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いろいろな「みんな」 2023年1月7日

また一つ歳をとって最初に見た夢は、字幕操作担当なのに本番に遅刻する夢でした。歳をとっても、本番に弱いのはなかなか変わりません。。。

昨年はふじのくに⇄せかい演劇祭も東京芸術祭も大学の授業もなんとかライブでできてよかったですが、思えばいろいろな集まり方を体感することができた三年間でした。

一昨日、スウェーデン人の義弟に会い、スウェーデンでロックダウンがなかったのは、もう二世紀ほど戦争がなかったために、そもそも非常事態のための法律というものがなく、議会を通してしか何も決められなかったからだ、という話を聞きました。同時に、議会にも専門家の意見にきちんと耳を傾けた上で議論をするという文化があり、医療の専門家たちは社会的・精神面も含めロックダウンの悪影響の方が大きいという意見を出し、国民的な議論を尽くした上で結論を出したとのこと。最終的にどの対処法がよかったのか、歴史的な評価をするにはまだまだ時間がかかるでしょうが、多くの方が議論に参加し、納得した上で結論を出すという文化をつくっていかなきゃと思いました。

授業やいくつかのシンポジウムをオンラインでやってみて、オンラインだからこそ発言できる方、発言しやすい方もいるんだな、というのも体感できました。ライブで会議をすると、円卓でも「えらい人」の近くにいる人ほど発言する傾向があったりしますが、Zoomでミーティングをするとより水平な関係性がつくりやすくはありますし、そもそも遠方にいたり、家庭の事情があったり、障害があったりでなかなか現地に集まれない方も参加できます。オンラインの方が体格差が気にならないし、声が小さくても発言しやすいという方、チャットなら発言しやすいという方もいました。自分も家庭の事情でなかなか移動できなかったので、助かりました。

とはいえ、ふじのくに⇄せかい演劇祭をライブでやってみると、オンラインイベントにはほとんど参加していない、という方にもけっこう出会いました。技術的に参加が難しい方もいれば、スマートフォンやパソコンを持っていない、使いたくないという方も。昨年はライブでしか出会えない方との再会も多かったように思います。

大学の授業では「ヒトはなぜ歌い、踊り、語り、演じるのか? 生物学から舞台芸術を考える」というテーマを扱ったところ、音楽やダンスに興味がある方にたくさん出会えたのは楽しかったです。一方で、ここ数年演技論を扱っていたときは演劇に興味がある方が多かったのですが、今回は演劇に関心があるという方は少数派で、音楽やダンスの世界と演劇の世界の間のちょっとした分断も感じました。演劇をやっている方のなかにも、歌や踊りに苦手意識があったり、その一体感をつくる力に警戒心をもっている方がいらしたりします。でも授業で体の動きや声を使ったワークショップをしていただくと、言葉による対話だけではなかなか伝わらないものが共有できることも体感できました。私は歌って踊るのも演じるのもどちらも苦手ですが、自分がこの世界に身体をもって生きているということと少しずつ和解できてきたような気もしています。

いろんな出会い方をしているそれぞれの現場で、「みんな」のイメージが少しずつ違うのに、そこにいる人だけで「みんな」だと思えてしまうことも体感できました。どうしたらそんな複数の「世界」をつなぐことができるのか、今年もゆっくり考えていければと思っています。

今年もいろんな方が気にしてくださったようで、本当にありがとうございます。昨年も多くの方々に大変お世話になりました。今年も何卒よろしくお願いいたします。

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『仮構の歴史』 2022年12月18日

マーク・テ/ファイブアーツセンター『仮構の歴史』、『バリン』につづき、マレーシアという国家の成り立ちをめぐる刺激的な作品。中等教育で使われる歴史の教科書がテーマ。マラヤ連合時代(1946-1948)においては、最近まで政権与党だったマレー系右派ナショナリズム政党UMNO(統一マレー国民組織)主導のデモよりも、「ハルタル」と呼ばれた左派ナショナリズム政党主導のゼネラルストライキ(1947)のほうがよほど多くの人が参加していたのに、教科書では全く取り上げられていなかった。このハルタルの時代を振り返ってみると、長年マレー半島で暮らしてきたマレー系、中華系、インド系の住民が同等の市民権をもって共存できる国家が成立していた可能性が見えてくる。「ハルタル」はガンジーが提唱した非暴力抵抗運動から来た名前で、植民者であった英国人が再び政治や経済を通じて影響力を行使することへの宗教を超えたナショナルな抵抗が含意されている。マラヤ共産党やマラヤ華人の歴史がご専門の原不二夫先生は公演後のトークで、もしこのストライキに共産党が参加していたら、マレーシアの歴史は変わっていたかもしれない、とおっしゃっていた。この作品では、「共産主義者=中国人/無神論者」といった(右派プロパガンダにもとづく)クリシェにはそぐわない、マレー系やムスリムに改宗した華人の元マラヤ共産党指導者たちに焦点が当てられていた。「国家と民族の関係には別の形もありえた」というオルタナティブな歴史を語ることは、国家が仮構してきた歴史を根底から突き崩すことにもなりかねない。原先生は日本の教科書問題にも言及なさっていて、マレーシアでこの作品を上演する困難さがより身に沁みて実感できた。「日本人の歴史」では何が仮構されてきたのか、考えさせられる作品。

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カテゴリー: アジアの舞台芸術

シンポジウム「なぜ他者と空間を共有するのか? ~メディア、医療、パフォーマンスの現場から~」

東京芸術祭シンポジウム「なぜ他者と空間を共有するのか? ~メディア、医療、パフォーマンスの現場から~」(ゲスト:坂本史衣さん、ドミニク・チェンさん、MIKIKOさん)、【シリーズ・持続可能な舞台芸術の環境をつくる】として、昨年は「ライブでしか伝わらないものとは何か?」というテーマで、ライブの意義について考えたのですが、そこでライブ性には空間の共有と時間の共有があるということが分かり、劇場での公演も増えてきたので、今回は空間の共有に焦点を当てることにしました。
まず、今このテーマについて話すなら、コロナ禍の現状もきちんと踏まえておかなければと思い、感染症対策の最前線でご尽力なさっている坂本史衣さんにお声がけしました。ではそもそも空間の共有ってなんだろう、と思い、「お互いに影響を与えうる場に身を置くこと」と定義してみると、フィジカルな空間の共有だけでなく、今はバーチャルな空間の共有もけっこう重要じゃないかという気がしてきました。そんなこともあって、インターネットをはじめとするメディアの現状と歴史をよくご存知のドミニク・チェンさん、Perfumeのライブやリオ五輪閉幕式など最新のデジタル技術を駆使した演出で知られるMIKIKOさんにお声がけしました。実際にお話ししてみると、一人で考えていたときとはだいぶ違う風景が見えてきました。
ここであんまり詳しく話してしまってももったいないので、少しだけ。フィジカルな空間を共有するというのは、つまり一時生死を共にするということなんだな、と思いました。なんだか無味乾燥な題名にしてしまったような気もしていたのですが、エモーショナルな瞬間が多かったのが印象的でした。
そして舞台芸術の面白さは、バーチャルな空間を、このフィジカルな空間に重ねることなのではないかと思えてきました。昨年の時点では、ライブ性に焦点を当てた結果、舞台芸術のバーチャル性についてはあまり考えられませんでしたが、言葉も、振付も、あるいは人が「死ぬ」ということを考えることですら、人と人の間で作られてきたバーチャルな空間を抜きにしては考えられないということに気づかされました。
かつてはそんなバーチャルな空間の共有にもフィジカルな空間の共有が欠かせない場面が多かったのですが、今ではフィジカルな空間を共有することは選択肢の一つとなりました。だからこそ、その意味をきちんと考えたうえで、それを選択することが重要になってきます。
実際に人が生き、死んでいくフィジカルな空間の重要性は、もちろんこれからもそう簡単に変わっていくことはないでしょう。そのフィジカルな空間にどう意味を重ね合わせていくのかも、私たち人類の課題でありつづけていくはずです。そこに舞台芸術がどのように関わっていけるのか。お三方のおかげで、深く考えさせられる時間となりました。ご覧くださった方はぜひご感想やご意見をお寄せください。

【シリーズ・持続可能な舞台芸術の環境をつくる】

東京芸術祭 2022 シンポジウム

「なぜ他者と空間を共有するのか? ~メディア、医療、パフォーマンスの現場から~」

紹介サイト:https://tokyo-festival.jp/2022/program/symposium_d

場所:オンライン配信

言語:日本語(近日中に英語字幕も)

登壇者:

坂本史衣(聖路加国際病院QIセンター感染管理室 マネジャー)

ドミニク・チェン(情報学研究者)

MIKIKO(演出振付家/ ダンスカンパニー「ELEVENPLAY」主宰)

モデレーター:

横山義志(東京芸術祭リサーチディレクター)

多田淳之介(東京芸術祭ファームディレクター)

人に会うって、リスクなの?

コロナ禍を通じて、いよいよ多くのことがオンラインで出来るようになりました。それでもなお空間を共有したいとすれば、あるいはせざるをえないとすれば、それはなぜなのか。メディア、医療、パフォーマンスの専門家とともに、空間を共有することの意義を問いなおしてみたいと思います。

プログラムディレクターコメント

東京芸術祭では、「シリーズ 持続可能な舞台芸術の創造環境をつくる」として、舞台芸術が今日直面している課題について論じる場を設けています。今年のシンポジウムでは、コロナ禍によって困難になった「空間を共有すること」、「国境を越えて移動すること」に焦点を当て、さまざまな現場で活躍する専門家から、今まさにお考えになっていること、試みていることをうかがっていきます。ポストコロナ時代に向けて、みなさんと一緒に、これからの上演や国際交流のあり方を考えていきたいと思います。

シンポジウム「なぜ他者と空間を共有するのか? ~メディア、医療、パフォーマンスの現場から~」 へのコメントはまだありません

「演技論」という言葉 2022年12月3日

日本語で「西洋演技論史」というのを書こうとしているということの奇妙さに、ふと気づかさ日本語で「西洋演技論史」というのを書こうとしているということの奇妙さに、ふと気づかされた。思えば「演技論」などという研究ジャンルはフランス語でも英語でも存在しない。フランス語の博士論文は「俳優術(art du comédien)」について書いたし、英語では「演技理論(theory of acting)」について研究している、と説明することが多い。だが、たとえば最近は教会法やローマ法における俳優の位置づけについて調べているが、これはどちらにもあてはまらない。自分がやっている「演技論史」というのは「演技について語られてきたこと」についての歴史であり、それをフランス語や英語にしようとすると、「演技についての言説の歴史(histoire des discours sur l’art du comdien, history of discourse on acting)」とか、なんだかややこしい言い方になってしまう。なんでこんなことになってしまったのか。
もとをたどれば、リアリズム的演技の起源を知りたかったのだが、俳優が書いた実践的な「演技理論」などというものはせいぜい一八世紀くらいまでしか遡れない。でも、そこで「よい演技」とされているものは、特定の社会的・歴史的背景から要請されたものであって、そこで使われている語彙は弁論術、哲学、神学、法学、文学等々のなかで使われてきたものの借り物だったりする。「演劇独自の価値」などというものは存在しないのであって、そういうネットワークの全体を見なければ、なぜそのような演技がよいということになったのかは理解できないし、一八世紀より先に遡ることすら難しくなってしまう。
というわけで、日本語の「演技論」という言葉がなんだかしっくりきた。日本語で書くと、西洋語の言説をある種突き放して相対化できるというメリットもある。西洋語で書いていると、自分が書いている言葉自体を分析・批判しながら書くというややこしい作業をしなければならない(まあ日本語でも結局翻訳語を多用することになるので、ある程度そうならざるをえないが)。ふたたび西洋語で語らなければいけない機会に、「日本語からの視点で西洋語で西洋演技論を語る」というアクロバティックなことができるか、考えてみたりしている。

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シンポジウム「芸能者はこれからも旅をするのか? ~コロナ後の国際舞台芸術祭における環境と南北問題~」 2022年10月28日

東京芸術祭 2022 シンポジウム「芸能者はこれからも旅をするのか? ~コロナ後の国際舞台芸術祭における環境と南北問題~」、オンライン配信を開始しました。

国際舞台芸術祭で働いていて、ここ三年ほどは自分の仕事を問いなおす日々でした。国境を越える移動が少しずつ再開してきましたが、世界中の人が飛行機に乗れるようになってきたことは、コロナ禍がパンデミックとなった原因でもあり、環境破壊や気候変動を促進する一要素でもあります。一方で、移動が制限されたり、移動のリスクが高まってしまうと、舞台芸術の世界では、すでに著名なアーティストに仕事が集まり、南北格差が固定化されることにもつながりかねません。この問題について話すために、ヨーロッパ、アメリカ大陸、アジアからそれぞれ一人ずつお招きして、オンラインでシンポジウムを行いました。

アウサ・リカルスドッティルさんは、ブリュッセル(ベルギー)に拠点を置く世界最大の舞台芸術ネットワークIETMの事務局長です。2020年、コロナ禍を受けて、IETM他ヨーロッパを拠点とする四つの舞台芸術ネットワークが共同で、「よりインクルーシブで持続可能でバランスの取れた」国際ツアーのあり方を欧州圏41カ国で実証的に検証する試み「パフォーム・ヨーロッパPerform Europe」が立ち上げられました。ここで明らかになったことの一つが、ヨーロッパの内部でもアーティストのモビリティには大きな格差があるということでした。つまり、国際舞台芸術祭を通じて見える「世界」は、地域やジェンダー、障害の有無などにより、視野がかなり限定されてしまっていたわけです。この格差はコロナ禍により、さらに拡大する傾向にありました。そこで、より環境に優しいツアーの仕方を検討するだけでなく、この格差をいかに減らすかも大きな課題となりました。

モントリオール(カナダ)のフェスティバル・トランスアメリーク共同芸術監督となったマーティン・デネワルさんは、北米先住民アーティストの視点から環境問題を捉えなおす試みをご紹介いただきました。マーティンさんはヨーロッパ出身で、先住民に「我々の土地にようこそ」と迎え入れられたといいます。他者や環境から収奪する関係から、ホストとゲストとが相互に敬意を払う関係へと関わり合いをむすびなおすことで、南北問題と環境問題に同時にアプローチする可能性が見えてきました。

そしてコロナ禍の渦中にシンガポール国際芸術祭ディレクターとなったナタリー・ヘネディゲさんからは、今日の東南アジアの現実に根づいたプログラムをどう組んでいったのか、お話をうかがうことができました。航空機による移動が止まったなか、ナタリーさんはまず「ウェブサイト上で旅をした」と言います。コロナ禍で極めて厳しい状況に置かれた東南アジアのアーティストたちは、積極的にオンラインで情報を発信していました。それ以前は、一人あたりGDPが高いシンガポールとそれ以外の国々ではモビリティにかなりの格差がありましたが、そこでは逆に、より水平的な出会いが可能になったといいます。

お三方のお話から、一人ではとても思いつかなかった糸口が見えてきました。経済がグローバル化するなかで、地理的な南北だけでなく、「資本主義経済のグローバル化により負の影響を受ける地域や人々」を指す「グローバルサウス」という概念が提唱されてきましたが、グローバルサウスは北にも南にも、またいわゆる先進国にもあります。そしてグローバルサウス間の連帯を模索する動きも拡がっています。一カ所に人が集まらないと成立しないという極めて「非効率的」な舞台芸術も、グローバル資本主義とはなかなか相容れません。これからの舞台芸術の国際交流は、グローバルサウスから新たな経済圏をつくる動きとの連帯を模索する必要があるのかもしれません。

12月11日まで配信の予定です。私1人では消化しきれない話ばかりですので、ぜひご感想をお寄せください。
https://tokyo-festival.jp/2022/program/symposium_i

シンポジウム「芸能者はこれからも旅をするのか? ~コロナ後の国際舞台芸術祭における環境と南北問題~」 へのコメントはまだありません

「人材」とは 2022年6月14日

今参加者募集中の「東京芸術祭ファーム」は「人材育成と教育普及のための枠組み」ということになっていますが、この「人材」という言葉を使うべきかについては、昨年立ち上げの際に、だいぶ議論がありました。私も少し調べてみて、最終的に、使ってもよいのではと思いました。誤解を避けるためにも、この機会に、経緯を少しお話ししておきます。

まずは否定的な意見から。今「人材」という概念が普及したのは、新自由主義的経済学の人的資本(human capital)論によるもので、人間そのものが市場において「資本」や「商品」として機能するような考え方にもとづいている、という話があります。この意味での人材概念は、2011年に内閣府に設置された「グローバル人材育成会議」から、教育行政でも広く使われるようになったのだそうです。経済産業省の「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会報告書」(二〇二〇年九月)には、「人材の『材』は『財』であるという認識」によって「人的資本」を論じたと明言されています。(佐藤学『第四次産業革命と教育の未来 ポストコロナ時代のICT教育』)また、「人材」は英語のhuman resouces「人的資源」の訳語でもあって、この語は第一次大戦の頃から「国家に奉仕する人間のストック」といったニュアンスで使われ、日本でも大政翼賛運動の中で使われてきた経緯があります。この意味では、たしかにあまり使いたくない言葉です。

一方で、漢語の「人材」はかなり古い言葉で、『詩経』(紀元前12-6世紀の祭礼歌や民謡の集成)が出典です。「小雅・菁菁者莪 序」にはこうあります。

「菁菁者莪、樂育材也。君子能長育人材、則天下喜樂之矣。」
「菁菁たる莪は、材を育するを楽しむなり
君子よく人材を長育すれば、則ち天下之を喜楽す」

「キツネアザミ(莪)が茂るのを楽しむように、君子が人材を育成すれば社会全体がそれを享受することになる」という意味だそうです。ここで紹介されている歌は、川辺や丘にキツネアザミが茂っている様子(菁莪)を眺め、それを憑代とする水神が人里に近づいてくる歓びを歌うものです。キツネアザミは明らかに栽培植物ではなく、勝手に茂っているわけで、しかもすごく役に立つというよりも(薬草として使うこともあるようですが)、むしろあまり茂っていると困るくらいのものです。それが「材」だというのは、水神の憑代だからであって、人間の世界とは違った理屈で、勝手に生い茂っていくのを、元気にやっているなあ、となんとなく見守っていられる人こそが度量の広い「君子」なのだ、ということなのでしょう。(「君子」というのは、歌のなかでは水神のことのようですが、序のほうでは人間への教訓を述べているのかもしれません。)

まあ「東京芸術祭ファーム」の運営側に「君子」というほどの人がいるわけでもありませんが、できるのはせいぜい「何かやってみたい人」のために、なるべく安全にやってみることができる場をつくるくらいのことではないか、と思うと、この『詩経』に採録された歌がしっくりくるように思いました。そんな「人材」が、いつかみんなを楽しませてくれることを祈りつつ、ご応募をお待ちしております。

菁菁者莪 在彼中阿 既見君子 樂且有儀
菁菁者莪 在彼中沚 既見君子 我心則喜
菁菁者莪 在彼中陵 既見君子 錫我百朋
汎汎楊舟 載沈載浮 既見君子 我心則休

茂れるきつねあざみは、川の隈(くま)に。
水神の御出ましに、我が心も楽しみ静まらん。
茂れるきつねあざみは、川の水際に。
水神の御出ましに、我が心も喜ばん。
茂れるきつねあざみは、高き丘の上に。
水神の御出ましに、我らの多福を祈らん。
やなぎの舟はゆらゆらと、浮き沈みしつつ来る。
水神の御出ましに、我が心も喜ばん。
( 『新釈漢文大系第111巻 詩経(中)』石川忠久著、明治書院)

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東京芸術祭ファーム2022 ラボ
参加者募集中のプログラム
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※応募資格等の詳細は、下記より募集要項をご確認ください
https://tokyo-festival.jp/tf_farm

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演劇というジャンル/ディシプリン 2022年6月6日

週末に多摩美術大学で行われた日本演劇学会2022年度全国大会「演劇と美術」は自分にとってアクチュアルな問題を問う発表やシンポジウムが多く、刺激的だった。「演劇と美術」と並べると、「劇場」と「美術館」という制度を問いなおすことにならざるを得ない。そして、その問いは「演劇(学)」というジャンル/ディシプリンそのものを問いなおすものともならざるを得ない。「演劇と美術 —入り交じる時間と空間—」と題された最後のシンポジウムで、登壇者に「現場の視点から、演劇学あるいは演劇教育というディシプリンに期待するものは?」と質問したところ、「アーカイブを整備してほしい」という返答があり、とても腑に落ちた。ゼロから新しいものを作ることはできない。アーカイブがなければ実験もできない。そしてジャンルやディシプリンといった枠がなければ、アーカイブも成り立たない。仮に枠組みのないアーカイブがあっても、ほしいものにたどりつくことはできない。「越境」が大事だからといって、全ての壁を壊したほうがいいというわけではない。壁の中でしかできない実験はあるし、だからそもそも壁をつくってきたのだろう。
自分が演劇学を選んだのは、ご多分に漏れず、演劇に救われたからだった。今にして思えばそれも「劇場」という壁があり、「演劇」という枠があったからこそ可能な出会いに救われたのだと思う。だがアジアからの留学生としてフランスで演劇学を学んでみると、いかにその枠がヨーロッパ中心にできているかを実感させられることになった。それから劇場で働くことになり、「演劇祭」のプログラムを考えていると、「演劇」という枠組みで本当にちゃんと「世界」が見えるのか、という疑問が湧いてきた。それでパフォーマンス研究を学びにニューヨークに行った。リチャード・シェクナーは1992年の全米高等教育演劇学会で、演劇学科をみんな解体してパフォーマンス研究科に改組することを提唱したが、今のところそうなってはいない。広すぎる枠はアーカイブとして使いづらいからなのかもしれない。
今、西洋演技論史を書こうとしているのは、西洋でできた「演劇」という枠組みにかなりの不満と不信感があるからだ。その土台まで、一歩ずつ掘り進めていって、自分の違和感の正体を見極めたい。その向こう側に何があるのかは、まだよくわからない。植民地時代に作られたインフラであろうと、ただ破壊してしまっては自分の生活が不便になるだけ、ということも往々にしてある。自分が受けた恩恵を、今よりもいい形で次代につなげるための仕事ができればと思う。
どんなインフラも、日々の集団的実践のなかで保持され、更新されていく。日々の研究や教育のかたわらで研究会を開き、学会誌を発行し、といった作業をしてくださる方々がいるおかげで、出会いが生まれ、アーカイブが更新され、枠からの越境も生じる。学会の受付を通るたびに、以前SPAC-静岡県舞台芸術センターで演劇学会の研究集会を開催させていただいたときのことを思い出す。コロナ禍もあり、今回もみなさん大変だったと思いますが、本当におつかれさまでした!

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クータンバラムの開放 2022年2月22日

アジア劇場史に残るであろう決定が下されました。

南インド・ケーララ州で、クーリヤッタム、ナンギャール・クートゥー、チャキヤール・クートゥーを演じるための劇場クータンバラムはヒンドゥー教寺院内にあり、ほとんどは特定カースト以外による上演を禁じてきましたが、主要なクータンバラムの一つが、それ以外のパフォーマーにも公演を許可することになったそうです。

SPACにもたびたび来てくれたナンギャール・クートゥーの代表的演者の一人カピラ・ヴェヌさんによれば、今ではこれらのジャンルのパフォーマーの75%は特定カースト出身者以外の方だそうです。日本人も含め、外国人のパフォーマーも増えています。

かなり時間はかかりましたが、新たな展開が生まれそうです。
https://timesofindia.indiatimes.com/city/kochi/support-grows-for-call-to-open-koothambalams-for-all-castes/

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1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(9) 多文化主義と前衛の終焉 2022年1月24日

2.米国における実験的演劇の製作状況(承前)

2.7.多文化主義と前衛の終焉

NEAが創設されたのは、米国芸術界がまだ東海岸主導で、ヨーロッパとの接続が深く意識されていた時代だった。この時代に、ベトナム戦争下の外交戦略も考慮して、NEAは卓越性の論理により創設された。だが同年に公民権運動と人種暴動が急激な高まりを見せていった。そして移民法改正によって、ヨーロッパ移民重視政策に終わりを告げ、黒人と並んでヒスパニック系とアジア系がマイノリティとして台頭する現在の状況がここからはじまっていく。

ヨーロッパ中心主義的演劇史に別れを告げたパフォーマンス・スタディーズは、ポスト・コロニアルな世界情勢以上に、この米国国内の動向を反映している。70年代から80年代にかけて、「文化の多様性」が至上命題となっていくなかで、米国の文化史は他のあらゆる文化史と、あらゆる回路を通じて、ほとんどランダムに接続していった。こうして歴史が直線的に歩むことをやめ、もはやどちらを向くのが「進歩」でどこが「前衛」なのかが見えない状況が生まれていく。このなかでは当然、「卓越性」という基準も機能しなくなっていく。

先に確認したように、「前衛」もまた、ヨーロッパを出自とする直線的な歴史観を前提とする概念に他ならない。この米国の文化状況のなかで、リチャード・シェクナーが提唱するパフォーマンス・スタディーズは、例えばブレヒトがアジア演劇に影響を受けたことを例に出して、「前衛」的・実験的演劇実践と民族的(エスニック、つまり西洋以外の)パフォーマンス実践とを接続しようとする(Performance Theory)。しかし結局のところ、シェクナー以外にそのような試みで成功した「前衛」的演出家はそれほど出ていない。これが少ないのは、「多様性」が政治言語のなかで民族の「アイデンティティ」と結びついていったからではないか。そのなかで、シェクナーのもくろみとは異なり、「多様」な「民族」的実践が、(まだ「グローバル化」していないものの)それ自体としてある種の普遍性をもった技術やツールとしてではなく、出自に結びついた特異性として認識されていった。(数少ない例としては、SITIカンパニーのアン・ボガードや、最近では『ライオン・キング』のジュリー・テイモアなどが挙げられるが、この二人ともある種の普遍性を標榜するスズキメソッドを学んでいるのは興味深い。)

そして米国をベースとする「有色」のアーティストが「前衛」と標識付けされる例も稀である。たとえば黒人の劇作家オーガスト・ウィルソンや振付家アルヴィン・エイリーなどはまず「前衛」とは名指されない。おそらく、本人も必ずしもそれを欲しないだろう。この標識は白人エリート層にはそれなりにアピールしても、ハーレムやブロンクスの住民の多くはむしろ敬遠しかねない。

1970年代まで「前衛」という標識が使われつづけていたのは、少なくとも理論面で、まだ「多様性」と「前衛」が共存しうる、という希望があったためである。だが1980年代以降の米国演劇においては、文化人類学的/間文化的な「前衛」のあり方は徐々に見失われていった。これは今日のニューヨーク大学パフォーマンス・スタディーズ科で文化人類学的アプローチを重視しているのがほぼシェクナーだけだということの理由の一つでもあるだろう。

(ACCグランティーとしてのニューヨーク滞在から帰国直後、2017年3月24日に書いた未完のメモですが、暫定的にアップしておきます)

1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(9) 多文化主義と前衛の終焉 へのコメントはまだありません
カテゴリー: ACC 文化政策 米国演劇

森元庸介講演会「西洋はいかにして演劇を許し、芸術を愛するようになったか ~決疑論と美学の誕生~」(1/21) 2022年1月3日

森元庸介さんを招いて、1月21日にオンラインで「西洋はいかにして演劇を許し、芸術を愛するようになったか ~決疑論と美学の誕生~」と題した講演会をしていただくことにしました。
ご著書『芸術の合法性 決疑論が映し出す演劇の問い』(Yosuke Morimoto, La légalité de l’art. La question du théâtre au miroir de la casuistique, préface de Pierre Legendre, Paris, Cerf, 2020)をひもといていくと、西洋近代美学の土台がキリスト教の決疑論によって形づくられたことが見えてきます。そして、その際に中心的な役割を果たしたのが、演劇を許容してよいのか否かという問題だったのです。古代ローマの教父たちは、演劇を観に行くこと、上演することを激しく断罪していました。それが中世から近代にかけて、条件付きで許容されるようになっていきます。それを可能にしたのは、決疑論における演劇と俳優をめぐる長年にわたる記述の積み重ねでした。決疑論というのは、キリスト教の枠組みのなかで、個々の具体的な行いが良いものか悪いものかを判断するための学問です。この分野の書物は膨大にあるようですが、一九世紀以来ほとんど再版されておらず、研究もあまりないそうです。
一見断絶のない解釈の積み重ねのなかで起きる微細で緩慢な変化が、やがて演劇への新たな態度を生み、ついにはキリスト教のあり方自体にも問い直しを迫るものになっていきます。そして演劇を許容する理論的枠組みが形成されると、それが芸術全般を受容する際の枠組みにもなっていきます。この経緯を知ると、「芸術」の名のもとで何が許容され、何が排除されているのかも見えてくるかもしれません。
近年、フランス旧体制下における演劇批判については優れた研究がなされてきましたが、演劇に対する寛容論の構造を解明する試みはあまりなされてきませんでした。極めて刺激的な論考なのですが、まだ邦訳はなく、神学用語やラテン語・古代ギリシア語がたくさん出てきて、読むのはなかなか大変です。森元さんに「ヨーロッパ文化の舞台裏」(ルジャンドル)をお見せいただく貴重な機会となりそうです。

講演会に向けて森元庸介さんの『芸術の合法性 決疑論が映し出す演劇の問い』を日々読んでいると、近代演技論と古代演技論のあいだのミッシングリンクがここにあったのか、と思います。名優たちは真情をもって演技をしているというキケロの話と近代の感情主義演技論とのあいだには、誠実さを一つの条件として俳優を「合法化」した中世の神学/決疑論における議論があったようなのです。というわけで、スタニスラフスキーやストラスバーグとかに興味がある方もぜひ。

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【日仏演劇協会ZOOM演劇講座】
《第四回》
西洋はいかにして演劇を許し、芸術を愛するようになったかー決疑論と美学の誕生

講師:森元庸介(東京大学総合文化研究科准教授・表象文化論)
聞き手:横山義志(日仏演劇協会実行委員・西洋演技論史)

「異邦人の眼ざしが静かな水面をかき乱す、私たちが知り尽くしていると思い込んでいた認識論的カテゴリーのなめらかな鏡面を。」(ピエール・ルジャンドルによる序文から)

森元庸介
1976年生。パリ西大学博士(哲学)。東京大学大学院総合文化研究科・准教授。著書に La Légalité de l’art. La question du théâtre au miroir de la casuistique (Cerf, 2020). 共編著に『カタストロフからの哲学 ジャン=ピエール・デュピュイとともに』(以文社、2015)。また、ディディ=ユベルマン、デュピュイ、ルジャンドル、レーベンシュテインなどを翻訳している。

横山義志
1977年生。SPAC-静岡県舞台芸術センター文芸部、東京芸術祭リサーチディレクター、学習院大学非常勤講師。専門は西洋演技論史。パリ第10大学でLa grâce et l’art du comédien. Conditions théoriques de l’exclusion de la danse et du chant dans le théâtre des Modernes(『優美と俳優術 近代人の演劇における踊りと歌の排除の理論的条件』)により博士号を取得。論文に「アリストテレスの演技論 非音楽劇の理論的起源」、翻訳にジョエル・ポムラ『時の商人』など。

【日時】
2022年1月21日(金)20時~22時
【無料・要事前登録】
以下のurlで事前に参加登録をお願いします。定員は60名、先着順となります。
https://us02web.zoom.us/meeting/register/tZMud-ygrjkrG9bVUBxBm0q53uJi2F44wRC7
登録後、ミーティング参加に関する情報の確認メールが届きます。

【注意】
·登録は原則本名でお願いします。
·ミーティングルームには参加登録したメールアドレスでしかログインできません。
·ミーティングルームに入られましたら「ミュート」「ビデオ・オフ」になっていることを御確認ください。
·Zoomオンライン演劇講座は録画されます。また録画した内容を編集のうえ、後日、youtubeの日仏演劇協会チャンネルに公開される可能性があります。

【問い合わせ】
日仏演劇協会事務局(office@sfjt.sakura.ne.jp)
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森元庸介講演会「西洋はいかにして演劇を許し、芸術を愛するようになったか ~決疑論と美学の誕生~」(1/21) へのコメントはまだありません