2016/12/07
ノースダコタのパイプライン敷設問題をめぐって、アメリカ先住民と元米軍兵たちの間で歴史的和解。もしかしたら一つの節目になるのかもしれない。数ヶ月で全てが覆される可能性もあるが…「私たちが大地を所有してるのではなく、大地が私たちを所有しているのだ。」
ノースダコタの和解 へのコメントはまだありません2016/12/07
ノースダコタのパイプライン敷設問題をめぐって、アメリカ先住民と元米軍兵たちの間で歴史的和解。もしかしたら一つの節目になるのかもしれない。数ヶ月で全てが覆される可能性もあるが…「私たちが大地を所有してるのではなく、大地が私たちを所有しているのだ。」
ノースダコタの和解 へのコメントはまだありません2016/12/09
メキシコシティ。タクシーのなかでメキシコと米国の演劇人がドナルド・トランプの話をしているところに、ラジオからジョン・レノンの「イマジン」が流れてきた。「国境のない世界を想像してみよう。難しいとは思うけど・・・。」全員しばし沈黙。
メキシコから想像する へのコメントはまだありません2016/11/16
土砂降りのニューヨークから一時間以上遅れて飛び立ち、モントリオール空港に降りると、陽光が差している。こんなことになるならもう少しニューヨークで起きていることを見届けておきたかった気もするが、週末まで舞台芸術見本市CINARSに参加。
最近ニューヨークで何度かカナダのアーティストに会ったり、ニューヨークの演劇人とカナダの演劇について話したりする機会があったが、ニューヨークの演劇人は驚くほどカナダで何が起きているのか知らない。CINARSとかワジディ・ムアワッドなどといっても通じないのはフランス語圏のケベック州だからかとも思ったが、英語圏のカナダ演劇界ともさして交流がないらしい。ニューヨーク市立大学演劇科(CUNY)のマーヴィン・カールソンさんは「ニューヨークの演劇界は全然インターナショナルではない。たとえばここで50年以上演劇を見てきたが、カナダの作品は2本しか見ていない」とおっしゃっていた。
米国から一番近い外国なのに、なぜなのか。メキシコ人の方がまだ目立っている気がする。英語圏カナダ出身の演出家に聞いてみたところ、「カナダの方が社会が先進的なので、扱っている問題も米国よりも先進的で、優れた戯曲が多い。カナダでは戯曲を重視していて、劇作家と演出家の間にある種のヒエラルキーがある。一方米国では舞台作品としての形式やヴィジュアルを重視する。そのため、深い内容をもっていても、米国では評価されにくいのかもしれない」という。作品の作り方も、評価のされ方も、同じ北米でもだいぶ違うらしい。ニューヨークにいてもモントリオールに来ても、「世界中」から演劇人が来ている集まっている、と感じるが、その「世界」の構成は、実はだいぶ違っていたりもする。
SPACの演劇祭の名前が「ふじのくに⇄せかい演劇祭」になったこともあって、最近「世界演劇」とは何なのか、よく考える。地方で演劇祭をやることのメリットの一つは、「国」を介さないローカルとローカルの関係が築きやすいことだ。先日のニューヨーク大学でのフランス演劇をめぐるシンポジウムでケベック出身のジョゼット・フェラル(パリ第三大学)が「演劇は(「グローバリゼーション」の時代とされる)今でもローカルなものだ。幸運なことに。」と発言していたが、実際、演劇作品がローカルな観客に支えられることなくいきなり「世界」を相手にするのはほとんどありえない。そもそも演劇は、観客として「世界」という漠然としたものを相手にするものではなく、ある特定の場所に集まる特定の観客のために上演されるものだ。
とはいえ、演劇祭が描く世界地図は、国や地域政府の助成金事情によって、かなり地域の比重が異なってきている。ケベック州は、人口ではカナダ全体の20
数パーセントだが、たしかカナダ以外で上演されている舞台芸術作品の8割位はケベックの作品だと聞いた。大まかにいえば、国や州政府などが助成金を出しているところは、創作環境も充実しているので、クオリティーが高い作品を作っている傾向はある。もちろんお金さえ出せば良い作品ができるとも限らないが、少なくともケベックはこれまで、シルク・デュ・ソレイユだけでなく、ロベール・ルパージュやワジディ・ムアワッドなどの才能を排出してきた。一方で、作品を作る環境に恵まれていない国では、そもそも作品を作ること自体が困難だし、それを自国以外の人にまで知ってもらうのはいよいよ困難だ。だからといって、そういった国で優れた才能が生まれないとも限らない。だが、作品を見に行くための予算も時間も限られているので、どうしても比較的恵まれた国の優先順位が高くなってしまう。数年前、カメルーン公演の帰路で、たまたま内戦が終結したばかりの中央アフリカを経由したとき、「きっとこの国には演劇の仕事で来ることは一生ないんだろうな」と思い、「世界」にはそういう地域がたくさんあるということを実感した。
それ以前に、もっと根本的な問題として、そもそも「演劇」と呼ばれるものがほとんど行われていない地域もある。たとえば、中東「演劇」に詳しいマーヴィン・カールソンの話。「よく、中東の演劇は19世紀にはじまった、というが、それは西洋演劇の模倣がはじまったという意味だ。中東にはそれ以前にも、さまざまなパフォーマンスの伝統があった。たとえば人形劇。西洋人は人形劇は子供向けのものと思っていたが、中東やインドネシアの人形劇、それに日本の文楽だって、全然そうではない。だが、西洋で書かれる「演劇史」に人形劇が含まれることは滅多にない。」そして、もちろん人形劇だってない地域も世界にはたくさんあるが、英語でいう「パフォーマンス」や日本語でいう「芸能」といったものが存在しない地域はない。だとすれば、演劇という概念を拡張するのがいいのか、あるいは「パフォーマンス」といった言葉を使うのがいいのか。前者が今フランスやドイツなどで起きていることで、後者は米国の解決策。とはいえ米国で「演劇祭」が「パフォーマンス・フェスティバル」に置き換えられたわけでもなく、今でも「パフォーマンス」は主にギャラリーなど非劇場スペースでの小規模な上演形態に使われる場合が多い。そして「演劇」に比べて「パフォーマンス」という概念はあまりに英語特有のもので、他の西洋語にすら訳しにくい、という問題もある。少なくとも、ここで浮かび上がるのは、「演劇」という概念をかなり広く定義しておかないと、「世界演劇」も世界のうちの狭い地域だけの話になってしまうということだ。
植民地主義の時代が終わり、「世界」に主体的に参画する地域が増えてきたことで、「世界」を見る視線もさまざまになり、その視線の全てを含めるような視覚をもつことが不可能になってきた。では、今日の世界は演劇によって表象できるのだろうか。
ある意味では、(広い意味での)演劇はいつでも「世界」を表象できていたし、これからもできるだろう。カルデロンの『世界大劇場』のように、「世界」が登場人物の一人となっている作品すらある。どんな小さな村に住んでいる人にだって「世界」のイメージがあるし、逆にどんなに「世界中」を旅して知っている人にだって世界の全てが見えているわけでは全くない。「世界」のイメージは、今では多くの人がテレビを通じて得ているが、そのイメージは往々にして、「国」と一致した規模のマスメディアによって媒介されている。「国際」ではない「世界」のイメージが存在していくためには、「演劇」なり「パフォーマンス」なりのローカルな表象形態はまだまだ必要なのではないだろうか。だとすれば重要なのは、一九世紀以来発展してきた国家/メディアが描く力線の向こうに、演じる身体と見る身体のあいだに生じるローカル(局所的)な「世界」への視線をなんとかしてふたたび見出すことなのではないか。
…などとつらつら考えながらぶらぶらしていたら、「世界」の全てが見えている人に出会ってしまった。
夜11時近く、さっさと夕食を済まそうと、一番早そうな近所のプーティン(フライドポテトにソースとチーズをかけたカナダ名物)屋に入った。店のご主人はいかにも店を閉めたそうで、「ピザとプーティンしかないよ」とぶっきらぼう。「じゃあピザとプーティンを一つずつ」と注文。「ここで食べてもいいですか」と聞くと、「もうそろそろ閉めるからねえ」といい、テイクアウトの準備をはじめる。。「長居はしませんから」といってみたら、わかったよ、という感じでフォークをつけてくれた。「このソースなんですか?」「何だと思う?スネークだ!ハハハ!」(「ハラル」と書いてあったので)「スネークもハラルなんですか?」「おまえイスラム教を知ってるのか?冗談だよ。チキンだチキン、ブラザー」等々。
店内で食べていたら、わざわざトレーとナプキンを届けてくれる。「優しいですね!」「ムスリムだからな!」ピザもプーティンも、期待はしていなかったが、それ以上に美味しくなかった。ただ分量はすごかったので、半分くらい残してしまった。支払って帰ろうとすると、主人が声をかけてくる。
「俺がなんでナプキンを届けたか、わかるか?それは俺が本を読んでるからだ。お前は仏教徒か?神は信じてるか?俺は物理学を勉強した。物理学をやっていると、我々を越えたものの存在を信じざるをえなくなる。俺は今でも、この店で、暇さえあれば本を読んでいる。俺はこのコスモスというものがどういうものかを知りたいんだ。この世界はどうなっているのか、何が正しいのか。そう思って、聖書も読んだし、ユダヤ教の聖典も読んだし、仏陀も孔子も孟子も読んだし、プラトンもソクラテスもアリストテレスもアルキメデスも、デカルトもニュートンも、シュレジンガーもハイデルベルクも、アインシュタインもホーキンスも読んだ。でも、これが正しい、と思う人と、あっちが正しい、と思う人がいて、何を読んでも、結局のところ、世界の全員を幸せにしてくれるものはなかなか見つからなかった。いろいろ読んだ末に、一冊だけ、本当にこの世界の全てのことについて語っている本に出会ったんだ。何だかわかる?」
「コーランですか?」
「そうだ。父親の宗教がどうとか母親がどうとか、そんなことは関係がない。俺は世界中の本を読んだ末に、ここにこそ真理が書かれていることがわかったんだ。この本には全て書かれている。だから俺はこの本が大好きなんだ。俺たちの宗教には、人を説得して改宗させられるなんて思ったりはしないんだ。自分の意思で、そういう気持ちになって本を読まないとな。だからムスリムになれ、なんて言わないが、とにかく本を読んでみてくれ。お前はこうやってピザとプーティンを残したが、今世界中では七億六千万人の人が飢えている。この本には、銀行に金を預けるな、と書いてある。だから俺も預けない。金があったら、人にあげればいいんだ。そうすればこんなに人が飢えたりしない。ここには宇宙のことも、生物のことも、すべてが書かれている。俺はこれを読んだから、今ではどんな疑問にも答えられるし、だから毎日よく眠れる。何か疑問があったら俺に聞きに来てくれ、ブラザー。ブラザーと呼ぶのは、ほら見てみろ、この俺の手とお前の手はほとんど一緒だろ?俺とお前のDNAは25%は一緒なんだ。(注:多分もっと一緒じゃないだろうか。)だからブラザーなんだ。もう俺とお前は、もしかしたら二度と合わないかもしれないが、本当に来てくれてありがとう。いつか、その気になったら、本を読んでみてくれ。」お互い、インシャラー、といって別れを告げた。
そして夜中に目が冴えてしまい、あのブラザーを見倣ってもっと勉強しなければ、とつくづく思った。
モントリオールから「世界」は見えるか? へのコメントはまだありません2016/11/11
「合衆国大統領は、確かに陸軍総司令官ではあるが、その軍隊は六〇〇〇の兵力しかない。海軍の最高命令権者ではあるが、その艦隊には数隻の艦船しかない。大統領は外国と連邦との交渉に当たるが、合衆国に隣国は存在しない。大洋によって世界の他の地域から隔てられ、かといって海洋の支配をもくろむにはなお弱体なので、合衆国は敵を持たず、その利害が地上の他の国家と衝突する事は稀にしかない。…
アメリカ人の世界全体に対する政策は単純極まりない。他の何人もアメリカ人を必要とせず、アメリカ人もまた何人をも必要としないといってもほとんどおかしくない。彼らの独立はおよそ脅威にさらされることがない。
だからアメリカ人において執行権が限定されているのは、法律のためであると同時に状況のせいでもある。大統領がしじゅう意見を変えても、国家が被害を被ったり、滅びることはない。」(トクヴィル『アメリカのデモクラシー』第一部第八章、松本礼二訳、原著1835年刊)
米国の大統領は、制度上は非常に大きな権限を持ってるように見える。だが、少なくともこの一九世紀前半の時点においては、大統領の主要な権限である外交と軍事は、フランス人トクヴィルの目には、この国にとってそれほど優先度が高いものとは映らなかった。モンロー主義が採られたのはこのような時代だった。
トクヴィルによれば、選挙によって国家元首を選ぶと、外交方針の一貫性が失われたり、さらには内戦や無政府状態といったリスクをも伴う。(この当時、フランスは立憲君主制を採っていた。)米国がこのリスクを取り得たのは、政治における外交や軍事の比重が小さく、大統領は実際のところ立法府である議会の従属的権力に過ぎないからだという。そして、各州の選挙人をつうじた二段階の選挙方式をとったのは、このような大国においては一人の指導者のもとに多数派を形成するのが困難なので、なかなか大統領が決まらないリスクを避けるためだったという(二大政党制が定着するのは一九世紀後半以降)。
トクヴィルは、大西洋の向こう側に生まれたこの国家が発明したさまざまな仕組みに対して賞賛を惜しまない。トクヴィルは「アメリカの中にアメリカを超えるものを見た」という(序文)。だが、トクヴィルはこうもいっている。「時の経過は常に、同じ一つの国民の中にも異なる利害を生ぜしめ、種々の権利を確立させる。…したがって、法が完全に論理的でありうるのは社会が生まれたその時だけである。ある国民がこの点で恵まれているのを見ても、この国民が賢いと即断してはならない。むしろ若い国民だと考えるべきなのである。」それから二世紀近くを経た今、米国はどのようにすればトクヴィルの見た偉大さを取り戻すことができるのだろうか。
アメリカを超えるもの へのコメントはまだありません2016/11/09
ニューヨーク・タイムズ紙による統計。大学卒以上のヒラリー・クリントン支持率49%。大学院卒以上58%。LGBT78%。ニューヨーク州では59%。マンハッタンでは90%を超えている。
http://www.nytimes.com/interactive/2016/11/08/us/politics/election-exit-polls.html
http://www.nytimes.com/elections/results/new-york
ニューヨークの舞台芸術業関係者の支持率、という統計があったとすれば、やはりおそらく90%近いのではないか。ニューヨークに来てから、「トランプを支持している」という方とはまだ話せていない。昨日の夜に至るまで、トランプの勝利を危惧する方には出会っても、それを予想した方には一人も出会わなかった。
思えばニューヨークの舞台で、トランプの支持率が高い「中西部・南部の郊外あるいは人口5万人以下の共同体に住む人々」の生活が表象されるのはまだほとんど見たことがない。今のところ、ブロードウェイで現在上演されているミュージカル『ウェイトレス』(エイドリアン・シェリー作の映画にもとづく)が唯一の例外だった。もうちょっと視界を拡げないと。
翻って、日本ではどうだろうか。
大統領選挙 へのコメントはまだありません2016/11/04
今気づいたが、トランプ支持率が高い州は、旧フランス領ルイジアナとほぼ重なる。米国はまだルイジアナ買収問題を精算できていないのかも知れない。
2016 Election: Clinton vs. Trump
http://www.270towin.com/maps/clinton-trump-electoral-map
United States Louisiana Purchase states
https://en.wikipedia.org/wiki/File:United_States_Louisiana_Purchase_states.png
ドナルド・トランプと仏領ルイジアナ へのコメントはまだありません2016/11/02
(改めて断っておきますが、ここで公開しているのは、見たこと、聞いたこと、考えたことなどをなるべくその場で書き留めておいて、あわよくばよくご存知の方に教えてもらおうという位の魂胆ですので、無知にもとづく誤解なども多々あると思いますが、お気づきの方はぜひご教示いただければと思います。というわけで、ちょっとした思いつきを書くつもりだったのに、いろいろ気になってきて、なんだか長くなってしまっていますが・・・)
60年代以降、米仏の演劇の間になぜ溝ができたのか。制作形態の変化がその原因の一つなのではないか。この問題にこだわるのは、今後日本の「公共」演劇がどのような道を取るべきなのかを考えるうえで重要な問題のように思えるからだ。
ニューヨーク大学でのフランス演劇をめぐるシンポジウムにおいて印象的だったのは、「アヴァンギャルド(前衛)」という概念をめぐる意識のずれだった。シェクナーが米国における「アヴァンギャルド・シアター」についての歴史と現状について語り、今日のフランスにはその対応物はあるのだろうか、という問いを発したのに対して、パリ第三大学のジョゼット・フェラルは「前衛という概念自体、今では意味を失っているのではないか」と答えていた。
フェラルはカナダ・ケベック州の出身なので、このときは一般的な話として受け取っていたが、そういえば米国に関しては、とりわけ1960年代~70年代の演劇・ダンスについて「アヴァンギャルド」という言葉がよく使われ、その後もある程度使われつづけている。たとえば邦訳もあるクリストファー・イネスの『アヴァンギャルド・シアター 〈1892-1992〉』(原著1993年刊行)では、少なくとも90年代まで「アヴァンギャルド・シアター」があったことになっている。
Avant Garde Theatre, 1892-1992, By Christopher Innes
https://www.questia.com/library/104687273/avant-garde-theatre-1892-1992
それに対して、フランスでは、この言葉がよく使われたのはベケットら不条理演劇の世代までで、それ以降はあまり使われなくなったように思う。イネスの著作ではジャン=ルイ・バローや太陽劇団も扱われているが、フランスでバローや太陽劇団を「アヴァンギャルド」と形容するのはあまり聞いたことがない。面白いことに、wikipediaの「太陽劇団」(1964年創立)の項目では、フランス語版には「アヴァンギャルド」という言葉が全く使われていないのに対して、英語版では「パリのアヴァンギャルド・ステージ・アンサンブル」という紹介がなされていた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Th%C3%A9%C3%A2tre_du_Soleil
フランスでこの言葉が余り使われなくなったのは、理念の問題だけではなく、舞台作品の制作形態の変容にも起因しているのではないか。1950年代までは、フランスと米国の実験的な舞台芸術の生産形式、つまり興行形態にはまだ大きな違いがなかった。フランスにはコメディ=フランセーズという国立劇場があるが、ここは少なくとも20世紀の実験的演劇(商業演劇と区別する意味で、とりあえずはこの言葉を使っておこう)にとって最も重要な場ではなかった。両国とも、1950年代の実験的演劇は主に私立劇場で上演されていた。1950年代、ブロードウェイに新たなビジネスモデルを持ち込んだプロデューサー、ロジャー・スティーヴンズは『ウェストサイド物語』のかたわら、ジロドゥー、アヌイ、ベケットといったフランスの同時代作家の作品を米国の観客に知らしめている(マルテル『超大国アメリカの文化力』p. 59)。これらの作家の作品はパリでも主に私立劇場で上演されていた。
だが1960年代以降、米仏両国で、実験的演劇の製作形態が徐々に変わっていく。パリでも50年代までは私立劇場の役割がきわめて重要だったが、60年代以降、徐々に公共劇場へと比重が移っていく。これを象徴するのが、この時期最も重要な演出家の一人であるジャン=ルイ・バローの動きだろう。ルノー=バロー劇団は1959年に私立のマリニー座を離れて、国立のオデオン座を本拠地とし(1959-68)、それまで私立劇場で上演されていたベケット、イヨネスコ、ナタリー・サロートといった同時代作家の作品を国立劇場で上演するようになる。
ルノー=バロー劇団は、米仏交流においても重要な存在だった。1962年の訪米ではジャクリーヌ・ケネディに迎えられ、公演は米国のメディアでも大きく取り上げられた。1965年にはメトロポリタン・オペラで『ファウスト』を演出している。オデオン座ではエドワード・オールビーやコリン・ヒギンズといった米国の同時代作家の作品も手がけている。そしてバローは1965年から「諸国民演劇祭(Théâtre des Nations)」の運営を担い、1966年にはリヴィング・シアター(同演劇祭には1961年につづいて二度目の参加)を招聘している。リヴィング・シアターとバローとの関係はその後思いがけない展開を見せるのだが、その話は追って。
この1960年代における米仏関係の「近さ」は、今の状況からすればちょっと意外に見えるかも知れないので、少し歴史的な流れを補足しておけば、フランスはもともとヨーロッパで最大の親米国だった。フランス王国はアメリカ独立戦争(1775~83、米国ではむしろ「アメリカ革命American Revolution」と呼ぶ)を支援して参戦し、これがフランス革命(1787~)の直接の原因の一つにもなっている。1803年にナポレオンは広大なフランス領ルイジアナ(現在のルイジアナ州はその一部に過ぎず、現在の15州に及ぶ)を合衆国に売却するが、ここで獲得した領土はそれまでの領土に匹敵するものだった。この時点で、多数のフランス語を母語とする住民が「合衆国民」となったわけだ。19世紀のフランス演劇では「アメリカのおじさん」というのが登場し、突然莫大な遺産を相続してハッピーエンド、という定番があったりもした。「自由の女神」は米国独立100周年を記念してフランスから贈られたものだった。
第一次大戦中にはジャック・コポー率いるヴィユー・コロンビエ座がクレマンソーの意を受けてニューヨークで2シーズンに渡って滞在している(1917-19)。そしてもちろん米国は、第二次大戦でフランスを第三帝国から「解放」した国でもあった。1948年から51年にかけて、マーシャル・プランで大規模な復興援助もしている。パリの中心部にウィルソン通りやルーズベルト通りやあるのもそのためだ。
いろいろ余計なことまで書いてしまった気もするが、要は米仏ともに、一世紀以上にわたって、互いを革命の大義を共有する世界に数少ない同士として認識してきた、ということだ。そして前衛という概念はもちろん、革命と結びついた政治的概念であった。
ド・ゴール政権(1959~69)は米国に対して独自路線の外交を展開したことで知られているが、米国との文化交流は盛んだった。同政権下で、はじめての文化大臣(1959~69)となったアンドレ・マルローはたびたび米国を訪れている。1963年に、ルーヴル美術館学芸員の強い反対を押し切って「モナリザ」を渡米させた際には、ケネディに対して、「(「モナリザ」のリスクよりも)あの日ノルマンディーに敵前上陸した若者達―さらにその前の第一次大戦末期に大西洋を渡った若者達は言うまでもないことですが―のリスクの方がはるかに大きいものでした。大統領閣下、あなたが今夜歴史的讃辞を捧げられてこの傑作は、彼らが救ったのです」と述べている(マルテルp. 36)。マルローはその前年の訪米で「(仏米両国のあいだに)大西洋の文化」というべきものが新たに形成されつつあると感じている、とまで語っている(p. 35)。マルテルはこのマルローを「最も親米のドゴール主義者か、さもなければ最も反共主義者」と呼んでいるが(id.)、少なくともこの世代までのフランス人には、二つの大戦で助けにきてくれた同志、という意識が残っていたのは確かだろう。
オデオン座をコメディ=フランセーズから分離して独立の国立劇場「オデオン座=フランス劇場」とし、バローを支配人に任命したのもこのアンドレ・マルローだった。マルローは1961年に「文化の家(Maisons de la Culture)」を創設するなど、舞台芸術の振興と地方分散化に大きな役割を果たし、その後のフランスの文化政策に決定的な影響を与えた。
もう一人、この時代のフランス演劇の重要人物をもう一人挙げるとすれば、ジャン・ヴィラール(1912~71)だろう。ヴィラールはコポーやジェミエといった前世代の演出家たちから「民衆演劇(Théâtre populaire)」という旗印を引き継ぎ、1951年から1963年まで「国立民衆劇場」(1952年からシャイヨー宮内)を率いていた。国立民衆劇場は1947年に創立されたアヴィニョン演劇祭(当初は「アヴィニョン芸術週間」)とともに「民衆演劇」の拠点となっていく。国立民衆劇場はヴィラール時代には古典の上演が多かったが、次のジョルジュ・ウィルソン時代(1963~72)にはジロドゥー、サルトルに加えブレヒト、ジョン・オズボーンなど、積極的に同時代作家を取り上げるようになっていく。
1965年にはオデオン座のルノー=バロー劇団もアヴィニョン演劇祭に参加するようになる。バローが「前衛」の場から「民衆演劇」の場へと移行できる状況が完全に整ったのがこの時代なのだろう。このあたりで、フランスにおいては、「(国立劇場による)公共の演劇(théâtre public)」と「民衆演劇(théâtre populaire)」、さらには「実験的同時代演劇」がだいぶ重なるようになってくる。このなかで、多くの演劇人に共通の旗印として選ばれていくのが、最も曖昧な「公共の演劇(théâtre public)」という概念だったのだろう。この時代のフランスの状況においては、ほぼ「公共劇場」=国立劇場であり、publicには「公立の」という意味もあるが、さらに「観客/公衆(public)のための」という含意もあり、「民衆的な(populaire)」にきわめて近い意味でも解釈しうる。1974年に演出家ベルナール・ソベルが「テアトル/ピュブリック(Théâtre/public)」誌を創刊するが、この時点ではソベルはまだ自ら創立した劇団「ジェヌヴィリエ演劇アンサンブル」の代表に過ぎなかった(この劇団が国立演劇センター「ジェヌヴィリエ劇場」になるのは1983年)。間に/があるのは、「公立劇場」についての雑誌なのではなく、むしろ演劇の「公共性」を問題にする雑誌だ、ということだろう。
話が長くなり、少々先走ってしまったが、要はフランスにおいては1960年代に「前衛」よりも「公共の演劇」という旗印の方が重要になっていく文脈が成立しつつあった、ということのようだ。
これにはおそらく1968年に起きたことも関連してくるのだろうが、まずは、とりあえずこのあたりで・・・。次回は米国の状況を。
1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(1) フランスの状況と米仏関係 へのコメントはまだありません2016/10/30
「世界演劇」とは何か。「世界で認められる」といったときの「世界」とはどこか。
ACCのリサーチテーマは「アジアの舞台芸術の同時代性とパフォーマンス・スタディーズ」としたのだが、アジアの舞台芸術を「世界」の舞台芸術のなかにどう組み込めばいいのか、ということを考えるには、まず「世界」とは何か、ということを、もう少し細かく知っておく必要があるように思われてきた。
20世紀においては、もちろんそれは欧米のことだった。今世紀になって、特に現代美術においては中国市場が急激に膨張し、「世界美術」市場の地図はここ10数年で大きく変化してきた。「世界演劇」市場(というものがあったとして)においては、アジアにおける演劇祭も数多くなり、アジアの同時代作品が他の地域で取り上げられることも増えたとは思うが、美術に比べると、アジアの比重が劇的に大きくなったわけではないように思う。
ニューヨークに来たかったのは、最近アジア太平洋地域に行ける機会が少しずつ増えてきて、フランスやドイツでは取り上げられることがないようなアジアのアーティストや作品、西ヨーロッパとは異なるネットワークが存在する、ということを実感するようになってきたからだ。たとえば英国からインド、マレーシア、シンガポール、オーストラリア、ニュージーランド、カナダまでを含む旧英連邦のネットワーク。だが同じ英語圏でも、ニューヨークはさらに異なるネットワークに属しているように思われる。ヨーロッパのみならずアジア太平洋からアフリカまで、世界中ほとんどの地域と独自の回路をもち、多くのアジア人がここで舞台芸術を学んでいる。歴史的には日本や韓国、フィリピンとの結びつきも強い。
これらのネットワークは、互いに重なり合いつつも、まだかなりの程度独自性を保っている。それぞれのネットワークの独自性、共約不可能性は、作品をめぐる価値観の違いにあるようだ。そしてそれはある程度、作品の制作形態に依存するのではないか。・・・というのが、今のところの仮説だ。なので、米国における舞台芸術の制作形態について、もう少し知りたいと思っている。
ニューヨーク大学でのフランス演劇をめぐるシンポジウムで話を聞いたりして、最近分かってきたのは、米国とフランスでは舞台作品を評価する基準が微妙に異なるということだ。とりわけ1960年代を境に価値観の亀裂が生まれているように思われる。たとえば1950年代には米国はフランスの「前衛演劇」(ここではとりわけベケットやイヨネスコなどの「不条理演劇」)を積極的に受容でき、1960年代には両国の舞台芸術が驚くほどに交叉する状況があるが、1970年代以降、米国で知られるフランスの演劇人は少なくなっていく。なぜなのか。ラ・ママやジャドソン・ダンス・シアターの話を聞いて見えてきたのは、この1960年代に、米仏両国の舞台制作状況が大きな転換を遂げたということだ。というわけで、これから少し米国の1960年代の製作事情を見ていきたい。1960年代のアーティストたちはどこから製作資金を調達していたのだろうか。
「世界演劇」とは何か へのコメントはまだありません2016/10/28
ラ・ママ実験劇場のアーカイヴを訪問。劇場と同じ大きさのビル一フロア分を使って過去55年の舞台装置・小道具・衣装・ポスターなどが展示してあり、配布資料や上演台本、そして公演のビデオなどがきれいに整理されている。今日はオランダの大学から15人くらい、韓国から3人、そして私で、20人くらいでツアー。アーカイブ主任のオッジ・ロドリゲスさんがラママの歴史を熱く語ってくれる。30分かせいぜい1時間くらいかと思っていたら、劇場案内もふくめ、なんと3時間も語ってくれた。記憶に残った話をいくつか。(私の理解力によるものも含め、誤りもあるかも知れませんが、お気づきの方はぜひご指摘ください。)
ラ・ママの創設者エレン・スチュワートはシカゴ生まれのファッション・デザイナー。だが、シカゴでは黒人にデザイナーの仕事などなく、ニューヨークに出てきて、このイーストヴィレッジにアパートを借りた。当時イーストビレッジはドイツ人、ウクライナ人、ポーランド人、カリブ海からの移民、そして黒人が次々と住み着いてきたいわばゲットーで、エレンがそこを選んだのも、単に家賃が安いからだった。1960年代、ヴェトナム反戦運動、黒人の市民権運動、フェミニズム、ゲイ解放運動が一度に起き、ニューヨークは「セックス・ドラッグ・ロックンロール」の街に。ところがハリウッドやブロードウェイはそういった動きを反映することなく、相変わらず中流階層以上の白人が出てくる話ばかり。「戦争に行きたくない!」「どこも白人専用なんてやってられない!」「一日中キッチンにいるような生活はしたくない!」「ボーイフレンドと堂々と街を歩きたい!」といった気持ちを代弁をしてくれるところは全くない。
エレンはそんな状況を見て、ほかに自分を表現できる場所を持たないアーティストたちが自分の好きなことを言える場所を作りたいと思った。当時はゼロックス製のコピー機の発明などで産業構造が変わりつつあったところで、付近の印刷工場がつぶれたりして、使われていないスペースがたくさんあった。そんななか、ビルの地下室を借りて、発表の場として使えるようにした。当時はそんな先例はなく、黒人女性のところに白人がたくさん出入りしているのを見て通報があり、警察により不法使用として禁止された。だが、飲食店としてであれば不特定多数の人に来てもらう許可が得られる、という話を聞き、カフェとして登録することにした。店の名前を聞かれ、ちょうど内装をしていた人から「ママ、ここどうすればいいの?」と聞かれたので、「じゃあ「ママ」で」とエレンが答え、その場にいた友人の助言で「カフェ・ラ・ママ」という名前で営業をはじめる。
やがて、ヴェトナム戦争反対のメッセージをロックにのせて語る『ヴェト・ロック』(オープン・シアター、ミーガン・テリー作・演出、1966年)が大ヒット。ブロードウェイにも注目され、これがブロードウェイ初のロック・ミュージカル『ヘアー』として、世界的大ヒットになる。ラ・ママの活動に注目が集まるにつれ、大新聞の批評家もラ・ママでやっている作品に好意的な批評を寄せるようになった。ところがそれに対して、批評家にお金を払って記事を書いてもらっていたブロードウェイから圧力がかかる。そこで、エレンはラ・ママのレジデント・アーティストたちの作品をヨーロッパに紹介することを思い立った。当時ヨーロッパでは、アメリカ演劇といえばブロードウェイくらいしか知られておらず、演劇祭でヴェトナム戦争や黒人問題などを正面から扱った作品を見て、観客からも批評家からも大きな反響を得た。ニューヨークの文化人はヨーロッパコンプレックスが強いので、ヨーロッパで評価された、ということで、ブロードウェイから何と言われようとも記事を書かなければいけない、と思ってくれるようになった。
そして東京キッドブラザーズによる東京発のロック・ミュージカル『黄金バット』も大ヒット(1970年)。第二次世界大戦で敵国だった日本と米国のサブカルチャーがヴェトナム反戦を通じて響き合うことに。その後、寺山修司、鈴木忠志など日本のアーティストも次々に紹介され、2007年には日本で最も権威のある文化賞、高松宮殿下記念世界文化賞を受賞、等々。
東京キッドブラザーズ『黄金バット』ニューヨーク公演の経緯
http://www.sweat-and-tears.net/kid/
http://www.endless-kid.net/lamama/kid_an_lamama.html
高松宮殿下記念世界文化賞 エレン・スチュワート
http://www.praemiumimperiale.org/ja/laureate/music/stewart
ラ・ママには前田順さん以外にも日本人スタッフが少なくない。前回ラ・ママについて記事を書いたときに伺って驚いたが、『ヘアー』の演出家トム・オホーガンやロバート・ウィルソンと仕事をしてきた画家・舞台美術家のキクオ・サイトウさんは、藤枝市で手作りの家具を作っていらっしゃる斉藤衛家具工房の斉藤衛さんのお兄さんだそうだ。サイトウさんはこの春お亡くなりになり、9月にはラ・ママで記念式典が行われていた。
キクオ・サイトウ・メモリアル
http://lamama.org/kikuo-saito-memorial/
この充実したアーカイブも、エレンさんの意向で作られたという。様々な支援団体から支援をいただくのにも、何よりも生の資料や映像を見ていただくのが一番説得力がある。そして、この50年間の活動をより若い人たちに世代に届ける必要がある、という思いから作られたそうだ。アメリカ演劇に興味がある方は、ニューヨークにいらした際は訪問して損はないと思います。
ラ・ママ・アーカイヴ
http://lamama.org/programs/archives/
https://pushcartcatalog.wordpress.com/2014/09/09/history/
ここで話を伺って、いろいろつながってきたことがある。その話はまた次回。
ラ・ママ実験劇場アーカイヴ へのコメントはまだありません2016/10/28
シェクナーの今週の授業のことが、数日経ってもなかなか頭から離れない。ジャドソン・ダンス・シアターの話。多少知った気になってはいたが、学生の発表と映像を見ながら、1960年代にはここまで行っていたのか、とちょっと呆然としてしまい、いまだにどう考えていいのかよくわからない。
コンタクト・インプロビゼーションという実践自体は日本でも広まったが、その背景にあるジャドソン・ダンス・シアターの思想やイヴォンヌ・レイナーの「ノー ・マニフェスト」(1965)については比較的触れられることが少ない(レイナーについては、木村覚さんや武藤大祐さん他による研究がある)。
No to spectacle.
No to virtuosity.
No to transformations and magic and make-believe.
No to the glamour and transcendency of the star image.
No to the heroic.
No to the anti-heroic.
No to trash imagery.
No to involvement of performer or spectator.
No to style.
No to camp.
No to seduction of spectator by the wiles of the performer.
No to eccentricity.
No to moving or being moved.
身体をモノとしてみること。それ以外のものとして見ることを徹底的に拒否としてみること。あらゆる神話を、あらゆる表象をそぎ落とされた身体を享受すること。しかし、そんなことが本当に可能なんだろうか。シェクナーはこれをダダイズムと比較したりもした。
あちこちでいろんな話を聞いている中で、なぜこんな話が出て来たのか、ということはちょっと分かるような気がしてきた。一つには、ニューヨークにはブロードウェイがあるということ。商業的な舞台芸術の極北ともいえるシステムが確立していたために、それをいわばアンチモデルとして、それとは全く異なるものを作りたいという意識があったのは確かだろう。逆に商業的な舞台芸術のシステムに乗ろうとしなければ、上演によって報酬を得てプロとしてやっていく、ということはニューヨークにおいては全く考えられなかった。以下のレイナーの手紙によれば、少なくとも1960~64年にはそんな状況だったようだ。
若いアーティストへの手紙/イヴォンヌ・レイナー(訳:中井悠)
http://nocollective.com/transferences/rainer/letter.html
そしてアメリカでは1950年代末からテレビが急激に普及しつつあった。もちろんこれについても、米国は世界の先端を行っていた。フレデリック・マルテルの『超大国アメリカの文化力』によれば、米国の知的エリートによるテレビへの反発と恐れが60年代以降の文化政策の大きな要因の一つになっていた。ニューヨークに来て驚いたことの一つは、アカデミズムにおけるフランクフルト学派、とりわけアドルノの影響の大きさである。これはもちろんアドルノが10年近く米国に亡命していたこともあるが、米国の中において、今に至るまで、これだけ大衆文化を批判する理論に興味を寄せている人が多いというのは意外だった。1960年代の米国の先鋭的文化人は、自国の大衆文化を批判しつつも、ヨーロッパ的なエリート文化をも批判し、米国独自の新たな民衆的文化を創造する、という極めて困難な課題を引き受けていた。イヴォンヌ・レイナーのマニフェストは、ある程度この文脈で理解することはできるだろう。イメージの消費文化は徹底的に拒否しつつも、特異な形で物質文化を徹底的に肯定してみること。
シェクナーから、このジャドソン・ダンス・シアターの遺産は、今どのように受け継がれているのだろうか、という問いが発せられた。ある意味で直接の継承者といえるのは、もちろん今でも毎週月曜日の夜にジャドソンチャーチに集っている「ムーブメント・リサーチ」はある。ジェローム・ベルやグザヴィエ・ルロワといった名前も挙げられたが、今一つピンとこない。議論のあと、シェクナーが最後に「少なくともこのあと、正しい道、間違った道というのはなくなったのではないか」と言っていた。レイナーが示した道はあまりにも険しく、その先に本当に道があるのかもよく分からない。だが、その荒野を歩いてみた人がいたということ自体は、何かしら希望になるような気もする。
Yvonne Rainer, Trio A (1966振付, 1978にソロで再演)
https://www.youtube.com/watch?v=TDHy_nh2Cno
http://www.getty.edu/research/exhibitions_events/exhibitions/rainer/
イヴォンヌ・レイナーの「ノー ・マニフェスト」 へのコメントはまだありません