島村抱月訳・演出、松井須磨子主演『故郷』(ズーダーマン作)明治45年(1912年)の上演禁止について。
筋:「オペラ歌手として成功したマグダが故郷に帰ると、かつて自分と子どもを捨てた男が現れて結婚を迫ってくる。マグダの父親は、名誉のために娘に結婚か死を選ぶよう命じるが、マグダがそれを拒否したとき、父親はショックのために死ぬ」。
兵藤裕巳『演じられた近代』202頁から。
島村抱月演出、松井須磨子主演『故郷』上演禁止の経緯 へのコメントはまだありません島村抱月訳・演出、松井須磨子主演『故郷』(ズーダーマン作)明治45年(1912年)の上演禁止について。
筋:「オペラ歌手として成功したマグダが故郷に帰ると、かつて自分と子どもを捨てた男が現れて結婚を迫ってくる。マグダの父親は、名誉のために娘に結婚か死を選ぶよう命じるが、マグダがそれを拒否したとき、父親はショックのために死ぬ」。
兵藤裕巳『演じられた近代』202頁から。
島村抱月演出、松井須磨子主演『故郷』上演禁止の経緯 へのコメントはまだありません樫田さん、大変遅くなって申し訳ありません。こちらのアジア演劇の話をしていて、「人文学は役に立ちますか?」という、一昨年樫田さんから頂いた質問を思い出しました。そのときはちょっとためらいがあって、結局うまく答えられませんでした。
私が人文学という概念についてためらいを持っているのは、それが奴隷制の論理、植民地主義の論理と関わりを持っていたからです。このように過去形でいうのが正確なのか、という点でもためらいがあります。
キケロは「人文知」あるいは「人間的教養」(humanitas)というものを、「自由人にふさわしい様々な高尚な学術」と定義しています(『弁論家について』1-68〜73)。そしてアリストテレスによれば、自由人とは「他人のためではなく自らのために生きる人」のことです(『形而上学』982b25-29)。
そこには、理性を持って自分自身をよく支配することができる者と、そうでない者との区別があります。そして、後者は自分自身をよく支配できないが故に、前者の支配下に入る必要がある、ということになっています。古代ギリシアにおいてもローマにおいても、たとえば軍事技術は、自由人であるために、最も重要な技術/学術の一つとみなされていました。一方で、歌や踊りをなりわいとすることは、他者の欲望を満たすために生きることであり、最も卑俗ななりわいの一つとみなされていました。
この論理は、自由人と奴隷を区別する論理であると同時に、理性をもつ人間と、理性を持たないその他の生物と区別する論理でもあります。このキケロの定義に基づく近代の「人文主義教育(éducation humaniste)」が植民地主義と産業革命の時代を準備したのは偶然ではないでしょう。そして今なおこの論理は、自らを支配できる者とそうでない者とを区別し、ヒトが別のヒトから、あるいは別の生き物から搾取する構造を正当化するものになっています。
これまでの人文学がこのことに無自覚だったとは言いませんが、この「人文学」というもの自体を基礎づけている論理を十分に問うてきたとも思えません。そして実をいえば、ここでいう「人文学」あるいは「人文知」というものには、いわゆる「自然科学」の大きな部分も含まれるとも考えられます。いかにしてこの意味での「人文知」というものの外部を見出せるか、いかにして人間というものを再定義していけるか、ということは、私たちに課せられた課題なのだと思います。もちろんそのためには、人文学というもの自体を深く見つめる必要があることも確かでしょう。また、西洋で作られた学問以外にも、何かヒントがあるのかも知れません。
なんだか煮え切らない話で恐縮ですが、最近こんなことを考えている、というくらいの話です。また大学院の話も聞かせてくださいね。
「人文学は役に立ちますか?」への回答 へのコメントはまだありません
アジア演劇を「世界演劇」に接続することの困難について
SPAC-静岡県舞台芸術センターの仕事では、創作に関わることは多くない。クロード・レジ、ダニエル・ジャンヌトーなどフランスの演出家と一緒に仕事をすることはあったが。主に海外招聘、とりわけふじのくに⇄せかい演劇祭のプログラムを組む、という仕事をしている。そのなかで、ここ数年抱えていた疑問があったので、ACC(Asian Cultural Council)に応募して、2016年9月〜2017年2月までニューヨークに滞在して、リサーチをしていた。その疑問というのは、アジアの作品をプログラムに入れるのはなぜ難しいのか、ということ。
・なぜニューヨークか アジア演劇とパフォーマンス・スタディーズ
どうしてニューヨークに行きたかったのか。たとえばシンガポール国際芸術祭の芸術監督をしている演出家のオン・ケンセンと話していて、「ニューヨークのユダヤ人からバリ島の演劇のことを教えてもらったんだ」という話を聞いたことがあった。シンガポールからバリ島はすぐ近くなのに、なんでわざわざニューヨークを経由しなければいけなかったのか。
オン・ケンセンは1993年〜1994年にACCのグラントを獲得して、NYU(ニューヨーク大学)パフォーマンス・スタディーズ科修士課程に在籍し、リチャード・シェクナーからバリ島の演劇のことなどを学んだ。この当時、アジアの舞台芸術について学べるところは他にあまりなかったということだろう。マニラのCCP(Cultural Center of the Philippines)の芸術監督クリス・ミリヤード(Chris Milliado)にお目にかかったときにも、その1年後か2年後に、もACCのグラントでNYUのパフォーマンス・スタディーズ科に留学した、という話を聞いた。
つまり、東南アジアの重要な演劇人はNYで勉強しているんだ、と思った。フランスに留学していたが、東南アジアの演劇人にはほとんど会ったことがなかった。
たしかに、ヨーロッパで演劇学を学んでも、アジアの演劇の文脈には必ずしも結びつかない。ヨーロッパで作られた「演劇」という概念自体が、必ずしもアジアに当てはまらない。
NYUのパフォーマンス・スタディーズ科を立ち上げたリチャード・シェクナーは演出家でもあって、ウースター・グループの前身であるパフォーマンス・グループを主宰していた。シェクナー自身が、ACC財団ができた初期の頃にグラントを取ってアジアに行っていた。
シェクナーによれば、ACCを作ったジョン・D・ロックフェラー三世が “ディオニュソス69” (1968年)を観て、シェクナーに「アジアに行きたいか?」と聞いてきた。行きたいです、と答えたら、来年以降、どこでも好きな所に行ってください、と。それで1970年以降、インド、 スリランカ、インドネシア、中国、台湾、日本など、何年かかけて回った。それが一つのきっかけとなって、ヨーロッパだけでなくアジアやアフリカも含め、そしていわゆる演劇だけでなく儀礼やスポーツ、日常生活のルールまでも含めて、それまでの「演劇」の枠組みを拡張する試みを“Performance Studies”として立ち上げた。
ヨーロッパ人とアメリカ人の「歴史的自己認識」の違い
→ ヨーロッパではあまり「アジア人」が演劇界で活躍している感じはなかった。でも、ニューヨークではそうではないのでは?と思っていた。行って見たら、そうでもなかった。
・西洋演劇を基準にした「世界演劇」にアジア演劇を接続するのはなぜ困難なのか?
<レジュメHow to integrate the Asian theatre to the “World Theatre”?を参照>
それが困難なのは、そもそも西洋演劇自体に、アジアをアンチモデルとして成立してきた、という事情があるからではないか。
・近代演技論の成立と弁論術
『演技論』が書かれ始めたのはこの少し後の時代から。
→ 演技論研究はごく最近発展してきた。2001年にサビーヌ・シャウーシュの『演技論七篇 雄弁術から演技論へ』(Sabine Chaouche (éd.), SEPT TRAITES SUR LE JEU DU COMEDIEN ET AUTRES TEXTES. De l’action oratoire à l’art dramatique (1657-1750), Honoré Champion, collection Sources classiques, 2001)という本が出て、これで国立図書館に行かないと読めなかった17世紀〜18世紀の演技論に関する本が自宅でも読めるようになった(すごく高いけど)。
この時代のフランスの教育では、毎日のようにキケロなどが書いた古代ローマ弁論術の本を読まされていた。
その中に、歌ったり踊ったりしてはダメ、と書いてある。議会とか裁判所とかでどうやって演説するか、という話なので、ある意味当たり前なんだけど。
当時の俳優論、演技論は、実はローマ弁論術をほとんどコピペしている。たとえばモリエールはもともと弁護士になるはずだったが、俳優兼劇作家になってしまう。そういう人、つまり教育を受けた俳優というのが出てきたから、ローマ弁論術をベースにした演技論が発生してきた。
でも不思議なのは、近代の俳優が、古代ローマの俳優ではなく、古代ローマの弁論家をモデルにしたこと。
たとえば、ジャン・ポワソンという18世紀フランスの俳優は、『公開の場で話す術についての考察』(Jean Poisson, Réflexions sur l’art de parler en public, 1717 (Chaouche, p. 407))という本で、クインティリアヌス『弁論家の教育』(Quintilian, Institutio oratoria, I, 11, 3)のこんな一節を引用している。
「身ぶりは舞台俳優から遠ざかるようにすること(Gestus aberit a scenico)」
この1文は、本来は弁論家=政治家や弁護士になろうとする人に向けて書かれたもの。だけど、ここではそれが俳優にも適用されるかのように引用されている。つまり、近代俳優は古代ローマの俳優のように過剰な身ぶりをしてはならない、ということになる。
=古代の弁論家が近代の演技術のモデル
・人文主義教育と俳優の社会的地位
「自由学芸Liberal Arts」とは何か?
「自由人」のための技術。
自由人=奴隷ではない人。
古代ローマにおいては自由人のトップが弁論家、政治家。もっとも自由ではない人間の一つが俳優。俳優の身分は多くの場合、奴隷や解放奴隷だった。古代ローマでは俳優には市民権がなかった。騎士でも、舞台に立ったら騎士の身分を剥奪された。
↓
古代ローマにおいて、俳優と売春婦は同じカテゴリーだった。
「自分の身体を他人の快楽のために提供する人」というカテゴリー
こういう事情が背景にあって、弁論家をモデルにする、ということになった
近代になって、演劇をもう少し、貴族などにも見せられるものにしよう、となった時に、俳優という職業の社会的地位を多少引き上げなければ、という話にもなってくる。
俳優=身体ではなく、俳優=言葉だ、という転換。
実際革命前のフランスでは、俳優にはほぼ市民権がなかった。
「人文学Human Science / Humanities」とは何か?
人文主義教育(éducation humaniste)の中で、教育を受けた俳優が出てくる。ここでいうhumain (human)というのも、「(奴隷ではない)人間、自由人」という意味。キケロがいう「人間的教養(人文学)Humanitas (Humanities)」というのは、自由学芸と同様に、「自由人であるために学んでおくべきこと」。つまり、教育を受けた俳優とは、奴隷ではない俳優。
なぜフランスだったのか?
フランスでは17世紀くらいから、モリエールみたいに、教育を受けた俳優、というのが出てくる。とりわけフランスで弁論術の影響が強かったのは、16世紀のパリのコレギウムで、「パリ方式modus parisiensis」と呼ばれる人文主義教育のシステムが確立されたから。ルネサンスを経て、古代ギリシア・ローマの学問を復活させようとしたのが人文主義教育。実際には、ギリシア語ができる人は少なくて、ラテン語が共通語なので、古代ローマの学問、なかでもローマ人にとって一番大事だった弁論術が重要になっていく。
フランスでは一七世紀終わりくらいから、演技術のことをdéclamationと呼ぶようになった。日本語では「朗誦法」などと訳されたりするが、これは「言葉を語るのが演技」という発想から。
実はこの言葉のもとになったラテン語declamatioは「虚構の設定にもとづいたスピーチ(弁論)」という意味。
学校教育の中などで、弁論の演習として、今実際に起きていることではなくて、たとえばトロイア戦争とかをもとにスピーチをしてみること。
当時の高等教育の中では、このデクラマティオが最終地点、最後に学ぶことだった。当時の演劇人が「デクラマティオを学んだ」というのは、コレギウムでちゃんと最終課程まで勉強した、というくらいの意味でもある。
このデクラマティオの枠組みで、学生にローマ喜劇や、ラテン語で書かれた喜劇・悲劇を上演させたりもした。ローマ喜劇は「活きた(会話に適した)ラテン語」を学べる数少ない教材でもあった。
だから、フランスの近代俳優は、新たな演技術、近代演技術のことを「デクラマシヨン」という妙な言葉で呼ぶようになった。(当時のエリートにとって最も重要な学問である)弁論術教育を受けた俳優の演技、というくらいの意味。「本当は弁護士とかにもなれたけど、あえて俳優になったんだ」というようなアピールでもある。
・なぜ西洋近代劇にとってアジアはアンチモデルとなったのか?
キケロの弁論術書などで、「アジアの弁論家は歌うように話す」という逸話がある。これを近代弁論術では「アジア風(asianismus)」などと呼んだりする。
なぜアジア人は歌う(ということになっている)のか?
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まずはイメージとして。
ギリシア悲劇で一番盛り上がるのは、ペルシャ人、トロイア人、といった「アジア」の女性が泣きながら歌うところ(cf. マダム・バタフライ、ミス・サイゴン etc)。
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アジア人が最終的にはギリシア人に負けてしまうのは、真の言語、論理的言語(ロゴス)をマスターしていないから。
戦争に負けた結果、アジア人は奴隷となって、自らの境遇を嘆く。奴隷というのは、自分で自分の人生を導く能力がないために、自らの身体を他人に提供することで活かされている存在。ロゴスをマスターした者が、そうでない者を支配し、導く責任を負っている、というのが奴隷制の理屈。
キケロが語っているのは、アジア(小アジア、今のトルコ)の弁論家は、悲劇俳優が歌うような口調で嘆き、お涙頂戴の弁論で説得しようとする、というような話。このときにキケロが思い浮かべているのは、セネカの『トロイアの女』(『弁論家』27, 57)。
アジアの弁論家が歌で人を説得しようとするのは、アジア人はロゴスをマスターしていないから、ということ。つまり、歌と踊りのないヨーロッパの近代演劇は、このような「アジア人=奴隷(≒古代ローマの俳優)」を、いわばアンチモデルとして成立してきた。
こんな文脈を知ってみると、アジアの舞台芸術をヨーロッパ演劇史に接続することの難しさが見えてくる。西洋思想史のなかで、歌い踊る身体は、往々にして奴隷的身体とみられてきた。歌や踊りの訓練をすることは、他人の快楽に奉仕するために身体を変形させることと見なされた。一方、戦闘のための訓練は「自由人」にふさわしいものと見なされた。
19世紀以降、西洋演劇はアジア演劇の影響を受け、それが20世紀の「演出家の時代」にも影響を与えているとも言われるが、アジア的要素をスパイス以上のものとして使っている西洋の演劇を探すのは困難かも。フロランス・デュポンの『アリストテレス、西洋演劇のヴァンパイア』(Florence Dupont, Aristote ou le vampire du théâtre occidental, Paris, Aubier, 2007)によれば、いわゆる「演出の演劇」も、結局のところ演出さえもテクストと見なすようになったに過ぎないという。つまり、よく言われる「身体性」というのも、往々にして結局のところテクスト概念の拡張に過ぎないかも知れないということ。
Cf. 小山内薫による新劇の創出
その頃は、俳優といえば歌舞伎俳優。稽古場で小山内薫が「歌うな、話せ」「踊るな、動け」と叫んだという逸話。日本人も頑張って、歌わない、踊らない演劇をしようとすることで、演劇を「近代化」しようとしてきた。
果たして我々は「身体性」というものに、ふたたび正当な価値を与えうるのか?この問題は演劇において「アジア的なもの」とどう付き合っていくのか、という問題ともかかわってくる。
世界経済の重心が欧米からアジアに移行する時代が数十年以内に来るらしい。2030年くらいという話もある。だとすると、あと十数年。舞台芸術に関する価値観については、まだその準備ができていない。「アジア」という(西洋の視点から作られた)枠組みを実体化するのもよくないだろうが、少なくとも欧米中心ではない価値観や枠組みを、今からおおいそぎで作っていく必要があるのでは。
アジア演劇を「世界演劇」に接続することの困難について へのコメントはまだありません