Menu

1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(1) フランスの状況と米仏関係 2017年1月2日

2016/11/02

(改めて断っておきますが、ここで公開しているのは、見たこと、聞いたこと、考えたことなどをなるべくその場で書き留めておいて、あわよくばよくご存知の方に教えてもらおうという位の魂胆ですので、無知にもとづく誤解なども多々あると思いますが、お気づきの方はぜひご教示いただければと思います。というわけで、ちょっとした思いつきを書くつもりだったのに、いろいろ気になってきて、なんだか長くなってしまっていますが・・・)

60年代以降、米仏の演劇の間になぜ溝ができたのか。制作形態の変化がその原因の一つなのではないか。この問題にこだわるのは、今後日本の「公共」演劇がどのような道を取るべきなのかを考えるうえで重要な問題のように思えるからだ。

ニューヨーク大学でのフランス演劇をめぐるシンポジウムにおいて印象的だったのは、「アヴァンギャルド(前衛)」という概念をめぐる意識のずれだった。シェクナーが米国における「アヴァンギャルド・シアター」についての歴史と現状について語り、今日のフランスにはその対応物はあるのだろうか、という問いを発したのに対して、パリ第三大学のジョゼット・フェラルは「前衛という概念自体、今では意味を失っているのではないか」と答えていた。

フェラルはカナダ・ケベック州の出身なので、このときは一般的な話として受け取っていたが、そういえば米国に関しては、とりわけ1960年代~70年代の演劇・ダンスについて「アヴァンギャルド」という言葉がよく使われ、その後もある程度使われつづけている。たとえば邦訳もあるクリストファー・イネスの『アヴァンギャルド・シアター 〈1892-1992〉』(原著1993年刊行)では、少なくとも90年代まで「アヴァンギャルド・シアター」があったことになっている。

Avant Garde Theatre, 1892-1992, By Christopher Innes

https://www.questia.com/library/104687273/avant-garde-theatre-1892-1992

それに対して、フランスでは、この言葉がよく使われたのはベケットら不条理演劇の世代までで、それ以降はあまり使われなくなったように思う。イネスの著作ではジャン=ルイ・バローや太陽劇団も扱われているが、フランスでバローや太陽劇団を「アヴァンギャルド」と形容するのはあまり聞いたことがない。面白いことに、wikipediaの「太陽劇団」(1964年創立)の項目では、フランス語版には「アヴァンギャルド」という言葉が全く使われていないのに対して、英語版では「パリのアヴァンギャルド・ステージ・アンサンブル」という紹介がなされていた。

https://en.wikipedia.org/wiki/Th%C3%A9%C3%A2tre_du_Soleil

フランスでこの言葉が余り使われなくなったのは、理念の問題だけではなく、舞台作品の制作形態の変容にも起因しているのではないか。1950年代までは、フランスと米国の実験的な舞台芸術の生産形式、つまり興行形態にはまだ大きな違いがなかった。フランスにはコメディ=フランセーズという国立劇場があるが、ここは少なくとも20世紀の実験的演劇(商業演劇と区別する意味で、とりあえずはこの言葉を使っておこう)にとって最も重要な場ではなかった。両国とも、1950年代の実験的演劇は主に私立劇場で上演されていた。1950年代、ブロードウェイに新たなビジネスモデルを持ち込んだプロデューサー、ロジャー・スティーヴンズは『ウェストサイド物語』のかたわら、ジロドゥー、アヌイ、ベケットといったフランスの同時代作家の作品を米国の観客に知らしめている(マルテル『超大国アメリカの文化力』p. 59)。これらの作家の作品はパリでも主に私立劇場で上演されていた。

だが1960年代以降、米仏両国で、実験的演劇の製作形態が徐々に変わっていく。パリでも50年代までは私立劇場の役割がきわめて重要だったが、60年代以降、徐々に公共劇場へと比重が移っていく。これを象徴するのが、この時期最も重要な演出家の一人であるジャン=ルイ・バローの動きだろう。ルノー=バロー劇団は1959年に私立のマリニー座を離れて、国立のオデオン座を本拠地とし(1959-68)、それまで私立劇場で上演されていたベケット、イヨネスコ、ナタリー・サロートといった同時代作家の作品を国立劇場で上演するようになる。

ルノー=バロー劇団は、米仏交流においても重要な存在だった。1962年の訪米ではジャクリーヌ・ケネディに迎えられ、公演は米国のメディアでも大きく取り上げられた。1965年にはメトロポリタン・オペラで『ファウスト』を演出している。オデオン座ではエドワード・オールビーやコリン・ヒギンズといった米国の同時代作家の作品も手がけている。そしてバローは1965年から「諸国民演劇祭(Théâtre des Nations)」の運営を担い、1966年にはリヴィング・シアター(同演劇祭には1961年につづいて二度目の参加)を招聘している。リヴィング・シアターとバローとの関係はその後思いがけない展開を見せるのだが、その話は追って。

この1960年代における米仏関係の「近さ」は、今の状況からすればちょっと意外に見えるかも知れないので、少し歴史的な流れを補足しておけば、フランスはもともとヨーロッパで最大の親米国だった。フランス王国はアメリカ独立戦争(1775~83、米国ではむしろ「アメリカ革命American Revolution」と呼ぶ)を支援して参戦し、これがフランス革命(1787~)の直接の原因の一つにもなっている。1803年にナポレオンは広大なフランス領ルイジアナ(現在のルイジアナ州はその一部に過ぎず、現在の15州に及ぶ)を合衆国に売却するが、ここで獲得した領土はそれまでの領土に匹敵するものだった。この時点で、多数のフランス語を母語とする住民が「合衆国民」となったわけだ。19世紀のフランス演劇では「アメリカのおじさん」というのが登場し、突然莫大な遺産を相続してハッピーエンド、という定番があったりもした。「自由の女神」は米国独立100周年を記念してフランスから贈られたものだった。

第一次大戦中にはジャック・コポー率いるヴィユー・コロンビエ座がクレマンソーの意を受けてニューヨークで2シーズンに渡って滞在している(1917-19)。そしてもちろん米国は、第二次大戦でフランスを第三帝国から「解放」した国でもあった。1948年から51年にかけて、マーシャル・プランで大規模な復興援助もしている。パリの中心部にウィルソン通りやルーズベルト通りやあるのもそのためだ。

いろいろ余計なことまで書いてしまった気もするが、要は米仏ともに、一世紀以上にわたって、互いを革命の大義を共有する世界に数少ない同士として認識してきた、ということだ。そして前衛という概念はもちろん、革命と結びついた政治的概念であった。

ド・ゴール政権(1959~69)は米国に対して独自路線の外交を展開したことで知られているが、米国との文化交流は盛んだった。同政権下で、はじめての文化大臣(1959~69)となったアンドレ・マルローはたびたび米国を訪れている。1963年に、ルーヴル美術館学芸員の強い反対を押し切って「モナリザ」を渡米させた際には、ケネディに対して、「(「モナリザ」のリスクよりも)あの日ノルマンディーに敵前上陸した若者達―さらにその前の第一次大戦末期に大西洋を渡った若者達は言うまでもないことですが―のリスクの方がはるかに大きいものでした。大統領閣下、あなたが今夜歴史的讃辞を捧げられてこの傑作は、彼らが救ったのです」と述べている(マルテルp. 36)。マルローはその前年の訪米で「(仏米両国のあいだに)大西洋の文化」というべきものが新たに形成されつつあると感じている、とまで語っている(p. 35)。マルテルはこのマルローを「最も親米のドゴール主義者か、さもなければ最も反共主義者」と呼んでいるが(id.)、少なくともこの世代までのフランス人には、二つの大戦で助けにきてくれた同志、という意識が残っていたのは確かだろう。

オデオン座をコメディ=フランセーズから分離して独立の国立劇場「オデオン座=フランス劇場」とし、バローを支配人に任命したのもこのアンドレ・マルローだった。マルローは1961年に「文化の家(Maisons de la Culture)」を創設するなど、舞台芸術の振興と地方分散化に大きな役割を果たし、その後のフランスの文化政策に決定的な影響を与えた。

もう一人、この時代のフランス演劇の重要人物をもう一人挙げるとすれば、ジャン・ヴィラール(1912~71)だろう。ヴィラールはコポーやジェミエといった前世代の演出家たちから「民衆演劇(Théâtre populaire)」という旗印を引き継ぎ、1951年から1963年まで「国立民衆劇場」(1952年からシャイヨー宮内)を率いていた。国立民衆劇場は1947年に創立されたアヴィニョン演劇祭(当初は「アヴィニョン芸術週間」)とともに「民衆演劇」の拠点となっていく。国立民衆劇場はヴィラール時代には古典の上演が多かったが、次のジョルジュ・ウィルソン時代(1963~72)にはジロドゥー、サルトルに加えブレヒト、ジョン・オズボーンなど、積極的に同時代作家を取り上げるようになっていく。

1965年にはオデオン座のルノー=バロー劇団もアヴィニョン演劇祭に参加するようになる。バローが「前衛」の場から「民衆演劇」の場へと移行できる状況が完全に整ったのがこの時代なのだろう。このあたりで、フランスにおいては、「(国立劇場による)公共の演劇(théâtre public)」と「民衆演劇(théâtre populaire)」、さらには「実験的同時代演劇」がだいぶ重なるようになってくる。このなかで、多くの演劇人に共通の旗印として選ばれていくのが、最も曖昧な「公共の演劇(théâtre public)」という概念だったのだろう。この時代のフランスの状況においては、ほぼ「公共劇場」=国立劇場であり、publicには「公立の」という意味もあるが、さらに「観客/公衆(public)のための」という含意もあり、「民衆的な(populaire)」にきわめて近い意味でも解釈しうる。1974年に演出家ベルナール・ソベルが「テアトル/ピュブリック(Théâtre/public)」誌を創刊するが、この時点ではソベルはまだ自ら創立した劇団「ジェヌヴィリエ演劇アンサンブル」の代表に過ぎなかった(この劇団が国立演劇センター「ジェヌヴィリエ劇場」になるのは1983年)。間に/があるのは、「公立劇場」についての雑誌なのではなく、むしろ演劇の「公共性」を問題にする雑誌だ、ということだろう。

話が長くなり、少々先走ってしまったが、要はフランスにおいては1960年代に「前衛」よりも「公共の演劇」という旗印の方が重要になっていく文脈が成立しつつあった、ということのようだ。

これにはおそらく1968年に起きたことも関連してくるのだろうが、まずは、とりあえずこのあたりで・・・。次回は米国の状況を。

カテゴリー: ACC 文化政策

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です