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『アリアーヌ・ムヌーシュキン:太陽劇団の冒険』とリアリズム演技論への問い 2021年10月24日

『アリアーヌ・ムヌーシュキン:太陽劇団の冒険』を見て、今さらながら、この周辺で起きていたことには大きな影響を受けたんだなと思った。歌舞伎や能や文楽に改めて興味を持つようになったのも、留学していた頃にパリの演劇科で、太陽劇団の影響が色濃かったということがあった。自分が西洋演技論史を専門にしたのは、今あたかも普遍的なものであるかのようにみなされている「リアリズム」と呼ばれる演技形式が、特定の地域・時代の特殊な状況のなかで生まれてきたことを示すためだった。この映画のなかでムヌーシュキンは、リアリズムが演劇にとっての最大の危機だと語っている。太陽劇団はインドや日本の演技形態にも普遍性がありうるということを体当たりで示そうとしていた。

太陽劇団の作品や活動のすべてを肯定してきたわけではないが、こういった試みが減ってしまったことはちょっと残念に思っている。いわゆる「リアリズム」的な演技形態や、シェイクスピアやギリシア悲劇のテクストを使うことが「文化の盗用」とされないのは、それに普遍性があるということが前提になっているからだが、これらが普遍的なものとみなされた背景には、植民地時代の政治的・経済的構造がある。ハンバーガーが世界化したからといってその「普遍性」を肯定的に評価すべきとは限らないし、今「エスニックフード」とみなされているものが今後世界化していく可能性は十分にある。

いわゆる先進国においてマジョリティに属するアーティストたちが、植民地支配を受けた国や先住民の文化に目を向けたことは、脱植民地化の一つのステップだった(太陽劇団の場合、ムヌーシュキン自身をはじめ、多くの劇団員が移民層の出身で、マジョリティとも言い切れないが)。それに対して、植民地支配を受けた側や先住民のアーティストたちが「文化の盗用」という批判を向けたのもまた、重要なステップだった。表象の担い手が出自に応じて平等に権利を得られていない状況に対しては、まだまだ取り組まなければならないことがたくさんある。

だがそこには、アイデンティティポリティクスだけでは解決しない問題も少なくない。「普遍」とされるものを疑いながら、「普遍」とされていないものに特定の集団を超える意味を見出すことは、世界の均衡を取り戻すためにまだまだ必要な作業ではないか、などと思いながら、リアリズム演技論の起源について考えつづけている。

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