Menu

今、舞台を「作品」として見ることの意味 2025年11月11日

作品として、芸術として見るとはどういうことか。青山学院大学で、劇作家・演出家瀬戸山美咲さんの芸術とエンターテインメントについての講演会があり、考えさせられた。瀬戸山さんは演劇を見始めた頃、演出家や劇作家の名前に注目して見に行っていたが、最近は俳優の名前で売れる舞台ばかりになってきた、舞台を「作品」として見る観客が減っているのかも、というお話をされていた。たしかに、ふつうは好きな俳優を見られて、物語に気持ちを揺さぶられれば、それで十分だろう。それを劇作家や演出家の「作品」として見て、「作者」がそこで何を目指し、それがうまくいっていたかどうかを考えてみるには、それなりの経験がいるし、心を動かされるだけではないメタ的な思考も必要になる。

「演出家の演劇」が確立した20世紀には、まだ教養としての「芸術」が一定の自明性を持っていた。今にして思えば、それはエリート主義的な高等教育と結びついていた部分もある。オーケストラは会社、指揮者は経営者のアナロジーでもあったから、多くの企業がオーケストラの支援をした、という話を聞いたことがある。かつては演出家や劇作家も、政治家や革命家のアナロジーだった。そこでは小さいとはいえ、新たな社会を夢想するための実験が行われていた。その実験の面白さを理解するには、演出家や劇作家の視点に立つ必要があった。そのことは新たな社会や会社を夢想するのにも役に立っただろう。

今、舞台を作る側が、それに値する舞台を提供できていないのだろうか。あるいは観客の期待が変わってしまったのだろうか。あるいは、そんな目的のために劇場にいくにはコストが高くなりすぎてしまったのだろうか。そもそも西洋近代が生んだ「芸術」なる枠組みは、なお有効でありうるのだろうか。

だが、生身の人間によってそんな実験を行い、見る側も生身の人間としてそれを体験しなければいけないというメディアは、かつてより貴重になっている。

私は演技論が専門なので、「演出家の演劇」を取り戻すべきと主張したいわけではない。むしろ「演出家の作品」という視点によって演者の演技を私たち自身の身体によって経験することが見失われてきたのではないかとすら思っている。しかし、舞台にせよ映像にせよ、「作者による作品」として見る批判的視点が失われてしまえば、自分も社会の「作者」でありうるという意識も失われかねない。

とすれば、むしろ「作者」の複数性、複層性に目を向けるべきだろう。舞台は演出家や劇作家だけでなく、俳優や技術スタッフ、制作者など多くの人々の意図や経験によって形作られている。それらの全てを意識するのは難しいので、演出家なり劇作家なりの視点を特権化することは、単純化であったにしても、便利ではあった。だが、社会に対して超越的な視点を持つことがいよいよ困難になった今、このやり方はどこまで有効だろうか。

舞台は複数の視点が生身の身体をもって可視化される、今日いよいよ稀有な場となった。今本当に必要なのは、この視点の複数性・複層性をもメタ的に見つつ、新たな社会のあり方を夢想させるような、新たな「作品」概念の構築なのかもしれない。目の前で起きていることを、それに関わるあらゆる生命体と非生命体が織り成す無数の実験として見ること。

そんなややこしいことができるか、と思う方もいらっしゃるかもしれないが、それは私たちが日々の暮らしのなかで行っていることでもある。

今、舞台を「作品」として見ることの意味 へのコメントはまだありません