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ハバナ滞在記(2) 米国とキューバ、二重の歴史と二重経済 2017年2月20日

20世紀後半のキューバの歴史は、視点によって、大きく分けて、三つくらいはあるだろう。フィデル・カストロが英雄であった歴史。フィデルが悪夢だった歴史。そしてフィデルが英雄から悪夢となった歴史。大まかには、キューバ革命政府とその支持者から見た歴史、米国と在米亡命キューバ人の多数派から見た歴史、そして革命政府にはじめ期待を寄せ、のちに幻滅した人々(1962年以降に亡命したキューバ人も含む)から見た歴史に対応する。このうち第一の人々と第二の人々が出会う機会は、この半世紀間ほとんどなかった。ハバナで出会ったある演劇人が「もし革命後に出て行ったキューバ人たちが、ずっとこの国に留まってくれていたとすれば、今頃キューバはどんな国になっていただろう、と考えてしまう」と語っていた。今、そのキューバ人たちが少しずつ国に戻ってきつつある。キューバの人々は、この状況をどんな気持ちで眺めているのだろうか。

オースティンやメキシコシティで出会ったキューバ系米国人たちの何人かが、「1961年に米国に来た」と話していた。キューバ革命が起き、親米政権が倒されたのは1959年1月。フィデルは当初、米国との関係を保つことを模索し、同年4月にワシントンDCを訪れたが、アイゼンハワー大統領には会えず、ニクソン副大統領と会見。この時点ではまだ革命政権は明確に反米路線を取っていたわけではなかった。米国はやがてフィデルを「容共的」と見なし、暗殺と政権の転覆を謀っていく。1961年には米国に亡命していたキューバ人を中心とするキューバ侵攻(ピッグス湾事件/プラヤ・ヒロン侵攻事件)があり、革命政権によって撃退されている。その後、カストロは二年前の革命が社会主義革命であったと表明し、ソ連との結びつきを強めていき、翌年のキューバ危機へと至る。このとき米国に亡命した人々の多くは、カストロ政権は何年も持たないと考えていたという。

それから半世紀以上が経った今、二国間の演劇交流を支えているのは主に、革命自体の記憶を持たない世代となりつつある。第二世代のキューバ系米国人たちは、「祖国」キューバに対して、かなり複雑な思いを抱いている。美しい国、貧しい国。キューバの現政権に対しては当然批判的だが、キューバが米国経済に呑み込まれていくことを単純に肯定しているわけでもない。米国で育ったキューバ系米国人アーティストたちは、米国が夢の国ではないことを身に沁みて知っている。一方でキューバに住むアーティストたちが米国に行くことを夢見ていることもよく知っている。キューバが米国と接近することへの期待と、キューバが米国化していくことへの不安。米国はキューバにとって救世主なのか、あるいは侵略者なのか。キューバ人一人一人にとっても、この二つの顔が同時に、様々な度合いで見えている。これは米国とアジアの少なからぬ国との関係においても同様かも知れない。

キューバは1898年の米西戦争によってスペインから解放され、1902年に米国から独立を果たすが、グアンタナモ湾は永久租借地となり、今でも米国の軍事基地がある。ハバナの街中では今でも革命前に持ち込まれた派手なアメリカ車が現役で走っている。米国人にとって、キューバ文化はエキゾチックかつノスタルジックな、近くて遠い文化だ。それには大きな商品価値があり、それに比して、今のところはキューバの人件費は圧倒的に安い。これが米国経済に組み込まれていくと、どうなっていくのか。すでにキューバには米国からの観光客が大挙して押し寄せている。かつてはヨーロッパ系の観光客が主流だったが、七年くらい前から米国人が増えてきて、ここ二年ほどで米国人が圧倒的多数になったと聞く。

キューバが米国との国交を回復せざるを得なくなった最大の理由は、ベネズエラの経済危機にある。カストロを師と仰いでいたベネズエラのチャベス前大統領は、ソ連の崩壊で苦境に立っていたキューバに、ベネズエラの原油を安価で供給していた。だがチャベスは2013年に死去し、2014年には原油価格が急落して、原油輸出に依存していたベネズエラ経済は破綻し、キューバへの原油供給も滞っていく。この原油急落の引き金となったのが米国のシェールガス革命だった。米国は、いわばシェールガスによってキューバを追い詰めたともいえる。

キューバでは二年前に法改正がなされ、米国在住でもキューバ生まれであれば、キューバで不動産を購入することが可能になったという。ちなみにキューバの国籍法は米国と同様に出生地主義を採っているが、二重国籍は認められていない。ところが、かつてキューバ国籍を持っていたものがキューバに入国するには、キューバの旅券を持っていなければならない。つまり、キューバで生まれた限り、キューバに戻るには「キューバ人」として戻るほかない。米国に移住したキューバ人は富裕者が多く、米国でも特別な待遇を受けたため、米国在住のキューバ人がキューバに家を買うケースも増えている。

ハバナの旧市街には薄暗い国営店舗に混じって、ベネトン、アディダス、ナイキなどが点々と進出している。とはいえ、これらの米国企業のうちいくつかは第三国経由ですでにある程度進出していたという。そもそもハバナに米国大使館が「開設」された、といわれるが、実際のところ、だいぶ前からある通商代表部の建物に名前を付け替えただけで、人員はほとんど変わっていないらしい。米国からの直行便は長い間なかったが、メキシコ経由などで入国することは可能で、細いながらも交流の道が完全に閉ざされていたわけではなかった。

今回同じ宿に泊まっていたロサンゼルス在住のコロンビア系米国人は、親類がキューバにいるそうで、2005年頃からたびたびキューバを訪れている。以前はメキシコシティ経由で、ドアトゥードアで二三時間かかっていたのが、今では直行便ができたおかげで九時間で来られるようになったという。この方はJPモルガン・チェイス銀行で働いていて、米国の銀行の動向にも詳しかった。「米国の銀行のカードがATMで使えなかった」と話したら、「大手銀行はまだ、リスクを怖れて、キューバとの取引には手を出していない。今取引をしているのは米国では二つの小規模な銀行だけだ」とのこと。

この方によれば、多くのキューバ系の友人は「なぜオバマは革命政権を延命するような譲歩ばかり行っているのか」と怒っている、という。なぜ今とどめを刺さないのか、というのが、ヒラリーに投票しなかったキューバ系米国人たちの本音なのだろう。ちなみにこの方もトランプ支持らしく、「ラテンアメリカからの不法移民があまりにも急激に増えていて、米国の最低賃金を押し下げている。腐敗したラテンアメリカ諸国の政権は反体制派や犯罪者を米国に送り出すことで安全弁としている。最近のヒスパニック系移民は英語を学ぼうとすらしない」等々と語っていた。1960年代に米国に来たキューバ系移民第一世代も、多くは財産があり、英語もできて、他のヒスパニック系移民に比べ、社会的に成功したケースが多い。

ガイド役のプロデューサーは国立大学でデザインの授業をしている。行く前に「何かほしいものはあるか?」と聞くと、「美術やデザインの本がほしい」という。コンテンポラリーアートの本を持っていくと、とても喜ばれた。来てみて事情が見えてきた。本屋に行っても新刊書はごくわずか。とりわけ外国の本は、外国に出かける友人に買ってきてもらうしかない、という感じらしい。もちろんAmazonで本が買えたりもしない。

キューバでは基本的に個人でインターネットを使えるようにはなっておらず、特定の公園やホテルでwifiの電波を飛ばしている。公営通信会社の店舗に行って延々と並べば、一時間1.5CUC(1.5ドル)のカードを一回に二枚まで購入することができる。だがこれはけっこう大変。スマートフォンやパソコンを使っている人がたくさんいる公園に行くと、たいてい入口あたりに座っている人が「プスッ、プスッ!」と小さな声で合図してきて、一枚3CUCくらいで購入できる。

週35時間労働で、月給は20CUC(20ドル、約2400円、以下便宜的に1USD=120JPYで計算)。外国人観光客としてハバナ市内のレストランで食事をすると、ディナー一回で使ってしまいかねない金額。信じられず、一度聞き返したが、これは平均的な給料らしい。ハバナでは、月給20ドルの人のための商品と月給数千ドルの人のための商品とが、一つの通りに、そして時には一つの店のなかに混在している。

キューバには二つの通貨制度がある。外貨と交換可能なCUC(キューバ兌換ペソ、1CUC=1USD)と、国内でしか通用しないCUP(キューバ人民ペソ)。ほぼ1USD=1CUCで、1CUC=25CUP。国営食堂などではCUPしか使えず、外国人観光客はCUPを持っていない限り利用できない。外国人でもCUCをCUPに両替することはできるが、そうしてしまうとふたたび外貨に交換することは基本的にできない。

キューバ人向けのレストランなら、50CUP(約240円)くらいあれば十分食事ができる。だが、ちょっとした贅沢品はほとんどCUC建てで、米国と大して物価は変わらない。半世紀以上にわたる米国による経済制裁もあり、とりわけ自国で作っていない製品は高くつく。キューバはサトウキビ中心の植民地的農業から転作を進めてきたが、今でもサトウキビは主要作物の一つで、定期的に食糧不足が発生してきた。キューバの人に「いつもどんなものを食べてるの?」と聞くと、よく「手に入るものを」という答えが返ってくる。

1993年の個人によるドル所持解禁や2011年の市場経済の部分的導入以降、以前よりも外国製品は入ってきているが、その恩恵を受けている人はそれほど多数ではないようだ。飲食店の一部民営化は2014年にはじまっていて、ハバナ市内には真新しいおしゃれなレストランも見かける。二重経済のなかで、その分国営スーパーに出回る物資が減り、「スーパーに行っても何も買えなくなった」という話も聞く。国営スーパーの前には毎朝行列ができている。

旧市街で道案内をしてくれた方が、「あそこが私の家で、その隣に観光客がたくさん来るアイスクリーム屋がある。おいしいらしいけど、高いから食べたことはない。すごく儲かってるらしくて、最近あそこだけきれいに建て替えたんだ」と話していた。そのアイスクリーム屋のアイスクリームは2CUC(約240円)だが、国営アイスクリーム屋なら10CUP(約48円)だったりする。

今回泊めていただいたのは民泊で、一泊35CUC(約4200円)だった。だがこれも、「ふつうの」月給をはるかに上回る金額になる。ある民泊の貸し手は、一ヶ月マンハッタンで滞在してきたという。今では海外渡航は自由化されているが、多くのキューバ市民にとっては、海外旅行はとても手が出せるものではない。

キューバ人からよく聞くのは、「キューバは安全だ」ということ。特に海外経験のある人はそう語る。実際、観光客が多い旧市街などを歩いていても、不安を感じたことは今のところない。治安の問題が少ないのは、格差が小さく、貧しくてもなんとか暮らしてはいける環境があったからだろう。だがほんの数年で、観光客相手の商売をしている人とそれ以外のあいだでこれだけの格差が生じていると思うと、ラウル・カストロが引退するという2018年までに何が起きるのか、なんだか勝手に気を揉んでしまう。

(つづく)

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ハバナ滞在記(1) 米国とキューバの演劇交流 2017年2月12日

2月5日、ニューヨークからハバナへ。直行便で3時間ちょっと。強烈な日差しと、インターネットに接続されていない世界。ちょっと生き返ったような感覚。

沿道には革命と社会主義を称揚する壁画やポスター。一方で宿まで送ってくれた車には星条旗マークの飾り物があり、道行く女性が星条旗の下に大きく「USA」と書かれたTシャツを着ていたりする。

メキシコもキューバも、当初のリサーチ計画にあったわけではないが、ACCのスタッフに相談したら、「私たちは企画書ではなくて人を信頼して交流事業をやっているので」とおっしゃっていた。ACCの方々の心の広さには本当に感謝している。

米国において、ヒスパニック系の演劇は、いわば「マイノリティ演劇」というジャンルにおいて、アジア系の演劇と競合関係にあるともいえる。全米の人口構成上、ヒスパニック系の人口は近年アジア系を大きく上回りつつある。アジア系とのちがいの一つに、本国との地理的距離が圧倒的に近いということがある。その分、本国を巻き込んだ演劇交流については、アジア系を上回るダイナミズムを見せているようだ。このあたりは、日本にいたときには全く想像がつかなかったところ。一方日本においては、メキシコやキューバの演劇作品を見る機会はまずなかった。アジアの同時代的舞台芸術の位置について考えはじめたのは、そもそも演劇を通じて「世界」を描こうとするときに、欧米に比べてアジアが小さくなりがちに思えたからだ。だが米国にいると、日本ではアジア以上に扱われる機会が少ないラテンアメリカが大きな存在感を持って見えてくる。だから「世界演劇」のなかで、この地域がどんな位置を占めているのか、気になってくる。

キューバに行ってみたくなったのは、あちこちでキューバ系米国人のアーティストと出会ったからだ。オースティンでのNPN(ナショナル・パフォーマンス・ネットワーク)年次総会では、マイアミとニューヨークをベースとする振付家・ダンサー・俳優のオクタビオ・カンポスに出会った。オクタビオは近年、毎年のようにハバナに行き、キューバのアーティストたちとの共同作業をしている。今はキューバのアーティストたちとブロードウェイ向けに大きな作品を企画しているらしい。

NPN事務局でラテン・アメリカとの交流事業を担当しているエリザベス・ダウドも、マイアミ在住のキューバ系米国人だった。マイアミでは300万の人口のうち200万人がスペイン語話者だという。マイアミでは、米国を含めた(!)スペイン語圏の作品を紹介する国際ヒスパニック演劇祭も行われている。キューバ系の住民は全米で約110万人。キューバの人口が約1100万人なので、キューバ系米国人は国内人口のちょうど1割ほどに相当することになる。キューバ系米国人のうち約62万人がフロリダ州マイアミ周辺で暮らしている。キューバ系米国人のほとんどは共産党政権から逃れてきた人々。フロリダ州は大統領選挙でキャスティングボートを握る大票田の一つで、スイング・ステート(選挙のたびに結果が変わる州)。かつてフロリダ州で負けて大統領になったのはビル・クリントンのみ。これは歴代の大統領が対キューバ強硬策を採りつづけた理由の一つでもある。今回の大統領選挙でも、フロリダ州のキューバ系米国人の過半数がトランプに投票したことが、トランプの勝利に大きく貢献している。

(参考)前回大統領選でのフロリダ州におけるキューバ系米国人の投票行動について

http://www.miamiherald.com/news/local/news-columns-blogs/andres-oppenheimer/article112080317.html

http://mainichi.jp/articles/20161025/mog/00m/030/008000c

http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/11/post-6241.php

そしてメキシコ舞台芸術ミーティングENARTESでは、シカゴのグッドマンシアターのアソシエート・アーティストで演出家のヘンリー・ゴディネスと出会った。ヘンリーはハバナの劇団テアトロ・ブエンディーアとの共同作業をもう何年もつづけている。ノースウェスタン大学でも教えていて、2010年から毎年学生をハバナに連れて行っているという。

これにはけっこう驚いた。米国人のキューバへの渡航は長年のあいだ基本的に禁じられていた。米国とキューバの国交が回復されたのは2015年7月。2016年3月の米キューバ首脳会談前後から米国の航空会社のハバナ乗り入れが進んだ。今ではニューヨークからの直行便もあり、300ドル以下でハバナまで行くことができる。だが、オバマ政権は以前から「学術交流」などの名目で、限定的な交流を少しずつ認めてきていたらしい。ヘンリーは「毎年政府との折衝を繰り返して、悪夢のような事務手続きをしながら」交流事業を進めていったと語っていた。ヘンリーもオクタビオも、Facebookページの背景に大きくオバマの写真を載せている。

一方で、キューバ系米国人がおしなべてオバマの対キューバ融和政策を支持しているわけでもなく、オースティンでは「私はキューバ生まれのキューバ人だ」といいながらも、「共産党政権がつづく限りふたたびキューバの地を踏むことはない」と言明するビジネスマンにも出会った。第一世代と第二世代とのあいだで意識の差もあるらしい。

http://www.nhk.or.jp/kokusaihoudou/archive/2016/11/1107.html

はじめオクタビオと同時期にハバナに行くつもりだったが、オクタビオは都合で来られなくなったので、代わりにハバナ在住のプロデューサーのエドゥアルドを紹介してくれた。エドゥアルドと打ち合わせをしているときに、「米国の財団とキューバ政府に支援を受けながら映画製作事業をしている」と聞いて、これも驚いた。今、米国とキューバのあいだで何が起きているのか。数日で理解できることは限られているだろうが、毎日少しずつ、見えてくるような気もする。

(つづく)

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「ミス・サイゴン」問題、あるいはアイデンティティをめぐる非対称性について(1) 2017年2月4日

先日アジアン・アメリカン・アーツ・アライアンス専務理事のアンドレア・ルイさんにお目にかかって、「アジア系の舞台俳優は米国の舞台で仕事を得られる機会が少ない」という話を聞いた。以下の統計によれば、この10年平均で、ニューヨークのブロードウェイと非営利の劇場において、アジア系俳優の出演は平均して4%程度に過ぎない。一方、ニューヨーク市民のなかのアジア系の比率は12%以上。

Asian American Arts Alliance

http://aaartsalliance.org/

AAPAC (ASIAN AMERICAN PERFORMERS ACTION COALITION)

http://www.aapacnyc.org/stats-2014-2015.html

まだはっきりした答えが得られたわけではないが、ブロードウェイ版『ミス・サイゴン』のキャスティングをめぐる議論が参考にはなりそうだ。1990年、ロンドンで大ヒットしたミュージカル『ミス・サイゴン』のブロードウェイ版の製作が予定されていた。ロンドン版では、フランス人の父とベトナム人の母から生まれ、狂言回し的な役割を担う「エンジニア」役に英国人の白人俳優ジョナサン・プライスが起用されて評価を得ていて、ブロードウェイ版でもこの配役が踏襲されることになっていた。

ところがプライスはアメリカン・アクターズ・エクイティ(American Actors Equity, 米国人俳優にとっての利益に配慮しつつ、米国での米国市民ならびに非市民の俳優の雇用を管理する舞台俳優と舞台監督の労働組合、以下「エクイティ」とする)によって労働許可を拒否される。しかしエクイティのメンバーたちがこれに反対する署名を集め、一週間後に特別審議会が開かれて、エクイティは一転して労働許可を認めるに至った。プライスは1991年4月に開幕したブロードウェイ版でも無事に同じ役を演じることができ、同年のトニー賞ミュージカル主演男優賞を受賞している。ブロードウェイでの『ミス・サイゴン』は、このプライスをめぐる論争の拡がりもあって、記録的な大ヒットとなり、9年以上のロングランとなった。(ちなみに今はブロードウェイで上演されていないので、実際に観られてはいません。ご覧になった方やお詳しい方、誤解などあればぜひご指摘ください。)

この問題については、NYUパフォーマンス・スタディーズ科のカレン・シマカワさんが詳細な分析をしているので(Karen Shimakawa, National Abjection. The Asian American Body Onstage, Duke University Press, 2002, Chapter I “I should be ― American!”)、以下、それに基づいて。エクイティがはじめ労働許可を拒否したのは、『M. バタフライ』で知られる中国系劇作家デビッド・ヘンリー・ファンらの抗議に基づいている。抗議の焦点は主に(1)アジア系の俳優が主要な役で舞台に立つ機会が十分にないなかで、アジア系の役ですらヨーロッパ系白人俳優が配役されてしまうことへの反発、(2)プライスによる「アジア人」の演じ方自体への反発(とりわけヨーロッパ系俳優が目張りやメイクでアジア系らしい顔を作り、ステレオタイプな「アジア人」を演じる、いわゆる「イエローフェイス」に対する反発)、の二点にあるようだ。

『ミス・サイゴン』のプロデューサーであるキャメロン・マッキントッシュはプライスの起用にこだわって、プライスが出演できなければブロードウェイ公演初日をキャンセルするとまで言明した。この労働許可拒否問題は社会的に大きく取り上げられることになる。大手紙の大半は、保守・リベラルを問わず、プライスの起用を支持する論説を発表した。

プライスの起用を支持する側の主な主張は以下の通り。すでにシェイクスピアなどの西洋古典作品で、ヨーロッパ系を想定して書かれた登場人物に黒人俳優を起用する、といった「カラー・ブラインド・キャスティング(肌の色を無視したキャスティング)」がなされてきた。だとすれば、逆にヨーロッパ系の俳優がアジア人を演じるのも「芸術上の自由」ではないか。そして、これを認めないのはむしろ「逆差別」なのではないか。

この主張は『ミス・サイゴン』制作側の説明にもとづくもので、実際にキャメロン・マッキントッシュも『オペラ座の怪人』の主役に黒人のロバート・ギロームを起用しており、またその直前にやはり黒人のモーガン・フリーマンが『じゃじゃ馬ならし』のペトルーキオを演じたり、デンゼル・ワシントンが『リチャード三世』で主演したり、といった例があった。この作品のキャスティング・ディレクターはさらに、アジア系で45歳~50歳で、プライスと同じくらいの古典的演劇出演の経験があり、国際的な名声を得ている俳優がいれば見つけていただろうが、「世界中を探してみたうえで」見当たらなかった、と説明している。

というわけで、アジア系演劇人の抗議は、最終的に、論争に加わった米国の多くの「識者」から、「芸術上の自由」を侵害しかねないものとみなされることになった。だが、この抗議は本当に不当なものだったのだろうか。

ファンとともに最初の抗議に加わった俳優のB. D. ウォンは、「私たちは自分たち自身の肌の色の役を演じる機会も十分に与えられておらず、(フリーマンやワシントンのような)「非伝統的」なキャスティングのために闘う状況とはほど遠い」と語っていた。そもそもこの時代、アジア系の舞台俳優が「国際的な名声」を得られうる機会はほとんどなかった。ブロードウェイで上演された、アジア系の男性が主要な役を演じる作品は、『王様と私』や『太平洋序曲』など、数えるほどしかない(ちなみに1976年に初演された『太平洋序曲』ではイースト・ウェスト・プレイヤーズのマコ・イワマツとパン・アジアン・レパートリー・シアターのアーネスト・アブバが共演している)。

実のところ、先ほどのキャスティング・ディレクターの説明は、あまり正確なものではなかったことが分かっている。「世界中を探してみた」のはヒロインのキム役の女優と、その他のベトナム人の脇役についてであり、実際にヒロイン役にはフィリピン人女優レア・サロンガが起用された(サロンガはプライスとともにトニー賞ミュージカル主演女優賞を受賞している)キム役については、白人女優が目張りをして顔に黄色あるいは濃い色のメイクをして演じる、という選択肢ははじめからなかったようだ。つまり、「オリエンタル・ビューティー」にはアジア系の女優が必要だ、というプロデューサー側の判断があったわけである。

一方「エンジニア」役については、早々にプライスの起用が決まっていて、アジア系の俳優は実際のところ、特に検討された形跡がない。ここで分かるのは、英国においても米国においても、「オリエンタル・ビューティー」は(英国や米国で無名の女優であったとしても)すでに商品価値を持っているのに対して、アジア系の男優は集客に必要な魅力を持っているとは見なされていない、ということだ。

キムは17歳で売春婦となっていて、初めての客となった米軍兵クリスと恋に落ち、子どもを宿す。クリスはそれを知らず米国に帰国し、米国人の白人女性エレンと結婚する。キムはクリスの帰還を待ちわびるが、クリスはエレンを伴ってヴェトナムを訪れる。クリスが結婚したことを知ってエレンは絶望し、子どもがクリス夫妻によって米国で育てられることを望んで自殺を遂げる。ここでキムは、米国人白人男性にとって、いわばきわめて都合のよい存在として描かれている。(・・・とまとめると、クリスがひどい人間のようだが、あちこちでクリスの行動を倫理的に正当化する仕掛けがなされている。)

一方「エンジニア(「やり手」「世渡り上手」というようなの意味らしい)」は、売春宿を経営し、キムやキムの息子を利用してなんとか米国に渡ろうとする、という、いわば汚れ役である。父親がフランス人ということになってはいるが、たまにフランス語が出てくる以外、特に「ヨーロッパ系」であることが強調されることはない。パン・アジアン・レパートリー・シアターの創始者ティサ・チャンは、フリーマンがペトルーキオを演じたり、ワシントンがリチャード三世を演じたりするときには「白塗り」する必要はなかった、ということを指摘している。ここでプライスが濃い色のメイクをし、目張りをしたのは、明らかにこの「狡猾なアジア人」のステレオタイプを演じるためであり、「肌の色を無視した」役柄を演じるためではなかった。つまり、ここで問題となっていたのは、アジア人(あるいはアジア系米国人)が自ら、自分自身の表象を統御する機会が十分に与えられていない、ということだった。

(つづく)

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