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ナバホ・ネイション一泊二日滞在記 2017年1月2日

2016/12/21

ナバホの国にちょっとお邪魔した話。

11月のはじめ、パリのケ・ブランリー美術館で『イナバとナバホの白兎』を見に来てくれたナバホ・フランス・アソシエーションの創立者で歌手のロレンザ・ガルシアさんに連絡してみたら、ちょうど今ナバホ・ネイションに来たところだという。慌ててスケジュールを調整して、月末に伺うことに。なかなかお互いの都合が合わず、ナバホ・ネイションには結局一泊二日の滞在になってしまった。急ぎ足で見聞きしたのは、ナバホの神話世界とはかけ離れたものばかりだが、思えば古事記を読んで今の日本を旅しても、似たようなことになるのかも知れない。

ニューヨークからアリゾナ州の州都フェニックスまで六時間弱のフライト。フェニックスからセドナまでバスで北に二時間弱。セドナはアメリカ先住民が古くから住みつき、聖地ともされたところだが、今では住民のほとんどは白人で、スピリチュアルなものを求めて世界中から多くの観光客がやってきている。セドナで一泊し、ロレンザさんに合流するはずだったが、突然の大雪でロレンザさんが足止めされ、結局セドナでもう一泊してからナバホの国に行くことに。セドナではAir B&Bのホストの方がツアーガイドもやっていらして、少し山歩きをすることができた。

セドナからフラグスタッフまで約二時間。山道の両側に雪が残っている。道々、運転してくれているロレンザさんの話をうかがう。なかなか不思議な人。パリ国立高等美術学校の絵画科を出て、映画会社などで働きながら、絵を描いたり、ストリートパフォーマンスのオーガナイズをしたりしていた。1996年にパリで砂を使った絵の個展を準備していた。ちょうどそのとき、同時にラ・ヴィレットで行われていたナバホ族文化に関する展覧会『美の道(La Voie de la beauté)』でメディシンマンたちによる砂絵や歌を使った儀礼の実演があったので行ってみた。

すばらしかったので、ずっと眺めていたら、ナバホ族のご婦人と目があって、ほほえみかけられ、会話がはじまった。いろいろ話していたら、体調が悪いと知り、病院に付き合ったりした。あとで聞くと、そのご婦人はずっと誰とも話さず、体調が悪いのは分かっていても世話もできない状態だったという。他のメンバーたちから「あなたは私たちの恩人だ。よかったら毎日来てください」と言われ、お別れ会にも呼ばれた。「いつかぜひ私たちの国にも来てください。こちらで見せることができたのは私たちの文化のほんの一部なので」とお誘いをいただいた。

実際にナバホ・ネイションに行ってみたら、「家族の一員」として歓迎を受け、9日間にわたる儀式に参加させてもらえた。そしてナバホ族の歌や儀礼を通じて「ホジョ(hózhó、美/調和)」を核とする思想に触れ、人生が変わったという。それ以来20年間、パリとアリゾナを往復して暮らしている。画家で歌手でエコ農業を推進する活動家、と聞くとちょっと不思議な感じがするが、ナバホ族の文化を通して見れば自然なことなのだろう。

ロレンザ・ガルシアさんインタビュー

https://www.youtube.com/watch?v=nVP4Mfge6vw

フラグスタッフはナバホ・ネイションに最も近い都市。ノースアリゾナ大学がある。人口五万人ほどで、そのうちアメリカ先住民の割合は1割ちょっと。ここで食料品を仕入れる。ロレンザさんはベジタリアンなので、たくさんの野菜と、豆腐など。セドナで出会ったガイドさんも「ナバホ・ネイションではなかなかいい野菜が手に入らないから、ここで食べておいた方がいい」とおっしゃっていた。

フラグスタッフから最初の目的地トゥバシティまで一時間。緑が目に見えて減ってゆき、赤茶けた地表があちこちに見えてくる。鉄分が多く含まれているため赤いのだという。火星のようともいわれる景色。

トゥバシティ(Tuba City)はナバホ・ネイション最大の町で、人口は約8,600人。ホピ・ネイションとの境界に位置し、ホピ族のリーダー、トゥービの名前に基づく。トゥービはモルモン教の宣教師に出会ってモルモン教に改宗し、モルモン教徒を招いて町を作った。今ではかつて19世紀末に白人が作った町の半分は放置され、建物もシロアリに食い散らかされて住めなくなっているという。現在の人口の97%以上はアメリカ先住民で、白人は0.2%にも満たない。

トゥバシティでは、ナバホ族のヘレンさんの一家にお世話になる。お昼頃にヘレンさんの家に着く。ヘレンさんのご主人は、地元では有名なメディシンマンだったが、つい数年前に心臓の持病により57歳の若さでなくなった。四軒の家を建て、今はうち二軒が借家として使われている。はじめはテントやホーガン(ナバホ族の伝統的住居)に泊まろうか、という話もあり、寝袋持参で行ったのだが、あまりにも寒い(フラグスタッフでは最低気温がマイナス10度以下だった)ということで、家を持っているヘレンさんにお世話になることになった。日が暮れないうちに帰れるように、ということで、茹でた白いトウモロコシを持って、すぐに出発。

そこからモニュメント・バレーまでの道のりはさらに一時間半。道々、今度は黒い地表に塩の結晶が見える。石炭の採掘が行われ、火力発電で作られた電気がラスベガスまで送られているのに、ナバホ・ネイションでは電気が通っていない家も少なくないという。途中フリーマーケットに寄る。お土産物、生活用品、手摘みの生薬やタバコ、羊の肉、おやつなど。トウモロコシパンがおいしかった。ナバホロックのバンド演奏も。

市街地を出ると、見渡す限りの地平線のなかに、人家は一つあるかどうかという感じ。トレーラーハウスも見かける。時に羊や馬の群れが見えるが、ここに住んでいる人たちが日々どんな生活をしているのか、なかなか想像がつかない。スクールバスはかなり遠くまで足を伸ばしてくれるらしい。長い間、北アメリカでは犬がほとんど唯一の家畜だった。ナバホ族はこの影一つない広大な荒野を、家財道具を背負って歩いていた。ナバホ族はやがてヨーロッパ人が連れてきた羊や馬を自ら飼い慣らすようになった。それが部族存続の大きな決め手となった。ジャレド・ダイアモンドによれば、「ナバホ族は、ヨーロッパ人がアメリカ大陸にやってきたときには、何百かいた部族の一つにすぎなかったが、彼らは、新しいものを柔軟に取り入れる気質だったため、現在では合衆国でもっとも人口が多いアメリカ先住民となっている」(『銃・病原菌・鉄』倉骨彰訳、草思社文庫、下巻81頁)。

ナバホ・ネイションの面積は71,000キロ平米で、北海道より一回り小さいくらい。北海道の人口約538万人に対して、ナバホ・ネイションは約173千人。人口密度は北海道64.5人/キロ平米に対して2.4人/キロ平米。北海道よりも30倍人口密度が低いわけだ。1864年、ナバホ族は480キロ離れた土地に徒歩で強制移住させられた(「ロングウォーク」)が、そこには十分な食糧も生産体制もなく、多くの犠牲者を出した末、四年後の1868年に、もともと住んでいた場所の一部を「ナバホ・インディアン居留地(reservation)」として指定することになった。

帰還したときにはすでにホピ族など他の部族が住んでいたりして、長く紛争がつづいている。設立当初から比べると大きく拡大し、今の領域は十以上の州よりも大きく、一部族の居留地としては最大だが、それでもナバホ族が主張してきた「四つの聖なる山」を境界とする「ディネタ(ディネの地)」の一部に過ぎない。1969年、ネイティヴアメリカン・アクティヴィズムの高まりもあり、「ナバホ・インディアン居留地」が一定の自治権・裁判権をもつ自治政府「ナバホ・ネイション」として組織されるに至る。

このナバホ・ネイションの一員と認められるには、少なくとも曽祖父母の一人(2004年までは祖父母の一人)がナバホ族あるいはディネ四支族(「ディネ」はナバホ族の自称)の一員であったことを示し、「サーティフィケイト・オブ・インディアン・ブラッド」をもらう必要がある。連邦政府の国籍法が出生地主義を採っているのに対して、ここは血統主義になっているのもちょっと面白い。ナバホ・ネイションで生まれたからといって、ナバホ・ネイションの一員になれるとは限らない。まさに「国民国家(Nation-state、民族=国家)」という形を取っているわけである。ナバホネイション全体では、住民の96%がナバホ族あるいはネイティヴアメリカンで、白人の割合は1.8%、アジア太平洋系は0.2%に過ぎない。

同化政策時代とは異なり、ナバホ語による教育もある程度行われるようになった。ナバホ族には子どもをもつことを誇りにする文化もあり、人口は着実に増えている。とはいえ部族語を維持するのはそう容易ではない。ナバホ・ネイションには主にナバホ語で教育を受けられる高校や部族文化などをより専門的に学ぶことができる「ディネ・カレッジ」もある。だが就職を考えると、ナバホ語・ナバホ文化に精通していることが有利な領域は相当限られている。ヘレンさんの息子は大学に進学せず、地域の高齢者ともつきあいがあったのでナバホ語がけっこうできるが、娘二人はノースアリゾナ大学などネイション外の大学に行ったため(ヘレンさんご自身も域外の大学で教育を受けられた)、ナバホ語を使う機会がなくなっている。ナバホ・ネイションの域外で暮らすナバホ族は、1980年代には20%程度だったが、今では半数を超している。娘の子どもたちは教育もメディア(主にテレビ)も英語なので、ほとんどナバホ語に接する機会がない。ナバホ語は発音が非常に難しく、孫たちに「馬」という単語一つをちゃんと発音できるようにするのに三日かかったという。第二次大戦中はこれを活かしてナバホ族の暗号部隊が組織された。暗号解読を得意とした日本軍にもナバホ族の「コードトーカー」によるやりとりは書き取ることすら困難で、対日戦で大きな貢献をした。一方、太平洋地域で従軍したナバホ族は顔立ちから時に日本兵と間違えられ、危うい目にあったこともあるという。

モニュメント・バレーは、全てがあまりにも巨大で、人を寄せ付けない地のようにも見えるが、ここは北米で最も古くから人が住みついてきた場所の一つだった。巨大な岩が雲を止めて雨や雪を呼び、谷底には水も流れる。日陰もできて、多くの岩窟もある。ここはナバホ族にとって、聖地であるだけでなく、生活の地でもあった。ロング・ウォークのあと、ナバホの人々は再びここに戻り、今でもここで羊を飼ったりして生活をつづけている。

日本とナバホ・ネイションをつなぐものの一つとして、ウランがある。モニュメント・バレーでは第二次大戦中からウランの採掘が行われ、原爆の製造にも使われていたという。ナバホ族は対日戦に「コードトーカー」と原爆という二つの切り札を提供したわけである。モニュメント・バレーをめぐる道もかつてウラン採掘のために作られた。トゥバシティも1950年代にはウランブームで栄えた。当初は防護服も与えられず、素手で鉱石を暑かったりしていて、その後多くのナバホ族の作業員に深刻な後遺症が出た。また、水の汚染も重大な問題となっている。ナバホ・ネイションでは水道が通っていない地域が多く、遠くまで水を汲みに行くか、安全性が確認されていない近くの水源を使うか、という選択を迫られている世帯も少なくない。この地域の除染に関する研究には日本の研究者も関わっていると聞いた。ナバホ・ネイションは2005年にウランの採掘を全面的に禁止した。

ウラン汚染問題と除染、水問題について

http://blogs.yahoo.co.jp/okerastage/9510716.html

http://www.npr.org/sections/health-shots/2016/04/10/473547227/for-the-navajo-nation-uranium-minings-deadly-legacy-lingers

https://www.epa.gov/navajo-nation-uranium-cleanup/cleaning-abandoned-uranium-mines

http://www.attn.com/stories/6416/water-contamination-navajo-nation-for-decades

石炭の採掘も近年までナバホ・ネイションの主要な産業だった。だが、石炭も最近では環境汚染の原因とされ、採掘量は減っているようだ。きわめて水資源が限られているナバホ・ネイションのなかで、石炭の採掘や火力発電に大量の地下水を使うことも問題となっている。ナバホ族のなかでも、「大地のエネルギーを奪うようなことをしていると、いずれ大地の怒りを買う」という声もある。2009年、ナバホ・ネイションは「グリーン・ジョブ・ポリシー」を採択した初めてのネイティヴアメリカンネイションとなった。

一方最近では、多くのネイティブアメリカンの居留地で、カジノが重要な産業になりつつある。ナバホ・ネイションにもいくつかのカジノがある。とはいえ、大都市からかなり離れているので、ラスベガスのように多くの人がやってくる事は想像しにくい。カジノの収益の一部は「グリーン・エコノミー」の支援に当てられている。

経済指標から見れば、この地域では非常に高い失業率と貧困が大きな問題となっている。そもそもこれだけ人口密度が低く、海からも河からも大都市からも遠く、交通の便が悪く水資源が極端に少ないところで、あえて工場を作ろうなどという企業はまずない。つまりどう考えてもこの地域は工業の発展には向いてないわけだ。逆にいえば、そういう地域を先住民の居留地として指定したわけでもある。ナバホ族は極度に水の少ない地域に適応した生活形態を発展させてきた。草木の根に水を求め、小さなホーガンに焼け石を入れてスウェット・ロッジにしたりする。

ナバホ・ネイションではノースダコタ州でのパイプライン建設をめぐるスタンディング・ロック・スー族の抵抗運動も話題になっていた。石油パイプラインはもともとノースダコタの州都ビスマーク周辺を経由するはずだったが、計画が見直され、ミズーリ川のスー族居留地が水源としている地点の直前を経由するルートに変更された。建設を推進する会社側は「リスクはない」と言いつづけるが、スー族の有志などが建設に反対し、建設予定地にテントを張って非暴力抵抗運動をつづけていた。スー族は1851年に締結された(そして幾度も違反が重ねられてきた)フォート・ララミー条約を、自らの居留地に対する権利主張の根拠の一つとしている。ナバホ族を含む多くの先住民たちがこれに連帯を表明し、支援している。ナバホ・フランス・アソシエーションも現地に代表を派遣して支援を表明した。

サンクスギビングデイ(11/24)には、マイナス5度のなか、警察が放水や催涙ガス、ゴム弾により座り込み排除を試み、多くの負傷者が出た。そして11/28には「悪天候が予想されるため」として、州知事による即時退去命令が出ている。その翌日から、この運動家たちを守る「人間の盾」となるために、2,000人以上の退役軍人が駆けつけ、一触即発の状況がつづいていた。(12月5日に強制排除、という話だったが、その後オースティンでのナショナル・パフォーマンス・ネットワーク年次会合最終日の12月4日、主催者側から「ホワイトハウスの決定によりパイプライン建設計画の見直しが決まり、強制排除は取り消された」というニュースが発表されて、参加者たちが歓呼の声を上げていた。その後12月9日には、長年に渡る先住民抑圧に謝罪する退役軍人たちにスー族が赦しを与える儀式が行われた。)

http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/14/dakota-pipeline-protest_n_12975788.html

http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/24/dakota-pipeline-protest_n_13197362.html

http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/25/standing-rock_n_13241772.html

http://www.huffingtonpost.jp/2016/12/05/dakota-access-pipeline_n_13422492.html

http://www.huffingtonpost.jp/2016/12/09/standing-rock_n_13528818.html

http://www.navajo-france.com/fr/projets.php#270

夜はなぜかみんなで『マッドマックス/サンダードーム』を見ることに。核戦争後、オーストラリアの都市文明が崩壊して荒野になっている話。ちょっとナバホの地を思わせる光景もあり、北米の未来を考えさせられる。トゥバシティでは衛星放送が普及している。というか、衛星放送以外の電波が入らないところがナバホ・ネイションには多いらしい。

翌朝、野菜と豆腐のオムレツを大量に作ってブランチ。ロレンザさんたちとナバホ・ネイション立病院の無料のジムに行って汗を流す。ナバホ・ネイションに限らず、「インディアン居留地」では肥満も大きな問題になっている。かつてはトウモロコシと野生のタマネギ、そして高タンパク低脂肪のバッファローの肉といったあたりが主な食材だったが、農業に不適な「居留地」に押し込められ、バッファローは絶滅させられて生鮮食料が手に入りにくくなり、代わりに連邦政府から小麦粉、バター、砂糖、粉乳などが与えられたために、高カロリーの食材に依存するようになっていった。同化政策のために寄宿学校に入れられた子どもが伝統食から切り離されたのも一因とされる。ナバホ・フランス・アソシエーションは、ナバホ・ネイションで古いナバホ族の知恵を活用しつつエコ農業を進めるプロジェクトを支援し、この地でも新鮮な食糧が手に入る環境を作ろうとしている。

http://www.navajo-france.com/fr/projets.php#269

長年の間、寒冷地の人口は水や食糧だけでなく、地域で供給可能な燃料にも依存してきた。だが、今この地域で化石燃料を使わずに生きようと思うと、かなり大変だ。この地域では薪ストーブが普及していて、ヘレンさんの家でも使われていたが、薪になるような木が生える一番近いところは、車で二時間ほどかかるグランド・キャニオン。この冬も、家族で薪を集めてきたという。グランド・キャニオンを経由してセドナまで送ってもらうことに。地平線の先は岡になっていて、登っていくと徐々に雪が見えはじめ、草地から灌木へ、灌木から樹木へと植物相が変化していく。標高2000メートル以上。そして巨大な大地の裂け目が見えてくる。ここもまた、貴重な水と樹木に恵まれた生活の地だった。今では主な観光スポットが国立公園になり、その周辺がいくつかの「インディアン居留地」となっている。ラスベガスから五時間かけてくるバスツアーもあるらしい。セドナまでは、フラグスタッフを経由して、さらに三時間弱の道のり。ヘレンさんが長い道のりを運転して、送ってくださった。

グランド・キャニオンと先住民居留地

http://www.mygrandcanyonpark.com/native-american-tribes/

セドナからフェニックス空港までの帰り道、シャトルバスの乗客は自分一人。運転手さんに「どこから来たの?」と聞かれ、「トゥバシティから」と答えると、「冗談だろう?」と問い返された。運転手さんはかつてフラグスタッフで車部品を販売する店をやっていて、ナバホ・ネイションとの仕事も少なくなかったらしい。それでも、フラグスタッフに住むナバホ族とは付き合いがあっても、ナバホ・ネイションにはそれほど友人はできなかったという。確かにナバホ・ネイションでは、モニュメント・バレーやグランド・キャニオンといった観光地を除いて、滅多に「外国人」らしき姿を見かけなかった。すっかり駆け足の滞在になってしまったが、貴重な経験をしたことは間違いないらしい。なんとか次回はもう少しゆっくり滞在できるようにしたい。

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ナバホ、テキサス、メキシコ

2016/12/16

アリゾナ州ナバホ・ネイション、テキサス州オースティン、メキシコシティ。期せずしてご縁が重なり、二週間で三カ所を回ってくることに。オースティンではナショナル・パフォーマンス・ネットワーク(NPN)年次会合、メキシコシティでは舞台芸術ミーティングENARTESに参加した。ニューヨークからは見えなかった「アメリカ」が見えてきた旅。

この地域は今ではアメリカ合衆国南西部とメキシコ合衆国に別れているが、テキサス革命(1835-36)~米墨戦争(1846-48)以前には同じメキシコ合衆国/共和国の北部と南部に属していた。さらに遡れば、メキシコシティはコルテスによるメキシコ征服(1519)以前にはアステカ王国の首都で、アメリカ大陸において農耕文化が最も発達したところの一つであり、今のテキサス州にあたる地域にもその影響が見られた。一方ナバホ族においては長く狩猟採集文化がつづいたが、やがてアステカなどで開発された農作物を近隣の部族から取り入れ、農耕をはじめていく。

米墨戦争以降、北米のこの地域は、人口分布も経済状況も大きく変化していった。今日オースティンは「シリコンヒルズ」とも呼ばれ、IT産業を中心に急速な発展を遂げつつある。だが国境が引かれたとはいえ、南北の往来は盛んだ。NPN年次会合でもENARTESでも、国境を超えて活動する多くのアーティストやプロデューサーに出会い、舞台芸術を通じてアメリカ大陸全体が結びついていく趨勢は「トランプ以後」においても断絶することはないように思えた。

***

ついでに名称の問題を今のうちに。「アメリカ」の歴史を語る際には、そもそもこの「歴史」を語る主体は誰なのか、というややこしい問題がある。「アメリカ」、「アメリカ人」という言葉は、「アメリカ合衆国」においては自国を指すために使われるが、もちろん「アメリカ大陸(人)」を指す言葉でもあり、他のアメリカ大陸諸国も含む。「南北アメリカ(the Americas)」という複数形の表現もあるが、形容詞(American)においてはAmericaのことを指すのか、Americasのことを指すのかはあいまいになる。この大陸で起きた幾たびもの独立革命において、「アメリカ人」という言葉は「(ヨーロッパではなく)アメリカ大陸で生まれた人」を指してきた(だからアメリカ合衆国においては国籍法においても「出生地主義」が採られている)。これと区別する意味で、いわゆるNative Americanは、ここでは「アメリカ先住民」と訳しておく。(そもそもアメリゴ・ヴェスプッチに由来する「アメリカ」という名称を冠するのも失礼な話だが。)

北米に属するメキシコも当然「アメリカ」の一部であり、メキシコ人もまた「アメリカ人(americano)」には違いない。このことは、ラテンアメリカの人と英語で話していると、よく指摘される。(そういえばカナダ人からは今のところ「自分たちもアメリカ人だ」という話は聞いたことがない。独立革命を経験していないからだろうか。)英語でもスペイン語でも、「アメリカ」という略称を避けて「アメリカ合衆国」を略したいときには、「合衆国(US / States, Estados Unidos)」と言うのが一般的。メキシコも今は「合衆国(Estados Unidos)」なのだが、何度も政体が変わっているので、こちらの方にはこだわりはないらしい。

問題は、英語で「アメリカ合衆国民」を指す適切な形容詞が確立していないことだ。スペイン語やフランス語では文脈によっては「合衆国民(estadounidense, états-unien)」といった言葉が使われるが、英語のUS American, United-Statesian, Usonian…といった言葉は今のところ(メキシコ人と英語で話すときも含め)使われるのを聞いたことがない。(それほど必要を感じる機会がないのだろうか。)ここでは、とりあえず日本語でそれなりに流通している「米国/人」を使っておく。

もう一つ、そもそも「メキシコ」というのも、スペイン語「メヒコ(México)」の英語読みなので、ちょっと気になるところではあるが、メキシコに滞在経験がある大江健三郎は「メヒコ」を採用していたものの、日本ではあまり流通していないので、Estados Unidos Mexicanosの略称としては「メキシコ」を使うことにしておこう。

・・・というわけで、追って各地のレポートをアップしていきます。

Nov. 28-Dec. 2, The Navajo Nation, Arizona

Dec. 2-5, Austin, Texas

NPN (National Performance Network) annual meeting

http://www.npnweb.org/site/annualmeeting2016/

Dec. 5-12, La Ciudad de México

ENARTES (Encuentro de las Artes Escénicas)

http://fonca.cultura.gob.mx/enartes2016-presentacion/

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ノースダコタの和解

2016/12/07

ノースダコタのパイプライン敷設問題をめぐって、アメリカ先住民と元米軍兵たちの間で歴史的和解。もしかしたら一つの節目になるのかもしれない。数ヶ月で全てが覆される可能性もあるが「私たちが大地を所有してるのではなく、大地が私たちを所有しているのだ。」

http://www.huffingtonpost.com/entry/forgiveness-ceremony-unites-veterans-and-natives-at-standing-rock-casino_us_5845cdbbe4b055b31398b199?ncid=engmodushpmg00000003

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メキシコから想像する

2016/12/09

メキシコシティ。タクシーのなかでメキシコと米国の演劇人がドナルド・トランプの話をしているところに、ラジオからジョン・レノンの「イマジン」が流れてきた。「国境のない世界を想像してみよう。難しいとは思うけど・・・。」全員しばし沈黙。

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カテゴリー: ACC メキシコ

モントリオールから「世界」は見えるか?

2016/11/16

土砂降りのニューヨークから一時間以上遅れて飛び立ち、モントリオール空港に降りると、陽光が差している。こんなことになるならもう少しニューヨークで起きていることを見届けておきたかった気もするが、週末まで舞台芸術見本市CINARSに参加。

最近ニューヨークで何度かカナダのアーティストに会ったり、ニューヨークの演劇人とカナダの演劇について話したりする機会があったが、ニューヨークの演劇人は驚くほどカナダで何が起きているのか知らない。CINARSとかワジディ・ムアワッドなどといっても通じないのはフランス語圏のケベック州だからかとも思ったが、英語圏のカナダ演劇界ともさして交流がないらしい。ニューヨーク市立大学演劇科(CUNY)のマーヴィン・カールソンさんは「ニューヨークの演劇界は全然インターナショナルではない。たとえばここで50年以上演劇を見てきたが、カナダの作品は2本しか見ていない」とおっしゃっていた。

米国から一番近い外国なのに、なぜなのか。メキシコ人の方がまだ目立っている気がする。英語圏カナダ出身の演出家に聞いてみたところ、「カナダの方が社会が先進的なので、扱っている問題も米国よりも先進的で、優れた戯曲が多い。カナダでは戯曲を重視していて、劇作家と演出家の間にある種のヒエラルキーがある。一方米国では舞台作品としての形式やヴィジュアルを重視する。そのため、深い内容をもっていても、米国では評価されにくいのかもしれない」という。作品の作り方も、評価のされ方も、同じ北米でもだいぶ違うらしい。ニューヨークにいてもモントリオールに来ても、「世界中」から演劇人が来ている集まっている、と感じるが、その「世界」の構成は、実はだいぶ違っていたりもする。

SPACの演劇祭の名前が「ふじのくに⇄せかい演劇祭」になったこともあって、最近「世界演劇」とは何なのか、よく考える。地方で演劇祭をやることのメリットの一つは、「国」を介さないローカルとローカルの関係が築きやすいことだ。先日のニューヨーク大学でのフランス演劇をめぐるシンポジウムでケベック出身のジョゼット・フェラル(パリ第三大学)が「演劇は(「グローバリゼーション」の時代とされる)今でもローカルなものだ。幸運なことに。」と発言していたが、実際、演劇作品がローカルな観客に支えられることなくいきなり「世界」を相手にするのはほとんどありえない。そもそも演劇は、観客として「世界」という漠然としたものを相手にするものではなく、ある特定の場所に集まる特定の観客のために上演されるものだ。

とはいえ、演劇祭が描く世界地図は、国や地域政府の助成金事情によって、かなり地域の比重が異なってきている。ケベック州は、人口ではカナダ全体の20

数パーセントだが、たしかカナダ以外で上演されている舞台芸術作品の8割位はケベックの作品だと聞いた。大まかにいえば、国や州政府などが助成金を出しているところは、創作環境も充実しているので、クオリティーが高い作品を作っている傾向はある。もちろんお金さえ出せば良い作品ができるとも限らないが、少なくともケベックはこれまで、シルク・デュ・ソレイユだけでなく、ロベール・ルパージュやワジディ・ムアワッドなどの才能を排出してきた。一方で、作品を作る環境に恵まれていない国では、そもそも作品を作ること自体が困難だし、それを自国以外の人にまで知ってもらうのはいよいよ困難だ。だからといって、そういった国で優れた才能が生まれないとも限らない。だが、作品を見に行くための予算も時間も限られているので、どうしても比較的恵まれた国の優先順位が高くなってしまう。数年前、カメルーン公演の帰路で、たまたま内戦が終結したばかりの中央アフリカを経由したとき、「きっとこの国には演劇の仕事で来ることは一生ないんだろうな」と思い、「世界」にはそういう地域がたくさんあるということを実感した。

それ以前に、もっと根本的な問題として、そもそも「演劇」と呼ばれるものがほとんど行われていない地域もある。たとえば、中東「演劇」に詳しいマーヴィン・カールソンの話。「よく、中東の演劇は19世紀にはじまった、というが、それは西洋演劇の模倣がはじまったという意味だ。中東にはそれ以前にも、さまざまなパフォーマンスの伝統があった。たとえば人形劇。西洋人は人形劇は子供向けのものと思っていたが、中東やインドネシアの人形劇、それに日本の文楽だって、全然そうではない。だが、西洋で書かれる「演劇史」に人形劇が含まれることは滅多にない。」そして、もちろん人形劇だってない地域も世界にはたくさんあるが、英語でいう「パフォーマンス」や日本語でいう「芸能」といったものが存在しない地域はない。だとすれば、演劇という概念を拡張するのがいいのか、あるいは「パフォーマンス」といった言葉を使うのがいいのか。前者が今フランスやドイツなどで起きていることで、後者は米国の解決策。とはいえ米国で「演劇祭」が「パフォーマンス・フェスティバル」に置き換えられたわけでもなく、今でも「パフォーマンス」は主にギャラリーなど非劇場スペースでの小規模な上演形態に使われる場合が多い。そして「演劇」に比べて「パフォーマンス」という概念はあまりに英語特有のもので、他の西洋語にすら訳しにくい、という問題もある。少なくとも、ここで浮かび上がるのは、「演劇」という概念をかなり広く定義しておかないと、「世界演劇」も世界のうちの狭い地域だけの話になってしまうということだ。

植民地主義の時代が終わり、「世界」に主体的に参画する地域が増えてきたことで、「世界」を見る視線もさまざまになり、その視線の全てを含めるような視覚をもつことが不可能になってきた。では、今日の世界は演劇によって表象できるのだろうか。

ある意味では、(広い意味での)演劇はいつでも「世界」を表象できていたし、これからもできるだろう。カルデロンの『世界大劇場』のように、「世界」が登場人物の一人となっている作品すらある。どんな小さな村に住んでいる人にだって「世界」のイメージがあるし、逆にどんなに「世界中」を旅して知っている人にだって世界の全てが見えているわけでは全くない。「世界」のイメージは、今では多くの人がテレビを通じて得ているが、そのイメージは往々にして、「国」と一致した規模のマスメディアによって媒介されている。「国際」ではない「世界」のイメージが存在していくためには、「演劇」なり「パフォーマンス」なりのローカルな表象形態はまだまだ必要なのではないだろうか。だとすれば重要なのは、一九世紀以来発展してきた国家/メディアが描く力線の向こうに、演じる身体と見る身体のあいだに生じるローカル(局所的)な「世界」への視線をなんとかしてふたたび見出すことなのではないか。

…などとつらつら考えながらぶらぶらしていたら、「世界」の全てが見えている人に出会ってしまった。

夜11時近く、さっさと夕食を済まそうと、一番早そうな近所のプーティン(フライドポテトにソースとチーズをかけたカナダ名物)屋に入った。店のご主人はいかにも店を閉めたそうで、「ピザとプーティンしかないよ」とぶっきらぼう。「じゃあピザとプーティンを一つずつ」と注文。「ここで食べてもいいですか」と聞くと、「もうそろそろ閉めるからねえ」といい、テイクアウトの準備をはじめる。。「長居はしませんから」といってみたら、わかったよ、という感じでフォークをつけてくれた。「このソースなんですか?」「何だと思う?スネークだ!ハハハ!」(「ハラル」と書いてあったので)「スネークもハラルなんですか?」「おまえイスラム教を知ってるのか?冗談だよ。チキンだチキン、ブラザー」等々。

店内で食べていたら、わざわざトレーとナプキンを届けてくれる。「優しいですね!」「ムスリムだからな!」ピザもプーティンも、期待はしていなかったが、それ以上に美味しくなかった。ただ分量はすごかったので、半分くらい残してしまった。支払って帰ろうとすると、主人が声をかけてくる。

「俺がなんでナプキンを届けたか、わかるか?それは俺が本を読んでるからだ。お前は仏教徒か?神は信じてるか?俺は物理学を勉強した。物理学をやっていると、我々を越えたものの存在を信じざるをえなくなる。俺は今でも、この店で、暇さえあれば本を読んでいる。俺はこのコスモスというものがどういうものかを知りたいんだ。この世界はどうなっているのか、何が正しいのか。そう思って、聖書も読んだし、ユダヤ教の聖典も読んだし、仏陀も孔子も孟子も読んだし、プラトンもソクラテスもアリストテレスもアルキメデスも、デカルトもニュートンも、シュレジンガーもハイデルベルクも、アインシュタインもホーキンスも読んだ。でも、これが正しい、と思う人と、あっちが正しい、と思う人がいて、何を読んでも、結局のところ、世界の全員を幸せにしてくれるものはなかなか見つからなかった。いろいろ読んだ末に、一冊だけ、本当にこの世界の全てのことについて語っている本に出会ったんだ。何だかわかる?」

「コーランですか?」

「そうだ。父親の宗教がどうとか母親がどうとか、そんなことは関係がない。俺は世界中の本を読んだ末に、ここにこそ真理が書かれていることがわかったんだ。この本には全て書かれている。だから俺はこの本が大好きなんだ。俺たちの宗教には、人を説得して改宗させられるなんて思ったりはしないんだ。自分の意思で、そういう気持ちになって本を読まないとな。だからムスリムになれ、なんて言わないが、とにかく本を読んでみてくれ。お前はこうやってピザとプーティンを残したが、今世界中では七億六千万人の人が飢えている。この本には、銀行に金を預けるな、と書いてある。だから俺も預けない。金があったら、人にあげればいいんだ。そうすればこんなに人が飢えたりしない。ここには宇宙のことも、生物のことも、すべてが書かれている。俺はこれを読んだから、今ではどんな疑問にも答えられるし、だから毎日よく眠れる。何か疑問があったら俺に聞きに来てくれ、ブラザー。ブラザーと呼ぶのは、ほら見てみろ、この俺の手とお前の手はほとんど一緒だろ?俺とお前のDNAは25%は一緒なんだ。(注:多分もっと一緒じゃないだろうか。)だからブラザーなんだ。もう俺とお前は、もしかしたら二度と合わないかもしれないが、本当に来てくれてありがとう。いつか、その気になったら、本を読んでみてくれ。」お互い、インシャラー、といって別れを告げた。

そして夜中に目が冴えてしまい、あのブラザーを見倣ってもっと勉強しなければ、とつくづく思った。

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カテゴリー: ACC 世界演劇

アメリカを超えるもの

2016/11/11

「合衆国大統領は、確かに陸軍総司令官ではあるが、その軍隊は六〇〇〇の兵力しかない。海軍の最高命令権者ではあるが、その艦隊には数隻の艦船しかない。大統領は外国と連邦との交渉に当たるが、合衆国に隣国は存在しない。大洋によって世界の他の地域から隔てられ、かといって海洋の支配をもくろむにはなお弱体なので、合衆国は敵を持たず、その利害が地上の他の国家と衝突する事は稀にしかない。…

アメリカ人の世界全体に対する政策は単純極まりない。他の何人もアメリカ人を必要とせず、アメリカ人もまた何人をも必要としないといってもほとんどおかしくない。彼らの独立はおよそ脅威にさらされることがない。

だからアメリカ人において執行権が限定されているのは、法律のためであると同時に状況のせいでもある。大統領がしじゅう意見を変えても、国家が被害を被ったり、滅びることはない。」(トクヴィル『アメリカのデモクラシー』第一部第八章、松本礼二訳、原著1835年刊)

米国の大統領は、制度上は非常に大きな権限を持ってるように見える。だが、少なくともこの一九世紀前半の時点においては、大統領の主要な権限である外交と軍事は、フランス人トクヴィルの目には、この国にとってそれほど優先度が高いものとは映らなかった。モンロー主義が採られたのはこのような時代だった。

トクヴィルによれば、選挙によって国家元首を選ぶと、外交方針の一貫性が失われたり、さらには内戦や無政府状態といったリスクをも伴う。(この当時、フランスは立憲君主制を採っていた。)米国がこのリスクを取り得たのは、政治における外交や軍事の比重が小さく、大統領は実際のところ立法府である議会の従属的権力に過ぎないからだという。そして、各州の選挙人をつうじた二段階の選挙方式をとったのは、このような大国においては一人の指導者のもとに多数派を形成するのが困難なので、なかなか大統領が決まらないリスクを避けるためだったという(二大政党制が定着するのは一九世紀後半以降)。

トクヴィルは、大西洋の向こう側に生まれたこの国家が発明したさまざまな仕組みに対して賞賛を惜しまない。トクヴィルは「アメリカの中にアメリカを超えるものを見た」という(序文)。だが、トクヴィルはこうもいっている。「時の経過は常に、同じ一つの国民の中にも異なる利害を生ぜしめ、種々の権利を確立させる。…したがって、法が完全に論理的でありうるのは社会が生まれたその時だけである。ある国民がこの点で恵まれているのを見ても、この国民が賢いと即断してはならない。むしろ若い国民だと考えるべきなのである。」それから二世紀近くを経た今、米国はどのようにすればトクヴィルの見た偉大さを取り戻すことができるのだろうか。

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大統領選挙

2016/11/09

ニューヨーク・タイムズ紙による統計。大学卒以上のヒラリー・クリントン支持率49%。大学院卒以上58%。LGBT78%。ニューヨーク州では59%。マンハッタンでは90%を超えている。

http://www.nytimes.com/interactive/2016/11/08/us/politics/election-exit-polls.html

http://www.nytimes.com/elections/results/new-york

ニューヨークの舞台芸術業関係者の支持率、という統計があったとすれば、やはりおそらく90%近いのではないか。ニューヨークに来てから、「トランプを支持している」という方とはまだ話せていない。昨日の夜に至るまで、トランプの勝利を危惧する方には出会っても、それを予想した方には一人も出会わなかった。

思えばニューヨークの舞台で、トランプの支持率が高い「中西部・南部の郊外あるいは人口5万人以下の共同体に住む人々」の生活が表象されるのはまだほとんど見たことがない。今のところ、ブロードウェイで現在上演されているミュージカル『ウェイトレス』(エイドリアン・シェリー作の映画にもとづく)が唯一の例外だった。もうちょっと視界を拡げないと。

http://www.nytimes.com/2016/04/25/theater/review-jessie-mueller-serves-a-slice-of-life-with-pie-in-sara-bareilless-waitress.html

翻って、日本ではどうだろうか。

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ドナルド・トランプと仏領ルイジアナ

2016/11/04

今気づいたが、トランプ支持率が高い州は、旧フランス領ルイジアナとほぼ重なる。米国はまだルイジアナ買収問題を精算できていないのかも知れない。

​2016 Election: Clinton vs. Trump​

http://www.270towin.com/maps/clinton-trump-electoral-map

United States Louisiana Purchase states

https://en.wikipedia.org/wiki/File:United_States_Louisiana_Purchase_states.png

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1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(1) フランスの状況と米仏関係

2016/11/02

(改めて断っておきますが、ここで公開しているのは、見たこと、聞いたこと、考えたことなどをなるべくその場で書き留めておいて、あわよくばよくご存知の方に教えてもらおうという位の魂胆ですので、無知にもとづく誤解なども多々あると思いますが、お気づきの方はぜひご教示いただければと思います。というわけで、ちょっとした思いつきを書くつもりだったのに、いろいろ気になってきて、なんだか長くなってしまっていますが・・・)

60年代以降、米仏の演劇の間になぜ溝ができたのか。制作形態の変化がその原因の一つなのではないか。この問題にこだわるのは、今後日本の「公共」演劇がどのような道を取るべきなのかを考えるうえで重要な問題のように思えるからだ。

ニューヨーク大学でのフランス演劇をめぐるシンポジウムにおいて印象的だったのは、「アヴァンギャルド(前衛)」という概念をめぐる意識のずれだった。シェクナーが米国における「アヴァンギャルド・シアター」についての歴史と現状について語り、今日のフランスにはその対応物はあるのだろうか、という問いを発したのに対して、パリ第三大学のジョゼット・フェラルは「前衛という概念自体、今では意味を失っているのではないか」と答えていた。

フェラルはカナダ・ケベック州の出身なので、このときは一般的な話として受け取っていたが、そういえば米国に関しては、とりわけ1960年代~70年代の演劇・ダンスについて「アヴァンギャルド」という言葉がよく使われ、その後もある程度使われつづけている。たとえば邦訳もあるクリストファー・イネスの『アヴァンギャルド・シアター 〈1892-1992〉』(原著1993年刊行)では、少なくとも90年代まで「アヴァンギャルド・シアター」があったことになっている。

Avant Garde Theatre, 1892-1992, By Christopher Innes

https://www.questia.com/library/104687273/avant-garde-theatre-1892-1992

それに対して、フランスでは、この言葉がよく使われたのはベケットら不条理演劇の世代までで、それ以降はあまり使われなくなったように思う。イネスの著作ではジャン=ルイ・バローや太陽劇団も扱われているが、フランスでバローや太陽劇団を「アヴァンギャルド」と形容するのはあまり聞いたことがない。面白いことに、wikipediaの「太陽劇団」(1964年創立)の項目では、フランス語版には「アヴァンギャルド」という言葉が全く使われていないのに対して、英語版では「パリのアヴァンギャルド・ステージ・アンサンブル」という紹介がなされていた。

https://en.wikipedia.org/wiki/Th%C3%A9%C3%A2tre_du_Soleil

フランスでこの言葉が余り使われなくなったのは、理念の問題だけではなく、舞台作品の制作形態の変容にも起因しているのではないか。1950年代までは、フランスと米国の実験的な舞台芸術の生産形式、つまり興行形態にはまだ大きな違いがなかった。フランスにはコメディ=フランセーズという国立劇場があるが、ここは少なくとも20世紀の実験的演劇(商業演劇と区別する意味で、とりあえずはこの言葉を使っておこう)にとって最も重要な場ではなかった。両国とも、1950年代の実験的演劇は主に私立劇場で上演されていた。1950年代、ブロードウェイに新たなビジネスモデルを持ち込んだプロデューサー、ロジャー・スティーヴンズは『ウェストサイド物語』のかたわら、ジロドゥー、アヌイ、ベケットといったフランスの同時代作家の作品を米国の観客に知らしめている(マルテル『超大国アメリカの文化力』p. 59)。これらの作家の作品はパリでも主に私立劇場で上演されていた。

だが1960年代以降、米仏両国で、実験的演劇の製作形態が徐々に変わっていく。パリでも50年代までは私立劇場の役割がきわめて重要だったが、60年代以降、徐々に公共劇場へと比重が移っていく。これを象徴するのが、この時期最も重要な演出家の一人であるジャン=ルイ・バローの動きだろう。ルノー=バロー劇団は1959年に私立のマリニー座を離れて、国立のオデオン座を本拠地とし(1959-68)、それまで私立劇場で上演されていたベケット、イヨネスコ、ナタリー・サロートといった同時代作家の作品を国立劇場で上演するようになる。

ルノー=バロー劇団は、米仏交流においても重要な存在だった。1962年の訪米ではジャクリーヌ・ケネディに迎えられ、公演は米国のメディアでも大きく取り上げられた。1965年にはメトロポリタン・オペラで『ファウスト』を演出している。オデオン座ではエドワード・オールビーやコリン・ヒギンズといった米国の同時代作家の作品も手がけている。そしてバローは1965年から「諸国民演劇祭(Théâtre des Nations)」の運営を担い、1966年にはリヴィング・シアター(同演劇祭には1961年につづいて二度目の参加)を招聘している。リヴィング・シアターとバローとの関係はその後思いがけない展開を見せるのだが、その話は追って。

この1960年代における米仏関係の「近さ」は、今の状況からすればちょっと意外に見えるかも知れないので、少し歴史的な流れを補足しておけば、フランスはもともとヨーロッパで最大の親米国だった。フランス王国はアメリカ独立戦争(1775~83、米国ではむしろ「アメリカ革命American Revolution」と呼ぶ)を支援して参戦し、これがフランス革命(1787~)の直接の原因の一つにもなっている。1803年にナポレオンは広大なフランス領ルイジアナ(現在のルイジアナ州はその一部に過ぎず、現在の15州に及ぶ)を合衆国に売却するが、ここで獲得した領土はそれまでの領土に匹敵するものだった。この時点で、多数のフランス語を母語とする住民が「合衆国民」となったわけだ。19世紀のフランス演劇では「アメリカのおじさん」というのが登場し、突然莫大な遺産を相続してハッピーエンド、という定番があったりもした。「自由の女神」は米国独立100周年を記念してフランスから贈られたものだった。

第一次大戦中にはジャック・コポー率いるヴィユー・コロンビエ座がクレマンソーの意を受けてニューヨークで2シーズンに渡って滞在している(1917-19)。そしてもちろん米国は、第二次大戦でフランスを第三帝国から「解放」した国でもあった。1948年から51年にかけて、マーシャル・プランで大規模な復興援助もしている。パリの中心部にウィルソン通りやルーズベルト通りやあるのもそのためだ。

いろいろ余計なことまで書いてしまった気もするが、要は米仏ともに、一世紀以上にわたって、互いを革命の大義を共有する世界に数少ない同士として認識してきた、ということだ。そして前衛という概念はもちろん、革命と結びついた政治的概念であった。

ド・ゴール政権(1959~69)は米国に対して独自路線の外交を展開したことで知られているが、米国との文化交流は盛んだった。同政権下で、はじめての文化大臣(1959~69)となったアンドレ・マルローはたびたび米国を訪れている。1963年に、ルーヴル美術館学芸員の強い反対を押し切って「モナリザ」を渡米させた際には、ケネディに対して、「(「モナリザ」のリスクよりも)あの日ノルマンディーに敵前上陸した若者達―さらにその前の第一次大戦末期に大西洋を渡った若者達は言うまでもないことですが―のリスクの方がはるかに大きいものでした。大統領閣下、あなたが今夜歴史的讃辞を捧げられてこの傑作は、彼らが救ったのです」と述べている(マルテルp. 36)。マルローはその前年の訪米で「(仏米両国のあいだに)大西洋の文化」というべきものが新たに形成されつつあると感じている、とまで語っている(p. 35)。マルテルはこのマルローを「最も親米のドゴール主義者か、さもなければ最も反共主義者」と呼んでいるが(id.)、少なくともこの世代までのフランス人には、二つの大戦で助けにきてくれた同志、という意識が残っていたのは確かだろう。

オデオン座をコメディ=フランセーズから分離して独立の国立劇場「オデオン座=フランス劇場」とし、バローを支配人に任命したのもこのアンドレ・マルローだった。マルローは1961年に「文化の家(Maisons de la Culture)」を創設するなど、舞台芸術の振興と地方分散化に大きな役割を果たし、その後のフランスの文化政策に決定的な影響を与えた。

もう一人、この時代のフランス演劇の重要人物をもう一人挙げるとすれば、ジャン・ヴィラール(1912~71)だろう。ヴィラールはコポーやジェミエといった前世代の演出家たちから「民衆演劇(Théâtre populaire)」という旗印を引き継ぎ、1951年から1963年まで「国立民衆劇場」(1952年からシャイヨー宮内)を率いていた。国立民衆劇場は1947年に創立されたアヴィニョン演劇祭(当初は「アヴィニョン芸術週間」)とともに「民衆演劇」の拠点となっていく。国立民衆劇場はヴィラール時代には古典の上演が多かったが、次のジョルジュ・ウィルソン時代(1963~72)にはジロドゥー、サルトルに加えブレヒト、ジョン・オズボーンなど、積極的に同時代作家を取り上げるようになっていく。

1965年にはオデオン座のルノー=バロー劇団もアヴィニョン演劇祭に参加するようになる。バローが「前衛」の場から「民衆演劇」の場へと移行できる状況が完全に整ったのがこの時代なのだろう。このあたりで、フランスにおいては、「(国立劇場による)公共の演劇(théâtre public)」と「民衆演劇(théâtre populaire)」、さらには「実験的同時代演劇」がだいぶ重なるようになってくる。このなかで、多くの演劇人に共通の旗印として選ばれていくのが、最も曖昧な「公共の演劇(théâtre public)」という概念だったのだろう。この時代のフランスの状況においては、ほぼ「公共劇場」=国立劇場であり、publicには「公立の」という意味もあるが、さらに「観客/公衆(public)のための」という含意もあり、「民衆的な(populaire)」にきわめて近い意味でも解釈しうる。1974年に演出家ベルナール・ソベルが「テアトル/ピュブリック(Théâtre/public)」誌を創刊するが、この時点ではソベルはまだ自ら創立した劇団「ジェヌヴィリエ演劇アンサンブル」の代表に過ぎなかった(この劇団が国立演劇センター「ジェヌヴィリエ劇場」になるのは1983年)。間に/があるのは、「公立劇場」についての雑誌なのではなく、むしろ演劇の「公共性」を問題にする雑誌だ、ということだろう。

話が長くなり、少々先走ってしまったが、要はフランスにおいては1960年代に「前衛」よりも「公共の演劇」という旗印の方が重要になっていく文脈が成立しつつあった、ということのようだ。

これにはおそらく1968年に起きたことも関連してくるのだろうが、まずは、とりあえずこのあたりで・・・。次回は米国の状況を。

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「世界演劇」とは何か

2016/10/30

「世界演劇」とは何か。「世界で認められる」といったときの「世界」とはどこか。

ACCのリサーチテーマは「アジアの舞台芸術の同時代性とパフォーマンス・スタディーズ」としたのだが、アジアの舞台芸術を「世界」の舞台芸術のなかにどう組み込めばいいのか、ということを考えるには、まず「世界」とは何か、ということを、もう少し細かく知っておく必要があるように思われてきた。

20世紀においては、もちろんそれは欧米のことだった。今世紀になって、特に現代美術においては中国市場が急激に膨張し、「世界美術」市場の地図はここ10数年で大きく変化してきた。「世界演劇」市場(というものがあったとして)においては、アジアにおける演劇祭も数多くなり、アジアの同時代作品が他の地域で取り上げられることも増えたとは思うが、美術に比べると、アジアの比重が劇的に大きくなったわけではないように思う。

ニューヨークに来たかったのは、最近アジア太平洋地域に行ける機会が少しずつ増えてきて、フランスやドイツでは取り上げられることがないようなアジアのアーティストや作品、西ヨーロッパとは異なるネットワークが存在する、ということを実感するようになってきたからだ。たとえば英国からインド、マレーシア、シンガポール、オーストラリア、ニュージーランド、カナダまでを含む旧英連邦のネットワーク。だが同じ英語圏でも、ニューヨークはさらに異なるネットワークに属しているように思われる。ヨーロッパのみならずアジア太平洋からアフリカまで、世界中ほとんどの地域と独自の回路をもち、多くのアジア人がここで舞台芸術を学んでいる。歴史的には日本や韓国、フィリピンとの結びつきも強い。

これらのネットワークは、互いに重なり合いつつも、まだかなりの程度独自性を保っている。それぞれのネットワークの独自性、共約不可能性は、作品をめぐる価値観の違いにあるようだ。そしてそれはある程度、作品の制作形態に依存するのではないか。・・・というのが、今のところの仮説だ。なので、米国における舞台芸術の制作形態について、もう少し知りたいと思っている。

ニューヨーク大学でのフランス演劇をめぐるシンポジウムで話を聞いたりして、最近分かってきたのは、米国とフランスでは舞台作品を評価する基準が微妙に異なるということだ。とりわけ1960年代を境に価値観の亀裂が生まれているように思われる。たとえば1950年代には米国はフランスの「前衛演劇」(ここではとりわけベケットやイヨネスコなどの「不条理演劇」)を積極的に受容でき、1960年代には両国の舞台芸術が驚くほどに交叉する状況があるが、1970年代以降、米国で知られるフランスの演劇人は少なくなっていく。なぜなのか。ラ・ママやジャドソン・ダンス・シアターの話を聞いて見えてきたのは、この1960年代に、米仏両国の舞台制作状況が大きな転換を遂げたということだ。というわけで、これから少し米国の1960年代の製作事情を見ていきたい。1960年代のアーティストたちはどこから製作資金を調達していたのだろうか。

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