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テキサス州​オースティン、NPN年次総会と「アイデンティティ」 (3)「トランプ後」における「人種」とアイデン 2017年1月4日

(3)「トランプ後」における「人種」とアイデンティティ

このように強固に「多様性」を促進する活動をつづけてきたNPN関係者のなかでは、当然「トランプ後」への懸念も大きい。あるオクラホマ州の劇場の芸術監督は、「うちの理事会では、卓越性という名目のもとに、有名で「売れる」アーティストへの活動に支援を集中させようという動きがある。これからは、共同体に根ざした活動やマイノリティのアーティストの活動の支援がさらに難しくなるのではないか」と話していた。

この劇場の理事会の構成においては、地域コミュニティの人種・ジェンダーバランスを反映する配慮がなされているという。逆に「あなたの劇場には韓国系や中国系の理事はいますか?」と聞かれ、ちょっと考えされられた。

米国の国勢調査では、「人種(race)」や「祖先の民族(ancestry)」について答える項目がある(いずれも自己認識にもとづく)。これがあるから、「(人口構成と比較して)十分に表象されていない(underrepresented)」という言い回しがよく使われるわけだ。日本でこれが難しいのは、まず、国家のなりたち自体が異なるからだ。

アメリカ大陸の国家の多くはヨーロッパの「本国人(スペイン人、ポルトガル人、英国人)」に対して、(主にヨーロッパ系移民の子孫である)植民地生まれの「アメリカ人」が独立した、という形で作られてきた。近代以降において先住民族が主導して国家を作ったという例はない(最近ボリビアなどで先住民族が政治的な主導権を取り戻している例はあるが)。だから、米国の国籍法においては出生地主義(米国内で生まれれば米国国籍が得られる)を基本としていて、民族を問うことは国籍/市民権の正当性とは(原則的には)関係がない。

(とはいえ、大統領選挙中にトランプの有力支持者の一人が、活動的なテログループがあるイスラム諸国からの移民を登録する仕組みを作ると発言し、第二次大戦中の日本人収容を前例として挙げており、トランプ大統領就任後の対応が注目されている。)

http://www.nytimes.com/2016/11/18/us/politics/japanese-internment-muslim-registry.html

大統領選挙直前に上演されていたメキシコ出身のアーティストによる体験型演劇『ドゥモクラシー(Doomocracy、「破滅doom」と「民主主義democracy」のかけことば)』では、観客は車に乗せられ、会場に到着したところで国境警備隊に包囲され、一人一人「お前はアメリカ生まれか?」と尋問される場面があった。この国で市民権を持っているか否かについて、最も決定的な意味をもつのは出生地なのである。

『ドゥモクラシー』劇評

http://www.nytimes.com/2016/10/14/arts/design/review-doomocracy-looms-at-fright-night-in-brooklyn.html

日本においては「民族」を基準とした公式の統計はない。だが、日本の国籍法は血統主義(日本人の父または母から生まれれば日本国籍が得られる)を基本としている。つまり、「日本人」を出生地よりむしろ血統によって規定しているわけで、この背景には民族国家としてのネイションという発想があるはずだ。だが、2008年にアイヌ先住民決議が国会で採択されて以降ですら、そもそも「日本人」を構成する主な民族が「何民族」なのか、についての公式見解すら形成されていない。1986年以降のいわゆる「単一民族発言」において、政治家たちが「大和民族」という言葉を避けてきたのは、そう口にした瞬間に、この国家のなりたちとその正統性をめぐる、かなりややこしい議論に巻き込まれるということを察していたからだろう。中曽根世代までは戦前の複合民族論もよく知っていたはずだ。

結果として、今の日本においては、多くの国民が「何民族」に属しているのかは明確に認識しないまま、「主流にしてほぼ単一の民族に属している」という意識をもつ、という不思議なことになっている。もう少し好意的な表現を使えば、ここ百数十年、とりわけここ数十年で「日本民族」ともいうべき意識が培われてきた、と言ってみることもできる。

Cf. 岡本雅享「日本人内部の民族意識と概念の混乱」2011

http://www.fukuoka-pu.ac.jp/kiyou/kiyo19_2/1902_okamoto.pdf

このなかで、日本国民の一人一人に民族を問うことは、ここ数十年、根本的な問いかけが避けられてきた暗黙の前提を問い直すことになりかねない。また、これから他国籍の在住者や国際結婚の割合が年々増えるなかで、いかに移民や難民に門戸を閉ざそうとも、これらの「前提」がはらむ矛盾に苦しむ人々もこれからいよいよ増えていくだろう。そういった前提を、いかに人を傷つけることなく解きほぐしていけるか、というのも、「日本」と関わっていくアーティストが取り組んでいかざるをえない問いなのではないか。

日米のもう一つのちがいは、米国では、「人種的マイノリティ」と大まかに対応する「有色」という目に見える基準があることだ。良かれ悪しかれ、多くの場合、「白人」でない、ということは一目で分かる。(ただし「ヒスパニックあるいはラテン系」は「白人」と「有色」の二つのカテゴリーにまたがっている。)そしてこれがかつての社会構造のなかの階層とある程度対応するために、差別が生まれ、それに対抗する動きも生まれた。

日本の場合、たとえば日本の広告においてはいわゆる西洋系のモデルが使われている比率が人口比に対して明らかに多いので、「日本民族/アジア系が十分に表象されていない」などと言ってみることも可能かも知れない。だが、他国から日本列島にやってくる人々の大多数は東アジアの出身で、「日本人」と外見で明確に区別されるわけではなく、表象の比率について統計を取るのも容易ではない。

米国に来たばかりのときには、この「白人」/「有色人」といった言葉を日常的に聞くことに、けっこう驚いた。以前住んでいたフランスでは今日、「民族」はともかく、「人種」という言葉が使われることは滅多にない。これにはパリを本部とするユネスコの「人種と人種的偏見に関する声明」(1967)の影響もあるのかも知れない。

それでも米国では「人種」なり「白人」/「黒人」/「有色人」なりという言葉を使わざるを得ないのは、「民族」ではあまりに多様すぎるからだろう。ヨーロッパの感覚からすれば、イギリス系、アイルランド系、フランス系、ドイツ系、ギリシャ系、ポーランド系、ユダヤ系・・・をすべて「白人」でまとめるのは奇妙に思えるが、それらがそれぞれにアイデンティティを主張しているだけでは、十分な政治的勢力にはなりにくい。さらに「黒人」はといえば、奴隷としてアフリカ大陸から連れてこられてから何世代も経ている人々が大多数で、多くの場合にはすでに祖先の出自も言語も宗教も分からなくなっている。

一方、フランスでこの種の言葉が使われないのにはもう一つ理由がある。フランスは革命以来、人種・民族による差別を、「区別を設けない」という方法で排除しようとしてきた。たとえば、フランスにおいては法律で民族や宗教を基準とした統計を取ることが禁じられている。

Cf. “Quatre questions sur les statistiques ethniques”, Le Monde

http://www.lemonde.fr/les-decodeurs/article/2015/05/06/quatre-questions-sur-les-statistiques-ethniques_4628874_4355770.html

だからといって、フランスで就職などで出身による差別がないわけではない。イスラム系やアフリカ系の名前で履歴書を出すと、そうでない場合よりも返事が来る可能性がずっと低い、といった実験結果もある。だが、そもそも人種・民族別に統計を取ることができないので、アファーマティヴ・アクション(積極的格差是正措置)が採られることもない。フランスの演劇界においては、これまで国立劇場や国立演劇センターの芸術監督に「有色」のアーティストが就任した例は(「有色」の人々が多数を占める海外領土を除けば)まずなかった(その意味で今年ワジディ・ムアワッドがコリーヌ国立劇場の芸術監督に就任したのは意義深い)。

一方米国では、公民権運動やゲイリベレーション運動で、「マイノリティ」が団結することで政治的な発言権を得る、という動きが重要になった。フランスの「反共同体主義」は、このような動きを徹底的に排除するものでもある。米国は「差別」を徹底的に顕在化させることで解決しようとし、フランスは逆に徹底的に不可視化することで解決しようとしてきた。どちらにしても、メリットだけでなく弊害も出てきている。

アファーマティヴ・アクションとしての文化表象政策の問題の一つは、人口比を超えること、つまり特定のコミュニティを大きく超えることが想定されにくいことだろう。そうなった瞬間、それはむしろ「過剰な表象(overrepresentation)」となってしまう。

たとえば以下の記事によれば、2014年のハリウッド映画に出演した俳優のうち、白人が73.1%、黒人12.5%、アジア系5.3%で、マイノリティの出演は今なお圧倒的に少ない、という論調になっている。だが、同年の米国の人口統計によれば、白人72%、アフリカンアメリカン13%、アジア系5%で、偶然とは思えないほど数字が一致している。

http://www.pbs.org/newshour/rundown/30000-hollywood-film-characters-heres-many-werent-white/

以下の記事によれば、ハリウッドのプロデューサーたちもかなりこの割合を意識しているようだ。

http://deadline.com/2015/03/tv-pilots-ethnic-casting-trend-backlash-1201386511/

いずれにしても、少なくとも数字だけを見るのであれば(「どう表象されているか」は別として)、アジア系は全体の5%表象されていれば「十分」だ、といういい方もできる。

そして、「普遍的価値があるから」ではなく、「特定のコミュニティの価値観が十分に反映されていないから」表象すべき、という論理は、普遍性を目指すことなく、特定のコミュニティにしか向けられていない表象を擁護するものともなりうる。

今の米国の状況を見ていると、「アイデンティティ」という概念が社会を寸断し、政治的な袋小路へと導いているようにも見える。米国の多文化主義の文脈において、アイデンティティを尊重する、という表現がよく使われてきた。近年はこれが逆転させられ、「危機に瀕しているヨーロッパ系白人のアイデンティティを守ろう」という話も出てきている。

重要なトランプ支持イデオローグの一人、リチャード・B・スペンサーが提唱する「アイデンティタリアニズム」は、レイシズムやナショナリズムの言説をある程度回避しつつ、「文化的アイデンティティ」の尊重を訴える。(このアイデンティタリアニズムはヨーロッパ政治においても重要な言説形態になりつつあり、マリーヌ・ル・ペンの国民戦線もこれに近い路線を取っている。)白人による民族国家の建設を主張するスペンサーは、来日時に「日本は国民国家なので多様性の問題が無く平和で素晴らしい」と語っていたという。

スペンサーに関する記事

http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/09/20-17.php

http://www.huffingtonpost.jp/2016/12/12/alt-right_n_13578834.html

最近「有色の人々(People of Color)」あるいは”BME”(Black and Minority Ethnic)、”BAME”(Black, Asian and Minority Ethnic)の代わりに、ときに”PGM”(People of the Global Majority、世界的多数派)という表現も使われるという。たしかにアフリカ系・アジア系を含む「有色人種」は世界的には「白人」よりも多い。トランプ支持者のなかには、白人がマジョリティではなくなっていく状況への危機感もある。少なくとも「人種」という側面で見れば、「マイノリティ/マジョリティ」という二項対立自体が政治的機能を変容させつつある。

「アイデンティティ」には、「人種/民族」と並んで、「セクシュアル・オリエンテーション(性的指向)/ジェンダー・アイデンティティ(性別の自己認識)」(Sexual Orientation and Gender Identity, SOGIと略されたりもする)が重要な要素として取り上げられる。NPN/VPNの会合で使われる名札には、自分に使ってほしい「性別人称代名詞(gender pronoun)」を書く欄がある。ここでは「性別に中立な代名詞(たとえばhe/sheの代わりにtheyなど、この場合theyは意味的には単数になる)」を使う方も少なくない。

英語における「性別に中立な人称代名詞」の使い方について

http://rindalog.blogspot.com/2015/05/gender-neutral-pronoun.html

https://uwm.edu/lgbtrc/support/gender-pronouns/

Themの使用を求めるアーティストill Weaver

https://emergencemedia.org/blogs/news/80985604-they-statement-of-nonconformity

この二つの「アイデンティティ」がクローズアップされるようになったのには、1960年代以降の黒人公民権運動とゲイリベレーション運動が大きかったわけだが、結果的として、人種とセクシュアリティによってカテゴリーが縦横に寸断されることにもなる。「アイデンティティ/自己同一性」とは、自己をあるカテゴリーに属するものとして規定することで、多数者と分断しつつ、限定された接点を形成するものだ。

だが、「自己」がたまたま既成のカテゴリーと一致することはありえない。そもそも、自己があるカテゴリーに属するということは、ある虚構を受け入れることに他ならない。自分は「日本人」だ、とみなすときにも、「日本人」という実体があるわけではなく、文脈によってさまざまに規定されうる分断のあり方を受け入れているに過ぎない。また「同性愛者/異性愛者」だ、とみなしたとしても、それは「同性」あるいは「異性」というカテゴリーに属するあらゆる人を愛することを意味するわけではないし、愛することができるのは未来永劫そのカテゴリーに属する人のみだ、ということが保証されるわけでもない。そこでなされるのはむしろ、同じカテゴリーに属する他の人々との連帯の表明であろう。

だから、「アイデンティティ(自己同一性)」よりもむしろ「アイデンティフィケーション(自己同一化)」について語るべきだろう。実際になされるのは自らを既存のカテゴリーと一致させようとする過程であり、「アイデンティティ」を一致がすでに存在している静的状態とみなしてしまえば、実態を見誤ることになる。

冒頭で長々とテキサスとメキシコの歴史に触れたのもそのためだ。「自己同一化」は自己をなんとかして固定された一点に係留しようとするが、歴史はつねに動いている。ネイションへの「自己同一化」は、過去の忘却と現在に含まれている未来の否認によってしか達成されない。

近年の米国の舞台芸術はアイデンティティ・ポリティクスと深く結びついてきた。表象の操作をめぐって長年手と手を携えてきた近代芸術と近代政治はアイデンティティという概念と相性がいい。人間を「アイデンティティ」という観点から見ることは、その断面の一つを拡大して見ることであり、それは舞台芸術の機能の一つでもある。そして、それを名付け、カテゴリー化し、連帯を形成することで、政治的な力も発生しうる。そこで「表象の過小(underrepresentation)」を「拡大された表象(overrepresentation)」へと転換する可能性も備えている。だが、政治が発明したカテゴリーを追認しているに過ぎない場合もある。そろそろ、芸術は政治に引きずられるのではなく、政治より一歩先に歩みを進めなければならないのではないか。

ダムタイプの故古橋悌二さん(ACCグランティーでもあった)が、こんな話をしていた。

「人間は「個人」なんだから、第一のアイデンティティにセクシュアリティをわざわざもってくることはないと思う。セクシュアリティとかは付随してるもんだから、レズビアンでもゲイでも、それが自分のアイデンティティだっていうふうに、盾をつくっちゃうんじゃなくて、それだとどんどん人間の壁をつくっていくだけだから。まず個人というのがあって、それに付随しているなかのひとつに、レズビアンとかゲイとか、職業とか、背が高い、とかがくる。だから、まず、個人の、ひとりの人間の身体というのを考えた方がいいかな。レズビアンとかゲイとかいっても、それは自分がつけた意味じゃなくて、社会がつけた意味でしょう。だからそういうのにとらわれているのは損。」

http://cloverbooks.hatenablog.com/entry/2015/05/30/190659

古橋さんは、性的指向にもとづくアイデンティティは分断のためではなく接点の一つとして使うべきだ、と考えていたのではないか。自分の一日の生活を思い浮かべてみれば、そのなかで人種・民族やセクシュアリティが他の人々との接点あるいは分断面となっている機会は限られていることに気づくだろう。接点となっているのはむしろ仕事かも知れないし、趣味かも知れないし、住んでいる地域や家族関係かも知れない。もちろん人は限られた仕事をし、限られた趣味を実践し、限られた地域に住み、限られた家族・友人関係を生きているのだが、それは必ずしも人を分断しているわけではない。分断が生じるのは、そこに対立的で相互排除的なカテゴリーが導入されるときだ。

NPN/VANを含め、多くの非営利芸術組織の長年の活動が実り、米国の舞台芸術における人種や性的指向による表象格差はある程度是正されつつある(当事者にとってはまだ十分とは思えないだろうが)。だが一方で、これらのカテゴリーに属さない社会的問題に焦点が当たりにくくなっているようにも見える。たとえば近年では経済格差や雇用の問題が直接扱われる作品はそれほど多くないが、人種や性的指向とは別に、そういった問題を焦点にして連帯を形成することも可能だし、ある程度必要だろう。(一、二世代前の社会主義的運動としての演劇への反動もあるのだろうが。一方で今年は工場労働者に焦点を当てた『汗(Sweat)』のヒットがあり、ブロードウェイでの上演が決まったという。)だが、それ以上に重要なのは、排除を条件としない連帯のあり方を見出すことではないだろうか。

リン・ノテージ『汗』

http://publictheater.org/en/Tickets/Calendar/PlayDetailsCollection/16-17/Sweat/

フランスの普遍主義においては、理念的にはそれができているはずなのだが、逆にそれが個別の次元で起きている差別を不可視化している部分もある。ここ数十年で米国が培ってきた「アイデンティティ」へのほとんど微視的な視線は、それとは異なる、より個別の差異に寄りそった普遍主義を生み出す可能性を持っているのかも知れない。

参加した最後のイベントとなったワークショップがなかなか面白かった。「有色のアーティストと周縁化されたアーティストのためのナショナル・チェックイン」という題名で、説明を読んだだけでは何をするのか想像もつかなかったが、「トランプ後に有色のアーティストが経験した傷を癒やそう」という話らしい。

現在「有色の」アーティストたちが置かれている状況についてディスカッションをしたあと、目を閉じて、ファシリテーターの声を聞きながら歩いてみる。「自分のホームだと思うところに向かって歩いてみてください。そこでは、あなたにとって大事な人が待っています」「そこから、なるべく遠くまで、旅に出てみてください」「行き着いたところ、そこを新たなホームだと思ってみてください」「一人ぼっちでさびしかったでしょう。気がつけばあちこちから人が来て、町ができてきています。近くの、一緒に町をつくる仲間たちを手で触れて、感じてみてください」「町にはまだまだ人がやってきます。一人ずつ手をつないで、そこにいるみんなとつながってみてください」・・・。

参加者たちはこれを一万二千年前のことだと思っただろうか。それとも、もっと最近のことだと思ったのだろうか。

カテゴリー: ACC NPN

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