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1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(2) 米国演劇における「前衛」とは何か 2017年3月18日

以下、すっかり出しそびれていましたが、全米芸術基金(NEA)予算削減/廃止問題で米国の文化政策への注目が集まっている(?)うちに…。

(承前、2016年112日の「1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(1) フランスの状況と米仏関係」 https://goo.gl/Kbvkmi につづく )

ちょっと話が戻るが、なぜここで米仏の事情を取り上げているかというと、1970年代以降に米国でパフォーマンス・スタディーズが研究対象としてアジアの演劇を取り上げていくことと、同時代にフランスで太陽劇団やピーター・ブルックが実践的にアジア演劇に触れていくことは、一見似ているが、実は文脈がだいぶ異なっていた、という話をしたかったのだった。大まかにいえば、一方は「前衛演劇」、もう一方は「民衆演劇」という枠組が前提になっていたわけである。これは1970年代以降、米仏の演劇交流が少なくなっていった理由の一つだろう。では、なぜ米国では「前衛演劇」という枠組が重要だったのか。

(もう一つ米国において重要なのは、「前衛演劇」の系譜においては多くの場合言及されることのない、アジア系米国人による演劇の歴史が並行してあるということだが、これについてはここではあまり触れない。また、いわばこの間にあるのがバルバの「文化人類学的演劇」だろうが、これについてもここでは触れずにおく。)

0.米国演劇における「前衛」とは何か

もう少し問題の焦点を絞っておこう。フランスでは60年代以降「前衛演劇」という枠組みが参照されなくなっていくのに対して、米国ではなぜ70年代に至るまでそれが存続したのか。あるいは、今に至るまで「前衛演劇」というモデルが存続しつづけているのか。

まずは米国の文脈において、「前衛」とは何かを確認しておこう。クリストファー・イネス(『アヴァンギャルド・シアター 〈1892-1992〉』、原著1993年刊)では、「前衛」という概念の参照項として、マルクス、バクーニン、ポッジョーリ、ビュルガーを挙げている。つまりこの言葉は共産主義や無政府主義における革命という概念と結びついていた。残る二人は革命家ではなく、1960年代以降に活躍した研究者・批評家である(レナート・ポッジョーリ『アヴァンギャルド芸術の理論』イタリア語版1962年/英訳1971年、ペーター・ビュルガー『アヴァンギャルドの理論』(ドイツ語版1974年)。これらは60年代の演劇活動自体に大きな影響を与えたわけではない。ここで重要なのは、ここで挙げられている四人が全員ヨーロッパの出身だということだ。Avant-gardeという言葉は、フランス語がそのまま使われていることからも分かるように、ヨーロッパの近代芸術史との接続を示す概念であり、アメリカ固有の歴史に根ざすものではない。より英語固有のvanguardという単語もあり、「ヴィレッジ・ヴァンガード」(ニューヨークのジャズクラブ、1935年創業)などで使われることはあるものの、この文脈ではむしろavant-gardeが使われる。ここには、東海岸知識人のヨーロッパ文化に対する憧憬と愛着が表れている。

だが共産主義や無政府主義の文脈において使われてきた概念が、なぜ冷戦下の米国においてこれほど重要なものでありえたのか。それには少し歴史的文脈を知っておく必要がある。米国における「前衛」美術・演劇の歴史においてはガートルード・スタインが果たした役割が大きい。スタインは1903年から1914年にパリに滞在し、前衛芸術運動に深く関わった。そしてアーティストたちのパトロンとなって、米国に多くの作品をもたらした。これは米国のコレクターにも影響を与え、同時代のヨーロッパ作品が数多く米国に渡るきっかけともなった。さらには第二次大戦中、米国はデュシャン、ブレヒト、クルト・ヴァイルなど、多くのアーティストを亡命者として受け入れることとなる。つまり、米国は少なからず、ヨーロッパで危機的状況にあった「前衛芸術」の救世主ともなったのである。

1960年代は、「文化ブーム」の時代であると同時にテレビの時代でもあった。ケネディ・ジョンソン政権下の文化政策は、マス・カルチャーの圧倒的な隆盛に対して、いかにしてハイ・カルチャーを保護するか、という視点から考えられていた。冷戦下の外交上の理由からも、いかにして米国の「自由」な環境が(ソ連やあるいはヨーロッパよりも)「卓越した」芸術を生み出しうるのか、ということを示す必要があったのである。

米国のアヴァンギャルド・シアターは、マス・カルチャーでもハイ・カルチャーでもないカウンター・カルチャーを生み出そうとしていた。だが一方で、この動きを主導したアーティストの多くは東海岸知識人の系譜に連なり、ヨーロッパの近代演劇史を強く意識していた。リヴィング・シアターやオープン・シアターがアメリカ式の(「大衆的演劇」といったニュアンスを持つ)theaterではなくヨーロッパ式のtheatreを使っていたことはこの系譜的意識を象徴している。(ちなみに、例えばネイチャー・シアター・オブ・オクラホマは、主にtheaterを使っている。)ヨーロッパの歴史的アヴァンギャルドとこの米国演劇界の動きの共通点は、純粋芸術を否定し、社会運動としての側面を重視していることである。つまり、米国のアヴァンギャルド・シアターは、純粋芸術でもなければ、大衆的演劇でもない。一方で、フランス的「民衆演劇」の理念を共有しているわけでもない。では米国の前衛演劇はどのような意味で「社会運動」なのか、というのは、かなりややこしい問題だが、追って少しずつ見ていこう。

70年代に至るまで、というのは、1980年代初頭にはリチャード・シェクナーが一度「前衛演劇」の終焉を宣告しているからだ。演出家の権威が失われ、パフォーマーが演出家に従わなくなったという。80年代以降、劇団による活動よりもパフォーマーが個人として行う「パフォーマンス」が盛んになっていき、また「プロフェッショナル」としての技術自体が疑われるようになり、アマチュアとの境界もあいまいになっていく。ここにはシェクナー自身が創始したパフォーマンス・スタディーズの影響も見ることができるだろう。

80年代~90年代以降にもジョン・ジェスラン(1951~)やレザ・アブドー(1963~1995)など「前衛」の系譜に連なるような演出家が出現するが、たとえばイラン出身のアブドーは明確に「前衛」というレッテルを拒否し、「自分がやっているのは大衆的なエンターテインメントだ」と主張していた(Arnold Aronson, American Avant-Garde Theatre: A History, Routledge, 2000, p. 181-197による)。この背景には、連邦政府の方針転換もあるだろう。1981年に発足したレーガン政権で全米芸術基金(NEA)の事業計画において大きな役割を果たした保守派の美術批評家ルーズ・ベレンソンは、「私たちの文化の保守的な面が(全米芸術基金においては)まったく見えない。・・・前衛あるいは自称前衛は、一種のアカデミーになってしまった」と発言している(フレデリック・マルテル『超大国アメリカの文化力』p. 261)。

だが一方で、今でも「前衛演劇」は米国において重要な参照項ではありつづけている。その理由の一つとしては、ウースター・グループやリヴィング・シアターといった60年代~70年代に活躍した劇団がまだ活動をつづけているということがある。リチャード・シェクナーもロバート・ウィルソンもまだ演出家として現役だし、リチャード・フォアマンは最近活動を停止したばかりだ。だが、フランスでも太陽劇団やピーター・ブルックはまだ健在であり、焦点はむしろ、なぜフランスではこれらを「前衛」とは名指さなくなったのに対して、米国ではこの概念が使われつづけているのか、ということだ。

さらに問題を先取りしておけば、だからといって、1960年代において米仏の個々の演劇人の表現がどの程度「前衛的」で、どの程度「民衆的」だったか、というのはまた別の問題だということだ(また、「民衆」とは誰か、というのもさらに別の大きな問題である)。たとえば1968年において、リヴィング・シアターはパリの学生とともにオデオン座占拠に加わり、またアヴィニョン演劇祭において『パラダイス・ナウ』の上演中止を機に、学生たちとともに演劇祭の運営側と対立している。このなかで、「民衆演劇」運動を主導していたアヴィニョン演劇祭創立者のジャン・ヴィラールやオデオン座支配人だったジャン=ルイ・バローは、むしろ国家の支援を受けた既得権層と見なされるに至る。皮肉にも、少なくとも五月革命に加わったフランスの学生たちにとっては、フランスの「民衆演劇」よりも米国の「前衛演劇」の方が親近感を持てる存在だったわけである。

だが、1960年代に生まれるこの米仏演劇史の差異は、1970年代以降の流れを決定づけ、それ以降は米仏演劇史がほとんど交叉しなくなるに至る。これは「世界演劇史」を考える上でも、重要な出来事だと思われる。

以下、このような事態に至った原因を、理念よりもむしろ米国における舞台芸術の制作状況と文化政策にもとづいて考えてみたい。

(つづく)

カテゴリー: ACC 文化政策

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