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モントリオールから「世界」は見えるか? 2017年1月2日

2016/11/16

土砂降りのニューヨークから一時間以上遅れて飛び立ち、モントリオール空港に降りると、陽光が差している。こんなことになるならもう少しニューヨークで起きていることを見届けておきたかった気もするが、週末まで舞台芸術見本市CINARSに参加。

最近ニューヨークで何度かカナダのアーティストに会ったり、ニューヨークの演劇人とカナダの演劇について話したりする機会があったが、ニューヨークの演劇人は驚くほどカナダで何が起きているのか知らない。CINARSとかワジディ・ムアワッドなどといっても通じないのはフランス語圏のケベック州だからかとも思ったが、英語圏のカナダ演劇界ともさして交流がないらしい。ニューヨーク市立大学演劇科(CUNY)のマーヴィン・カールソンさんは「ニューヨークの演劇界は全然インターナショナルではない。たとえばここで50年以上演劇を見てきたが、カナダの作品は2本しか見ていない」とおっしゃっていた。

米国から一番近い外国なのに、なぜなのか。メキシコ人の方がまだ目立っている気がする。英語圏カナダ出身の演出家に聞いてみたところ、「カナダの方が社会が先進的なので、扱っている問題も米国よりも先進的で、優れた戯曲が多い。カナダでは戯曲を重視していて、劇作家と演出家の間にある種のヒエラルキーがある。一方米国では舞台作品としての形式やヴィジュアルを重視する。そのため、深い内容をもっていても、米国では評価されにくいのかもしれない」という。作品の作り方も、評価のされ方も、同じ北米でもだいぶ違うらしい。ニューヨークにいてもモントリオールに来ても、「世界中」から演劇人が来ている集まっている、と感じるが、その「世界」の構成は、実はだいぶ違っていたりもする。

SPACの演劇祭の名前が「ふじのくに⇄せかい演劇祭」になったこともあって、最近「世界演劇」とは何なのか、よく考える。地方で演劇祭をやることのメリットの一つは、「国」を介さないローカルとローカルの関係が築きやすいことだ。先日のニューヨーク大学でのフランス演劇をめぐるシンポジウムでケベック出身のジョゼット・フェラル(パリ第三大学)が「演劇は(「グローバリゼーション」の時代とされる)今でもローカルなものだ。幸運なことに。」と発言していたが、実際、演劇作品がローカルな観客に支えられることなくいきなり「世界」を相手にするのはほとんどありえない。そもそも演劇は、観客として「世界」という漠然としたものを相手にするものではなく、ある特定の場所に集まる特定の観客のために上演されるものだ。

とはいえ、演劇祭が描く世界地図は、国や地域政府の助成金事情によって、かなり地域の比重が異なってきている。ケベック州は、人口ではカナダ全体の20

数パーセントだが、たしかカナダ以外で上演されている舞台芸術作品の8割位はケベックの作品だと聞いた。大まかにいえば、国や州政府などが助成金を出しているところは、創作環境も充実しているので、クオリティーが高い作品を作っている傾向はある。もちろんお金さえ出せば良い作品ができるとも限らないが、少なくともケベックはこれまで、シルク・デュ・ソレイユだけでなく、ロベール・ルパージュやワジディ・ムアワッドなどの才能を排出してきた。一方で、作品を作る環境に恵まれていない国では、そもそも作品を作ること自体が困難だし、それを自国以外の人にまで知ってもらうのはいよいよ困難だ。だからといって、そういった国で優れた才能が生まれないとも限らない。だが、作品を見に行くための予算も時間も限られているので、どうしても比較的恵まれた国の優先順位が高くなってしまう。数年前、カメルーン公演の帰路で、たまたま内戦が終結したばかりの中央アフリカを経由したとき、「きっとこの国には演劇の仕事で来ることは一生ないんだろうな」と思い、「世界」にはそういう地域がたくさんあるということを実感した。

それ以前に、もっと根本的な問題として、そもそも「演劇」と呼ばれるものがほとんど行われていない地域もある。たとえば、中東「演劇」に詳しいマーヴィン・カールソンの話。「よく、中東の演劇は19世紀にはじまった、というが、それは西洋演劇の模倣がはじまったという意味だ。中東にはそれ以前にも、さまざまなパフォーマンスの伝統があった。たとえば人形劇。西洋人は人形劇は子供向けのものと思っていたが、中東やインドネシアの人形劇、それに日本の文楽だって、全然そうではない。だが、西洋で書かれる「演劇史」に人形劇が含まれることは滅多にない。」そして、もちろん人形劇だってない地域も世界にはたくさんあるが、英語でいう「パフォーマンス」や日本語でいう「芸能」といったものが存在しない地域はない。だとすれば、演劇という概念を拡張するのがいいのか、あるいは「パフォーマンス」といった言葉を使うのがいいのか。前者が今フランスやドイツなどで起きていることで、後者は米国の解決策。とはいえ米国で「演劇祭」が「パフォーマンス・フェスティバル」に置き換えられたわけでもなく、今でも「パフォーマンス」は主にギャラリーなど非劇場スペースでの小規模な上演形態に使われる場合が多い。そして「演劇」に比べて「パフォーマンス」という概念はあまりに英語特有のもので、他の西洋語にすら訳しにくい、という問題もある。少なくとも、ここで浮かび上がるのは、「演劇」という概念をかなり広く定義しておかないと、「世界演劇」も世界のうちの狭い地域だけの話になってしまうということだ。

植民地主義の時代が終わり、「世界」に主体的に参画する地域が増えてきたことで、「世界」を見る視線もさまざまになり、その視線の全てを含めるような視覚をもつことが不可能になってきた。では、今日の世界は演劇によって表象できるのだろうか。

ある意味では、(広い意味での)演劇はいつでも「世界」を表象できていたし、これからもできるだろう。カルデロンの『世界大劇場』のように、「世界」が登場人物の一人となっている作品すらある。どんな小さな村に住んでいる人にだって「世界」のイメージがあるし、逆にどんなに「世界中」を旅して知っている人にだって世界の全てが見えているわけでは全くない。「世界」のイメージは、今では多くの人がテレビを通じて得ているが、そのイメージは往々にして、「国」と一致した規模のマスメディアによって媒介されている。「国際」ではない「世界」のイメージが存在していくためには、「演劇」なり「パフォーマンス」なりのローカルな表象形態はまだまだ必要なのではないだろうか。だとすれば重要なのは、一九世紀以来発展してきた国家/メディアが描く力線の向こうに、演じる身体と見る身体のあいだに生じるローカル(局所的)な「世界」への視線をなんとかしてふたたび見出すことなのではないか。

…などとつらつら考えながらぶらぶらしていたら、「世界」の全てが見えている人に出会ってしまった。

夜11時近く、さっさと夕食を済まそうと、一番早そうな近所のプーティン(フライドポテトにソースとチーズをかけたカナダ名物)屋に入った。店のご主人はいかにも店を閉めたそうで、「ピザとプーティンしかないよ」とぶっきらぼう。「じゃあピザとプーティンを一つずつ」と注文。「ここで食べてもいいですか」と聞くと、「もうそろそろ閉めるからねえ」といい、テイクアウトの準備をはじめる。。「長居はしませんから」といってみたら、わかったよ、という感じでフォークをつけてくれた。「このソースなんですか?」「何だと思う?スネークだ!ハハハ!」(「ハラル」と書いてあったので)「スネークもハラルなんですか?」「おまえイスラム教を知ってるのか?冗談だよ。チキンだチキン、ブラザー」等々。

店内で食べていたら、わざわざトレーとナプキンを届けてくれる。「優しいですね!」「ムスリムだからな!」ピザもプーティンも、期待はしていなかったが、それ以上に美味しくなかった。ただ分量はすごかったので、半分くらい残してしまった。支払って帰ろうとすると、主人が声をかけてくる。

「俺がなんでナプキンを届けたか、わかるか?それは俺が本を読んでるからだ。お前は仏教徒か?神は信じてるか?俺は物理学を勉強した。物理学をやっていると、我々を越えたものの存在を信じざるをえなくなる。俺は今でも、この店で、暇さえあれば本を読んでいる。俺はこのコスモスというものがどういうものかを知りたいんだ。この世界はどうなっているのか、何が正しいのか。そう思って、聖書も読んだし、ユダヤ教の聖典も読んだし、仏陀も孔子も孟子も読んだし、プラトンもソクラテスもアリストテレスもアルキメデスも、デカルトもニュートンも、シュレジンガーもハイデルベルクも、アインシュタインもホーキンスも読んだ。でも、これが正しい、と思う人と、あっちが正しい、と思う人がいて、何を読んでも、結局のところ、世界の全員を幸せにしてくれるものはなかなか見つからなかった。いろいろ読んだ末に、一冊だけ、本当にこの世界の全てのことについて語っている本に出会ったんだ。何だかわかる?」

「コーランですか?」

「そうだ。父親の宗教がどうとか母親がどうとか、そんなことは関係がない。俺は世界中の本を読んだ末に、ここにこそ真理が書かれていることがわかったんだ。この本には全て書かれている。だから俺はこの本が大好きなんだ。俺たちの宗教には、人を説得して改宗させられるなんて思ったりはしないんだ。自分の意思で、そういう気持ちになって本を読まないとな。だからムスリムになれ、なんて言わないが、とにかく本を読んでみてくれ。お前はこうやってピザとプーティンを残したが、今世界中では七億六千万人の人が飢えている。この本には、銀行に金を預けるな、と書いてある。だから俺も預けない。金があったら、人にあげればいいんだ。そうすればこんなに人が飢えたりしない。ここには宇宙のことも、生物のことも、すべてが書かれている。俺はこれを読んだから、今ではどんな疑問にも答えられるし、だから毎日よく眠れる。何か疑問があったら俺に聞きに来てくれ、ブラザー。ブラザーと呼ぶのは、ほら見てみろ、この俺の手とお前の手はほとんど一緒だろ?俺とお前のDNAは25%は一緒なんだ。(注:多分もっと一緒じゃないだろうか。)だからブラザーなんだ。もう俺とお前は、もしかしたら二度と合わないかもしれないが、本当に来てくれてありがとう。いつか、その気になったら、本を読んでみてくれ。」お互い、インシャラー、といって別れを告げた。

そして夜中に目が冴えてしまい、あのブラザーを見倣ってもっと勉強しなければ、とつくづく思った。

カテゴリー: ACC 世界演劇

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