『顕れ』パリ日記(番外篇)として。
9/14の「ル・モンド」紙一面は、アルジェリア独立戦争の犠牲者の一人に、大統領が国家の責任を認めた、というニュースだった。
アルジェリア戦争はフランスの国論を二分する大事件で、少なからぬ「フランス人」も、アルジェリア独立のために戦い、犠牲となった。アルジェ在住の数学者モーリス・オーダンはアルジェリア共産党のメンバーで、アルジェリアの独立を支持していた。独立運動が激しくなっていた1957年のある日、オーダンは突如自宅でフランス軍の兵士たちに捕らえられ、連行される。そして妻と三人の子を残して、二度と戻らなかった。
その後の公式発表では、オーダンは移送中に逃走して行方不明、とされていた。だがそれから61年を経て、オーダンが拘禁中に拷問を受け、殺害されたことをマクロン大統領が公式に認め、アルジェリア戦争での行方不明者に関する資料を公開することを決めて、国民に証言を呼びかけた。モーリス・オーダンが誰によって、どこで殺害され、遺体がどうなったのかは、いまだ明らかにされていない。妻ジョゼットは今なお、61年前に何が起きたのかを探り続けている。
マクロンは大統領に就任する前に、アルジェにおいて、フランスによる植民地支配を「人道に対する罪」と認めている。アルジェリア独立戦争でフランスはのべ130万人の兵士を動員し、アルジェリア側の死者は45万人、フランス側の死者は3万人とされている。
『顕れ』にも、植民地支配と闘い、「死して弔われなかった魂」のことが語られている。
その魂たちは、
「いつの日か、我われへの弔いがなされるなら、
そのとき、我われの苦しみも終わる」
とつぶやく。
一面のもう一つのニュースは、フレンチロックの巨星の一人、ラシッド・タハの死だった。
心臓発作で、59歳の若さだった。アルジェリア戦争が終わったのが1962年なので、タハは3歳の時に「アルジェリア人」になったことになる。10歳で両親とともにアルジェリアからフランスに渡ったときにはアラビア語しかできなかったという。「俺たち(北アフリカ出身者)が言えるのは「エクスキューゼ・モワ(すいません)」だけだ」と、タハはよく語っていた。
「カルト・ド・セジュール(滞在許可証)」という名前のバンドで、1986年にドイツ占領下で書かれたシャルル・トレネのヒット曲「優しきフランス(Douce France)」をアルジェリア音楽を取り入れてカバーし、国中を巻き込む論争となった。来週リヨン・オペラ座で大規模なコンサートが予定されていたという。
アフリカでもヨーロッパでも、植民地時代の傷はまだ癒えてはいない。それが歴史の一頁になるには、まだもう少し時間が必要だろう。
(『顕れ』パリ日記本編はこちら)
(追記)
ラシッド・タハ、個人的に思い入れがあるのは『バッラ・バッラ』。こんな強烈なトレーラーがあったとは。
歌詞の英訳がこちらに。
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