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コロナとモノカルチャー 2020年5月27日

伝染病が一番蔓延しやすいのは「単一栽培(モノカルチャー)」の畑です。一つの品種だけを集中的に植えると、効率よく大量に収穫できる一方で、伝染病が発生すると畑全体がダメになってしまうことがあります。

コロナ禍で分かったのは、人類全体がモノカルチャーになりつつある、ということです。ここ一世紀ほどのあいだにヒトは都市に集中し、気がつけば世界中の都市で同じような生活が送れるようになりました。

今必要なのは、新しい生活様式を想像し、実験し、実践し、他の人にもそうしてみたいと思わせてくれるような人たちです。

芸術文化を支えているフリーランスのアーティスト、スタッフ、制作者はそんな人たちです。今回のコロナ禍で中止・延期になった事業では、ずっと前から手がけていた仕事に対して十分報酬が支払われないケースが多々あります。人が再び顔を合わせられるようになる時まで、日々新たな生き方を探っている人たちが生きのびていけるよう、AUFの活動を支援していきたいと思います。

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芸術文化を担うフリーランスを支援するアーツ・ユナイテッド・ファンド(AUF)の寄付募集、今週末5/31までです。

私を含め、舞台芸術業界で働いている人のほとんどは「非正規雇用」で、翌年の収入も不透明です。数ヶ月仕事ができなくなることで、貴重な才能が離職せざるをえなくなることが少なくありません。劇場や団体などの支援に比べて分かりにくいところがあるかもしれませんが、芸術文化活動を担っている「人」を直接に支える、貴重な活動だと思います。

支援の対象となるのは、実演家、演奏家や俳優、ダンサー、歌手、作曲家、指揮者、実演家、劇作家、演出家、振付家、美術・工芸作家、デザイナー、映像作家、写真家、建築家、茶華書道家、プロデューサー、制作者、舞台・音響・照明・映像・衣装スタッフ、調律師、ドラマトゥルク、翻訳・通訳者、字幕オペレーター、キュレーター、コーディネーター、インストーラー・設営スタッフ、プランナー、アートディレクター、編集者、広報スタッフ、批評家、ライター、額装家、アクセスコーディネーター等々だそうです。ぜひご検討ください。

https://camp-fire.jp/projects/271390/activities/135839?fbclid=IwAR2c7kQ3uz5ux65XoyxYutjizGt6hrIje23jKI5BDSgemlRnO7a15sye400#main

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2300年前の舞台芸術制作者 2020年5月14日

舞台芸術制作者という職業はいつ頃できたのでしょうか。最近たまたま読んでいた本によれば、少なくとも紀元前3世紀頃にはそんな仕事をする人がいたようです。アテナイの悲劇喜劇文化が地中海世界全体に広がって、いわば国際的なツアーが増えていったヘレニズム時代には「演出助手(ヒュポディダスカロス)」 という職名が見られます。この人は現地での稽古や上演準備を担っていたようです。
その時代、俳優・スタッフたちがディオニュソス芸能者組合というのを立ち上げて、芸能実演家の権利を守ったり、マネジメント業務を行ったり、やがてはフェスティバルの立ち上げまで請け負うようになっていきます。
ツアー先とコンタクトをとって、公演料の交渉をして、出演者やスタッフを手配して、小道具や大道具を手配して、アゴアシ枕を手配して等々、ネットどころか郵便もなかった時代の国際事業のマネジメントは大変だったでしょうね…。
(José M. González, The Epic Rhapsode and His Craft: Homeric Performance in a Diachronic Perspective, Washington DC, Center for Hellenic Studies, 2013, p. 485.)

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カテゴリー: 文化政策

「舞台芸術」のフレームワーク問題について ~2030年代に向けて~ 2018年7月24日

「舞台芸術」のフレームワーク問題について ~2030年代に向けて~

(ON-PAM政策提言調査室での国際交流をめぐる議論のためのメモ)

「舞台芸術」のフレームワーク問題、というのは、たとえば22世紀に、今私たちがやっていることが語られる枠組みは何なのだろうか、といった問題です。それは「演劇史」ではないかも知れないし、もしかすると「舞台芸術史」でもないかも知れません。

というと、ずいぶん先のことだと思うかも知れませんが、私はこれから2030年代までが、この先どんなフレームワークが世界的なものになっていくかを決定づける重要な時期だと考えています。

「演劇」という概念にそろそろ賞味期限が来ているのではないか、と思っている人は少なくないと思います。今我々が使っている演劇という概念は、基本的には明治時代に西洋のtheatre/Theater/théâtre・・・といった概念の輸入語として使われるようになったものであり、そのもとをたどれば、16世紀から19世紀に西ヨーロッパで形成されてきた概念です。

西ヨーロッパの近代において、演劇theatre、ダンスdance、オペラoperaという3つのジャンルが、それを上演する仕組みと、そのための人材養成の仕組みとともに、制度として形成されてきました。この西欧近代における演劇の定義は、ジャンル規定は、歌と踊りの排除を基準としている以上、他の地域、他の時代の舞台芸術には必ずしも当てはまりません。この話劇としての近代演劇の起源として、いわゆる「演劇史theatre history」なるものが書かれるようになり、そこに古代ギリシアにあったtragoidia, comoidiaといったジャンル(これらのジャンルはtheatronと呼ばれてはいませんでした)や16世紀以前のpassionmystère(「受難劇」、「聖史劇」などと訳されます)といったものが、改めてtheatreとして語られるようになりました。

そして20世紀の後半になって、ようやくこの演劇やダンスといった分類、制度そのものを見直そうという動きが出てくる中で、今我々が語っている「舞台芸術英:performing arts / 仏:arts du spectacle」という言葉が使われるようになってきたわけです。でもこの言葉も、本当に適切な、あるいは有効な言葉なのかどうかは、もう数十年吟味してみる必要があるでしょう。

そもそも、この言葉に対応する西洋語については、英語とフランス語で、だいぶ語義が違っています(他の西洋語についてはよく知りませんが)。

英語の方には、とりわけ1970年代以降にはパフォーマンス・スタディーズ(パフォーマンス学)の影響があります。そして、この「パフォーマンスperformance」という概念は、「舞台芸術」という概念に代わり得る概念でもあります。

1980年代以降、演劇やダンスといった概念自体を見直そうという動きの中で、少なくとも西洋において、この2つの概念は、いわば競合関係にありました。

この2つの概念の大きな違いは、舞台芸術という概念は近代西欧において形成された「芸術art」という概念、そしてその芸術のうちの「ジャンル」という概念(そしてモダニズムにおけるジャンルの固有性・純粋性という概念)をある程度温存する志向を持っているのに対して、リチャード・シェクナーが提唱した「パフォーマンス」という概念は、むしろそれを解体する志向を持っていました。

ヨーロッパにおいては、「舞台芸術」に対応するarts du spectacleといった言葉が、オペラ・演劇・ダンスだけでなく、サーカスやストリートアートまでを含むものとして使われるようになり、さらに各ジャンルが拡張されて、また「複合領域的なもの」をも包含しうるものとして使われるようになりました。「パフォーマンス」という概念が非英語圏ヨーロッパにおいて普及しなかった理由としては、近代的「舞台芸術」各ジャンルが制度として強固に確立していたことだけでなく、performanceという言葉が英語特有のもので、他の西洋語に対応する言葉が見出しにくいという事情もありました。ヨーロッパで「タンツテアター」や「ポストドラマ演劇」のような言葉が流行したのには、ヨーロッパにおいては既存の「ダンス」「演劇」といったジャンルを拡張する方が(少なくとも短期的には)現実的だからでもあります。

ですが、個人的には、「舞台芸術arts du spectacle」よりもシェクナーがアジアやアフリカなどその他の地域の実践、さらにはスポーツや政治、日常生活における「パフォーマンス」にまで目を向けたうえで作り上げた「パフォーマンス」という概念のほうが、長い目で見れば有効性があるように思っています(そう思って、一昨年シェクナーの授業を受けにアメリカに行ったのでした)。

でも、この概念がアメリカにおいてすら十分に制度的に普及しなかった理由の一つは、ニューヨーク大学にパフォーマンス・スタディーズ科ができた1980年以降、アメリカがむしろ内向的になっていってしまい、60年代~70年代の第三世界主義的動きが退潮していった事があります。結果として、アメリカにおいても、「パフォーマンス」という言葉の便利さを生かしつつも、旧来の制度を解体することなく活用できる「パフォーミング・アーツperforming arts」と言う概念の方が、より実践的とみなされて使われるようになっていきました。

では「パフォーマンス」の方にはもう未来がないのかというと、そんなこともなさそうです。シェクナーに学んだWilliam Huizhu Sunは中国に戻り、上海戯劇学院でパフォーマンススタディーズを教え、他の大学にも広がりつつあります。パフォーマンススタディーズは中国語で「表演学」あるいは「人類表演学」と訳されています。この「表演」という表現は、中国語圏ではperformanceの訳語として普及していて、「表演芸術中心(performing arts center)」といった劇場名も見られます。

日本語では、近年芸団協が「実演芸術」という言葉を使っていて、文化行政においてはときどき微妙な選択になっていますね。ここでは「音楽」を含むか否かも問題になっています。

今私たちが行っていることが、一〇〇年後の22世紀にどのような概念、どのような枠組みで記述されるようになるのかは、今から2030年代にかけて、中国・インド・インドネシアにおいてどの言葉が使われるようになるのかにもかかっています。たとえば、テアトル・ガラシのUgoran Prasadは今、劇作家レンドラを中心に語られてきたインドネシア「演劇史theatre history」を、コンテンポラリーダンスの「振付家」と見なされているサルドノ・クスモを中心に書き直そうとしています。これはtheatre/Teaterという概念をインドネシアの実践に適合させていく動きと考えられます。22世紀に使われる概念は、英語やフランス語を基準にした言葉ではなく、「戯劇」や「戯曲」といった中国語の概念が基準になる可能性もあります。この際、もちろん歌舞伎・能・狂言・文楽を「演劇」という語で語ることで独自の「演劇」概念を形成してきた明治以来の日本の経験も一定の役割を果たしうると思いますが、今はこれを世界の他の地域の人々と議論し、共有する機会があまり持てていないように思われます。

今から2030年代にかけての決定的な時期に、私たち日本語話者が、世界の「舞台芸術界」の新たな枠組み形成において役割を果たせるか否かは、ここでの議論にもかかっているのだと思います。

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特異点が集まるところ/オリヴィエ・ピィ、アヴィニョン演劇祭2018(第72回)によせて(試訳) 2018年7月18日

「金融界、財界、政界にとっては、メッセージは一つしかない。「この道しかない」。「この道しかない」というのが、私たちの時代の合い言葉で、政治上のプラグマティズムの定義そのものでもあるようだ。この道しかない。経済成長のみがより良い生活をもたらす。富の再分配がなされないのは必要悪だ。ビジョンといえるものを提示できるのは経済だけで、文字/文学(les lettres)は数字によって完全に置き換えられる。「この道しかない」という主張には、証拠の暴力性と数量の残酷さがある。2008年の恐るべき金融危機のあと、規制緩和、租税回避、労働の民営化、そして常軌を逸した金融投機がかつてないほどに再開され、往々にして中央銀行や政府までがそれに加担している。

いくら考えてみても、市場経済の他には道はない。市場経済自体による定式化のなかで「他の道」を考えなければならないのだとすれば。

政治権力が金融権力に徐々に置き換えられていく過程は、つねに不可避のものとして進行する。神授王権と同じように必然的なものとして。だが、世界の未来を決めている一握りの大富豪にとってこの不可避性がいかに有用なものだとしても、私たちはこれに満足しているわけにはいかない。

今度は私たちがこのように言う番だ。「文化と教育、この道しかない」と。それがもう何度も言われてきたことだとしても。聞く者のいないところで、何度も何度も叫ばれてきたことだとしても、少数者が、それに耳を傾けてくれる別の少数者に向かって語っていることだとしても。問題を、もう一つの欲望の光の下で考察してみる他に、道はない。

違う。芸術はネオリベラリストに心の慰めを提供したり、課税軽減分を精神的なもので補ったり、私たち自身の無力さと優雅で贅沢な調停をするためにあるわけではない。芸術とはまさに、何もかもが不可能であるかのように見えるとき、そして支配者たちが自分たちの権力を確かなものにするためにこの不可能性を標榜するときに、可能性の扉を開いておいてくれるものなのだ。

リベラルな世界の問題を解決するのは、もっとリベラルな世界だけだ、という論法にも、他に道はある。視点を変え、視野をより高みに移し、私たちの勝利ではなく、来たるべき世代の勝利のために闘いはじめなければならない。「歴史」は信じられなくても、まだ未来を信じることはできる人々に、明晰な見通しという絶望を乗り越えて、鮮烈さという希望へと導いてくれるのは芸術なのだ。

だが時として、私たちはなんと孤独になり、途方にくれ、気力を失ってしまうものだろうか!エネルギーに満ち、精神性をもったあの変化の力、所有よりも知識を、略奪よりも驚嘆を、無駄なテクノロジーを購入することよりも他者との出会いを欲望させる変化の力は、どうやって見いだせばよいのか。意味だけでなく地球をも破壊してしまう生活様式とは異なる道は、その力から生まれるはずだ。

長い間、人は一人では世界の暴力を転覆することはできない、と考えてきた。様々な闘争を収斂させて、反抗する群衆を作り出す政治的組織のみが世界を変えることができる、と考えてきた。だが、新世代は寄せ集めの集団よりも特異点(singularité)を信じている。特異点とは物理学者たちがブラックホールの全能の中心に与えている名だ。そこで発生する未知のエネルギーは、時間を止めるほどの強さをもつ。これは芸術というものの完璧な定義といっていいだろう。時間をねじ曲げ、不幸の連鎖を止めてしまうほどのポジティヴなエネルギーが集中する特異点。それは時間を越えた表象/上演(représentation)の神秘のなかで到来するものだ。共同体が意味の中心へと収斂すると同時に、政治上のあらゆる他の道が開ける。だからこそ舞台芸術は一つの超越なのだ。超越だというのは、それが私たちに単一の神の力を崇めることを要求するからではなく、集団のなかには特異点の集積があり、それが調和しさえすれば、本当に時の流れを変えることができるからだ。集団はそれ自体超越であり、客席の暗闇のなかでその沈黙を聞くことで、私たちは集団の経験を更新することができるのだ。

私たちは希望をもっている。政治は私たちの未来を、経済的必然性や金融の薄暗い神々に委ねてしまわないようなものに変化しうるのだ。来たるべき世代たちが可能性への陶酔をもちつづけることができるように、私たちは、別のものを欲望することを学びつつある。」

特異点が集まるところ(Singularités)/オリヴィエ・ピィ(劇作家・演出家、アヴィニョン演劇祭芸術監督)、アヴィニョン演劇祭2018(第72回)によせて(試訳)

原文:以下でダウンロードできるProgramme completやGuide du spectateurなどの巻頭に掲載。
http://www.festival-avignon.com/fr/telechargements

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島村抱月演出、松井須磨子主演『故郷』上演禁止の経緯 2017年4月24日

島村抱月訳・演出、松井須磨子主演『故郷』(ズーダーマン作)明治45年(1912年)の上演禁止について。

筋:「オペラ歌手として成功したマグダが故郷に帰ると、かつて自分と子どもを捨てた男が現れて結婚を迫ってくる。マグダの父親は、名誉のために娘に結婚か死を選ぶよう命じるが、マグダがそれを拒否したとき、父親はショックのために死ぬ」。

兵藤裕巳『演じられた近代』202頁から。

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カテゴリー: 文化政策

「人文学は役に立ちますか?」への回答

樫田さん、大変遅くなって申し訳ありません。こちらのアジア演劇の話をしていて、「人文学は役に立ちますか?」という、一昨年樫田さんから頂いた質問を思い出しました。そのときはちょっとためらいがあって、結局うまく答えられませんでした。

私が人文学という概念についてためらいを持っているのは、それが奴隷制の論理、植民地主義の論理と関わりを持っていたからです。このように過去形でいうのが正確なのか、という点でもためらいがあります。

キケロは「人文知」あるいは「人間的教養」(humanitas)というものを、「自由人にふさわしい様々な高尚な学術」と定義しています(『弁論家について』1-68〜73)。そしてアリストテレスによれば、自由人とは「他人のためではなく自らのために生きる人」のことです(『形而上学』982b25-29)。

そこには、理性を持って自分自身をよく支配することができる者と、そうでない者との区別があります。そして、後者は自分自身をよく支配できないが故に、前者の支配下に入る必要がある、ということになっています。古代ギリシアにおいてもローマにおいても、たとえば軍事技術は、自由人であるために、最も重要な技術/学術の一つとみなされていました。一方で、歌や踊りをなりわいとすることは、他者の欲望を満たすために生きることであり、最も卑俗ななりわいの一つとみなされていました。

この論理は、自由人と奴隷を区別する論理であると同時に、理性をもつ人間と、理性を持たないその他の生物と区別する論理でもあります。このキケロの定義に基づく近代の「人文主義教育(éducation humaniste)」が植民地主義と産業革命の時代を準備したのは偶然ではないでしょう。そして今なおこの論理は、自らを支配できる者とそうでない者とを区別し、ヒトが別のヒトから、あるいは別の生き物から搾取する構造を正当化するものになっています。

これまでの人文学がこのことに無自覚だったとは言いませんが、この「人文学」というもの自体を基礎づけている論理を十分に問うてきたとも思えません。そして実をいえば、ここでいう「人文学」あるいは「人文知」というものには、いわゆる「自然科学」の大きな部分も含まれるとも考えられます。いかにしてこの意味での「人文知」というものの外部を見出せるか、いかにして人間というものを再定義していけるか、ということは、私たちに課せられた課題なのだと思います。もちろんそのためには、人文学というもの自体を深く見つめる必要があることも確かでしょう。また、西洋で作られた学問以外にも、何かヒントがあるのかも知れません。

なんだか煮え切らない話で恐縮ですが、最近こんなことを考えている、というくらいの話です。また大学院の話も聞かせてくださいね。

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