Menu

1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(8) 卓越性から多様性へ 2017年3月24日

2.米国における実験的演劇の製作状況(承前)

2.6.卓越性から多様性へ

1960年代後半から1970年代にかけて、米国がベトナム戦争から撤退していく時代に、卓越性から多様性へ、そして国際的地位の確立から国内問題への対処へと、米国の文化政策の目的がラディカルに転換していった。ここで「文化政策」というのは、とりわけ米国の場合、連邦政府による施策だけを指すのではない。州や地方自治体、そしてそれらによって設置された公的財団の役割も大きいし、それ以上に民間の非営利財団が主導する部分が大きい。

この転換を象徴的に示すのが、マクジョージ・バンディのケースだった。若くして頭角を現した政治学者バンディは、ケネディによって国家安全保障担当の大統領補佐官に指名され、ベトナム戦争の政策責任者となった。ところが戦線は泥沼化し、ケネディは暗殺される。バンディは共和党と民主党双方からの批判の的となって、1966年に辞任。フォード財団の事務局長に転身した。

国内ではベトナム戦争と並行して、公民権運動が盛り上がりを見せていた。ジョンソン大統領は人種差別の撤廃を目指した公民権法を1964年に成立させ、さらに選挙権登録における差別をなくす投票権法に1965年8月6日に署名。だが直後の8月11日からカリフォルニア州ワッツ市で負傷者1000人以上に及ぶ大規模な人種暴動が発生する。実質的な人種差別の解消が進まないのを見て、バンディは黒人アーティストや黒人ゲットーにおける文化活動の支援を財団の中核事業にしようと考えた。

はじめは多様性と卓越性を両立させようとし、「卓越した」黒人アーティストの支援を中心にしようとしていた。だがゲットーへの対応が社会的優先課題として浮上していくなかで、卓越性よりも多様性を重視する方向に大きく舵を切っていく。つまり、「卓越性から多様性へ」という方向転換は、ベトナム戦争からゲットーへ、という政治的優先課題の移行を背景としているのである。やはりフォード財団が重視したリージョナル・シアターの支援も、スラム化した都市中心部の再活性化という社会的課題と大きく関わっている。

バンディはそれまで支援していた国際事業や著名大学、著名芸術機関への支援を打ち切ってまで「多様性」を重視しようとしたため、「卓越性」を擁護しようとしたヘンリー・フォード二世をはじめ、何人もの財団理事が辞任した。それでもバンディは、1980年に辞職するまで、「まだ機会の平等は実現されていない」として、黒人、ヒスパニック、アジア系、ネイティヴアメリカンなどの「多様な」文化活動を重点的に支援しつづけた。ロックフェラー兄弟基金、ロックフェラー財団、カーネギー財団、メロン財団なども、1960年代後半から70年代にかけて同様の方針転換を行い、80年代以降はこれが中核事業となったケースが少なくない(マルテル『超大国アメリカの文化力』p. 512-518)。

これ以降、「文化の多様性」はあらゆる分野で目標とされるようになる。このもう一つの背景となったのは、1965年に採択された移民改革法だった。米国はヨーロッパ系の優遇をやめて出身国別の割り当てを撤廃し、あらゆる地域の出身者に門戸を開くこととなる。これによって、それまで減少傾向にあった移民の流入が急増していく。これによってヒスパニック系、アジア系、そしてアフリカ諸国出身の黒人が、70年代から80年代にかけて、徐々に存在感を増していったのである。

(つづく)

カテゴリー: ACC 文化政策 米国演劇

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です