2016/12/24
困窮した農民たちが新天地を夢見て、次々とメキシコ国境越えていく。アメリカ合衆国からメキシコ領テハス州へ。
・・・というのは1820年代から30年代の話。NPN/VAN(National Performance Network/Visual Artists Network、以下”NPN”と略す)年次総会にご招待いただき、12月2日にアリゾナ州フェニックスからテキサス州オースティンに。これもまた、ニューヨークでは見えていなかった「アメリカ」が垣間見えるいい機会になった。
地元オースティンの劇団プロジェクトテアトロ(ProyectoTeatro)の作品『不法移民たちのために(Por Los Majados / For the Wetbacks)』に寄せられたスタンディング・オベーションが、今回のNPN総会のトーンを集約していたように思える。
2014年に中央アメリカ諸国から何千人もの未成年者が不法移民として国境を越えてやってきた事件の背景を、米国のパナマ侵攻などラテンアメリカ諸国への度重なる介入に探る作品だが、何よりも実際にラテンアメリカ諸国出身の子どもや青年たちが「なぜ米国に来ざるを得なかったのか」を自分のこととして語るのには、心を打たれずにいられない。もちろん誰もがトランプの「壁を作る」発言を思い起こしつつ見ていたのだろう。だが同時に、これだけ強烈に米国の対外政策を批判する作品を、圧倒的多数のNPNメンバーが支持しているのが、ちょっと不思議でもあった。
https://www.fuseboxfestival.com/featured-pr…/por-los-mojados
オースティンはテキサス州の州都で、名前は「テキサス革命」の主導者スティーヴン・オースティンに由来する。1819年の恐慌により、米国の実業家でスペイン王国臣民でもあったスティーヴンの父モーゼス・オースティンは鉱山経営から撤退を余儀なくされ、テキサス(スペイン語の発音はテハス)での植民事業を計画した。1820年、モーゼスはスペイン王国のテハス州知事から公有地払い下げの許可をもらう。
だが翌年1821年にはモーゼス・オースティンが死去し、メキシコは独立。息子のスティーヴン・オースティンはこの事業を引き継ぎ、時々刻々と政情が変わるなか、メキシコ新政府との度重なる交渉を経て、メキシコ国籍を得て、アングロサクソン系の米国人たちをテキサスに入植させた。これには国防上の理由もあった。テキサスはあまりに人口密度が低く、まだアメリカ先住民の支配が及んでいる地域もあった。入植者にはスペイン語の使用とカソリックの信仰が義務づけられた。まもなくテキサスではアングロサクソン系の人口がメキシコ系の人口を圧倒するようになる。
米国南部からの移住者は奴隷を持ち込んでいたが、1829年にメキシコ政府は奴隷制を全面的に廃止した。1833年に大統領に就任したサンタ・アナによる圧政もあり、入植者たちは不満を募らせるようになる。スティーヴン・オースティンは入植者たちを率いてメキシコ軍への反乱を主導するに至る。やがてオースティンに代わり、サミュエル・ヒューストンが軍事司令官としてテキサス軍を率いてメキシコ軍に勝利し、1836年にテキサス共和国が誕生する。
オースティンやヒューストンによる「テキサス革命」は、はじめから十分な勝算があったものではないらしい。アングロサクソン系のテハス入植者たちによるメキシコ政府への反乱は、アメリカ合衆国からの義勇兵の加勢を得てもなお、メキシコ大統領サンタ・アナ将軍自ら率いる騎馬隊に当時の米墨国境近くにまで追い詰められつつあった。メキシコ軍は数でも経験でもテキサス軍に勝っていた。だが、連日の行軍で疲労困憊したメキシコ軍が休息を取っていたところに、ヒューストン将軍率いるテキサス軍が急襲し、混乱したメキシコ軍は潰走。
逃亡したサンタ・アナは翌日捕獲され、ワシントンDCまで連行されて、身の安全と引き替えにテキサス共和国の独立を承認させられることになる。だがそのときにはサンタ・アナは大統領を解任させられていて、メキシコ新政府はこれを認めなかった。これがやがて米墨戦争へと至る火種となっていく。もしサンタ・アナの失策がなければ、もしかしたらアメリカ合衆国がテキサスからカリフォルニアまで拡大することもなく、今もなおメキシコ北部でありつづけたのかも知れない。このオルタナティブな歴史を思い描いたことがあるメキシコ人は少なくないだろう。
このときのテキサス共和国には、コロラド州やニューメキシコ州の大半も含まれている。テキサス共和国初代大統領に就任したヒューストンはアメリカ合衆国への併合を進めようとしたが、合衆国側では、この併合に反対する議員が少なくなかった。その主な理由は、メキシコとの戦争が避けられなくなるという懸念と、新たに「奴隷州」が加入することで「自由州」とのバランスが崩れることだった。併合は独立から9年を経た1845年に、ようやく合衆国によって承認されたが、翌年に米墨戦争がはじまる。そして合衆国が米墨戦争に勝利した結果、メキシコ領カリフォルニアを含めさらに領土を拡大し、今度は「自由州」の拡大を懸念する南部奴隷州の連邦離脱によって1961年に南北戦争がはじまることになる。つまり、テキサス併合はまさに米国が今抱えている人種問題・地域格差問題・国境問題の火種になったともいえる。
テキサス州の人種構成は、2010年の統計によれば、白人70% (非ヒスパニックの白人45%)、黒人・アフリカンアメリカン12%、アジア人4%、アメリカン・インディアン1%弱。ちなみに今回の大統領選挙では、テキサス州全体ではドナルド・トランプが52%の得票で勝利したが、オースティンでは例外的に民主党支持の傾向があり、ヒラリー・クリントンが66%の得票を得ている。
今回の旅では、オースティンでのNPN総会の翌週がメキシコシティでの舞台芸術ミーティングENARTESで、このオースティンの歴史が導きの糸のようになっている気がした。NPNでもラテンアメリカ諸国との交流促進を担う多くのプロデューサーやアーティストに出会い、翌週ふたたびメキシコで出会った方も少なくない。
NPNについてはPerforming Arts Network Japanのサイトに以下の日本語記事がある。
NPNの紹介
http://www.performingarts.jp/J/society/0705/1.html
http://performingarts.jp/J/calendar/201612/s-01761.html
前NPN理事長兼CEO、MK・ウェグマン氏のインタビュー
http://performingarts.jp/J/pre_interview/1104/1.html
写真はアフリカンアメリカン文化を紹介するオースティンのGeorge Washington Carver Museum and Cultural Centerから。
(つづく・・・長くなったので、連載にします。)
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