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1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(9) 多文化主義と前衛の終焉 2022年1月24日

2.米国における実験的演劇の製作状況(承前)

2.7.多文化主義と前衛の終焉

NEAが創設されたのは、米国芸術界がまだ東海岸主導で、ヨーロッパとの接続が深く意識されていた時代だった。この時代に、ベトナム戦争下の外交戦略も考慮して、NEAは卓越性の論理により創設された。だが同年に公民権運動と人種暴動が急激な高まりを見せていった。そして移民法改正によって、ヨーロッパ移民重視政策に終わりを告げ、黒人と並んでヒスパニック系とアジア系がマイノリティとして台頭する現在の状況がここからはじまっていく。

ヨーロッパ中心主義的演劇史に別れを告げたパフォーマンス・スタディーズは、ポスト・コロニアルな世界情勢以上に、この米国国内の動向を反映している。70年代から80年代にかけて、「文化の多様性」が至上命題となっていくなかで、米国の文化史は他のあらゆる文化史と、あらゆる回路を通じて、ほとんどランダムに接続していった。こうして歴史が直線的に歩むことをやめ、もはやどちらを向くのが「進歩」でどこが「前衛」なのかが見えない状況が生まれていく。このなかでは当然、「卓越性」という基準も機能しなくなっていく。

先に確認したように、「前衛」もまた、ヨーロッパを出自とする直線的な歴史観を前提とする概念に他ならない。この米国の文化状況のなかで、リチャード・シェクナーが提唱するパフォーマンス・スタディーズは、例えばブレヒトがアジア演劇に影響を受けたことを例に出して、「前衛」的・実験的演劇実践と民族的(エスニック、つまり西洋以外の)パフォーマンス実践とを接続しようとする(Performance Theory)。しかし結局のところ、シェクナー以外にそのような試みで成功した「前衛」的演出家はそれほど出ていない。これが少ないのは、「多様性」が政治言語のなかで民族の「アイデンティティ」と結びついていったからではないか。そのなかで、シェクナーのもくろみとは異なり、「多様」な「民族」的実践が、(まだ「グローバル化」していないものの)それ自体としてある種の普遍性をもった技術やツールとしてではなく、出自に結びついた特異性として認識されていった。(数少ない例としては、SITIカンパニーのアン・ボガードや、最近では『ライオン・キング』のジュリー・テイモアなどが挙げられるが、この二人ともある種の普遍性を標榜するスズキメソッドを学んでいるのは興味深い。)

そして米国をベースとする「有色」のアーティストが「前衛」と標識付けされる例も稀である。たとえば黒人の劇作家オーガスト・ウィルソンや振付家アルヴィン・エイリーなどはまず「前衛」とは名指されない。おそらく、本人も必ずしもそれを欲しないだろう。この標識は白人エリート層にはそれなりにアピールしても、ハーレムやブロンクスの住民の多くはむしろ敬遠しかねない。

1970年代まで「前衛」という標識が使われつづけていたのは、少なくとも理論面で、まだ「多様性」と「前衛」が共存しうる、という希望があったためである。だが1980年代以降の米国演劇においては、文化人類学的/間文化的な「前衛」のあり方は徐々に見失われていった。これは今日のニューヨーク大学パフォーマンス・スタディーズ科で文化人類学的アプローチを重視しているのがほぼシェクナーだけだということの理由の一つでもあるだろう。

(ACCグランティーとしてのニューヨーク滞在から帰国直後、2017年3月24日に書いた未完のメモですが、暫定的にアップしておきます)

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カテゴリー: ACC 文化政策 米国演劇

劇場は可能か? 2022年1月5日

2020年、2021年と、劇場関係者にとってはつらい年がつづきました。世界中の劇場が一度に扉を閉じたというのは、有史以来初めてのことでした。一方で、そもそも世界中にこれほど「劇場」なるものが存在したのも、有史以来初めてだったはずです。西洋演劇史においても、常設の屋内劇場ができたのは16世紀以降のことに過ぎません。

コロナ禍で、世界中の劇場が一度に扉を閉じました。でも、コロナ禍が収束すれば劇場に平穏な日常が戻ってくる、というわけでもなさそうです。奇しくも2020年は、アジア経済の重みが世界経済の半分を越えた年でもありました。劇作家の岸井大輔さんは、「私たちアジア人にとって…シアターの建設と舞台化こそ近代化であり、植民地化である」とおっしゃっていました。2020年代は世界劇場史にとって、節目の時代となるでしょう。アジアのなかでも重要な劇場興行の歴史を持つ日本にとっては、自らの歴史と折り合いをつけ、近隣の実践も参照しながら、新たなモデルを創造する好機にもなりうるはずです。

これまでの20数年間、私は劇場というものがあったおかげで生きていくことができました。ではこれからの20年間はどうなるのか。私にも確実な答えがあるわけではありません。

劇場関係者に「劇場は可能か?」という問いを投げかけていくインタビューシリーズ、まずは1月11日にオープニングトークを行い、今日の社会において劇場というものが抱えている問題を岸井大輔さんと一緒に解きほぐしてみます。そのうえで、まちを舞台に演出する石神夏希さん、「木ノ下歌舞伎」の木ノ下裕一さん、世田谷パブリックシアターの初代芸術監督佐藤信さん、キラリ☆ふじみ芸術監督の白神ももこさん、ドラマトゥルクでF/T・東京芸術祭でディレクターを務めてきた長島確さん、KYOTO EXPERIMENTを立ち上げたロームシアター京都の橋本裕介さん、新長田DANCEBOXの横堀ふみさん、照明家の吉本有輝子さん、演出家でアートスペースUrBANGUILDの運営にも携わっている和田ながらさんに問いをぶつけていきます。

自分の生にとって不可欠だった場を、次の世代にはどのような形で引き継いでいけばよいのか。みなさんと一緒にじっくり考えてみたいと思っています。今年も何卒よろしくお願いいたします。


横山義志(演劇研究)×岸井大輔(劇作家)
劇場は可能か シーズン0
企画司会:岸井大輔 横山義志
優れた活動をしている多くの劇場が存続の危機に晒されている中、今日も新しい劇場が開く。
しかしそもそも日本で劇場をやるというのはどういうことか?コロナが続きオリンピック終了したこのタイミングで考え直してみたい。
まずは、インタビュー8本と2回の対話の場。
インタビューイー(各2時間程度・録画次第都度共有・各単独2500円)
石神夏希 3月2日収録予定
木ノ下裕一 3月7日収録予定
佐藤信 3月9日収録予定
白神ももこ 2月24日収録予定
長島確 2月25日収録予定
橋本裕介 2月15日収録予定
横堀ふみ 3月14日収録予定
吉本有輝子 3月7日収録予定
ゲストインタビュアー 和田ながら
オープニングトーク(基調講演) 1月11日(火)11時30分ー14時 単独2500円
リアル会場(@PARA会場は予約者に告知)+オンライン+録画 岸井大輔・横山義志
企画者それぞれから企画の趣旨を説明し、参加者とディスカッション。インタビューイーへの質問も募ります。
エンディングトーク 4月19日(火)11時30分ー14時 単独参加不可
リアル会場(@PARA)+オンライン+録画  岸井大輔・横山義志

インタビュー録画8本+イベント2回 
全て込み1万円(学生5000円)/各イベント・動画2500円(学生1500円)、インターン制度あり

https://docs.google.com/document/d/1c0AcRmH1GKlbLfu5W_DnwICJCSMz3Rdob11YtkCslbs/edit?fbclid=IwAR1HCFqG6Yrif4EI_KkkQATqhoPhIyAImIWmEioOAl_gPZIsfLo7cLU16fI

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私に向けられていない声  〜「劇場は可能か」に向けて〜 2022年1月4日

ふと思った。私に向けられていない声を、日々どれだけ聴いているのだろうか。
同じようなことを、中学生の頃にも思ったことがある。昼間は本ばかり読んで、夜はテレビを見たり、ラジオを聴いたりしていた。でもある日、それがみんな空しいことに思えた。それで、精神科医を目指した。目の前の人と向き合って、何か役に立つことができそうに見えたから。
結局医学部には入れず、大学で精神科のゼミに通って現場の話をうかがうと、あまり一人一人と向き合っている時間はなさそうだった。劇場に通うようになって、そこでは、今ここにいる自分に向けられている声があると感じた。それに、もしかしたら自分の声も向こう側に届きそうな気がした。
アルバイトも含めたら、もう20年以上劇場で働いている。しんどいことも山ほどあったけど、人とほとんど話せなかった自分が、世界と少しずつ和解できた時間だった。
よく考えてみれば、劇場とは「その場にいる人に聞こえるように、その人に向けられているのではない言葉を発する」というちょっとややこしい場所で、自分にはそれが必要だったんだと思う。だとすれば、「その場にいる人には向けられていない言葉を発する」という技術も、そもそも劇場で発明されたのではないか*。だがその技術の発展によって、今では劇場が危機に陥っている。
今もこういう場所を必要としている人がいるはずだが、劇場は今でも、そしてこれからも、この機能を果たしつづけることができるのだろうか。
自分のためにも、そこのところをちゃんと考えてみたいと思い、以下の企画に参加します。
「劇場は可能か シーズン0」、劇作家の岸井大輔さんと一緒に、石神夏希さん、木ノ下裕一さん、佐藤信さん、長島確さん、橋本裕介さん、横堀ふみさん、吉本有輝子さん、和田ながらさん等にお話をうかがっていく予定です。1月11日にオープニングトークを行うことになりましたので、一緒に考えてくださる方はぜひお声がけください。

*対話体になっている演劇の台詞は、舞台上の登場人物がお互いに向かって発しているもので、その物語世界の中では、観客にむかって発しているわけではないことになっている。
古代ギリシア・ローマの演劇も、能楽や江戸時代の歌舞伎小屋も、神事として、あるいは神々に向けて上演するということになってた。なので、少なくとも形式的には、この場合にはそこにいる観客は上演者がこの物語世界を差し向けている相手でもない。だが、たとえばローマ演劇では、観客が拍手をしたり笑ったりするのは神々が喜んでいる徴だと考えられてた。
実際に自分が観客として劇場に行くと、上演者は当然自分一人のために上演してくれるわけではなく、集合体としての観客のために上演していて、そこに自分も含まれている、という構造になる。そこで登場人物を演じる演技者が発する声は、他の登場人物に向けられた声であると同時に、観客全体に向けられた声でもある。自分を含む集団を第三者であるとみなせば、それは二重の意味で第三者に向けられた声になっている。
一方で、ここでは二層あるいは三層の自己同一化が起きている。観客である自分は、演技者の身体を通じて舞台上の登場人物に自己同一化し、さらに観客という集団にも自己同一化する。この仕組みが、近代ヨーロッパにおいては、「国民」の形成上重要だった。
だがこの機能は、二〇世紀には映画やラジオ、テレビによって担われるようになる。これらも、「その場にいる人には向けられていない言葉を発する」という劇場で培われた技術を応用してできたメディアだった。これらのメディアは劇場よりもずっと経済効率がよいので、二〇世紀を通じて、劇場は次第にマージナルな位置に追いやられていくことになる。
これらが劇場と大きく異なるのは、観客が声を発しても、上演者には必ずしも届かないということである。劇場では、観客が上演を妨害することができるし、上演者になってしまうことも可能である。この上演者と観客の対等性が失われてきたことは、今、多くの人が「自分には社会を変えることはできない」という諦念を抱いていることと関係があるのではという気がする。インターネットやSNSもこの非対称性の問題を必ずしも解消できてはいないように思う。

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森元庸介講演会「西洋はいかにして演劇を許し、芸術を愛するようになったか ~決疑論と美学の誕生~」(1/21) 2022年1月3日

森元庸介さんを招いて、1月21日にオンラインで「西洋はいかにして演劇を許し、芸術を愛するようになったか ~決疑論と美学の誕生~」と題した講演会をしていただくことにしました。
ご著書『芸術の合法性 決疑論が映し出す演劇の問い』(Yosuke Morimoto, La légalité de l’art. La question du théâtre au miroir de la casuistique, préface de Pierre Legendre, Paris, Cerf, 2020)をひもといていくと、西洋近代美学の土台がキリスト教の決疑論によって形づくられたことが見えてきます。そして、その際に中心的な役割を果たしたのが、演劇を許容してよいのか否かという問題だったのです。古代ローマの教父たちは、演劇を観に行くこと、上演することを激しく断罪していました。それが中世から近代にかけて、条件付きで許容されるようになっていきます。それを可能にしたのは、決疑論における演劇と俳優をめぐる長年にわたる記述の積み重ねでした。決疑論というのは、キリスト教の枠組みのなかで、個々の具体的な行いが良いものか悪いものかを判断するための学問です。この分野の書物は膨大にあるようですが、一九世紀以来ほとんど再版されておらず、研究もあまりないそうです。
一見断絶のない解釈の積み重ねのなかで起きる微細で緩慢な変化が、やがて演劇への新たな態度を生み、ついにはキリスト教のあり方自体にも問い直しを迫るものになっていきます。そして演劇を許容する理論的枠組みが形成されると、それが芸術全般を受容する際の枠組みにもなっていきます。この経緯を知ると、「芸術」の名のもとで何が許容され、何が排除されているのかも見えてくるかもしれません。
近年、フランス旧体制下における演劇批判については優れた研究がなされてきましたが、演劇に対する寛容論の構造を解明する試みはあまりなされてきませんでした。極めて刺激的な論考なのですが、まだ邦訳はなく、神学用語やラテン語・古代ギリシア語がたくさん出てきて、読むのはなかなか大変です。森元さんに「ヨーロッパ文化の舞台裏」(ルジャンドル)をお見せいただく貴重な機会となりそうです。

講演会に向けて森元庸介さんの『芸術の合法性 決疑論が映し出す演劇の問い』を日々読んでいると、近代演技論と古代演技論のあいだのミッシングリンクがここにあったのか、と思います。名優たちは真情をもって演技をしているというキケロの話と近代の感情主義演技論とのあいだには、誠実さを一つの条件として俳優を「合法化」した中世の神学/決疑論における議論があったようなのです。というわけで、スタニスラフスキーやストラスバーグとかに興味がある方もぜひ。

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【日仏演劇協会ZOOM演劇講座】
《第四回》
西洋はいかにして演劇を許し、芸術を愛するようになったかー決疑論と美学の誕生

講師:森元庸介(東京大学総合文化研究科准教授・表象文化論)
聞き手:横山義志(日仏演劇協会実行委員・西洋演技論史)

「異邦人の眼ざしが静かな水面をかき乱す、私たちが知り尽くしていると思い込んでいた認識論的カテゴリーのなめらかな鏡面を。」(ピエール・ルジャンドルによる序文から)

森元庸介
1976年生。パリ西大学博士(哲学)。東京大学大学院総合文化研究科・准教授。著書に La Légalité de l’art. La question du théâtre au miroir de la casuistique (Cerf, 2020). 共編著に『カタストロフからの哲学 ジャン=ピエール・デュピュイとともに』(以文社、2015)。また、ディディ=ユベルマン、デュピュイ、ルジャンドル、レーベンシュテインなどを翻訳している。

横山義志
1977年生。SPAC-静岡県舞台芸術センター文芸部、東京芸術祭リサーチディレクター、学習院大学非常勤講師。専門は西洋演技論史。パリ第10大学でLa grâce et l’art du comédien. Conditions théoriques de l’exclusion de la danse et du chant dans le théâtre des Modernes(『優美と俳優術 近代人の演劇における踊りと歌の排除の理論的条件』)により博士号を取得。論文に「アリストテレスの演技論 非音楽劇の理論的起源」、翻訳にジョエル・ポムラ『時の商人』など。

【日時】
2022年1月21日(金)20時~22時
【無料・要事前登録】
以下のurlで事前に参加登録をお願いします。定員は60名、先着順となります。
https://us02web.zoom.us/meeting/register/tZMud-ygrjkrG9bVUBxBm0q53uJi2F44wRC7
登録後、ミーティング参加に関する情報の確認メールが届きます。

【注意】
·登録は原則本名でお願いします。
·ミーティングルームには参加登録したメールアドレスでしかログインできません。
·ミーティングルームに入られましたら「ミュート」「ビデオ・オフ」になっていることを御確認ください。
·Zoomオンライン演劇講座は録画されます。また録画した内容を編集のうえ、後日、youtubeの日仏演劇協会チャンネルに公開される可能性があります。

【問い合わせ】
日仏演劇協会事務局(office@sfjt.sakura.ne.jp
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森元庸介講演会「西洋はいかにして演劇を許し、芸術を愛するようになったか ~決疑論と美学の誕生~」(1/21) へのコメントはまだありません

ライブとオンラインでは何がどうちがうのか(3) 振付家・ダンサーの北村明子さん、交流、体験、体感、「ラサ」 2022年1月2日

ライブとオンラインでは何がどうちがうのか。シンポジウム「ライブでしか伝わらないものとは何か? 〜教育、育児、ダンスの現場から考える〜」から、ちがいを説明するための材料をご紹介しています。三回目・最後にご紹介するのは振付家・ダンサーの北村明子さんのお話です。
北村明子さんをお招きしたのは、舞台芸術において「ライブでしか伝わらないもの」について話しにくくなってしまったのは、西洋的な芸術観のせいもあるんじゃないかと思ったからです。北村さんはレニ・バッソという最先端のテクノロジーを駆使したコンテンポラリーダンスのカンパニーを率いて、欧米でもかなり活動なさっていたのですが、気がつけばアジアでの活動が多くなり、インドネシア武術プンチャク・シラットの使い手にもなっていました。そこで、アジアからの視点でお話しいただきたいと思った次第です。
北村さんは各地で公演する中で、欧米でのマーケットで作品を売っていくためには作品のコンセプトを明確に言葉にする必要がある、ということに気づいていきます。でも、そんな「読み解かれるダンス」には何か欠けているものがあるんじゃないかと思い、カンパニーを閉じてからは一つのコンセプトをもとに効率的に作品をつくるのではなく、長期間のフィールドワークをもとに作品をつくるようになっていきました。効率化のなかで削がれてしまっていたのは「交流、体験、体感」だったと北村さんはおっしゃいます。そこで、長い時間をかけて、人の体を通じて伝えられてきた伝統舞踊やシラットに出会います。そしてシラットを学ぶなかで、自分をリスキーな状態に置くことの喜びを体感します。稽古が終わると、技をめぐっておしゃべりをすることになります。共同体のなかに入り、生活を共にしていくなかで、時にすれちがう対話のなかで伝統が問いなおされていくことを北村さんは目撃してきました。対話がすれちがうと、オンラインではスルーされがちですが、ライブでは何かしら反応せざるを得ません。
そんな体験や対話を通じてしか獲得できない感覚として、「ラサ」というものがあるそうです。ラサというのは、古代インド芸能論のキーワードの一つで、もともとは「味覚」、「味わい」といった意味です。ヨーロッパの美学は官能的な快楽を警戒するキリスト教の影響もあって、もっぱら目と耳によって距離をとった「高級な」感覚を重視してきました。距離を取れる感覚であれば、「読み解く」ための対象化がしやすいわけです。私もヨーロッパで「コンセプトは面白いんだけどなあ」という作品をたくさん見てきました…。それに対して、ほとんど内臓ともいえる舌の感覚をモデルとしてパフォーマンスの良し悪しを論じるインド美学は、舞台芸術における身体性の問題を問いなおすためのよりどころの一つにもなりうるかもしれません。
「舞台芸術」というと、舞台のうえで動いている人を目で見るもの、と考えられがちですが、見ている私たちのなかでもミラーニューロンが反応し、体全体が稼働しているはずです。そのような共振が起きると、自他の境界も曖昧になっていきます。
時間と場所を共有して体験したことをその場で話すと、すれちがう対話のなかから、予期しなかったような気づきが生まれることがあります。北村明子さんのお話は、オンラインの出会いで失われているものをヴァーチャルに体感させてくれるものでした。
北村明子さんの近作についてはこちらに紹介がございます。
ラサの概念については、北村明子さんと同じ信州大学人文学部の名誉教授船津和幸さんが「初心者向けのラサ論」として「芸術の中の感性」(篠原昭他編『感性工学への招待』森北出版、1996所収)という文章を書いていらっしゃいます。この概念については、古代インド芸能論『ナーチャ・シャーストラ』第6章が重要な典拠となっています。この第6章は上村勝彦『インド古典演劇論における美的経験』のなかに翻訳があります。

キリスト教と舞台芸術について、ちょうど今読んでいる本に、カトリック神学がどのような論理で観劇を許容するに至ったか、という話がありました。アントニオ・エスコバル・イ・メンドサという神学者の『道徳神学』(1644)に、以下のような一節があります。「破廉恥なことを含む、あるいは肉欲を激しく刺激するような仕方で演劇を上演する者たちは死に値する罪を犯している。だが知識を得るためなど何かしらのよい目的をもってそれを聴きに行く者たちは罪を犯しているわけではない。[・・・]そこから生じる快楽のために行く者たち、あるいはそのような危険を冒す可能性があることを知って行く者たちは致命的な罪を犯す者である。」つまり、官能的な舞台でも、自分はそれに心や体を動かされることはないという確信をもって「知識を得るため」に行くのであれば、罪にはならないという理屈です。こういった理屈によって、キリスト教徒はおおっぴらに演劇やダンスを観に行くことができるようになったわけで、この論理はその後の芸術論にも大きな影を落としています。
(Antonio Escobar y Mendoza, Liber theologiae moralis, Lyon, P. Borde, L. Arnaud et C. Rigaud, 1659, p. 134, Yosuke Morimoto, La légalité de l’art. La question du théâtre au miroir de la casuistique, Paris, Cerf, 2020, p. 29による引用から)

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カテゴリー: 文化政策

ライブとオンラインでは何がちがうのか(2) 学校教育学の佐藤学さん、第四次産業革命と産業としての教育/舞台芸術 2021年11月27日


ライブとオンラインでは何がどうちがうのか。シンポジウム「ライブでしか伝わらないものとは何か? 〜教育、育児、ダンスの現場から考える〜」から、ちがいを説明するための材料をご紹介しています。二回目は学校教育学の佐藤学さんです
「ビジネス」として捉えると、教育と舞台芸術はちょっと構造が似ています。1人の先生が1教室で教えられる人数は限られています。教室が大きくなるほど、授業を聞きながら寝てる人も増えますよね(私もかなり経験あります)。だから教育は舞台芸術と同様に人件費が削りにくく、他の産業が機械化によって効率化するほど、相対的にコストが上がってしまいます(この現象は「ボウモル&ボウエンのコスト病」と呼ばれています)。その費用を国が負担していたとしても、今では多くの国が債務国家となり、いわゆる先進国では高齢化も進み、教育のコストを負担できなくなっていきます。当然そうなると現場にしわ寄せが来ます。
ボウモル&ボウエン「舞台芸術 芸術と経済のジレンマ」では、「(舞台芸術の)実演家というのは、他の経済活動であればぞっとするような経済状態であっても、働く意志のあるひたむきな人であることが多いので、舞台芸術は一般の賃金のトレンドに相対的に鈍感」だといいます。それでもそこに人が集まるのは、「心理所得」というのがあるからだそうです。確かに今、自分の体がやったことによって他人の眼差しが変わるのを直に見ることができる仕事というのはなかなかありません。きっと学校の先生にも、同じようなところがあるのではと思います。
でも佐藤さんによれば、今「教育産業」が飛躍的に成長しているそうです。2011年に400兆円規模だったグローバル教育市場は、2020年には600兆円にまで膨張し、自動車市場の三倍になりました。毎年約14%という他の産業分野を超える加速度的な成長をつづけています。その背景にはICTの導入と民間委託の進行があります。公教育の経費の8割は人件費で、収益が見込める事業ではなかったのですが、IT技術によって収益性の高い事業に変貌していったわけです。公立学校を民営化した企業や業務委託を受けた企業は教員をコンピュータに置き換えることで人員を削減し、利益を上げてきました。そしてコロナ禍によって、日本でも義務教育へのICT導入が急速に進みました。
でも、学校でコンピュータの使用が長時間になると、読解力も数学の成績も下がった、というデータがあるそうです(国際学習到達度調査PISAがOECD加盟国29カ国のデータをもとに2015年にまとめた報告書)。さらに、コロナ禍による学校閉鎖で、米国では授業が五ヶ月間オンラインで代替されたことにより、生徒たちの生涯賃金は600万円以上低下するという試算もあるとのこと。
世界経済フォーラムの報告書「未来の仕事2020」によれば、労働の29%はすでに自動化されていて、2025年には52%の労働がAIとロボットに代替され、労働の中心が人からAIとロボットに移行するとされています。この第四次産業革命では、頭脳労働まで技術化してしまうので、新たに創出される労働のほとんどは現在の労働より知的に高度な仕事になります。今の小中学生が大人になって就く職業のかなりの部分は、機械によって置き換えることができない職業、まだ存在していない職業になっていきます。だから、「コンピュータを使いこなす」だけでは仕事にならなくなっていくわけです。
もちろん、だからといって「コンピュータを使うのはやめよう」という話ではありません。コンピュータを使うほど学力が低下するのは、それを「教える機械(Teaching Machine)」として使うからだ、と佐藤さんはおっしゃいます。佐藤学さんは学校を「学びの共同体」とすることを提唱なさっています。教室では教師が多くの生徒に一方的に教えるのではなく、四人の生徒が机を囲んで課題について話し合い、学び合っていきます(これがコロナ禍によって困難になっているわけです)。その際に、「学びの道具」、「探求と協同の道具」として、今ではタブレットやコンピュータも活用されています。教師や保護者も、学び合いの輪を広げていきます。「学びの共同体」構想は、国内3000校以上で採用されている他、韓国、中国、台湾、シンガポール、インド、インドネシア、ベトナム、米国、メキシコ等々でも導入されているそうです。これらの国で「学びの共同体」が採用された背景には、第四次産業革命への危機感があります。佐藤さんは40年以上にわたり、毎週2、3校のペースで国内外の学校の教室に足を運び、現場の教師や生徒と対話を重ねていらっしゃいます。
舞台芸術も産業としての効率化を目指し、大きな劇場で同じ演目をロングランして収益を上げるモデルを作ってきました。しかし、ブロードウェイですら、産業の機械化が急激に進行した1960年代には経済危機に陥っていきます。これがボウモルとボウエンという気鋭の経済学者2人が舞台芸術の産業構造分析に取り組んだきっかけでした。舞台芸術が「ライブ」にこだわる限り、チケット代を値上げしつつ人件費を圧縮せざるを得なくなる。だからそれを公共財として存続させる必要があるとすれば、公的支援が必要になる、というのが2人の結論でした。
一方で、舞台芸術から派生した映画やテレビは多くの視聴者を得ることで産業として成り立っているわけなので、舞台芸術も映像配信によって一定の収益を得ることは不可能ではないでしょう。音楽の例を見ても、「ライブ」と映像の組み合わせにも、まだまだ模索の余地があるはずです。
しかし、一九三〇年代にトーキーが生まれて以降、「舞台芸術」は「ライブ」のメディアとして再定義され、結果的に「ライブでしか伝わらないこと」を探るメディアになっていきました。ここで培われた技術は、「人にしかできないこと」「人と人のあいだでしか生まれないこと」を探り、「身につける」上で、これからいよいよ重要になっていくでしょう。だとしたら、「効率が悪い」とされている舞台芸術も、これから重要な道具として見直されていくはずです。この先、舞台芸術に携わる者にとっても、「一切コンピュータは使わない」というのは難しいでしょうが、ライブの経験をつくり、分かちあっていくために、それを意識的に「探求と協同の道具」として使いこなしていく必要があるのかもしれません。

佐藤学さんのお話はシンポジウムの12:25〜です。配信は11月30日までの予定です。


コンピュータの使用と学力の話は佐藤さんのインタビューをもとにした朝日新聞の記事「学校1人1台コンピューター 「一見よさそう」の落とし穴」(岡崎朋子、2021年5月25日)、それも含めたICT教育と教育産業の問題点については佐藤学『第四次産業革命と教育の未来 ポストコロナ時代のICT教育』(岩波書店、2021年、とりわけ「3.巨大化するグローバル教育市場」、「5.ICT教育の現在と未来」、「6.学びのイノベーションへ」)で詳細に扱われています。

「ボウモル&ボウエンのコスト病」と今の日本における文化経済学(とりわけ指定管理者制度)の関係については、こんな紹介記事があります。

舞台芸術がライブに特化していった事情については『表象』誌15号「座談会:オンライン演劇は可能か――実践と理論から考えてみる」岩城京子+須藤崇規+長島確+横山義志[兼・司会]で話しています。

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カテゴリー: 文化政策

ライブとオンラインでは何がちがうのか(1) 赤ちゃん学の開一夫さん、ライブと映像でのミラーニューロンの反応のちがい 2021年11月22日

舞台芸術関係者のあいだでも、ライブとオンラインでは何がちがうのかということを説得的に言えるような材料がなかなか見つからないようなので、シンポジウム「ライブでしか伝わらないものとは何か? 〜教育、育児、ダンスの現場から考える〜」を企画しました(2021年11月30日まで配信予定)。「でも今忙しいし、二時間も見てるヒマないよ」という方にもぜひ知っていただきたいので、どんな話が出たのか、いくつか紹介しておこうと思います。
この企画で真っ先に思い浮かべたのが赤ちゃん学の開一夫さんでした。ミラーニューロンの反応がライブと映像ではちがうことを実証した方です。最初に開さんのことを知ったのはイアコボーニ『ミラーニューロンの発見 「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学』という本でした(ハヤカワノンフィクション文庫、196頁〜。この本にも舞台芸術関係者が知っておくとよさそうな話がたくさんあります)。ミラーニューロンというのは他者の行動を見たときに、自分が行動しているときと同じように反応する脳神経細胞のことで、20世紀末に発見され、DNAに匹敵する発見ともいわれています。ここでこの世界的にも貴重な実験をしたのが日本の研究者だと書いてあって、注を見て検索してみたら、乳幼児向けテレビ番組『シナぷしゅ』や絵本『もいもい』でも有名な赤ちゃん学の第一人者でした。以来、『シナぷしゅ』もよく娘と一緒に見ています。
開一夫さんは『赤ちゃんの不思議』(岩波新書)の「赤ちゃん脳はテレビ映像をどう捉えるか」というところで、この実験について詳しく書いています(154頁〜)。お姉さんがおもちゃを使っている同じ場面をリアルとテレビ映像で成人に見せると、テレビではミラーニューロン・システムがあまり反応しなかったのですが、リアルでは一次運動野周辺が大きく活動しました。開さんによれば、だからこそ、こたつでミカンを食べながら凶悪事件の犯人が登場するドラマを見ることができるのだそうです。人間の脳は「今、ここ」で起きていることとそうでないことを区別して反応しているわけです。
同じ実験を六ヶ月の赤ちゃんで行うと、赤ちゃんではテレビでもミラーニューロン・システムがある程度活動しましたが、やはりリアルのほうがより強く活動しました。別の実験で、赤ちゃんは一〇ヶ月頃までにテレビ映像で見ることが「今、ここ」で起きているわけではないと認識するということがわかっています(73頁〜)。
今回のシンポジウムでは、時間のずれに関する実験も紹介されています。赤ちゃんとお母さんがモニター越しに顔を見合うとき、お母さんの声かけに反応して赤ちゃんがお母さんに笑いかけ、お母さんがほほ笑み返せば、赤ちゃんはお母さんに興味をもちつづけます。ところがお母さんの映像を一秒遅れで映すようにすると、しだいに赤ちゃんは興味を失い、笑いかけることもなくなっていきます(シンポジウムの45:30頃から)。
同じ空間にいて物理的に働きかけてくる可能性があるかどうか(「ここ」性)、同じ時間を生きていて今の自分に対して反応してくれるかどうか(「今」性)に応じて、脳の反応はだいぶちがうようです。自分が微笑んだり、悲しい顔をしても何も変わらないんだと知っているときと、それが影響を与えうると感じているときとでは、私たちの体はだいぶちがう仕方で世界と接しているようです。

ライブとオンラインでは何がちがうのか(1) 赤ちゃん学の開一夫さん、ライブと映像でのミラーニューロンの反応のちがい へのコメントはまだありません
カテゴリー: 文化政策

『アリアーヌ・ムヌーシュキン:太陽劇団の冒険』とリアリズム演技論への問い 2021年10月24日

『アリアーヌ・ムヌーシュキン:太陽劇団の冒険』を見て、今さらながら、この周辺で起きていたことには大きな影響を受けたんだなと思った。歌舞伎や能や文楽に改めて興味を持つようになったのも、留学していた頃にパリの演劇科で、太陽劇団の影響が色濃かったということがあった。自分が西洋演技論史を専門にしたのは、今あたかも普遍的なものであるかのようにみなされている「リアリズム」と呼ばれる演技形式が、特定の地域・時代の特殊な状況のなかで生まれてきたことを示すためだった。この映画のなかでムヌーシュキンは、リアリズムが演劇にとっての最大の危機だと語っている。太陽劇団はインドや日本の演技形態にも普遍性がありうるということを体当たりで示そうとしていた。

太陽劇団の作品や活動のすべてを肯定してきたわけではないが、こういった試みが減ってしまったことはちょっと残念に思っている。いわゆる「リアリズム」的な演技形態や、シェイクスピアやギリシア悲劇のテクストを使うことが「文化の盗用」とされないのは、それに普遍性があるということが前提になっているからだが、これらが普遍的なものとみなされた背景には、植民地時代の政治的・経済的構造がある。ハンバーガーが世界化したからといってその「普遍性」を肯定的に評価すべきとは限らないし、今「エスニックフード」とみなされているものが今後世界化していく可能性は十分にある。

いわゆる先進国においてマジョリティに属するアーティストたちが、植民地支配を受けた国や先住民の文化に目を向けたことは、脱植民地化の一つのステップだった(太陽劇団の場合、ムヌーシュキン自身をはじめ、多くの劇団員が移民層の出身で、マジョリティとも言い切れないが)。それに対して、植民地支配を受けた側や先住民のアーティストたちが「文化の盗用」という批判を向けたのもまた、重要なステップだった。表象の担い手が出自に応じて平等に権利を得られていない状況に対しては、まだまだ取り組まなければならないことがたくさんある。

だがそこには、アイデンティティポリティクスだけでは解決しない問題も少なくない。「普遍」とされるものを疑いながら、「普遍」とされていないものに特定の集団を超える意味を見出すことは、世界の均衡を取り戻すためにまだまだ必要な作業ではないか、などと思いながら、リアリズム演技論の起源について考えつづけている。

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演じること、承認されること 琴仙姫《朝露 Morning Dew – The stigma of being “brainwashed”》 2020年11月9日

「帰国事業」で北朝鮮に一度「帰国」し、脱北して日本に戻ってきた方が200人近くいらっしゃるそうですが、その過去を語ってくれる方は少ないといいます。

明日11/10まで北千住BUoYで開催中の『朝露 日本に住む脱北した元「帰国者」とアーティストとの共同プロジェクト』で上映されている琴仙姫さんの新作《朝露 Morning Dew – The stigma of being “brainwashed”》、圧巻でした。「演じること」に関する作品なのかな、と勝手に思っています。

人は家族や組織、国家といった虚構を日々演じている。自分に与えられた役割を演じることは、時として思いがけない充実感をもたらす。とりわけ、それが集団によって承認されるときには。だが一方で、自分が演じた役が自分を縛っていくこともある。集団で一つの虚構を演じていると、そこから抜け出すのはいよいよ難しくなる。そして一人が役を演じることができなくなっても、芝居はつづいていく。その虚構の全体が破局を迎えるまでは。

これは「大東亜戦争」でも起きたことなんでしょうね。では、今自分たちはどんな役を演じているのか。その渦中にいると、なかなか分からないのですが、もっと考えてみたいと思いました。

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カテゴリー: アジアの舞台芸術

意味を失っていく世界に、手仕事で挑む 『紫気東来—ビッグ・ナッシング』の世界 2020年11月4日

「東京芸術祭ワールドコンペティション2019」の授賞式で、ジュリエット・ビノシュ審査員長が「最優秀作品賞は戴陳連の『紫気東来—ビッグ・ナッシング』」と発表したとき、あっけにとられた観客も少なくなかったのではないかと思います。この作品は今週末11/6-8、映像作品として生まれ変わって、東京芸術劇場とオンラインで上映されます

私も、韓国のプロデューサーのキム・ソンヒさんからこの作品を推薦していただいて、初めてビデオで見た時には、いくつかの場面の鮮烈な美しさに打たれ、遊び心溢れる意外な展開や手法に圧倒されながらも、どう評価したらよいものか、かなり途方にくれました。海外招聘の仕事を十数年してきましたが、こんなに途方にくれた作品はなかったかも知れません。でも何ヶ月か時間をかけて考えているうちに、この作品の面白さやすごみが少しずつ分かってきた気がしています。それをこの数日のうちに評価することができたアーティスト審査員のみなさんはさすがだと思いました。

私にもまだ、この作品がどこまで「分かって」いるのか、心もとないですが、まだ見ていない方、昨年見たもののモヤっとしている方のためにも、私に見えてきたことをいくつか、書き留めておこうと思います(「ネタバレ」ということでもないとは思いますが、予備知識なしで見たい方は鑑賞後にお読みください)。

・未知のノスタルジー

「東京芸術祭ワールドコンペティション2019」では、アーティスト審査会の審査基準を以下のようにしていました。

1)2030年代に向けて、舞台芸術の新たな価値観を提示しているか

2)その価値観の提示の仕方において、技術的に高い質をもった表現がなされているか

アーティスト審査員の一人であるレミ・ポニファシオさん(ニュージーランドのオークランド在住)は、この作品を選んだ理由を「他の作品の多くは「知っているもの」の延長線上にあるように見えたが、この作品は本当に「知らないもの」だったから」とお話ししていました。その意味で、最も「2030年代に向けて、舞台芸術の新たな価値観を提示」しているのがこの作品だったと、アーティスト審査会は結論づけたわけでした。

また、もう一人のアーティスト審査員ヤン・ジョンウンさん(ソウル在住)は、「インドネシア、マレーシア等々、アジア各地に影絵芝居の伝統があるが、この作品はそのどれとも異なる、独自の影絵の手法を使っている」とおっしゃっていました。一見すると、どこかで見たような影絵も出てきますが、たしかに不思議な絵や不思議な影の作り方があちこちで使われています。そして何よりも、全く言葉がなく、物語が突然現れては消え、突然妙な音がしては無音になり、というのは、伝統的な影絵芝居とは明らかに異なっていて、奇妙な夢を見ているような気がしてきます。

それでも、この作品に出てくるさまざまなお化けたちの絵姿も、扇風機、ミシン、ヤカンといった小道具も、なんとなく懐かしい雰囲気を漂わせています。『紫気東来—ビッグ・ナッシング』が見せてくれるのは、懐かしいのに知らない世界、知らないのに懐かしい世界です。

・古典と現代、四つの時間

この作品で二カ所だけ、言葉が出てくる場面があります。スクリーン上では英語で書かれていますが、今回の公演では、戴陳連自身の声で、「私のおばあちゃんは、川辺に住んでいた」と、日本語のナレーションが入っていました。戴陳連は「自分のおばあさんが生きていた世界を理解するため」にこの作品をつくった、とも語っています。

戴陳連は紹興酒で知られる紹興市の出身で、小さい頃はよくおばあさんの家にいたといいます。舞台上で使われる古びたミシンやヤカンは、おばあさんの家にあったものかも知れません。

その前に、やはり紹興市出身で、「近代中国文学の父」とされる魯迅の姿が出てきて、魯迅の顔がやがておばあさんの顔と重なっていきます。舞台の上の小道具に流れているのは、20世紀前半の魯迅の時代と、20世紀後半のおばあさんの時代なのでしょう。その間にヤカンは古び、すてきなミシンもガタガタと大きな音を立てるようになっています。

影絵の中では、腕から口が生えてきて食べ物を食べたり、鳥人間のようなものが出てきたりしますが、これらは『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』という唐代(9世紀頃)の怪談話を集めた奇書がもとになっているそうです。この本は魯迅の愛読書でもありました。

というわけで、この舞台には、1)唐代、2)20世紀前半、3)20世紀後半、4)現代と、四つの時間が流れているようです。

・「東」から到来するのは何か? 革命と資本主義、「東風」からイースタニゼーションへ

このことに気づくと、『紫気東来—ビッグ・ナッシング』という題名の意味が、ちょっと見えてきます。

中国語の原題は「东来紫气满函关(東来の紫気は函関に満つ)」。これは唐代の詩人杜甫の詩「秋興八首」の一節で、周代に老子が函谷関を訪れたとき、関守は「紫気」が漂っているのを見て聖人の東来に気づいた、という故事が語られています。そこから、今でも中華料理店などで「紫気東来」という言葉がおめでたいものとして掲げられています。

では近代の中国史で「紫気東来」とは何を意味するのか、と考えてみれば、たとえばフランスの映画監督ゴダールに『東風』(1969年、「ジガ・ヴェルトフ集団」名義)という映画があります。ここでいう「東からの風」とは、毛沢東主義(マオイスム)のことでした。1960年代、中国で毛沢東が主導した文化大革命に世界中で多くの人々が影響を受けた時代がありました。西洋文化とは異なる、新たな文化をつくろうという動きが「東からの風」だったわけです。

そしてこの毛沢東が最も評価していた作家が魯迅でした。魯迅は「偉大な革命家」でもあったとされ、中華人民共和国成立後、国語の教科書で大きな位置を占めてきました。その魯迅が生きた時代は、辛亥革命によって清朝が滅びたものの、安定した民主的政権がなかなかできず、混乱がつづいていました。魯迅が生まれた紹興市は中国東部にあるので、その意味でも「東」から来た人物といえますが、魯迅は医学を学びに日本に留学したことがきっかけで中国語による近代文学をつくったので、中国よりもさらに「東からの風」を中国大陸に持ち込んだ作家ともいえるでしょう。

そして現代は、世界の経済や政治の重心が西洋から「東」へと移動していく「イースタニゼーション」の時代といわれています。この動きに大きく寄与したのが、中国の「改革開放」による「社会主義市場経済」の成立でした。文化大革命から半世紀を経た今日、国語の教科書に採用される魯迅作品が減ってきているといいます。その意味でも、魯迅は戴陳連にとって「おばあさんの時代」を象徴する作家なのでしょう。

中国のGDPは2011年に世界第二位の規模になりました。推薦人のキム・ソンヒさんはこの作品の推薦理由のなかで「戴陳連は、資本主義文化ではもはやたどり着くことのできない領域へ(・・・)と私たちを誘う」と語っています。ジュリエット・ビノシュさんは戴陳連について「巨大な市場経済に一人で立ち向かっているかのようだ」と話していました。どちらも、「社会主義市場経済」を掲げる現代中国のアーティストを語る言葉として聞くと、ちょっと複雑な気持ちになります。

整理すると、1)周代(?):老子思想の到来、2)20世紀前半:辛亥革命、3)20世紀後半:文化大革命、4)現代:社会主義市場経済と、「東からの風」は時代によって大きく意味を変えてきました。

たとえば「腕に口が生えて次々と食べ物を平らげていく」という場面も、この四つの時代のそれぞれを背景にしてみれば、さまざまな意味で見えてくるでしょう。

ところが、英語の題名はBig Nothingと、全く違うものになっています。欧米の中華料理店の店名でも、中国語名と西洋語名が全く異なることがあります。たしかに中国の古典を参照していたりすると、そのまま西洋語に訳しても意味をなさないことは多々あるでしょう。とはいえ、「おめでたい気が東からやってくる」と「大きな無」では、さすがに意味が違いすぎて、ちょっと不思議ではあります。「おめでたい気」が、実は「大きな無」だった、ということなのだとすれば、そこには強烈な皮肉が込められていると思ってよいでしょう。

・生き物の時間、人の時間、道具の時間

この作品では、さらにいくつかの異なる時間が流れています。ヒトが生きる時間、鳥など他の生き物が生きる時間、そして扇風機、ミシン、ヤカンといった人が作った道具が生きる時間です。そしてヒト・他の生き物・道具のそれぞれが、影絵の中と舞台の上で二重化され、二つの世界を行ったり来たりしています。

さまざまな生き物のなかで、ヒトという種は比較的最近、この地球上に出現しました。そしてさまざまな道具を使うことで自分たちに都合がいい環境をつくり、他の生き物たちが生きていた空間を奪ってきました。でも、ヒトの命ははかなく、道具もいつか古び、朽ちていきます。ヒトが自分の都合でつくった空間も、隙あらば他のヒトや、他の生き物たちに奪われていきます。人がさまざまな妖怪変化に出会い、何の教訓もないまま、あっけなく身を滅していく『酉陽雑俎』の短い物語群は、そんなヒトの有り様を思い出させてくれます。ここでは「文明」前/後、「人間」前/後の時間が、めまぐるしく切り替わり、往来していくのです。

・意味を失っていく世界に、手仕事で挑む

ヒトがつくった「世界」の中では「意味」が生まれますが、長いことかけて生まれ落ち、育ってきた「意味」も、ふとしたことであっけなく失われてしまいます。時には「世界」もろとも。

戴陳連は、かつておばあさんが生きていた世界、今は失われてしまった意味を体感するために、描き、切り抜き、貼りつけ、動かし、丹念な手仕事によって世界をつくっていきます。でも戴陳連の手のなかから生まれた世界では、意味は絶え間なく滑り落ちていきます。

おばあさんの世界を生きてみようとする戴陳連の郷愁は、おばあさんの時間を越えて、道具の時間、他の生き物たちの時間へと滑り落ちていきます。ヒトの郷愁がヒトを越えていったとき、そこには異なる意味をもった世界が開けてくるのかもしれません。

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カテゴリー: アジアの舞台芸術