舞台芸術制作者という職業はいつ頃できたのでしょうか。最近たまたま読んでいた本によれば、少なくとも紀元前3世紀頃にはそんな仕事をする人がいたようです。アテナイの悲劇喜劇文化が地中海世界全体に広がって、いわば国際的なツアーが増えていったヘレニズム時代には「演出助手(ヒュポディダスカロス)」 という職名が見られます。この人は現地での稽古や上演準備を担っていたようです。
その時代、俳優・スタッフたちがディオニュソス芸能者組合というのを立ち上げて、芸能実演家の権利を守ったり、マネジメント業務を行ったり、やがてはフェスティバルの立ち上げまで請け負うようになっていきます。
ツアー先とコンタクトをとって、公演料の交渉をして、出演者やスタッフを手配して、小道具や大道具を手配して、アゴアシ枕を手配して等々、ネットどころか郵便もなかった時代の国際事業のマネジメントは大変だったでしょうね…。
(José M. González, The Epic Rhapsode and His Craft: Homeric Performance in a Diachronic Perspective, Washington DC, Center for Hellenic Studies, 2013, p. 485.)
2300年前の舞台芸術制作者 2020年5月14日
ウイルスと「世界」 2020年4月4日
胎盤の仕組みはウイルスに由来するという。母親にとって、胎児は自己の一部でもあり、他者でもある。ウイルスは自己と他者の境界を揺らがせる。それが、私たちには怖いのだろう。
私たちは「自己」によって守られ、国境によって守られている。自己があり、他者があり、他者のそれぞれが自己でもある世界。そしてそれらがひとまとまりになって「国」をなし、「自国」と「他国」が区別され、それぞれが他国に対して自国を守っているような世界。私たちはそんな「世界」に生きている、と思い込んでいる。
「ふじのくに⇄せかい演劇祭」の「せかい」という言葉には、「国際」ではない、という含意がある。国と国のつきあいではなく、「ふじのくに」という目に見える共同体が、直接に世界と交流するような場をつくりたい、という思いがある。
でも、もしかしたらそろそろ「世界」の方も疑ってみたほうがいいのかもしれない。より正確にいえば、「世界」というものをどのようにイメージすべきか、考えなおした方がいいのかもしれない。
DNAによる二重らせん構造には、コピーの誤りが起きたときに修正する機能がある。一方、コロナウイルスのRNAは一本鎖なので、「自己」の同一性が安定せず、とめどなく変異していく。とはいえ、DNAの二重らせん構造も、少し長めの時間でみれば、やはり変異していく。「自己保存」という原則がある世界とない世界、自他の区別がある世界とない世界は地続きなのかもしれないと想像してみること。「自己」と「世界」が地続きであることを想像してみること。「まつり」はそんなための場でもあった。
隔離の日々は境界を強化していくように見えるが、壁を高くするだけで「自己」を守ることはできない。隔離の日々が明けるのは、「自己」と「他者」の境界が少し変わったときだろう。
ウイルスは宿主を破壊すると、宿主を失ってしまう。そして宿主を変え、変異をつづけていくうちに、いつか、宿主と共生するすべを見いだす。そのあいだに、宿主自身も変わっていくことがある。ヒトのDNA配列のなかには、RNAウイルス由来とみられる配列が多く存在していて、ウイルスがヒトの進化に大きく貢献しているという。宿主がワクチンを開発することもまた、ウイルス側から見れば、そんな共生のプロセスの一つかもしれない。
…などと言ってはみても、私たち宿主の短い人生のなかでは、破壊的なウイルスとはなるべく共生しないのが一番ですので、まずは何卒ご自愛ください。
隔離の日々が一刻も早く明けることを、そして、そのときには「世界」を隔てる境界が少しちがって見えていることを祈りつつ。
ウイルスと「世界」 へのコメントはまだありませんPourquoi (Une rencontre avec Claude Régy) 2019年12月27日
Pourquoi
Quand j’ai rendu visite à Claude Régy, le 23 juin 2019, j’ai eu l’impression que j’avais finalement compris quelque chose, dont je voulais prendre notes pour moi-même.
Je lui ai dit qu’au Japon, beaucoup de jeunes artistes japonais ont été influencés par son travail.
Une jeune actrice lui a dit aussi que beaucoup de ses amis de Kyoto avaient été touché par ses spectacles. Il lui a dit « Pourquoi ? C’est dur de les voir. » Elle a souri.
Alexandre Barry m’a dit qu’il avait reçu Valérie Dréville la semaine dernière, et qu’il lui avait dit que son rêve était de retourner à Shizuoka et de venir voir les comédiens avec qui il avait eu travaillé pour Intérieur (alors que Valérie Dréville n’a rien à voir avec son aventure japonaise). Ça m’a ému. Et le nom de Valérie Dréville m’a rappelé Quelqu’un va venir qu’il avait monté avec elle en 1999. Je lui ai dit que je me souvenais souvent de ce spectacle, et que ce spectacle m’avait tellement touché.
Là, il m’a dit :
« Reste touché, c’est la seule chose valable dans la vie.
Les acteurs entendent le texte d’un auteur comme une langue étrangère et ça se traduit dans sa tête.
Si ça se traduit bien, ça touche le public aussi. »
À cet instant, j’avais l’impression de comprendre pourquoi il nous demande toujours pourquoi. Parce qu’il ne le sait vraiment pas, et il veut le savoir.
J’avais toujours peur de ce pourquoi. Il m’a posé cette question plusieurs fois, mais je n’ai jamais pu y répondre vraiment.
Pour être touché, il faut accepter qu’il y a quelque chose qu’on ne connait pas, qui nous dépasse. C’est pourquoi « rester touché » est extrêmement difficile…
Apparemment, c’était une phrase qu’il disait souvent pendant la répétition d’Intérieur, selon les comédiens. Il remarque tout de suite quand un comédien va sur un chemin déjà connu, sans être touché.
Just avant de le quitter, j’ai pu finalement lui dire que sans avoir connu son travail, je n’aurais pas travaillé au théâtre.
Il m’a dit : « Ce que tu m’a dit est très beau. »
Je me rappelle aussi ce que Bertrand Krill, son administrateur, m’a dit quand je lui ai dit la même chose : c’est le cas pour beaucoup qui ont travaillé avec lui.
Je pense toujours à ce que je peux lui dire à la prochaine fois qu’il me demande pourquoi.
Pourquoi (Une rencontre avec Claude Régy) へのコメントはまだありませんなぜ(クロード・レジとの会話)
なぜ
日本でも多くの若いアーティストたちがレジの仕事に影響を受けている、と伝えた。
若い女優の一人も、京都の友達が何人も彼の作品に感動した、と付け加えた。
レジは彼女に、「なぜ?あんなに観るのがしんどいのに」と言った。彼女は笑っていた。
アレクサンドル・バリーによれば、その前の週にヴァレリー・ドレヴィルが訪問してきた際、レジは、静岡に戻って『室内』で一緒に働いた俳優たちに再会するのが夢だ、と語ったという。ヴァレリー・ドレヴィルの名前を聞いて、1999年に初めて見たレジの作品『誰か、来る』を思い出した(ドレヴィルはその主演女優だった)。そしてレジに、この作品のことをよく思い出している、とても感動した、と伝えた。
そこで、レジはこう言った。
「感動しつづけなさい。それが人生のなかで唯一、意味のあることだから。
俳優は作者の書いたテクストを外国語のように聞いて、それが頭の中で翻訳される。
その翻訳がよかったら、観客も感動するんだ。」
この瞬間、なぜレジがいつも「なぜ」と聞くのか、分かった気がした。本当にそれが分からないから、知りたいのだ。
私はいつも、この「なぜ」が怖かった。私にも、何度もこの質問が投げかけられたのだが、一度もちゃんと答えなかった。
心が動くには、知らないものがあるということ、自分を超えたものがあるということを受け入れなければならない。だから「感動しつづける」というのはすごく難しい。
どうも、『室内』の稽古のあいだも、レジはよくこの言葉を口にしていたらしい。俳優が「感動する」ことなく、すでに知った道をたどるとき、レジはすぐにそれに気づく。
レジのもとを去るとき、ようやく「レジさんの作品に出会わなかったら、劇場で働くこともなかったと思います」と告げることができた。
レジさんは「いいことを聞かせてくれた」と言ってくれた。
このことを制作のベルトラン・クリルさんに話したとき、「彼と働いている人の多くはそうだよ」という答えが返ってきたのを思い出した。
また彼から「なぜ」と聞かれたとき、なんて答えようか、いまだに考えている。
なぜ(クロード・レジとの会話) へのコメントはまだありませんTraditional and contemporary in Asia 2019年2月28日
I think I start understanding an Asian issue about so-called “contemporary arts”: Why do we continue to call an art form “contemporary” when it’s related to the “Western” arts history? Why is it so difficult to get out of this system?
One of the reasons is probably that, in Asian contemporary arts industry, the most of people belong to the “progressive” part of the leading class, with a politically liberal mindset, and they don’t find themselves comfortable in “traditional” arts field.
So the problem is, in Asia, in so-called “traditional” arts fields, which means related to local history, it’s not easy to find a liberal or liberating feeling. But at the origin, most often, so-called traditional performing arts were born in a very politically liberating atmosphere. Just in the process of establishment and cultural westernization/colonization, they happened to become something conservative or even reactionary. If so, our (Asians’) urgent need is probably to rediscover this liberating feeling in our local history.
テネシー・ウィリアムズ『財産没収』と「ヒトの巣」の構成について 2019年1月1日
テネシー・ウィリアムズ『財産没収』と「ヒトの巣」の構成について へのコメントはまだありません2018年12月21日 山口茜演出、テネシー・ウィリアムズ作 『財産没収』こまばアゴラ劇場
テネシー・ウィリアムズの短編集は執拗に人間の交換可能性をめぐる問題を扱っているように見える。テクストだけを読んでいると、その面白さに気づけないこともあるが、それが身体をもつと、そこで言われていることとその身体が言わんとしていることとの矛盾が見事に立ち上がっていく。
都市で人の流れを見ていると、人間が社会性動物のように見えることがある。アリやハチのように。アリストテレスの『政治学』によれば、人間は「ポリス的動物」だという。ポリスとは集住の拠点、言ってみれば「人間の巣」のことだ。
だが、人間はアリやハチと異なり、有性生殖でしか生まれてこない。また、同じ二つの個体から生まれた個体でも、多くの場合は遺伝情報に違いがある。この意味で、「ヒトの巣」を構成している個体群は、同じような遺伝情報をもった個体でできているアリやハチの巣の個体群とは異なる。
ではなぜヒトは社会性動物のように見えるのか。それが長年疑問だったが、今夜、なんとなくわかったような気になった瞬間があった。それはもしかすると、ヒトが言語のなかに生まれ落ちるからなのかもしれない。一つの言語を共有する個体群が巣を作っていく。
「演劇」というものは一つのポリス、一つの巣の中で作られるものだと思われがちだが、個人的に近年興味を持っているのは、どちらかというと、境界や極地で生まれる演劇だ。巣と巣の間、巣と巣でない空間の間で生きる身体と言語が作り出す緊張関係。
世界恐慌時の米国南部の人々を描くテネシー・ウィリアムズの作品群には、それがきわめて生々しく描かれていることに気づかされた。
モーリス・オーダンとラシッド・タハ、アルジェリア戦争の記憶 2018年9月30日
『顕れ』パリ日記(番外篇)として。
9/14の「ル・モンド」紙一面は、アルジェリア独立戦争の犠牲者の一人に、大統領が国家の責任を認めた、というニュースだった。

アルジェリア戦争はフランスの国論を二分する大事件で、少なからぬ「フランス人」も、アルジェリア独立のために戦い、犠牲となった。アルジェ在住の数学者モーリス・オーダンはアルジェリア共産党のメンバーで、アルジェリアの独立を支持していた。独立運動が激しくなっていた1957年のある日、オーダンは突如自宅でフランス軍の兵士たちに捕らえられ、連行される。そして妻と三人の子を残して、二度と戻らなかった。
その後の公式発表では、オーダンは移送中に逃走して行方不明、とされていた。だがそれから61年を経て、オーダンが拘禁中に拷問を受け、殺害されたことをマクロン大統領が公式に認め、アルジェリア戦争での行方不明者に関する資料を公開することを決めて、国民に証言を呼びかけた。モーリス・オーダンが誰によって、どこで殺害され、遺体がどうなったのかは、いまだ明らかにされていない。妻ジョゼットは今なお、61年前に何が起きたのかを探り続けている。
マクロンは大統領に就任する前に、アルジェにおいて、フランスによる植民地支配を「人道に対する罪」と認めている。アルジェリア独立戦争でフランスはのべ130万人の兵士を動員し、アルジェリア側の死者は45万人、フランス側の死者は3万人とされている。
『顕れ』にも、植民地支配と闘い、「死して弔われなかった魂」のことが語られている。
その魂たちは、
「いつの日か、我われへの弔いがなされるなら、
そのとき、我われの苦しみも終わる」
とつぶやく。
一面のもう一つのニュースは、フレンチロックの巨星の一人、ラシッド・タハの死だった。

心臓発作で、59歳の若さだった。アルジェリア戦争が終わったのが1962年なので、タハは3歳の時に「アルジェリア人」になったことになる。10歳で両親とともにアルジェリアからフランスに渡ったときにはアラビア語しかできなかったという。「俺たち(北アフリカ出身者)が言えるのは「エクスキューゼ・モワ(すいません)」だけだ」と、タハはよく語っていた。
「カルト・ド・セジュール(滞在許可証)」という名前のバンドで、1986年にドイツ占領下で書かれたシャルル・トレネのヒット曲「優しきフランス(Douce France)」をアルジェリア音楽を取り入れてカバーし、国中を巻き込む論争となった。来週リヨン・オペラ座で大規模なコンサートが予定されていたという。
アフリカでもヨーロッパでも、植民地時代の傷はまだ癒えてはいない。それが歴史の一頁になるには、まだもう少し時間が必要だろう。
(『顕れ』パリ日記本編はこちら)
(追記)
ラシッド・タハ、個人的に思い入れがあるのは『バッラ・バッラ』。こんな強烈なトレーラーがあったとは。
歌詞の英訳がこちらに。
モーリス・オーダンとラシッド・タハ、アルジェリア戦争の記憶 へのコメントはまだありません
松沢裕作『生きづらい明治社会―不安と競争の時代』
「(明治時代の社会では、)「かんばればかならず成功する」という「通俗道徳」の考え方がひろまっていました。「成功するためにはがんばらなければならない」からといって、「がんばれば必ず成功する」とは限らないので、「がんばったのに失敗した」あるいは「がんばったのに貧困から抜け出せない」人びとが膨大に発生します。しかし、そうした人びとはがんばりが足りなかったとみなされ、「ダメ人間」のレッテルが貼られてゆきます。
・・・明治時代の社会と現在を比較して、はっきりしていることは、不安がうずまく社会、とくに資本主義経済の仕組みのもとで不安が増してゆく社会のなかでは、人びとは、一人ひとりが必死でがんばるしかない状況に追い込まれてゆくだろうということです。そして、「がんばれば成功する」という通俗道徳の罠に、簡単にはまってしまうと言うことです。それを信じる以外に、未来に希望が持てなくなってしまうからです。
・・・「通俗道徳のわな」は、どこかで悪い人が作って仕掛けた罠でもありません。不安な人々が、不安だからこそ、ついつい頑張ると言う選択を積み重ねた結果、自分たちで、自分達の作った仕組みにとらわれているのです。
「通俗道徳のわな」が、リアルな罠ではなく、人間が自分で作って、自分ではまり込んだ仕組みに過ぎないこと―そのことに気がつくことは、それ自体がわなから逃れるための、欠かせない一一歩です。」
中高地歴部の盟友松沢裕作さんの新著『生きづらい明治社会―不安と競争の時代』(岩波ジュニア新書、2018年9月20日第一刷発行)、名著です。
ぜひ『野外劇 三文オペラ』を見る前に読んでいただきたい一冊。(新幹線が止まったおかげで、東海道線のなかで一気に読めました。)
松沢裕作『生きづらい明治社会―不安と競争の時代』 へのコメントはまだありません
日本における「演劇」というフレームワークについて 2018年7月28日
日本における「演劇」というフレームワークについて
(「舞台芸術」のフレームワーク問題についてのメモ)
日本において「演劇/theatre」をコロニアルなフレームだと考えるのは、厳密には正確ではないかもしれない。このフレームワークを取り入れた時代、日本はむしろ積極的に「列強」に肩を並べ、植民地を持つ側に歩みを進めていた。のちには植民地の住民がこのフレームワークを取り入れる契機を作ることともなった。(この意味で「コロニアルな」フレームワークではあった。)
そして能や歌舞伎が「演劇」と見なされたことで、このフレームワークがコロニアルなものと見なされる契機はほぼ失われた。これは日本の「演劇」界でポストコロニアリズムが定着しなかった理由の一つでもあるだろう。
だが、それによって「伝統演劇」と「現代演劇」との間に連続性を形成することには必ずしも成功していない。旧植民地が「先進国」を追い越そうとする今日の世界で「演劇」という日本語のフレームワークについて考えるには、もう一度、自分がどこにいるのか、どちらに歩みを進めようとしているのかを見つめ直す必要がある。
東京デスロック+第12言語演劇スタジオ『가모메 カルメギ』を見て。
日本における「演劇」というフレームワークについて へのコメントはまだありません「舞台芸術」のフレームワーク問題について ~2030年代に向けて~ 2018年7月24日
「舞台芸術」のフレームワーク問題について ~2030年代に向けて~
(ON-PAM政策提言調査室での国際交流をめぐる議論のためのメモ)
「舞台芸術」のフレームワーク問題、というのは、たとえば22世紀に、今私たちがやっていることが語られる枠組みは何なのだろうか、といった問題です。それは「演劇史」ではないかも知れないし、もしかすると「舞台芸術史」でもないかも知れません。
というと、ずいぶん先のことだと思うかも知れませんが、私はこれから2030年代までが、この先どんなフレームワークが世界的なものになっていくかを決定づける重要な時期だと考えています。
「演劇」という概念にそろそろ賞味期限が来ているのではないか、と思っている人は少なくないと思います。今我々が使っている演劇という概念は、基本的には明治時代に西洋のtheatre/Theater/théâtre・・・といった概念の輸入語として使われるようになったものであり、そのもとをたどれば、16世紀から19世紀に西ヨーロッパで形成されてきた概念です。
西ヨーロッパの近代において、演劇theatre、ダンスdance、オペラoperaという3つのジャンルが、それを上演する仕組みと、そのための人材養成の仕組みとともに、制度として形成されてきました。この西欧近代における演劇の定義は、ジャンル規定は、歌と踊りの排除を基準としている以上、他の地域、他の時代の舞台芸術には必ずしも当てはまりません。この話劇としての近代演劇の起源として、いわゆる「演劇史theatre history」なるものが書かれるようになり、そこに古代ギリシアにあったtragoidia, comoidiaといったジャンル(これらのジャンルはtheatronと呼ばれてはいませんでした)や16世紀以前のpassionやmystère(「受難劇」、「聖史劇」などと訳されます)といったものが、改めてtheatreとして語られるようになりました。
そして20世紀の後半になって、ようやくこの演劇やダンスといった分類、制度そのものを見直そうという動きが出てくる中で、今我々が語っている「舞台芸術英:performing arts / 仏:arts du spectacle」という言葉が使われるようになってきたわけです。でもこの言葉も、本当に適切な、あるいは有効な言葉なのかどうかは、もう数十年吟味してみる必要があるでしょう。
そもそも、この言葉に対応する西洋語については、英語とフランス語で、だいぶ語義が違っています(他の西洋語についてはよく知りませんが)。
英語の方には、とりわけ1970年代以降にはパフォーマンス・スタディーズ(パフォーマンス学)の影響があります。そして、この「パフォーマンスperformance」という概念は、「舞台芸術」という概念に代わり得る概念でもあります。
1980年代以降、演劇やダンスといった概念自体を見直そうという動きの中で、少なくとも西洋において、この2つの概念は、いわば競合関係にありました。
この2つの概念の大きな違いは、舞台芸術という概念は近代西欧において形成された「芸術art」という概念、そしてその芸術のうちの「ジャンル」という概念(そしてモダニズムにおけるジャンルの固有性・純粋性という概念)をある程度温存する志向を持っているのに対して、リチャード・シェクナーが提唱した「パフォーマンス」という概念は、むしろそれを解体する志向を持っていました。
ヨーロッパにおいては、「舞台芸術」に対応するarts du spectacleといった言葉が、オペラ・演劇・ダンスだけでなく、サーカスやストリートアートまでを含むものとして使われるようになり、さらに各ジャンルが拡張されて、また「複合領域的なもの」をも包含しうるものとして使われるようになりました。「パフォーマンス」という概念が非英語圏ヨーロッパにおいて普及しなかった理由としては、近代的「舞台芸術」各ジャンルが制度として強固に確立していたことだけでなく、performanceという言葉が英語特有のもので、他の西洋語に対応する言葉が見出しにくいという事情もありました。ヨーロッパで「タンツテアター」や「ポストドラマ演劇」のような言葉が流行したのには、ヨーロッパにおいては既存の「ダンス」「演劇」といったジャンルを拡張する方が(少なくとも短期的には)現実的だからでもあります。
ですが、個人的には、「舞台芸術arts du spectacle」よりもシェクナーがアジアやアフリカなどその他の地域の実践、さらにはスポーツや政治、日常生活における「パフォーマンス」にまで目を向けたうえで作り上げた「パフォーマンス」という概念のほうが、長い目で見れば有効性があるように思っています(そう思って、一昨年シェクナーの授業を受けにアメリカに行ったのでした)。
でも、この概念がアメリカにおいてすら十分に制度的に普及しなかった理由の一つは、ニューヨーク大学にパフォーマンス・スタディーズ科ができた1980年以降、アメリカがむしろ内向的になっていってしまい、60年代~70年代の第三世界主義的動きが退潮していった事があります。結果として、アメリカにおいても、「パフォーマンス」という言葉の便利さを生かしつつも、旧来の制度を解体することなく活用できる「パフォーミング・アーツperforming arts」と言う概念の方が、より実践的とみなされて使われるようになっていきました。
では「パフォーマンス」の方にはもう未来がないのかというと、そんなこともなさそうです。シェクナーに学んだWilliam Huizhu Sunは中国に戻り、上海戯劇学院でパフォーマンススタディーズを教え、他の大学にも広がりつつあります。パフォーマンススタディーズは中国語で「表演学」あるいは「人類表演学」と訳されています。この「表演」という表現は、中国語圏ではperformanceの訳語として普及していて、「表演芸術中心(performing arts center)」といった劇場名も見られます。
日本語では、近年芸団協が「実演芸術」という言葉を使っていて、文化行政においてはときどき微妙な選択になっていますね。ここでは「音楽」を含むか否かも問題になっています。
今私たちが行っていることが、一〇〇年後の22世紀にどのような概念、どのような枠組みで記述されるようになるのかは、今から2030年代にかけて、中国・インド・インドネシアにおいてどの言葉が使われるようになるのかにもかかっています。たとえば、テアトル・ガラシのUgoran Prasadは今、劇作家レンドラを中心に語られてきたインドネシア「演劇史theatre history」を、コンテンポラリーダンスの「振付家」と見なされているサルドノ・クスモを中心に書き直そうとしています。これはtheatre/Teaterという概念をインドネシアの実践に適合させていく動きと考えられます。22世紀に使われる概念は、英語やフランス語を基準にした言葉ではなく、「戯劇」や「戯曲」といった中国語の概念が基準になる可能性もあります。この際、もちろん歌舞伎・能・狂言・文楽を「演劇」という語で語ることで独自の「演劇」概念を形成してきた明治以来の日本の経験も一定の役割を果たしうると思いますが、今はこれを世界の他の地域の人々と議論し、共有する機会があまり持てていないように思われます。
今から2030年代にかけての決定的な時期に、私たち日本語話者が、世界の「舞台芸術界」の新たな枠組み形成において役割を果たせるか否かは、ここでの議論にもかかっているのだと思います。
「舞台芸術」のフレームワーク問題について ~2030年代に向けて~ へのコメントはまだありません