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呪術的な歌と宗教的な歌 2025年12月24日

西洋演技論史の授業にゲストでお招きした俳優の稲継美保さんと、呪術的な歌と宗教的な歌は違うのかも、という話に。呪術的な歌は欲望の対象を操作しようとする。乳児が泣くのにも似ている。乳児が泣き、保護者が乳を与えたりおむつを替えたりしているうちに、両者の間で操作的な呪術が成立していく。こちらは自然な記号の延長線上にある。一方、聖歌や声明は、より制度化された記号により、日々の人間の欲望や苦悩を超えた世界があることを体感させてくれる。18世紀に音楽が制度的な記号とされたのは、宗教音楽を経て音楽が構造化・制度化されてしまったことも一因なのかも。
夜にDaBYで拝見した岩渕貞太さんの『大いなる午後』では、日常的な身体が消尽した先に、動物としての人間、呪者としての人間、宗教者としての人間の身体が入れ替わり立ち替わり立ち現れ、私たちのうちに眠っている器としての身体が呼び醒まされた。「本音」というのは、器としての身体が奏でる音のことなのかもしれない。

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歌はなぜ呪術的な力を持つのか

歌はなぜ呪術的な力を持つのか。ようやく腑に落ちた気がする。
歌が歌われるとき、複数の時間が呼び醒まされる。歌詞が紡がれたとき、メロディが紡がれたとき、何度か口に出してみたとき。歌詞にもメロディにも、さまざまな身ぶりの記憶が詰まっている。ジュウシマツの歌には、父鳥が恋を実らせた時の身ぶりが宿っている。ヒトであれば、悲しみや怒りや憎しみと結びついた身ぶりの場合もあるだろう。
今いる人だけでなく、亡くなった人や遠い祖先から受け継がれた感情までもが、その身ぶりには宿ってしまう。新しい歌だって、古い歌と無縁に作ることはできない。歌を歌うと、そんな無限にからまりあった時間が呼び醒まされる。
歌う人は歌うことの主体なのか、歌が歌う人に歌わせているのか。生者が死者を操っているのか、死者が生者を操っているのか。本当のところ、こんな問い自体が無意味なくらい、私たちは死者たちとともに生きている。死者たちの言葉を語り、死者たちの身ぶりを繰り返しながら。
実のところ、歌のない台詞劇だって起きていることは同じなのだが、そこでは数世紀前から、そのことが隠蔽されるようになっていた。あたかも全てが「今、ここ」で起きているかのように演じること。
このドラマの時代が、いわゆるポストドラマの時代を経て、終わろうとしているのかもしれない。私たちは「今、ここ」で演じる人の向こう側に、見せ消ちにされた死者たちの身ぶりを見ることを思い出してきたのかもしれない。だとしたら今、私たちはこの演技の呪術性をどう引き受ければよいのか。
これからの演技について考えるための出発点に、ようやくたどりつけたような気もする。
(ヌトミック『彼方の島たちの話』、横浜ボートシアター『小栗判官・照手姫』、城山羊の会『勝手に唾が出てくる甘さ』を拝見しました。)

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