Menu

1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(7) ベトナム戦争と表現の自由 2017年3月24日

2.米国における実験的演劇の製作状況(承前)

2.5.ベトナム戦争と表現の自由

米国で連邦政府が文化に予算をつけていくようになるのはベトナム戦争の時代だった。民主党のケネディ政権下で全米芸術基金のもとになるアイディアが提出され、ケネディ暗殺後にジョンソンがそれを議会に通して基金を創立させ、最後に共和党のニクソンが予算を倍増させた。(三人とも、先鋭的な芸術にはほとんど興味がなかったにもかかわらず。)

ベトナムをめぐる「自由な芸術表現」をいかに扱うか、というのは、この時代の米国の指導者たちにとって、かなり頭の痛い問題だった。1965年、全米芸術基金発足の年に行われた「ホワイトハウス芸術祭」は、抽象表現主義の代表的なアーティストの作品が展示されただけでなく、アーサー・ミラーやテネシー・ウィリアムズの作品の抜粋が上演され、他分野の先鋭的な芸術が一同に会する大規模なものだった。だが、招待を受けた国民的詩人ロバート・オーウェルによる「ベトナム戦争への抗議のために参加しない」という表明が『ニューヨーク・タイムズ』紙の一面を飾り、芸術祭自体も強烈な抗議行動の場となった。ジョンソン大統領は「芸術家の独立性を歓迎する」と言いながらも、「みなさんの芸術は、政治のための武器ではありません」と付け加えずにはいられなかった。この年、アーサー・ミラーも同じ理由で「全米芸術人文財団」創設の式典への招待を拒否している。(マルテル『超大国アメリカの文化力』p. 88~98)

全米芸術基金は結果的にベトナム戦争反対を唱えるアーティストたちにも助成金を支給したりしていて、国内的には批判もあった。だが少なくとも、「自由主義陣営の文化的優越性」を示す、という政策意図はそれなりに実現されていた。

どちらが利用し、どちらが利用されたのか、という議論はあまり有益ではないだろう。影響力の大小があるとはいえ、どちらも同じ共同体の成員であり、むしろ「異論(=評価の定まっていない「前衛」)もまた共同体にとって有益である」ということを、共同体のうちの一定の層が覚悟をもって受け入れたということが重要ではないか。そしてこのことの価値は、ベトナム撤退後にいよいよ実感されたことだろう。戦時中にもかかわらず、アーティストたちが異なる声を発しつづけられる環境を保持したことで、この時代の米国が「表現の自由」についての重要な模範を提示したことは間違いない(もちろん例外もあったが)。米国はベトナム戦争には敗北したが、「共産主義陣営」との文化戦争にはある意味で勝利したといってもよいのかも知れない。

(つづく)

カテゴリー: ACC 文化政策 米国演劇

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です