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フランスの単一言語政策と米国の複数言語政策について、あるいは二つの普遍主義について 2016年12月31日

2016/10/22

ちょっと話が戻るが、ニューヨーク大学でのフランス演劇に関するシンポジウムの話のつづき。フランスの単一言語政策と米国の複数言語政策(?)について、あるいは二つの普遍主義について。

フランスのアーティストから、「フランスは常に「受け入れの地(la terre d’accueil)」だった。フランス共和国の理念からも、フランスはもっと難民を受け入れるべきだ」という話があったのに対して、在米フランス大使館文化部の方から「シリア難民向けにその母語で舞台を提供するという計画はあるか」という質問があった。すでに30年以上ニューヨークに住んでいるフランス人。これに対して、フランスから呼ばれたフランス人アーティストの多くは「難民は数ヶ月でフランス語が話せるようになるので、フランス語で問題ない」という立場だった。これはフランスと米国の「普遍主義」のちがいを象徴しているように思えた。

最近知ってちょっと驚いたのだが、アメリカ合衆国にはなんと国語も公用語も存在しない。州単位では、英語を公用語としているところも結構あるが、連邦単位ではそのような規定はない。つまり、アメリカ合衆国の国民は、必ずしも「英語を話せる人」として定義されているわけではないのである。たとえばハワイ州、ルイジアナ州、ニューメキシコ州などには、公式あるいは事実上の第二公用語(ハワイ語、フランス語、スペイン語)がある。米国は建国以来、英語単一主義と複数言語主義(近年の用語ではEnglish OnlyかEnglish Plusか)のあいだで揺れてきたが、連邦単位では今に至るまでついに英語単一主義に関する合意を形成できなかったため、結果として、フランスに比べればはるかに複数言語の使用が認められているわけである。ニューヨークではスペイン語や中国語などで書かれた広告や掲示をよく見かける。中華街に行けば、中国語だけで書かれた中国系の地方議会議員候補のポスターがあったりする。このような掲示はフランスではまず見たことがない。フランス語の保護をうたうトゥーボン法(1994年制定)に反する行為だからだろう。(ですよね?詳しい方がいたら教えてください。)

米国の言語政策については、たとえばこちらを参照

http://www.yoshifumi-sato.com/old_html/note/backnumber/note1.html

http://user.keio.ac.jp/~rhotta/hellog/2013-11-09-1.html

また、翻訳に関するパネルで、「ドイツ語の方言をフランス語の方言に置き換えて翻訳することはできない、たとえばミュンヘン方言をマルセイユ方言にしてみても滑稽なだけになってしまう」という話があった。連邦制でもともと地方ごとの自立意識が強いドイツにおいては、それぞれの地域において、その地域特有の言葉が一定の誇りと郷土愛をもって話されているのに対して、フランスでは必ずしもそうではない、といったところだろう。

こういった話を受けて、フランス・フランス語圏の劇作家たちに、「フランスにおける単一言語主義政策に対して疑念をもったことはないか?」と質問してみたが、この問いにまともに答えてくれたのは、アルザス語・アレマン語も話されているストラスブールの出身でドイツ語戯曲の翻訳をしている方くらいだった。彼はフランスがEUで唯一「ヨーロッパ地方言語・少数言語憲章」を批准していないことを指摘してくれた。だが、それに対して他の劇作家たちから何の反応もなかったところを見ると、フランスの多くの演劇人にとって、これは大きな問題とは捉えられていないのかも知れない。実はフランスにおいても、フランス語を国民全員に話させる、ということは、「全国」単位で見れば、それほど古い話ではない。むしろ17世紀から推し進められているフランス語パリ方言への同化政策、つまり地方言語・方言を圧殺していく政策が今なお推進されているということである。(ドーデ「最後の授業」が、実はドイツ語に近いアルザス語を母語とするアルザス人にとってはかなり複雑な話だった、等々。)他方、EUが「地方語の保護」を打ち出すのは、ヨーロッパ全土における「言語の統一」は現状において政治的選択肢とはなりえないからでもある。

フランスにおいては公式には民族による差別は否定されているので、フランス語がフランス王国だけでなくフランス共和国の国語ともなったのは、少なくとも理念的には、それが特定の民族の言語だからではない。むしろ、それが革命の理念である啓蒙主義を胚胎した言語だからであり、革命後の公教育において共和国の理念を全国に広めた媒体だったからである。フランス語ができればルソーやヴォルテールを読むことができる。つまり有り体にいえば、共和国の理念にアクセスしやすい言語と、そうでない言語があるということだろう。逆にいえば、アルザス語、ブルトン語、コルシカ語等々を長年にわたって公教育から排除してきたのは、それが共和国の理念の媒体ではなかったからだ。

「フランス語」問題についてフランス人に質問すると、まずはじめに返ってくる返答は、(アメリカのように)公の場で複数の言語を使用することを許容してしまうと、それぞれの言語にもとづく共同体(たとえば「チャイナタウン」やアラビア語などの共同体)ができ、共和国が分断されてしまう、というものだ。この議論は革命期のジャコバン派の政策に由来する。1790年の時点では、正確な「国語」を話せる者は人口の1割超に過ぎなかったといわれる。革命政府は一度同年に「言語の自由」を宣言するが、やがてジャコバン派主体の革命政府は、地方の反革命派が反旗を翻しつづけているのを見て、それを撤回していく。このあと推進されていく単一言語政策の論拠は、以下のベルトラン・バレール(1755-1841)の言葉に集約されているといってよいだろう。

「最初の国民議会で採択された法令をフランスの方言に翻訳するのにどれほどの出費を要したことか。まるで、我々の方がこうした野蛮な、わけの分からない言葉、下品な方言を擁護しているようではないか。こうした方言なぞ狂信者や反革命主義者にしか役に立たないというのに!」

(以下より)

大場静枝「フランスの言語政策と地域語教育運動-ブレイス語を事例として-」

https://www.waseda.jp/inst/cro/assets/uploads/2010/03/b85db14613fbec321910ced448fe48a0.pdf

つまり、ここでは1)国語としての「フランス語」以外の(多くの場合筆記言語としての普及率が低い)言語において「理性的」な思考とコミュニケーションが可能か、という問題と、2)複数言語コミュニケーションにおける経済効率の悪さという問題が提起されているわけである。

私もフランスにいる間は、この「共同体主義(コミュノタリスム)を防ぐ」という理屈にある程度納得していたが、ニューヨークに来てみて、本当に共同体主義はそんなに悪いものなんだろうか、と自問するようになってきた。少なくともニューヨークの状況を見ていると、複数言語の使用によって決定的に分断された共同体ができてしまっているかというと、そうも思えない。たしかに中国語を母語とする移民は、チャイナタウンに住み、中国語だけ話して生きていくことも可能ではある。だが、中国語でも地方語を母語とする場合には、北京語を学ぶよりもむしろ英語を学ぶ人も多いだろう。本当に英語を全く話さずに暮らしている中国人がそれほど多いとは思えないし、米国の中華系移民の英会話能力がフランスの中華系移民のフランス語会話能力よりも平均的に劣っているという気もしない。ニューヨークの街中を歩くカップルを見ていれば、「同じ民族のパートナーを選ぶ」という傾向が特に強いようには思えない。この米国の言語政策が見せるある種の鷹揚さの背景には、英語の経済・文化面における圧倒的な優位もある。移民の子どもたちも英語のテレビドラマとハリウッド映画を観て育ち、就職のために英語によるコミュニケーション能力を磨く。そのため、とりわけ二世代目以降は「異人種間結婚」の割合も高い。ただ、米国が歴史的に共同体主義を許容してきた背景には、言語の問題とは別に宗教的共同体の問題があり、さらには黒人問題もある。このあたりも考えに入れなければ、フランスがなぜ共同体主義を断固として拒否してきたのかが見えてこないだろう。

米国の場合はともかくとして、フランスの場合、「地方語」の問題と「異国語」の問題は一応分けて考えてみよう。フランスにおいて、いわゆるフランス語を話すことが異国の出身者を受け入れる際の条件となっていったのは、おそらく17世紀以降だろう。16世紀までは、他国出身の知識人がフランスを拠点にラテン語で教え、著作する例は多かった。演劇史においては、17世紀にイタリア語でコメディア・デラルテを上演していたイタリア人劇団が追放されていったことは「フランス語演劇史」において重要な出来事だったといえる。一方でやはりイタリア出身のジャン=バティスト・リュリ/ジョヴァンニ・バッティスタ・ルッリは、フランス語をマスターし、フランス語特有のリズムを重視したオペラをつくることで、宮廷で生き残ることができた。そして18世紀にふたたびフランスに戻ってきたイタリア人劇団も、フランス語での上演を余儀なくされていく。これらの出来事を解釈するうえで知っておくべきなのは、16世紀以来フランス語が「国語」と規定されてはいても、フランス王国「臣民」のなかには、とりわけ東部・南部国境付近ではイタリック語派の言語を話す人々が少なくなかったということである。

そもそも、異国語を話す他者を受け入れる際に、自らの言語を話すことを受け入れの条件とすることは、「歓待」の論理として、本当に正当なのだろうか。フランス語を話す人のみを「共和国の理念を共有できる人」として受け入れる、という話になれば、マリーヌ・ル・ペン以降の国民戦線のアイデンティタリスム的な路線とさして大きく違わないところに落ち着きかねない。フランスの単一言語政策は、本当に「理性」に基づくものなのか。あるいはむしろ異国語を話す共同体へのほとんど動物的な恐怖を、疑似論理で正当化したものに過ぎないのだろうか。

もう一つ、フランス人がもちだすのは、政治的合意を成り立たせる「対話」が困難になってしまう、という理屈だ。だがよく考えてみると、多言語の国においては対話によって共和国あるいは民主主義国家を成立させることはできないのか、というと、そんなこともないはずだとは思う。民主主義なり共和主義なりといった理念が一つの言語を超える普遍的なものなのだとすれば、もちろん効率は悪くなるだろうが、翻訳を通じての対話は可能なはずだろう。少なくとも、国会においても同時通訳が不可欠なインドという例はある(「対話」がうまくいっている例として適切なのかは難しいところだが)。

より原理的には、共和国の理念の普遍性と単一言語政策のあいだには矛盾があるように思われてならない。共和国の理念が言語を越えた普遍性を持っているのであれば、それはいかなる言語にも翻訳可能でなければならない。たとえばフランスにおける共和国の理念が普遍的かついかなる言語にも翻訳可能なもので、言語よりも重要なのであれば、シリア難民にフランス語を教えるより先に、まずアラビア語シリア方言で共和国の理念を共有してもらった方がいいかも知れない。そして、通訳や翻訳を通じた対話や政治参加も原理的には可能だろう。一方で、もしある言語でしかうまく表現できない思想があるのだとすれば、そして、共和国においてはあらゆる思想を表明できるべきなのだとすれば、あらゆる言語を尊重すべきだということになる。

もちろんこの単一言語政策は、日本の近代化において推し進められていった政策でもある。アイヌとして初めての国会議員となった萱野茂さんが、1996年に国会においてはじめてアイヌ語で質問したときのことを、今でも忘れることができない。今となってはアイヌ語を母語とする話者はかなり少なくなっているようだが、翌年成立した「アイヌ新法」や最近の北海道新幹線開通にも関わらず、近年は「全国」単位でアイヌ語問題が取り上げられる機会がほとんどなくなってしまった気がする。

萱野茂さんの質問

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/131/1020/13111241020007c.html

Cf. 佐藤知己「アイヌ語の現状と復興」(2012)

http://www.ls-japan.org/modules/documents/LSJpapers/journals/142_sato.pdf

なんでここまで「国語」の問題が気になるのかというと、日本のように単一言語政策が極めて成功してきたところにいるとなかなか気づかないが、演劇が結果的にせよ単一言語政策の媒体として機能してきたという現実があるからだ。言語を使用する演劇作品の潜在的観客数は、その言語の話者数によって規定される。当然多くの場合、その予算規模もそれに相関する。演劇作品が後世に残るか否かについても、観客数や予算規模、そしてとりわけ、それが筆記言語であるか否かに依存する部分が大きい。となると、演劇にとってはどうしても複数言語政策よりも単一言語政策のほうが有利になりがちなのである。これは、演劇が「国民国家」という制度とともに発展してきた理由でもある。だが、国民国家という制度自体を問わなければならない時代になったとすれば、演劇を成り立たせる仕組みにも問いを向けなければならない。

「国語」は社会階層の問題でもある。フランスの小児科で働いている友人がある時、「正書法というのは文化的エリートとそうでない人を区別するためにあるんじゃないか。履歴書やモチベーションレターでは、綴りを間違えていないかによってフィルターがかけられる。バカロレアでも一緒だ」と話していた。正書法というのは、たとえば日本語でいえば「こんにちは」を「こんにちわ」と書いたら間違い、というたぐいのものだが、日本語の仮名遣いや漢字と一緒で、フランス語のつづりにもいろいろややこしい規則や例外がある。この正書法はフランスでは首相が議長を務め、アカデミー・フランセーズ会員などが加わる「フランス語高等審議会」が決めている。いくら頭が良くても、この正書法をマスターしていないと、なかなかエリート層にはアクセスできないわけだ。フランスで劇作家として生き残っていくには、この正書法をきちんと身につける必要がある。これに疑いを持ち、拒否するような人が劇作家として生きていける可能性は非常に低い。フランス演劇についてのシンポジウムでも話に出たが、ジュネは以下のインタビューで「私の拷問者たちと呼ぶべき階層によく知られているフランス語で書く必要があるのです。俗語を使えるのはブルジョワの作家だけなのです」等々と語っている。

http://www.lepetitcelinien.com/2011/12/jean-genet-propos-de-celine-et-largot.html

だが、ジュネの特異な言語をもってしてもなお演劇は「正しい国語」を流通させることに資するものになりうるのだとすると、それはそれで、このシステムから逃れることの困難をいよいよ実感させられるものでもある。

・・・こんなことを一人で考えていたのだが、あとで、アメリカのフランス文学研究者が、「私もフランスにおけるフランス語単一言語政策は、一種のモノテイスム(単一神信仰)だと思う」と話しかけてくれて、ちょっと救われた気がした。

(追記)

この問題が語りにくいのは、それがいわば近代国家の原罪のようなものだからだろう。実際問題として、例えば明治期の日本は「西洋列強」に倣ってなんとか「国語」をつくることに成功したわけだが、もしそれが成功せず、薩摩と九州、東京と京都で異なる言語が使われつづけていたとすれば、植民地化を免れえなかったかもしれない。

一方、明治6年の時点で、留学から戻ったばかりの青年森有礼は、日本語の口語は近代化を遂げ、西洋列強と互角に渡り合うには貧しすぎる、と考えていた。このとき森が考えたように英語を「国語」として採用していたら、「日本」という国の形もかなり異なるものになっていただろう。森がそのような提案をなしえたのは、ヨーロッパ以上に米国での経験が大きかっただろう。ベネディクト・アンダーソンによれば、ヨーロッパにおける国民国家形成においては「国民的出版言語」が大きな意味をもったのに対して、それにほぼ先行するアメリカ合衆国を含む南北アメリカの「クレオール国家」の独立運動においては、言語を共有する「本国」からの分離を要求するものだったので、言語問題は争点とはならなかった(『想像の共同体』第4章~第5章)。南北アメリカの分離運動において、焦点はむしろ出生地にあった。「アメリカ人」とは、なによりもまず、(多くはかつて「クレオール」と呼ばれていた)アメリカ大陸で生まれた人々のことなのである。米国の国籍方が出生地主義を取るのもそのためだろう。幕末に薩摩藩士として18歳で渡英し、3年間の日本滞在を経てふたたび外交官として米国に渡っていた森にとって、「日本諸語」の現状はほとんどクレオール的なものに見えたのかも知れない。

このような規模・効率・「国際」的力関係といった問題は、原理的問題とは別として、もちろん、今何が可能か、ということにも関わってはくる。しかしこれだけを教訓に今後100年の道筋を考えるのは誤りだろうし、ここから「演劇が何を問題にすべきか」を演繹すべきでもないだろう。

カテゴリー: ACC 文化政策

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