちが素晴らしい作品を作るアーティストであることを知っているので、それを信頼して、スクリプトなしで助成金が得られるように助成団体を説得することに成功した。

オーストラリア先住民には、ビジュアルアート、ダンス、音楽、演劇等々といったジャンルの概念はない。一口に「アボリジニ」といっても、言語も文化も部族によって全く異なるが、今回訪れたヴィクトリア州の先住民クリン人(Kulin Nation)は、これらを全て、物語を語るための手段と考えている。アボリジニには「ドリームタイム」という概念があるとされている(正確には、アボリジニのいくつかの部族の話から西洋人の人類学者が抽出した概念、といったところだが)。全てのものが生成し、名前がつけられていく時間。この過程には完成はなく、つねにつづいていく。だから、作品の完成という概念もない。すべては常にクリエーションの過程にある。時間の概念が異なるので、タイムキープや予算管理では、いわゆる近代的な、あるいは西洋的なアプローチとは全く違う方法を取る必要がある。

すべてはアーティスト本人と直接の信頼関係を築くことにある、と彼/女たちは語る。書類やお金やテクノロジーを媒介とせず、人と人との関係を築くこと。とにかくこの人なら、最後には何かすばらしいものを見せてくれるはずだと信頼すること。お互いにそれができるようになるには、時間をかけて、真に人間同士の関係を築く必要がある。もちろん同時に、家族や友達も大事にしなければいけない。だがアーティストも友人の一人なので、それは切り離せないもの。ときには職場に子どもを連れて行って、アーティストたちと一緒に時間を過ごすこともあるという。

非先住民のプロデューサーであれば、既存の西洋的な枠組みに適応させるための妥協をしてしまいがちなところで、今回会ったプロデューサーたちは、先住民の立場や考え方にこだわり、新たな枠組みを作り出そうとしている。「メルボルン先住民芸術祭Melbourne Indigenous Arts Festival」のディレクターとなった先住民系のプロデューサー、ジェイコブ・ボエム(Jacob Boehm)はフェスティバルの名前を「イーランボイ・ファースト・ネーションズ・アーツ・フェスティバル(YIRRAMBOI First Nations Arts Festival)」に変更した。「イーランボイ」はクーリン人の言葉で「明日」を意味する。ジェイコブとメルボルン市長は、この地域の6万年の歴史を見つめつつ、ともに「明日」を夢見ていこう、と呼びかける。

イーランボイ・ファースト・ネーションズ・アーツ・フェスティバルについて

http://yirramboi.net.au/about/

http://www.melbourne.vic.gov.au/news-and-media/Pages/updates-alerts.aspx

いろいろ話を聞いているうちに、西洋近代が作ってきた芸術という枠組みを越えていける可能性がここにあるような気すらしてきた。

六ヶ月ぶりに静岡に戻って、ちょっとほっとしたのは、まだここには顔の見える関係がある、と感じたからだ。「七間町ハプニング」のあいだに街を歩いていると、あちこちで知った顔を見つけ、声をかけてもらえる。パフォーマンスがあれば、同じ人に同じ場所で、同じ時間に出会うことで、会話が生まれ、束の間の共同性が生まれる。静岡市は2015年の「官能都市」(魅力的な街)ランキングで全国12位。東京・大阪を除けば、金沢市に次ぐ2位と評価された。

七間町ハプニング

http://www.c-c-c.or.jp/schedule/2017/02/post-18.html

「官能都市」ランキング

https://www.atpress.ne.jp/news/72741

人が人を魅了し、それが束の間の贈り物となって、複数の人の間に共同性を生んでいく。この「魅力」という「贈り物」のことを、ヨーロッパでは「優美(kharis, gratia, grâce…)」と呼んでいた。私が研究対象としてきた西洋演技論においては、この「優美」という概念が重要な位置を占めている。実はこの概念は、貨幣や書面での契約によらない、人と人との直接の信頼関係の礎となるような贈与を表す概念でもある。それが転用されて、舞台芸術のパフォーマーが観客を魅了する力を表すようになっていく。つまり舞台芸術はそもそも、このような第三項を媒介としない身体と身体との関係を築くものと考えられていた。それが近代になり、口承空間に代わって書記空間が社会のなかで重要な位置を占めるようになっていくなかで、第三項としてのテクストが主要な位置を占めるドラマというジャンルが立ち現れてくる。そのなかで、「優美」という概念がテクストの媒介者としての身体がもつ魅力へと、さらに転用されていくこととなる。

この流れは国民国家の生成とも重なっている。ラテン語に代わり、一定の地域で使われていた口語であった俗語が出版言語となり、やがて絶対王政のなかで国家語へと体裁を整えていく。このなかで、口承文化としての演劇もまた、宮廷と結託したアカデミーのお墨付きを得たテクストによって媒介されることになっていく。これはコミュニティの規模の問題でもある。口語はレヴィ=ストロースのいう「真正な社会」(顔が見える関係でつながっている社会)を越えられないのに対して、出版言語はそれを越えた規模の「非真正な社会」、アンダーソンのいう「想像の共同体」を築くことができる。

これに適合したのが、アリストテレス『詩学』に見えるテクスト中心主義だった。アテナイという出身ポリスを拠点とすることができたプラトンに対して、マケドニア出身のアリストテレスはアテナイにおいて、ある種の普遍主義を唱えざるをえなかった。口承文化への郷愁が色濃いプラトンに対して、アリストテレスは、地域と時間を越えるテクストの客観性を主張せざるをえなかった。これがマケドニア帝国主義のイデオロギー的根拠の一つとなり、「ギリシア語」を共通語とするヘレニズム世界が成立していく。

今の時代は、地中海世界の中心がギリシアからローマへと移っていったヘレニズム時代の後期とよく似ている気がする。世界経済の重心が移行していく中で、世界観や価値観も移り変わっていく。ここ数世紀の間、西ヨーロッパで培われてきた価値観が世界を覆ってきたが、これに伴って、新たな価値観が必要とされてきている。だが、それはまだ見つかったわけではない。新しい価値観は、おそらくまだこれから何世紀もかけて作り上げられていくのだろう。その中で、アジア太平洋地域のいろいろな現場で活動している人々が一同に集まって、一週間のあいだ、これからの舞台芸術のあり方について話し合うというのは、すぐに目覚ましい結果が出るものではないにしても、これまであまりなかっただけに、とても貴重な機会だと思う。

APPは来年以降も存続していくことになった。次回以降はより多くの人に開かれたものになりそうだ。日本からもより多くの人が参加してくれるものになることを願っている。

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ハバナ滞在記(2) 米国とキューバ、二重の歴史と二重経済 2017年2月20日

20世紀後半のキューバの歴史は、視点によって、大きく分けて、三つくらいはあるだろう。フィデル・カストロが英雄であった歴史。フィデルが悪夢だった歴史。そしてフィデルが英雄から悪夢となった歴史。大まかには、キューバ革命政府とその支持者から見た歴史、米国と在米亡命キューバ人の多数派から見た歴史、そして革命政府にはじめ期待を寄せ、のちに幻滅した人々(1962年以降に亡命したキューバ人も含む)から見た歴史に対応する。このうち第一の人々と第二の人々が出会う機会は、この半世紀間ほとんどなかった。ハバナで出会ったある演劇人が「もし革命後に出て行ったキューバ人たちが、ずっとこの国に留まってくれていたとすれば、今頃キューバはどんな国になっていただろう、と考えてしまう」と語っていた。今、そのキューバ人たちが少しずつ国に戻ってきつつある。キューバの人々は、この状況をどんな気持ちで眺めているのだろうか。

オースティンやメキシコシティで出会ったキューバ系米国人たちの何人かが、「1961年に米国に来た」と話していた。キューバ革命が起き、親米政権が倒されたのは1959年1月。フィデルは当初、米国との関係を保つことを模索し、同年4月にワシントンDCを訪れたが、アイゼンハワー大統領には会えず、ニクソン副大統領と会見。この時点ではまだ革命政権は明確に反米路線を取っていたわけではなかった。米国はやがてフィデルを「容共的」と見なし、暗殺と政権の転覆を謀っていく。1961年には米国に亡命していたキューバ人を中心とするキューバ侵攻(ピッグス湾事件/プラヤ・ヒロン侵攻事件)があり、革命政権によって撃退されている。その後、カストロは二年前の革命が社会主義革命であったと表明し、ソ連との結びつきを強めていき、翌年のキューバ危機へと至る。このとき米国に亡命した人々の多くは、カストロ政権は何年も持たないと考えていたという。

それから半世紀以上が経った今、二国間の演劇交流を支えているのは主に、革命自体の記憶を持たない世代となりつつある。第二世代のキューバ系米国人たちは、「祖国」キューバに対して、かなり複雑な思いを抱いている。美しい国、貧しい国。キューバの現政権に対しては当然批判的だが、キューバが米国経済に呑み込まれていくことを単純に肯定しているわけでもない。米国で育ったキューバ系米国人アーティストたちは、米国が夢の国ではないことを身に沁みて知っている。一方でキューバに住むアーティストたちが米国に行くことを夢見ていることもよく知っている。キューバが米国と接近することへの期待と、キューバが米国化していくことへの不安。米国はキューバにとって救世主なのか、あるいは侵略者なのか。キューバ人一人一人にとっても、この二つの顔が同時に、様々な度合いで見えている。これは米国とアジアの少なからぬ国との関係においても同様かも知れない。

キューバは1898年の米西戦争によってスペインから解放され、1902年に米国から独立を果たすが、グアンタナモ湾は永久租借地となり、今でも米国の軍事基地がある。ハバナの街中では今でも革命前に持ち込まれた派手なアメリカ車が現役で走っている。米国人にとって、キューバ文化はエキゾチックかつノスタルジックな、近くて遠い文化だ。それには大きな商品価値があり、それに比して、今のところはキューバの人件費は圧倒的に安い。これが米国経済に組み込まれていくと、どうなっていくのか。すでにキューバには米国からの観光客が大挙して押し寄せている。かつてはヨーロッパ系の観光客が主流だったが、七年くらい前から米国人が増えてきて、ここ二年ほどで米国人が圧倒的多数になったと聞く。

キューバが米国との国交を回復せざるを得なくなった最大の理由は、ベネズエラの経済危機にある。カストロを師と仰いでいたベネズエラのチャベス前大統領は、ソ連の崩壊で苦境に立っていたキューバに、ベネズエラの原油を安価で供給していた。だがチャベスは2013年に死去し、2014年には原油価格が急落して、原油輸出に依存していたベネズエラ経済は破綻し、キューバへの原油供給も滞っていく。この原油急落の引き金となったのが米国のシェールガス革命だった。米国は、いわばシェールガスによってキューバを追い詰めたともいえる。

キューバでは二年前に法改正がなされ、米国在住でもキューバ生まれであれば、キューバで不動産を購入することが可能になったという。ちなみにキューバの国籍法は米国と同様に出生地主義を採っているが、二重国籍は認められていない。ところが、かつてキューバ国籍を持っていたものがキューバに入国するには、キューバの旅券を持っていなければならない。つまり、キューバで生まれた限り、キューバに戻るには「キューバ人」として戻るほかない。米国に移住したキューバ人は富裕者が多く、米国でも特別な待遇を受けたため、米国在住のキューバ人がキューバに家を買うケースも増えている。

ハバナの旧市街には薄暗い国営店舗に混じって、ベネトン、アディダス、ナイキなどが点々と進出している。とはいえ、これらの米国企業のうちいくつかは第三国経由ですでにある程度進出していたという。そもそもハバナに米国大使館が「開設」された、といわれるが、実際のところ、だいぶ前からある通商代表部の建物に名前を付け替えただけで、人員はほとんど変わっていないらしい。米国からの直行便は長い間なかったが、メキシコ経由などで入国することは可能で、細いながらも交流の道が完全に閉ざされていたわけではなかった。

今回同じ宿に泊まっていたロサンゼルス在住のコロンビア系米国人は、親類がキューバにいるそうで、2005年頃からたびたびキューバを訪れている。以前はメキシコシティ経由で、ドアトゥードアで二三時間かかっていたのが、今では直行便ができたおかげで九時間で来られるようになったという。この方はJPモルガン・チェイス銀行で働いていて、米国の銀行の動向にも詳しかった。「米国の銀行のカードがATMで使えなかった」と話したら、「大手銀行はまだ、リスクを怖れて、キューバとの取引には手を出していない。今取引をしているのは米国では二つの小規模な銀行だけだ」とのこと。

この方によれば、多くのキューバ系の友人は「なぜオバマは革命政権を延命するような譲歩ばかり行っているのか」と怒っている、という。なぜ今とどめを刺さないのか、というのが、ヒラリーに投票しなかったキューバ系米国人たちの本音なのだろう。ちなみにこの方もトランプ支持らしく、「ラテンアメリカからの不法移民があまりにも急激に増えていて、米国の最低賃金を押し下げている。腐敗したラテンアメリカ諸国の政権は反体制派や犯罪者を米国に送り出すことで安全弁としている。最近のヒスパニック系移民は英語を学ぼうとすらしない」等々と語っていた。1960年代に米国に来たキューバ系移民第一世代も、多くは財産があり、英語もできて、他のヒスパニック系移民に比べ、社会的に成功したケースが多い。

ガイド役のプロデューサーは国立大学でデザインの授業をしている。行く前に「何かほしいものはあるか?」と聞くと、「美術やデザインの本がほしい」という。コンテンポラリーアートの本を持っていくと、とても喜ばれた。来てみて事情が見えてきた。本屋に行っても新刊書はごくわずか。とりわけ外国の本は、外国に出かける友人に買ってきてもらうしかない、という感じらしい。もちろんAmazonで本が買えたりもしない。

キューバでは基本的に個人でインターネットを使えるようにはなっておらず、特定の公園やホテルでwifiの電波を飛ばしている。公営通信会社の店舗に行って延々と並べば、一時間1.5CUC(1.5ドル)のカードを一回に二枚まで購入することができる。だがこれはけっこう大変。スマートフォンやパソコンを使っている人がたくさんいる公園に行くと、たいてい入口あたりに座っている人が「プスッ、プスッ!」と小さな声で合図してきて、一枚3CUCくらいで購入できる。

週35時間労働で、月給は20CUC(20ドル、約2400円、以下便宜的に1USD=120JPYで計算)。外国人観光客としてハバナ市内のレストランで食事をすると、ディナー一回で使ってしまいかねない金額。信じられず、一度聞き返したが、これは平均的な給料らしい。ハバナでは、月給20ドルの人のための商品と月給数千ドルの人のための商品とが、一つの通りに、そして時には一つの店のなかに混在している。

キューバには二つの通貨制度がある。外貨と交換可能なCUC(キューバ兌換ペソ、1CUC=1USD)と、国内でしか通用しないCUP(キューバ人民ペソ)。ほぼ1USD=1CUCで、1CUC=25CUP。国営食堂などではCUPしか使えず、外国人観光客はCUPを持っていない限り利用できない。外国人でもCUCをCUPに両替することはできるが、そうしてしまうとふたたび外貨に交換することは基本的にできない。

キューバ人向けのレストランなら、50CUP(約240円)くらいあれば十分食事ができる。だが、ちょっとした贅沢品はほとんどCUC建てで、米国と大して物価は変わらない。半世紀以上にわたる米国による経済制裁もあり、とりわけ自国で作っていない製品は高くつく。キューバはサトウキビ中心の植民地的農業から転作を進めてきたが、今でもサトウキビは主要作物の一つで、定期的に食糧不足が発生してきた。キューバの人に「いつもどんなものを食べてるの?」と聞くと、よく「手に入るものを」という答えが返ってくる。

1993年の個人によるドル所持解禁や2011年の市場経済の部分的導入以降、以前よりも外国製品は入ってきているが、その恩恵を受けている人はそれほど多数ではないようだ。飲食店の一部民営化は2014年にはじまっていて、ハバナ市内には真新しいおしゃれなレストランも見かける。二重経済のなかで、その分国営スーパーに出回る物資が減り、「スーパーに行っても何も買えなくなった」という話も聞く。国営スーパーの前には毎朝行列ができている。

旧市街で道案内をしてくれた方が、「あそこが私の家で、その隣に観光客がたくさん来るアイスクリーム屋がある。おいしいらしいけど、高いから食べたことはない。すごく儲かってるらしくて、最近あそこだけきれいに建て替えたんだ」と話していた。そのアイスクリーム屋のアイスクリームは2CUC(約240円)だが、国営アイスクリーム屋なら10CUP(約48円)だったりする。

今回泊めていただいたのは民泊で、一泊35CUC(約4200円)だった。だがこれも、「ふつうの」月給をはるかに上回る金額になる。ある民泊の貸し手は、一ヶ月マンハッタンで滞在してきたという。今では海外渡航は自由化されているが、多くのキューバ市民にとっては、海外旅行はとても手が出せるものではない。

キューバ人からよく聞くのは、「キューバは安全だ」ということ。特に海外経験のある人はそう語る。実際、観光客が多い旧市街などを歩いていても、不安を感じたことは今のところない。治安の問題が少ないのは、格差が小さく、貧しくてもなんとか暮らしてはいける環境があったからだろう。だがほんの数年で、観光客相手の商売をしている人とそれ以外のあいだでこれだけの格差が生じていると思うと、ラウル・カストロが引退するという2018年までに何が起きるのか、なんだか勝手に気を揉んでしまう。

(つづく)

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ハバナ滞在記(1) 米国とキューバの演劇交流 2017年2月12日

2月5日、ニューヨークからハバナへ。直行便で3時間ちょっと。強烈な日差しと、インターネットに接続されていない世界。ちょっと生き返ったような感覚。

沿道には革命と社会主義を称揚する壁画やポスター。一方で宿まで送ってくれた車には星条旗マークの飾り物があり、道行く女性が星条旗の下に大きく「USA」と書かれたTシャツを着ていたりする。

メキシコもキューバも、当初のリサーチ計画にあったわけではないが、ACCのスタッフに相談したら、「私たちは企画書ではなくて人を信頼して交流事業をやっているので」とおっしゃっていた。ACCの方々の心の広さには本当に感謝している。

米国において、ヒスパニック系の演劇は、いわば「マイノリティ演劇」というジャンルにおいて、アジア系の演劇と競合関係にあるともいえる。全米の人口構成上、ヒスパニック系の人口は近年アジア系を大きく上回りつつある。アジア系とのちがいの一つに、本国との地理的距離が圧倒的に近いということがある。その分、本国を巻き込んだ演劇交流については、アジア系を上回るダイナミズムを見せているようだ。このあたりは、日本にいたときには全く想像がつかなかったところ。一方日本においては、メキシコやキューバの演劇作品を見る機会はまずなかった。アジアの同時代的舞台芸術の位置について考えはじめたのは、そもそも演劇を通じて「世界」を描こうとするときに、欧米に比べてアジアが小さくなりがちに思えたからだ。だが米国にいると、日本ではアジア以上に扱われる機会が少ないラテンアメリカが大きな存在感を持って見えてくる。だから「世界演劇」のなかで、この地域がどんな位置を占めているのか、気になってくる。

キューバに行ってみたくなったのは、あちこちでキューバ系米国人のアーティストと出会ったからだ。オースティンでのNPN(ナショナル・パフォーマンス・ネットワーク)年次総会では、マイアミとニューヨークをベースとする振付家・ダンサー・俳優のオクタビオ・カンポスに出会った。オクタビオは近年、毎年のようにハバナに行き、キューバのアーティストたちとの共同作業をしている。今はキューバのアーティストたちとブロードウェイ向けに大きな作品を企画しているらしい。

NPN事務局でラテン・アメリカとの交流事業を担当しているエリザベス・ダウドも、マイアミ在住のキューバ系米国人だった。マイアミでは300万の人口のうち200万人がスペイン語話者だという。マイアミでは、米国を含めた(!)スペイン語圏の作品を紹介する国際ヒスパニック演劇祭も行われている。キューバ系の住民は全米で約110万人。キューバの人口が約1100万人なので、キューバ系米国人は国内人口のちょうど1割ほどに相当することになる。キューバ系米国人のうち約62万人がフロリダ州マイアミ周辺で暮らしている。キューバ系米国人のほとんどは共産党政権から逃れてきた人々。フロリダ州は大統領選挙でキャスティングボートを握る大票田の一つで、スイング・ステート(選挙のたびに結果が変わる州)。かつてフロリダ州で負けて大統領になったのはビル・クリントンのみ。これは歴代の大統領が対キューバ強硬策を採りつづけた理由の一つでもある。今回の大統領選挙でも、フロリダ州のキューバ系米国人の過半数がトランプに投票したことが、トランプの勝利に大きく貢献している。

(参考)前回大統領選でのフロリダ州におけるキューバ系米国人の投票行動について

http://www.miamiherald.com/news/local/news-columns-blogs/andres-oppenheimer/article112080317.html

http://mainichi.jp/articles/20161025/mog/00m/030/008000c

http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/11/post-6241.php

そしてメキシコ舞台芸術ミーティングENARTESでは、シカゴのグッドマンシアターのアソシエート・アーティストで演出家のヘンリー・ゴディネスと出会った。ヘンリーはハバナの劇団テアトロ・ブエンディーアとの共同作業をもう何年もつづけている。ノースウェスタン大学でも教えていて、2010年から毎年学生をハバナに連れて行っているという。

これにはけっこう驚いた。米国人のキューバへの渡航は長年のあいだ基本的に禁じられていた。米国とキューバの国交が回復されたのは2015年7月。2016年3月の米キューバ首脳会談前後から米国の航空会社のハバナ乗り入れが進んだ。今ではニューヨークからの直行便もあり、300ドル以下でハバナまで行くことができる。だが、オバマ政権は以前から「学術交流」などの名目で、限定的な交流を少しずつ認めてきていたらしい。ヘンリーは「毎年政府との折衝を繰り返して、悪夢のような事務手続きをしながら」交流事業を進めていったと語っていた。ヘンリーもオクタビオも、Facebookページの背景に大きくオバマの写真を載せている。

一方で、キューバ系米国人がおしなべてオバマの対キューバ融和政策を支持しているわけでもなく、オースティンでは「私はキューバ生まれのキューバ人だ」といいながらも、「共産党政権がつづく限りふたたびキューバの地を踏むことはない」と言明するビジネスマンにも出会った。第一世代と第二世代とのあいだで意識の差もあるらしい。

http://www.nhk.or.jp/kokusaihoudou/archive/2016/11/1107.html

はじめオクタビオと同時期にハバナに行くつもりだったが、オクタビオは都合で来られなくなったので、代わりにハバナ在住のプロデューサーのエドゥアルドを紹介してくれた。エドゥアルドと打ち合わせをしているときに、「米国の財団とキューバ政府に支援を受けながら映画製作事業をしている」と聞いて、これも驚いた。今、米国とキューバのあいだで何が起きているのか。数日で理解できることは限られているだろうが、毎日少しずつ、見えてくるような気もする。

(つづく)

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「ミス・サイゴン」問題、あるいはアイデンティティをめぐる非対称性について(1) 2017年2月4日

先日アジアン・アメリカン・アーツ・アライアンス専務理事のアンドレア・ルイさんにお目にかかって、「アジア系の舞台俳優は米国の舞台で仕事を得られる機会が少ない」という話を聞いた。以下の統計によれば、この10年平均で、ニューヨークのブロードウェイと非営利の劇場において、アジア系俳優の出演は平均して4%程度に過ぎない。一方、ニューヨーク市民のなかのアジア系の比率は12%以上。

Asian American Arts Alliance

http://aaartsalliance.org/

AAPAC (ASIAN AMERICAN PERFORMERS ACTION COALITION)

http://www.aapacnyc.org/stats-2014-2015.html

まだはっきりした答えが得られたわけではないが、ブロードウェイ版『ミス・サイゴン』のキャスティングをめぐる議論が参考にはなりそうだ。1990年、ロンドンで大ヒットしたミュージカル『ミス・サイゴン』のブロードウェイ版の製作が予定されていた。ロンドン版では、フランス人の父とベトナム人の母から生まれ、狂言回し的な役割を担う「エンジニア」役に英国人の白人俳優ジョナサン・プライスが起用されて評価を得ていて、ブロードウェイ版でもこの配役が踏襲されることになっていた。

ところがプライスはアメリカン・アクターズ・エクイティ(American Actors Equity, 米国人俳優にとっての利益に配慮しつつ、米国での米国市民ならびに非市民の俳優の雇用を管理する舞台俳優と舞台監督の労働組合、以下「エクイティ」とする)によって労働許可を拒否される。しかしエクイティのメンバーたちがこれに反対する署名を集め、一週間後に特別審議会が開かれて、エクイティは一転して労働許可を認めるに至った。プライスは1991年4月に開幕したブロードウェイ版でも無事に同じ役を演じることができ、同年のトニー賞ミュージカル主演男優賞を受賞している。ブロードウェイでの『ミス・サイゴン』は、このプライスをめぐる論争の拡がりもあって、記録的な大ヒットとなり、9年以上のロングランとなった。(ちなみに今はブロードウェイで上演されていないので、実際に観られてはいません。ご覧になった方やお詳しい方、誤解などあればぜひご指摘ください。)

この問題については、NYUパフォーマンス・スタディーズ科のカレン・シマカワさんが詳細な分析をしているので(Karen Shimakawa, National Abjection. The Asian American Body Onstage, Duke University Press, 2002, Chapter I “I should be ― American!”)、以下、それに基づいて。エクイティがはじめ労働許可を拒否したのは、『M. バタフライ』で知られる中国系劇作家デビッド・ヘンリー・ファンらの抗議に基づいている。抗議の焦点は主に(1)アジア系の俳優が主要な役で舞台に立つ機会が十分にないなかで、アジア系の役ですらヨーロッパ系白人俳優が配役されてしまうことへの反発、(2)プライスによる「アジア人」の演じ方自体への反発(とりわけヨーロッパ系俳優が目張りやメイクでアジア系らしい顔を作り、ステレオタイプな「アジア人」を演じる、いわゆる「イエローフェイス」に対する反発)、の二点にあるようだ。

『ミス・サイゴン』のプロデューサーであるキャメロン・マッキントッシュはプライスの起用にこだわって、プライスが出演できなければブロードウェイ公演初日をキャンセルするとまで言明した。この労働許可拒否問題は社会的に大きく取り上げられることになる。大手紙の大半は、保守・リベラルを問わず、プライスの起用を支持する論説を発表した。

プライスの起用を支持する側の主な主張は以下の通り。すでにシェイクスピアなどの西洋古典作品で、ヨーロッパ系を想定して書かれた登場人物に黒人俳優を起用する、といった「カラー・ブラインド・キャスティング(肌の色を無視したキャスティング)」がなされてきた。だとすれば、逆にヨーロッパ系の俳優がアジア人を演じるのも「芸術上の自由」ではないか。そして、これを認めないのはむしろ「逆差別」なのではないか。

この主張は『ミス・サイゴン』制作側の説明にもとづくもので、実際にキャメロン・マッキントッシュも『オペラ座の怪人』の主役に黒人のロバート・ギロームを起用しており、またその直前にやはり黒人のモーガン・フリーマンが『じゃじゃ馬ならし』のペトルーキオを演じたり、デンゼル・ワシントンが『リチャード三世』で主演したり、といった例があった。この作品のキャスティング・ディレクターはさらに、アジア系で45歳~50歳で、プライスと同じくらいの古典的演劇出演の経験があり、国際的な名声を得ている俳優がいれば見つけていただろうが、「世界中を探してみたうえで」見当たらなかった、と説明している。

というわけで、アジア系演劇人の抗議は、最終的に、論争に加わった米国の多くの「識者」から、「芸術上の自由」を侵害しかねないものとみなされることになった。だが、この抗議は本当に不当なものだったのだろうか。

ファンとともに最初の抗議に加わった俳優のB. D. ウォンは、「私たちは自分たち自身の肌の色の役を演じる機会も十分に与えられておらず、(フリーマンやワシントンのような)「非伝統的」なキャスティングのために闘う状況とはほど遠い」と語っていた。そもそもこの時代、アジア系の舞台俳優が「国際的な名声」を得られうる機会はほとんどなかった。ブロードウェイで上演された、アジア系の男性が主要な役を演じる作品は、『王様と私』や『太平洋序曲』など、数えるほどしかない(ちなみに1976年に初演された『太平洋序曲』ではイースト・ウェスト・プレイヤーズのマコ・イワマツとパン・アジアン・レパートリー・シアターのアーネスト・アブバが共演している)。

実のところ、先ほどのキャスティング・ディレクターの説明は、あまり正確なものではなかったことが分かっている。「世界中を探してみた」のはヒロインのキム役の女優と、その他のベトナム人の脇役についてであり、実際にヒロイン役にはフィリピン人女優レア・サロンガが起用された(サロンガはプライスとともにトニー賞ミュージカル主演女優賞を受賞している)キム役については、白人女優が目張りをして顔に黄色あるいは濃い色のメイクをして演じる、という選択肢ははじめからなかったようだ。つまり、「オリエンタル・ビューティー」にはアジア系の女優が必要だ、というプロデューサー側の判断があったわけである。

一方「エンジニア」役については、早々にプライスの起用が決まっていて、アジア系の俳優は実際のところ、特に検討された形跡がない。ここで分かるのは、英国においても米国においても、「オリエンタル・ビューティー」は(英国や米国で無名の女優であったとしても)すでに商品価値を持っているのに対して、アジア系の男優は集客に必要な魅力を持っているとは見なされていない、ということだ。

キムは17歳で売春婦となっていて、初めての客となった米軍兵クリスと恋に落ち、子どもを宿す。クリスはそれを知らず米国に帰国し、米国人の白人女性エレンと結婚する。キムはクリスの帰還を待ちわびるが、クリスはエレンを伴ってヴェトナムを訪れる。クリスが結婚したことを知ってエレンは絶望し、子どもがクリス夫妻によって米国で育てられることを望んで自殺を遂げる。ここでキムは、米国人白人男性にとって、いわばきわめて都合のよい存在として描かれている。(・・・とまとめると、クリスがひどい人間のようだが、あちこちでクリスの行動を倫理的に正当化する仕掛けがなされている。)

一方「エンジニア(「やり手」「世渡り上手」というようなの意味らしい)」は、売春宿を経営し、キムやキムの息子を利用してなんとか米国に渡ろうとする、という、いわば汚れ役である。父親がフランス人ということになってはいるが、たまにフランス語が出てくる以外、特に「ヨーロッパ系」であることが強調されることはない。パン・アジアン・レパートリー・シアターの創始者ティサ・チャンは、フリーマンがペトルーキオを演じたり、ワシントンがリチャード三世を演じたりするときには「白塗り」する必要はなかった、ということを指摘している。ここでプライスが濃い色のメイクをし、目張りをしたのは、明らかにこの「狡猾なアジア人」のステレオタイプを演じるためであり、「肌の色を無視した」役柄を演じるためではなかった。つまり、ここで問題となっていたのは、アジア人(あるいはアジア系米国人)が自ら、自分自身の表象を統御する機会が十分に与えられていない、ということだった。

(つづく)

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パン・アジアン・レパートリー・シアター芸術監督ティサ・チャンさんのお話 2017年1月31日

昨日パン・アジアン・レパートリー・シアターの芸術監督ティサ・チャンさんにお話を伺うことができた。アジア系米国演劇のパイオニア的存在。他にも関連の書きかけメモが溜まっているのだが、とりあえずまとまったので。

Tisa Chang

https://en.wikipedia.org/wiki/Tisa_Chang

パン・アジアン・レパートリー・シアターPan Asian Repertory Theatreは1977年創立、今年で40周年。東海岸ではじめてのアジア系米国人によるプロの劇団。(西海岸ではマコ・イワマツらによりイースト・ウェスト・プレイヤーズEast west playersが1965年に創立されている。)

http://www.panasianrep.org/

ティサ・チャンさんは重慶で生まれたが、1946年、6歳のときに両親とともに渡米。両親は演劇活動が盛んな南開中学・高校で中国近代劇を代表する劇作家の曹禺や周恩来と同窓生。周恩来も芝居をやっていた。父親は蒋介石率いる中華民国の外交官だった。マンハッタンの舞台芸術専門の高校やバーナード・カレッジで音楽を学び、ダンサーとしてキャリアを出発。やがて俳優としてブロードウェイやハリウッドで活躍した。1950年代から60年代にかけて演劇活動をはじめた頃は、米国育ちでも、中国生まれということで、常に外国人扱いされていた。1977年にパン・アジアン・レパートリー・シアターを立ち上げた当初も、よく「マイノリティーシアター」と呼ばれた。

出発点はラ・ママ実験劇場のエレン・スチュワートとの出会い。エレンは1973年、私がはじめて演出した京劇の翻案『鳳凰の帰還The Return of Phoenix』に5,000ドル出資してくれた。この作品は大ヒットして、CBSテレビが買ってくれ、その後の活動につながった。ラ・ママでは中国系やアジア系の俳優とギリシャ悲劇、シェイクスピア、チェーホフ、ゴルドーニなどを上演。『真夏の夜の夢』では、普段は英語を話していて、魔法にかかると中国語を話す、という設定にした。自分たちの劇団は「アジア系米国人による古典劇の劇団」だと考えている。コメディー・フランセーズやモスクワ芸術座のようなレパートリーシアターがモデル。

日本の作家では安部工房、清水邦夫、三島由紀夫のサド公爵夫人などを1970年代にいち早く紹介。また、エドワード・サカモト、ワカコ・ヤマウチなど、それまでほとんど上演されることがなかった日系劇作家第1世代の作品も、やはり70年代に紹介していった。

当時はアジア系アメリカ人のプロの舞台俳優はほとんどいなかったが、私たちが出演した俳優にきちんと報酬を支払って、プロにしていった。その当時の主流はジョン・オズボーンのような「抵抗演劇」。それに対して、パン・アジアン・レパートリー・シアターがベースとした中国、インド、日本の伝統演劇は儀礼的祝祭的で、音楽や舞踊が重要な位置を占めている。それぞれの俳優が独自に学んできたものを、出自が異なる他の俳優とも共有していった。自分たちが演劇を始めた頃はアカデミックな演劇教育のシステムはほとんどできておらず、演劇学校に通ったり、個人的にレッスンを受けたりしていた。私はウタ・ハーゲンからレッスンを受けた。

私たちは訓練をベースにした卓越性と言う基準を守りつづけている。それに比べると、今の若い俳優は十分な訓練とディシプリンを獲得しておらず、表面的な作品が多いような気がしている。

創立して三年目の1980年にはニューヨーク市アーツカウンシルから「重要機関Primary Organization」と認められ、今までフォード財団などの財団のほか、国立芸術基金(NEA)やニューヨーク市、ニューヨーク州などから継続的に支援を受けている。2008年のリーマンショック以降、財団の支援システムが大きく変わって、苦労もある。

国内各地のほか、エジンバラ、シンガポール、カイロ、ヨハネスブルクなどでも公演。2003年にはハバナ演劇祭に招聘されたはじめての米国の劇団となった。

ルーシー・リューなど、ハリウッドに進出した俳優も少なくない。ただ、多くの俳優は、ハリウッドを目指すのではなく、私たちの舞台に立つことを望んでくれた。

認められるためには、他の米国の演劇人よりも2倍も3倍も働かなければいけなかった。(昨日も、月曜日で他の劇団員は休んでいたが、チャンさんは事務所に来て一人で働いていた。「私はiPhoneとかは使っていないので、パソコンに向かう時間を取らないとメールの返事も書けないから」という。)

重要なコラボレーターの一人、アーネスト・アブバさんのお話。アジア諸国ではナショナリズムが強く、国と国との間に緊張がある場合が多い。だが、米国では「パン・アジアン・シアター」が可能だったのは、米国にはアジア的なナショナリズムはなく、きわめて個人主義的なので、「みんなで一つになる」といった集団ではなく、一人一人が個性を保ったまま一緒に仕事をする、というスタイルを取れたからだという。

以下にチャンさんが詳しく来歴を語るインタビューがある。

https://www.tcg.org/Default.aspx?TabID=4347

先週、新作『秘寺での出来事INCIDENT AT HIDDEN TEMPLE』の幕が開いたところ。来年公演予定の次回作はパキスタン出身のムスリム作家の作品とのこと。

パン・アジアン・レパートリー・シアター芸術監督ティサ・チャンさんのお話 へのコメントはまだありません

「ポスト真実」の政治 2017年1月29日

「ポスト真実」の政治などというが、未だかつて地球上で、「真実による統治」が実現したためしはない。これがあったかのように思うのは、知的エリートによる情報管理が可能だった近過去に「哲人統治」の理想を投影しているに過ぎない。

経済については、ずっと以前から「思惑」や「思惑の思惑」によって動くことが容認されている。むしろ恐ろしいのは、生の枠組み自体を決定する政治が経済に服従し、政治に経済と同じ速度が求められるようになりつつあることだ。(昨日一月ぶりに再会したニューヨーク大学のイラン人の学生は、「イラン人の入国ができなくなるので、国に帰れなくなった」という。)良くも悪しくも、アテナイの口頭による直接民主主義に近づいてきたのかもしれない。

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