週末に多摩美術大学で行われた日本演劇学会2022年度全国大会「演劇と美術」は自分にとってアクチュアルな問題を問う発表やシンポジウムが多く、刺激的だった。「演劇と美術」と並べると、「劇場」と「美術館」という制度を問いなおすことにならざるを得ない。そして、その問いは「演劇(学)」というジャンル/ディシプリンそのものを問いなおすものともならざるを得ない。「演劇と美術 —入り交じる時間と空間—」と題された最後のシンポジウムで、登壇者に「現場の視点から、演劇学あるいは演劇教育というディシプリンに期待するものは?」と質問したところ、「アーカイブを整備してほしい」という返答があり、とても腑に落ちた。ゼロから新しいものを作ることはできない。アーカイブがなければ実験もできない。そしてジャンルやディシプリンといった枠がなければ、アーカイブも成り立たない。仮に枠組みのないアーカイブがあっても、ほしいものにたどりつくことはできない。「越境」が大事だからといって、全ての壁を壊したほうがいいというわけではない。壁の中でしかできない実験はあるし、だからそもそも壁をつくってきたのだろう。
自分が演劇学を選んだのは、ご多分に漏れず、演劇に救われたからだった。今にして思えばそれも「劇場」という壁があり、「演劇」という枠があったからこそ可能な出会いに救われたのだと思う。だがアジアからの留学生としてフランスで演劇学を学んでみると、いかにその枠がヨーロッパ中心にできているかを実感させられることになった。それから劇場で働くことになり、「演劇祭」のプログラムを考えていると、「演劇」という枠組みで本当にちゃんと「世界」が見えるのか、という疑問が湧いてきた。それでパフォーマンス研究を学びにニューヨークに行った。リチャード・シェクナーは1992年の全米高等教育演劇学会で、演劇学科をみんな解体してパフォーマンス研究科に改組することを提唱したが、今のところそうなってはいない。広すぎる枠はアーカイブとして使いづらいからなのかもしれない。
今、西洋演技論史を書こうとしているのは、西洋でできた「演劇」という枠組みにかなりの不満と不信感があるからだ。その土台まで、一歩ずつ掘り進めていって、自分の違和感の正体を見極めたい。その向こう側に何があるのかは、まだよくわからない。植民地時代に作られたインフラであろうと、ただ破壊してしまっては自分の生活が不便になるだけ、ということも往々にしてある。自分が受けた恩恵を、今よりもいい形で次代につなげるための仕事ができればと思う。
どんなインフラも、日々の集団的実践のなかで保持され、更新されていく。日々の研究や教育のかたわらで研究会を開き、学会誌を発行し、といった作業をしてくださる方々がいるおかげで、出会いが生まれ、アーカイブが更新され、枠からの越境も生じる。学会の受付を通るたびに、以前SPAC-静岡県舞台芸術センターで演劇学会の研究集会を開催させていただいたときのことを思い出す。コロナ禍もあり、今回もみなさん大変だったと思いますが、本当におつかれさまでした!
演劇というジャンル/ディシプリン 2022年6月6日
クータンバラムの開放 2022年2月22日
アジア劇場史に残るであろう決定が下されました。
南インド・ケーララ州で、クーリヤッタム、ナンギャール・クートゥー、チャキヤール・クートゥーを演じるための劇場クータンバラムはヒンドゥー教寺院内にあり、ほとんどは特定カースト以外による上演を禁じてきましたが、主要なクータンバラムの一つが、それ以外のパフォーマーにも公演を許可することになったそうです。
SPACにもたびたび来てくれたナンギャール・クートゥーの代表的演者の一人カピラ・ヴェヌさんによれば、今ではこれらのジャンルのパフォーマーの75%は特定カースト出身者以外の方だそうです。日本人も含め、外国人のパフォーマーも増えています。
かなり時間はかかりましたが、新たな展開が生まれそうです。
https://timesofindia.indiatimes.com/city/kochi/support-grows-for-call-to-open-koothambalams-for-all-castes/
橋本裕介さん「劇場は表現を更新する手がかりになる」
「劇場は可能か」、最初のインタビューはKYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭を立ち上げたロームシアター京都プログラムディレクターの橋本裕介さんでした。思った以上に重要なお話をうかがうことができました。
橋本さんは今ニューヨークで研修中で、ファンディングの仕組みを研究しています。あいちトリエンナーレが一つのきっかけだったそうです。
税金ではなく寄附を主な財源とした米国の芸術支援制度では、あらかじめ決まった芸術の価値が共有されているわけではなく、寄附を募るために一人一人を説得するなかで、そのたびごとに価値が共有されていく。日本の芸術関係者は、政府や自治体の補助金がそれなりに整備された分、その努力を十分にしてこなかったところもあるのではないか、と橋本さんはおっしゃいます。
一番「なるほど」と思ったのは、日本で寄附制度を充実させるとすれば、地域版アーツカウンシルがその受け皿となるのがよい、というご提案でした。地域版アーツカウンシルの予算は主に自治体や政府に依存していますが、やりたいことに合わせて財源を多様化していけば、より自由に活動できるというのです。米国の仕組みでは、個人のネットワークに依存してしまいがち、体系的・包括的ヴィジョンが描かれにくい、といった問題があるそうですが、地域の芸術活動を支えたい人たちと地域のアーティストたちを地域版アーツカウンシルがつなぐことができれば、そういった問題もある程度解消できるかもしれません。
橋本さんは、「劇場」とはそもそも表現によって要請されて、育まれてきたものだとおっしゃいます。だから、劇場で働いていると、劇場も少しずつ変わっていく。物理的建築物があるからこそ、そこに残された痕跡が歴史的リソースになり、表現自体を更新する手がかりとなっていく。
ボトムアップでフェスティバルや劇場を作ってきた橋本さんの経験に裏打ちされたヴィジョンに触れて、だいぶ希望が湧いてきました。録画視聴の申し込みは以下で随時受け付けています。ぜひ多くの方に聞いていただきたいと思います。
https://docs.google.com/document/d/1c0AcRmH1GKlbLfu5W_DnwICJCSMz3Rdob11YtkCslbs/edit?fbclid=IwAR1HCFqG6Yrif4EI_KkkQATqhoPhIyAImIWmEioOAl_gPZIsfLo7cLU16fI
劇場は可能か? 2022年1月5日
2020年、2021年と、劇場関係者にとってはつらい年がつづきました。世界中の劇場が一度に扉を閉じたというのは、有史以来初めてのことでした。一方で、そもそも世界中にこれほど「劇場」なるものが存在したのも、有史以来初めてだったはずです。西洋演劇史においても、常設の屋内劇場ができたのは16世紀以降のことに過ぎません。
コロナ禍で、世界中の劇場が一度に扉を閉じました。でも、コロナ禍が収束すれば劇場に平穏な日常が戻ってくる、というわけでもなさそうです。奇しくも2020年は、アジア経済の重みが世界経済の半分を越えた年でもありました。劇作家の岸井大輔さんは、「私たちアジア人にとって…シアターの建設と舞台化こそ近代化であり、植民地化である」とおっしゃっていました。2020年代は世界劇場史にとって、節目の時代となるでしょう。アジアのなかでも重要な劇場興行の歴史を持つ日本にとっては、自らの歴史と折り合いをつけ、近隣の実践も参照しながら、新たなモデルを創造する好機にもなりうるはずです。
これまでの20数年間、私は劇場というものがあったおかげで生きていくことができました。ではこれからの20年間はどうなるのか。私にも確実な答えがあるわけではありません。
劇場関係者に「劇場は可能か?」という問いを投げかけていくインタビューシリーズ、まずは1月11日にオープニングトークを行い、今日の社会において劇場というものが抱えている問題を岸井大輔さんと一緒に解きほぐしてみます。そのうえで、まちを舞台に演出する石神夏希さん、「木ノ下歌舞伎」の木ノ下裕一さん、世田谷パブリックシアターの初代芸術監督佐藤信さん、キラリ☆ふじみ芸術監督の白神ももこさん、ドラマトゥルクでF/T・東京芸術祭でディレクターを務めてきた長島確さん、KYOTO EXPERIMENTを立ち上げたロームシアター京都の橋本裕介さん、新長田DANCEBOXの横堀ふみさん、照明家の吉本有輝子さん、演出家でアートスペースUrBANGUILDの運営にも携わっている和田ながらさんに問いをぶつけていきます。
自分の生にとって不可欠だった場を、次の世代にはどのような形で引き継いでいけばよいのか。みなさんと一緒にじっくり考えてみたいと思っています。今年も何卒よろしくお願いいたします。
横山義志(演劇研究)×岸井大輔(劇作家)
劇場は可能か シーズン0
企画司会:岸井大輔 横山義志
優れた活動をしている多くの劇場が存続の危機に晒されている中、今日も新しい劇場が開く。
しかしそもそも日本で劇場をやるというのはどういうことか?コロナが続きオリンピック終了したこのタイミングで考え直してみたい。
まずは、インタビュー8本と2回の対話の場。
インタビューイー(各2時間程度・録画次第都度共有・各単独2500円)
石神夏希 3月2日収録予定
木ノ下裕一 3月7日収録予定
佐藤信 3月9日収録予定
白神ももこ 2月24日収録予定
長島確 2月25日収録予定
橋本裕介 2月15日収録予定
横堀ふみ 3月14日収録予定
吉本有輝子 3月7日収録予定
ゲストインタビュアー 和田ながら
オープニングトーク(基調講演) 1月11日(火)11時30分ー14時 単独2500円
リアル会場(@PARA会場は予約者に告知)+オンライン+録画 岸井大輔・横山義志
企画者それぞれから企画の趣旨を説明し、参加者とディスカッション。インタビューイーへの質問も募ります。
エンディングトーク 4月19日(火)11時30分ー14時 単独参加不可
リアル会場(@PARA)+オンライン+録画 岸井大輔・横山義志
インタビュー録画8本+イベント2回
全て込み1万円(学生5000円)/各イベント・動画2500円(学生1500円)、インターン制度あり
https://docs.google.com/document/d/1c0AcRmH1GKlbLfu5W_DnwICJCSMz3Rdob11YtkCslbs/edit?fbclid=IwAR1HCFqG6Yrif4EI_KkkQATqhoPhIyAImIWmEioOAl_gPZIsfLo7cLU16fI
劇場は可能か? へのコメントはまだありません私に向けられていない声 〜「劇場は可能か」に向けて〜 2022年1月4日
ふと思った。私に向けられていない声を、日々どれだけ聴いているのだろうか。
同じようなことを、中学生の頃にも思ったことがある。昼間は本ばかり読んで、夜はテレビを見たり、ラジオを聴いたりしていた。でもある日、それがみんな空しいことに思えた。それで、精神科医を目指した。目の前の人と向き合って、何か役に立つことができそうに見えたから。
結局医学部には入れず、大学で精神科のゼミに通って現場の話をうかがうと、あまり一人一人と向き合っている時間はなさそうだった。劇場に通うようになって、そこでは、今ここにいる自分に向けられている声があると感じた。それに、もしかしたら自分の声も向こう側に届きそうな気がした。
アルバイトも含めたら、もう20年以上劇場で働いている。しんどいことも山ほどあったけど、人とほとんど話せなかった自分が、世界と少しずつ和解できた時間だった。
よく考えてみれば、劇場とは「その場にいる人に聞こえるように、その人に向けられているのではない言葉を発する」というちょっとややこしい場所で、自分にはそれが必要だったんだと思う。だとすれば、「その場にいる人には向けられていない言葉を発する」という技術も、そもそも劇場で発明されたのではないか*。だがその技術の発展によって、今では劇場が危機に陥っている。
今もこういう場所を必要としている人がいるはずだが、劇場は今でも、そしてこれからも、この機能を果たしつづけることができるのだろうか。
自分のためにも、そこのところをちゃんと考えてみたいと思い、以下の企画に参加します。
「劇場は可能か シーズン0」、劇作家の岸井大輔さんと一緒に、石神夏希さん、木ノ下裕一さん、佐藤信さん、長島確さん、橋本裕介さん、横堀ふみさん、吉本有輝子さん、和田ながらさん等にお話をうかがっていく予定です。1月11日にオープニングトークを行うことになりましたので、一緒に考えてくださる方はぜひお声がけください。
*対話体になっている演劇の台詞は、舞台上の登場人物がお互いに向かって発しているもので、その物語世界の中では、観客にむかって発しているわけではないことになっている。
古代ギリシア・ローマの演劇も、能楽や江戸時代の歌舞伎小屋も、神事として、あるいは神々に向けて上演するということになってた。なので、少なくとも形式的には、この場合にはそこにいる観客は上演者がこの物語世界を差し向けている相手でもない。だが、たとえばローマ演劇では、観客が拍手をしたり笑ったりするのは神々が喜んでいる徴だと考えられてた。
実際に自分が観客として劇場に行くと、上演者は当然自分一人のために上演してくれるわけではなく、集合体としての観客のために上演していて、そこに自分も含まれている、という構造になる。そこで登場人物を演じる演技者が発する声は、他の登場人物に向けられた声であると同時に、観客全体に向けられた声でもある。自分を含む集団を第三者であるとみなせば、それは二重の意味で第三者に向けられた声になっている。
一方で、ここでは二層あるいは三層の自己同一化が起きている。観客である自分は、演技者の身体を通じて舞台上の登場人物に自己同一化し、さらに観客という集団にも自己同一化する。この仕組みが、近代ヨーロッパにおいては、「国民」の形成上重要だった。
だがこの機能は、二〇世紀には映画やラジオ、テレビによって担われるようになる。これらも、「その場にいる人には向けられていない言葉を発する」という劇場で培われた技術を応用してできたメディアだった。これらのメディアは劇場よりもずっと経済効率がよいので、二〇世紀を通じて、劇場は次第にマージナルな位置に追いやられていくことになる。
これらが劇場と大きく異なるのは、観客が声を発しても、上演者には必ずしも届かないということである。劇場では、観客が上演を妨害することができるし、上演者になってしまうことも可能である。この上演者と観客の対等性が失われてきたことは、今、多くの人が「自分には社会を変えることはできない」という諦念を抱いていることと関係があるのではという気がする。インターネットやSNSもこの非対称性の問題を必ずしも解消できてはいないように思う。