樫田さん、大変遅くなって申し訳ありません。こちらのアジア演劇の話をしていて、「人文学は役に立ちますか?」という、一昨年樫田さんから頂いた質問を思い出しました。そのときはちょっとためらいがあって、結局うまく答えられませんでした。
私が人文学という概念についてためらいを持っているのは、それが奴隷制の論理、植民地主義の論理と関わりを持っていたからです。このように過去形でいうのが正確なのか、という点でもためらいがあります。
キケロは「人文知」あるいは「人間的教養」(humanitas)というものを、「自由人にふさわしい様々な高尚な学術」と定義しています(『弁論家について』1-68〜73)。そしてアリストテレスによれば、自由人とは「他人のためではなく自らのために生きる人」のことです(『形而上学』982b25-29)。
そこには、理性を持って自分自身をよく支配することができる者と、そうでない者との区別があります。そして、後者は自分自身をよく支配できないが故に、前者の支配下に入る必要がある、ということになっています。古代ギリシアにおいてもローマにおいても、たとえば軍事技術は、自由人であるために、最も重要な技術/学術の一つとみなされていました。一方で、歌や踊りをなりわいとすることは、他者の欲望を満たすために生きることであり、最も卑俗ななりわいの一つとみなされていました。
この論理は、自由人と奴隷を区別する論理であると同時に、理性をもつ人間と、理性を持たないその他の生物と区別する論理でもあります。このキケロの定義に基づく近代の「人文主義教育(éducation humaniste)」が植民地主義と産業革命の時代を準備したのは偶然ではないでしょう。そして今なおこの論理は、自らを支配できる者とそうでない者とを区別し、ヒトが別のヒトから、あるいは別の生き物から搾取する構造を正当化するものになっています。
これまでの人文学がこのことに無自覚だったとは言いませんが、この「人文学」というもの自体を基礎づけている論理を十分に問うてきたとも思えません。そして実をいえば、ここでいう「人文学」あるいは「人文知」というものには、いわゆる「自然科学」の大きな部分も含まれるとも考えられます。いかにしてこの意味での「人文知」というものの外部を見出せるか、いかにして人間というものを再定義していけるか、ということは、私たちに課せられた課題なのだと思います。もちろんそのためには、人文学というもの自体を深く見つめる必要があることも確かでしょう。また、西洋で作られた学問以外にも、何かヒントがあるのかも知れません。
なんだか煮え切らない話で恐縮ですが、最近こんなことを考えている、というくらいの話です。また大学院の話も聞かせてくださいね。
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