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ライブとオンラインでは何がどうちがうのか(3) 振付家・ダンサーの北村明子さん、交流、体験、体感、「ラサ」 2022年1月2日

ライブとオンラインでは何がどうちがうのか。シンポジウム「ライブでしか伝わらないものとは何か? 〜教育、育児、ダンスの現場から考える〜」から、ちがいを説明するための材料をご紹介しています。三回目・最後にご紹介するのは振付家・ダンサーの北村明子さんのお話です。
北村明子さんをお招きしたのは、舞台芸術において「ライブでしか伝わらないもの」について話しにくくなってしまったのは、西洋的な芸術観のせいもあるんじゃないかと思ったからです。北村さんはレニ・バッソという最先端のテクノロジーを駆使したコンテンポラリーダンスのカンパニーを率いて、欧米でもかなり活動なさっていたのですが、気がつけばアジアでの活動が多くなり、インドネシア武術プンチャク・シラットの使い手にもなっていました。そこで、アジアからの視点でお話しいただきたいと思った次第です。
北村さんは各地で公演する中で、欧米でのマーケットで作品を売っていくためには作品のコンセプトを明確に言葉にする必要がある、ということに気づいていきます。でも、そんな「読み解かれるダンス」には何か欠けているものがあるんじゃないかと思い、カンパニーを閉じてからは一つのコンセプトをもとに効率的に作品をつくるのではなく、長期間のフィールドワークをもとに作品をつくるようになっていきました。効率化のなかで削がれてしまっていたのは「交流、体験、体感」だったと北村さんはおっしゃいます。そこで、長い時間をかけて、人の体を通じて伝えられてきた伝統舞踊やシラットに出会います。そしてシラットを学ぶなかで、自分をリスキーな状態に置くことの喜びを体感します。稽古が終わると、技をめぐっておしゃべりをすることになります。共同体のなかに入り、生活を共にしていくなかで、時にすれちがう対話のなかで伝統が問いなおされていくことを北村さんは目撃してきました。対話がすれちがうと、オンラインではスルーされがちですが、ライブでは何かしら反応せざるを得ません。
そんな体験や対話を通じてしか獲得できない感覚として、「ラサ」というものがあるそうです。ラサというのは、古代インド芸能論のキーワードの一つで、もともとは「味覚」、「味わい」といった意味です。ヨーロッパの美学は官能的な快楽を警戒するキリスト教の影響もあって、もっぱら目と耳によって距離をとった「高級な」感覚を重視してきました。距離を取れる感覚であれば、「読み解く」ための対象化がしやすいわけです。私もヨーロッパで「コンセプトは面白いんだけどなあ」という作品をたくさん見てきました…。それに対して、ほとんど内臓ともいえる舌の感覚をモデルとしてパフォーマンスの良し悪しを論じるインド美学は、舞台芸術における身体性の問題を問いなおすためのよりどころの一つにもなりうるかもしれません。
「舞台芸術」というと、舞台のうえで動いている人を目で見るもの、と考えられがちですが、見ている私たちのなかでもミラーニューロンが反応し、体全体が稼働しているはずです。そのような共振が起きると、自他の境界も曖昧になっていきます。
時間と場所を共有して体験したことをその場で話すと、すれちがう対話のなかから、予期しなかったような気づきが生まれることがあります。北村明子さんのお話は、オンラインの出会いで失われているものをヴァーチャルに体感させてくれるものでした。
北村明子さんの近作についてはこちらに紹介がございます。
ラサの概念については、北村明子さんと同じ信州大学人文学部の名誉教授船津和幸さんが「初心者向けのラサ論」として「芸術の中の感性」(篠原昭他編『感性工学への招待』森北出版、1996所収)という文章を書いていらっしゃいます。この概念については、古代インド芸能論『ナーチャ・シャーストラ』第6章が重要な典拠となっています。この第6章は上村勝彦『インド古典演劇論における美的経験』のなかに翻訳があります。

キリスト教と舞台芸術について、ちょうど今読んでいる本に、カトリック神学がどのような論理で観劇を許容するに至ったか、という話がありました。アントニオ・エスコバル・イ・メンドサという神学者の『道徳神学』(1644)に、以下のような一節があります。「破廉恥なことを含む、あるいは肉欲を激しく刺激するような仕方で演劇を上演する者たちは死に値する罪を犯している。だが知識を得るためなど何かしらのよい目的をもってそれを聴きに行く者たちは罪を犯しているわけではない。[・・・]そこから生じる快楽のために行く者たち、あるいはそのような危険を冒す可能性があることを知って行く者たちは致命的な罪を犯す者である。」つまり、官能的な舞台でも、自分はそれに心や体を動かされることはないという確信をもって「知識を得るため」に行くのであれば、罪にはならないという理屈です。こういった理屈によって、キリスト教徒はおおっぴらに演劇やダンスを観に行くことができるようになったわけで、この論理はその後の芸術論にも大きな影を落としています。
(Antonio Escobar y Mendoza, Liber theologiae moralis, Lyon, P. Borde, L. Arnaud et C. Rigaud, 1659, p. 134, Yosuke Morimoto, La légalité de l’art. La question du théâtre au miroir de la casuistique, Paris, Cerf, 2020, p. 29による引用から)

カテゴリー: 文化政策

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